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知らない世界の歩き方  作者: ハンスシュミット
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第12話 魔王ヴァルガナンの場合

 窓から差し込む朝日が、瞼越しに私を起こしにかかる。魔王の微睡を邪魔するなど無礼千万と断じるところだが、私を目覚めさせようとしているのは何も曙光だけではなかった。


「魔王様、起きてくださいまし」


 耳にかかる甘い声が、こそばゆい。


 柔らかいベッド、暖かな陽光、そして彼女の温もりに包まれている私にとっては、起床するなど無体なことだというのに。


 まんじりとしていると、じれったくなったのか彼女が唇を重ねてきた。


 しっとりと濡れた唇は、まるで最初から一体であったかのように、お互いにピタリと重なる。悪戯心を擽られた私は、出し抜けに彼女の唇を割り、口中に舌を這わした。最初こそ戸惑っていた彼女だが、直ぐに愛おしむように私の舌を優しく迎え入れてくれる。


 情熱的な接吻を交わしては、さすがに狸寝入りの言い逃れもできない。私はゆっくりと目を開け、最愛の人をその視界に入れた。


「おはよう、モルティアナ」


「魔王さまったら、戯れが過ぎます」


 魔王妃モルティアナが口を尖らせて非難する。こちらを責めるためというよりは、ある種の照れ隠しであることは朱色が差した彼女の頬を見ればわかる。


「其方の顔を見て目覚めたのなら、今日は最良の日だな」


 愛でるようにモルティアナの頬を撫でながら言った。彼女は私と同じように一糸纏わぬ姿をしており、生まれたままの……いや、生まれる前と同じように私に寄り添っている。


 甘えるように彼女が私の肩に顔を傾げる。女性特有の、果実のような薫香が鼻腔を掠める。


「ふふ、魔王様はお世辞ばかり。いつも私の顔を見て目覚めているじゃありませんか」


「其方と共にいられるのなら、常に最良の日ということだ」


「私も同じ思いです」


 再びモルティアナと口づけを交わす。我々の朝は、いつもこのように過ぎてゆく。いつまでも寝室を出ぬ我々に、実弟のマルゴールが怒鳴り込んで来るまでが通例である。


 ただし、今日はいつもと少し違った。普段なら私の寵愛を一身に受け悦ぶモルティアナだったが、今日は少し落ち着かない様子だった。表情にも翳が差し込んでいる。


「どうした、モルティアナ?」


 私に見咎められて、モルティアナは不安げに眉を顰めた。


「……先日、お話したことを覚えておいでですか?」


「あぁ、あれか」


 先日モルティアナが解明した、魔王剣の秘密のことが直ぐに思い当たった。


 魔王剣に刻まれた魔方陣は、いつの時代でも不可解かつ超常的であるとされ、その謎については永い魔界の歴史でも杳として解き明かされることはなかった。あらゆる時代の魔術師たちが解析を試みては、経緯に差異はあれど誰もが最終的には匙を投げた。そして誰の口からも「魔王剣の魔方陣は不完全であり、一切の魔術的効能を得られることはない」という負け惜しみにも似た見解が出るだけだった。


 だが魔王がひとたび握れば、あらゆる魔術を両断する無敵の剣になることも、厳然たる事実として存在し続けた。時代も地域も違う魔術師たちが、みな口を揃えて魔術は発動しないと断言しているにもかかわらず。


 魔王妃であり稀代の魔術師であるモルティアナも、歴代の魔術師たちと同じように才覚と知的好奇心に突き動かされ、魔王剣の謎を解明しようと研究に研究を重ねた。


 その甲斐あって、ついに驚くべき事実が判明したのだ。


 魔王剣の魔方陣は、先の魔術師たちが言うように不完全であった。それもそのはず。魔王剣の魔方陣は、術者の魂と合わさることで完成した魔方陣になり、ようやく効能を得ることが出来る。魔王剣が魔王にしか抜けないのも、それが理由だ。


「魂の波長はひとりひとり違い、同じ波長の者は一人としていないという話だな」


「はい。私はそれを『魔術紋』と名付けました。そして、付け加えさせてもらうのなら、同じ波長の者は『同じ時代にはいない』ということです」


「つまり……、私は魔王の生まれ変わりなのだな」


 魔王剣に呼応する魂はひとつ。そして魂は死によって魔術の深淵へと辿り着き、遥かな時の向こう側で転生する。それが魔界での死生観だった。魔王剣が私の魂を認めたということは、つまりは先代魔王も、そして先々代魔王も、私自身だということだ。


「…………モルティアナ?」


 思い悩む私の意識を引き戻したのは、モルティアナの柔らかな身体の感触だった。


 モルティアナは不安げだった。だから私の腕に手を回し、心細そうに抱き締めていたのだ。


「魔王様、私は怖いのです。次に生まれ変わったとき、貴方の隣にいるのが私ではないかもしれないことが」


「なにを馬鹿な」私は一笑に付した。「私がモルティアナ以外を愛するはずがない。たとえ生まれ変わり、自分が何者かも忘れてしまったとしても、この愛が失われることなどありはしない」


「ですが……」


「先代の魔王と魔王妃の関係も、我らと同じだったと文献に残っている。私の魂は生まれてから死ぬまで、いいや死んでもお前と常に寄り添っていると約束しよう」


「魔王様……っ!」


 私の真摯な気持ちに、モルティアナが思わず頬を濡らす。涙を舐めとるように、とびきり愛を込めてモルティアナの顔にキスを浴びせる。


「いっそのこと、魔王剣のように魔王妃の剣も造ってみようか?」


「それなら、もう完成しております」


「……なに?」


 モルティアナを安心させる冗談のつもりだった。それを彼女は、真正面から、真面目に、返してきた。


 気付けば、あれだけ不安そうに瞳を濡らしていたモルティアナはもういなかった。


 今の彼女の顔には覚えがある。私が彼女以外の女性と話をするときの、眉間に皺を寄せ相手を呪い殺しそうに睨みつける、あのときの顔をしていた。


 感情の名前は、嫉妬という。


「これを見てください、魔王様」


 モルティアナが自分の指を見せる。薬指につけられたその指輪は、モルティアナの狂気を考えれば、実に質素な見た目をしていた。


「ゆ、指輪が欲しければ私がプレゼントしたというのに。国政では其方に頼ってばかりだが、その程度の甲斐性は持ち合わせているつもりだぞ」


 何故だろうか。震える私の声は、取り繕っているように聞こえた。


「魔王妃となるものは、この指輪を填めるという習わしにしましょう。そうすれば、貴方の隣に立つことができるのは私だけです」


「……か、仮定の話なのだが、その指輪を其方の生まれ変わりでない者が填めた場合、どうなってしまうのだ?」


「仮定の話で良ければ、死に至るでしょう」


「死……」


 モルティアナは冗談です、と取って付けたが、おそらく全くの出鱈目ではないだろう。


「そ、それでは其方の生まれ変わりも怖れはしまいか?」


「魔王様と添い遂げる覚悟がなければ、たとえ私の生まれ変わりであろうと貴方様の隣には相応しくありませんわ」


 その時初めて、モルティアナが誰に対して嫉妬しているのか分かった。彼女は、生まれ変わった自分自身にさえ妬いているのだ。


 私の腕の中で甘えるモルティアナを恐ろしいと思いつつ、なお一層愛おしいと思った。むしろ、このような豪胆な気性でなければ、魔王妃など務まらぬと惚れ直すくらいだ。


「そんな心配をせずとも、私たちはいつまでも一緒だ。この空と大地が続く限り、ずっとな」


「魔王様……」


「二人きりの時は、昔のように呼んでくれと言っているだろう?」


「えぇ、分かっていますわ。『お兄様』」


 そして私たちは、何度目になるか分からないキスを交わした。モルティアナは、双子の妹だ。生まれた時から、それこそ母の胎内にいるときからずっと一緒だ。


 もし魔術の神がおわせられるなら、何度生まれ変わろうとも私たちを巡り合わせてくれるはずだ。これは運命なのだから。



□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■



 モルティアナの研究は、魔術紋だけではなかった。


 魔術紋の研究によって私が魔王の生まれ変わりであることが判明したのと同じように、魔王剣と対となる剣を持つ者、つまり勇者も同じ魂が幾度となく転生を繰り返しているという考えに至った。


「つまり、勇者の魂を滅することができれば、二度とこの世界に勇者が生まれることはなく、魔族が世界を統べるということです」


 モルティアナは、王城から離れた山奥まで私を連れてきた。


 道すがらの説明で、どうも対勇者用の魔術アイテムを製造しているとのことらしい。そのアイテムは特殊な環境でしか保管できぬらしく、このような辺境までわざわざ赴かねばならなくなったとのこと。


「魂を滅するだと? そのようなことが可能なのか?」


 モルティアナは、静かに頷いた。その表情には恐れが滲み出ており、よほど恐ろしいものが待ち構えているのではと、私自身が身震いするほどだ。


 高まる不安と期待を抱きながら、ついに魔術アイテムが製造されているであろう洞窟へと辿り着いた。


 例の魔術アイテムは、なにやら大仰なチャンバーの中に収納され、何らかの力が作用しているのか宙に浮いていた。


「これは……剣、いや刀身か?」


 魂を滅するとはよく言ったものだ。チャンバーの中に浮いているその刀身は、見る者の魂すら凍らせるほど冷め冷めとした銀色の光を放っていた。


「魔王様を、世界を覇する王へ導く剣として、『覇剣』と名付けました」


「なるほど。たしかにこれがあれば、勇者の魂をこの世から滅却することもできよう。しかし、このような偉業を一人で成し遂げるとは、我が妹ながら恐ろしいものよ」


「いえ、私一人の力では御座いません」


「……なに?」


「この『覇剣』は、月の石を原料にしております」


「月とは、あの月か? 夜空に青々と輝く、あの……」


「左様に御座います。あの月こそ、無限のエネルギーを放出する奇跡の素材なのです。詳細なことは現代の魔術では説明出来かねますが、月を形成する物質は真空中ではあらゆる物質と反応し対消滅を繰り返します。その際に発生するエネルギーは莫大なもので、魂すら消滅させる威力がありましょう」


 よもや勇者とて、自らの魂を滅する計画が立てられているとは思うまい。


 魔族の未来は明るい。聡明なるモルティアナをはじめ、優秀な魔術師を多く擁立している魔界は、軍事でも執政でも人間界をはるかに凌駕している。


 今世をもって人間どもを根絶やしにすることは、もはや自明の理である。


「なるほど」と、私はひとしきり納得する。「話が逸れてしまったので、本題に戻そう」


「はい?」


 モルティアナは首を傾げる。彼女にとっては『覇剣』の説明が本題だろうが、魔術アイテムの原理もよく分からぬ私にとっては、それよりも気掛かりなことがある。


「……その共同研究者とは、男ではあるまいな?」


 私は恐る恐るモルティアナに尋ねる。


 モルティアナのことを棚に上げておきながら、私も私で妬心が過ぎる。


 そんな私が可笑しかったのか、モルティアナはクスクスと笑う。


「お兄様はヤキモチ妬きなのですね」


「……今は魔王と呼べ」


 照れ隠しで、ついつい拗ねた言い方をしてしまう。


「安心してくださいまし。女の子? でございます」


「何故曖昧な言い方をした? それに、少女がそのような大儀を為したというのか?」


「ふふ、折を見て紹介します。きっと魔王様も彼女を気に入ると思いますよ」


「そ、そうか……」


「先ほども申し上げた通り、『覇剣』は大気中ではあらゆる物質と反応してしまうため、このように真空に保ったチャンバーに保管せねばなりません」


 今は共同研究者の正体を明かす気がないようで、モルティアナは隙を見てすぐさま『覇剣』の説明に戻る。


「真空中……ということは、この『覇剣』はまだ使えぬということか?」


「……はい」


 重苦しく、モルティアナが同意する。


「大気に触れられぬのならば、いっそのこと体内に埋め込むのはどうだろうか? 例えば私の腕など……」


「ッ!? いけません!」


 私の提案に、珍しくモルティアナが取り乱して否定する。


「『覇剣』はあらゆる物質と反応し消滅すると言ったではありませんか! 魔王様とて例外ではありません!」


「う、うむ……。すまない……」


「わ、私としたことが……」


 潮が引くように冷静になったモルティアナが、自らの非礼を恥じた。普段は冷静沈着なモルティアナをここまで取り乱させたのは、ひとえに私への愛ゆえである。


 だからこそ私は、「気にはせぬ。私を気遣ってのことだろう。むしろ嬉しく思うくらいだ」と言ってモルティアナを慰めた。


「残念ながら今はまだ実用段階に至っておりませぬが、必ずや人間界との決戦までには魔王様にお渡しできるようにいたします」


「期待している。だが、あまり根を詰めるなよ。お前にもしものことがあれば。我にとってはそちらの方が耐え難い」


「ふふ、魔王様はお優しい限りです。その情けに応えるためにも、モルティアナは約束を果たします」


 しかし、その約束はついぞ果たされることはなかった。



□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■



 魔王城が燃えている。巻き上がる灰は、かつて夢や希望と名付けられていたものだ。一切合切燃え上がり、全てが灰燼に帰してゆく。


 モルティアナは死んだ。六聖騎士団という人間界の精鋭に討たれてしまった。彼女を殺した奴はこの手で八つ裂きにしたが、それでも怒りが収まることはない。


「モルティアナ……、たとえこの身が滅びようと、其方とは魔術の深淵で再び見えよう。今しばらく寂しい思いをさせてしまうことを許しておくれ……。ぐぅっ!?」


 左腕に激痛が走る。痛い程度済んでいることを、むしろ僥倖と喜ぶべきかもしれない。


 あの朝モルティアナと交わした会話を思い出す。


 私は幾度となく魔王として生まれ変わる。そしてモルティアナも、私の妹として生まれ変わるだろう。それは轍に沿うように、運命が常に同じ軌跡を刻んでいくということだ。


 乱暴な鉄靴の音が、廊下の向こう側から響いた。騎士団は、あの男以外全て討ち滅ぼした。あの足音は間違いなく、奴のものだ。


 我々の運命は常に同じ轍を沿う。だが、それは私とモルティアナだけでいい。


「魔王ッッ!!」


 勇者が、玉座の間に続く扉を蹴破る。普段であれば無礼だと恫喝するところだが、生憎と左腕の痛みは尋常ではなく、こうして平静を装って座っているだけでも精一杯だった。


「……遅かったな」


 私は絞り出すように、それだけ言う。


 勇者にこちらの不調を気取られてはならない。蒼白になったこちらの顔色を窺われないように、私は顔を伏せながら答えた。


 事情を知らぬ勇者は、こちらの態度を不遜と受け取ったようで、より一層激昂した。


「覚悟しろ、魔王!」


 詰るような物言いだった。


 それが私には、無性に腹立たしかった。


 魔界の平和を奪い、妻を、妹を、弟を、そして同胞たちを奪った人間どもが、言うに事欠いて覚悟しろとほざいた。


「……覚悟、だと?」


 いつしか、私の全身を蝕んでいた激痛が鳴りを潜めた。代わりに私の全身を目まぐるしく駆け回るのは、今にも体を突き破って吹き出してしまいそうな、止めどない憎悪だった。


「覚悟するのは貴様の方だ!」


 立ち上がり、魔王剣を抜く。


 この男だけは許せぬ。この男だけは、この世界のどこからも消し去らねばならない。


 気が付けば、私は勇者に向かって叩きつけるように斬りかかった。憎らしいことに、こちらの全力の一撃を勇者は綺麗に受け流す。


 勇者との攻防を繰り広げながら、私の心はこの男にどうやって『覇剣』を突き立てるかに腐心していた。


 敵を褒めるのは心苦しいが、勇者は手強く簡単に隙を見せるような手合いではなかった。こちらの剣戟を悉く受けきり、こちらに対処の難しい攻撃を間断なく見舞う勇者の喉元に突き立てるのは、奇跡であっても不可能なことのように思えた。


 それこそ、命を投げうたねば出来ぬ至難の業だ。


「うおおおおおぉぉおおぉっ!」


 勇者が裂帛の気迫を込めて剣を打ち込む。


 我と同じように、この男も敵に対して激憤を抱えてこの場にいる。その怒りに狂った攻撃にこそ、活路があることを私は見出した。


「させぬわッ!」


 勇者の気迫に押され――ているように見せかけ、私は甘い一撃を勇者に見舞う。それは並の手練れであれば拙速と見咎められないほど、僅かな隙である。だがこの男は、勇者ならそれを好機と見て踏み込むに違いない。


 狙い通り、勇者はこちらの誘いに乗った。勇者がこちらの攻撃を掻い潜り、懐に入った。


「ちぃっ!?」


 私はここで、左手に埋め込んだ『覇剣』を抜き放ち、左腕を振り上げ勇者に浴びせようとする。無論、この男がこれだけの妙手で殺せるとは思っていない。


 予想通り、勇者は器用に身体を捻り、躱す反動を利用してこちらの左腕を肘から叩き斬った。


 私の腕は宙を飛ぶ。


 私は口中で呪文を詠唱し、勇者に氷弾を浴びせるフリをして、切り飛ばされた腕をそのまま氷で天井に張り付けた。


 全ての仕込みが終わったのと同時に、私の腹には勇者剣が突き刺さっていた。


「覚悟しろ、魔王っ!」


「ぐぅああああっっ!!」


 刺し貫かれた勢いのまま、私は地面に倒れ込んだ。


 …………私は直感した。もはや長くないと。だが、後悔もなければ死の恐怖もない。


 元々魔界では、死後人は魔術の深淵に辿り着き、長い時間を経て再び転生すると信じられてきた。その死生観は、死への恐怖を幾分和らげてくれる。加えて私には、モルティアナの言葉がある。我々はきっと、生まれ変わっても再び出会い、そして恋に落ちる。それを思えばひと時の死など、眠るのと大差ない。


 私を討ったと思い込んでいる勇者は、喜ぶでも達成感に浸るでもなく、ただ浮かばない顔をしていた。そして私の死に顔に見飽きたら、何の感慨もなくこの場から立ち去ろうとしていた。


 人は生まれ転じてまた"(まみ)"える。だが勇者、貴様とはこれっきりだ。金輪際、貴様はこの世界から、魂さえも消え失せてなくなれ。


 だからせめて――、


「き……さま、……名を……何と言う……?」


 上手く動かない口を必死に動かし、私はそう問うた。


「僕はハンス。勇者ハンスだ」


「貴様の……名は……、我が命尽きようと、覚え続け……よう……。貴様の……名は、永久に……、この世界に、残り……続ける……」


 名を聞くことは、ただの感傷に過ぎなかった。


 この世界から魂さえ消え失せるのは、魔族の死生観に照らせば耐え難い恐怖に違いない。だから手向けとして、せめて名前だけでも残してやろうと憐れに思ったのかもしれない。


 しかし私の気遣いにも、勇者は無関心だった。「そうか」と、気のない返事をするだけだった。


「その……かわり……」


 戦闘において一瞬の隙も見せぬ英雄に、どうやって隙を作ればよいか? 


 簡単だ。「貴様の……魂は、永遠にこの……世界から消え失せろ……」


 騙し討ちをすればいい。「――――あ」


 勇者が気付いたときには、全て終わっていた。


 溶けた氷が、天井に張り付いた左腕を落とす。それは『覇剣』を抜き放った左腕。そのまま『覇剣』は引き込まれるように、ハンスの喉に刺さった。


「私の為に死ねぇ!」


 それだけ言い残し、私はついに事切れた。



□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■



 異世界転生者であるアキヒロを騙し討ちするために近づこうとしたが、ミレニアというお付きの少女に名を問われ、返答に窮していた。


 殲滅者、などと答えれば警戒されるのは目に見えている。


 だから、咄嗟に口を突いた名前で乗り切ることにした。


「あー、えーっと、……ハンスだ」


 その名が、かつて勇者のものであったことは、もはや覚えていなかった。ただ無性に頭の中に浮かんでくる名前だったから、つい名乗ってみただけだ。


 それが魂に刻んだ名前だということも、もはや憶えていなかった。

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