第8話
時は刻一刻と流れ去る。王宮の緑は青々としていたが、日々の灼熱じみた酷暑は、それだけで国の命数が削り取られていくような錯覚を起こさせた。だから――という訳でもあるまいが、後どれだけの猶予が残されているのかと、不意に考えることが多くなった。
先日街に下り、本国との連絡役――人のよさそうな行商人風の男だ――とも無事に接触することができたが、やはり彼もこの国の異変については思うところがあるらしき素振りを見せていた。一通りの情報伝達を終えた後、
「この国の民は、王が統べているのではなく、まるで神殿に飼われているようにすら思えます」
そう零した際に浮かべていた、困惑にも似た表情が忘れられない。
それにしても、最近とみに神殿の名を耳にする。しかも、決して好意的なものとしてでなく。その事実にどうにも薄ら寒いものを感じてならないが、神殿の是非を云々するのは俺の仕事ではない。
今の俺にとっての最優先事項は、もっと別の場所にあった。他でもない、ネシャート姫の所在の確認である。報告が遅いと苦言を呈され、我が王も焦れ始めているとまで言われてしまえば、いつまでも現状に甘んじている訳にもゆかない。そろそろ具体的な成果を示さねばならなかった。
病み上がりの王に召喚を受けた翌日は、昼でさえ薄暗く感じるほどの曇天だった。晴れて視界が良すぎるよりは、かえって好都合だろう。
離宮の警備体制も、この二月でおよそ把握ができている。俺が暇な時は王宮をあちこちうろつき、雑用をこなしていることは、今や周知の事実だ。どこかにいるだろうが、どこにいてもおかしくない。皆がそう思い、歩き回っても特別注意を向けられずに済む地盤を築いておいたからこそ、敢えて日中に動く。
誰に遭遇してもそれなりに有効な言い訳は用意しておいたが、幸いにもネシャート姫の居場所である東の離宮までは、誰に見止められることもなく到達することができた。離宮の様子を窺える物陰に潜み、警備兵の交代時間に合わせて死角を移動する。後は、隙を見て屋根に上がり、事前に見つけ出しておいた地上から目につきにくい天窓から入り込めばいい。
天窓は子供の肩幅ほどしかない小さな造りだが、周到にも侵入者を感知する類の魔術が施されていた。こういった仕掛けには、往々にして破られた際に警報を上げる術も組み込まれているものだ。慎重に分析、解除と手順を重ね、先日連絡役から渡された壁抜けの魔術具を、窓に嵌め込まれた玻璃に押し当てる。
小さな護符の形をしたそれは、セルギリドの宮廷魔術師が考案したという試作品だ。術具を触れさせたものの向こう側へ、術者を転移させることができる。それだけ聞くと非常に便利なように思われるが、未だ改良中だという評価の通り、些か使いどころの難しいものでもあった。通り抜けられる壁の厚さには限度があり、厚ければ厚いほど術の実効まで時間がかかる。
天窓の玻璃ほどの厚さであれば、四半時の半分もかからない。だが、俺が忍び込むには周囲の屋根壁にまで干渉せねばならなかった。ため息が漏れるほどの待機時間の末、頭から突っ込むようにして、最小限に留めた術の作用範囲に身体をねじこむ。
天窓をすり抜けると、眼下は薄暗い廊下だった。空中で体勢を立て直し、極力音を抑えて足裏から着地する。落下中に索敵を試みてみたが、周囲に気配はない。
辺りはしんと静まり返り、漂う空気はどこか淀んだ感さえもあった。
「……離宮にこもっている、か」
とんだ方便だ。苦笑の一つもしたくなる。
歩き出してみると、場の異変はますます明白に感じられた。離宮の内部は完全に無人であり、放置されている訳でこそあるまいが、おそらく人の手の入る頻度はかなり低いものと推測される。掃除の類も、日を分けて順々に進めているのだろう。いくつか部屋を覗いて見たものの、比較的綺麗に整えられているものから、調度品に薄く埃の積もったものまでまちまちだった。
やはり、ネシャート姫はここにいない。この離宮は長らく人が住んでいない。であれば――むしろ気になるのは、「彼」はどこにいるのか、ということだった。
一層に疑念を募らせる結果となった調査の明くる日、意外なことにまた王からの召喚を受けた。その知らせは日も昇りきらず、ここしばらくお決まりの殺人的な暑さがやってくるまでにも、今しばらくかかるだろう昼前にもたらされた。
俺の部屋を訪ねてきたサハルに曰く、今度はいつもの執務室が演奏の場となるらしい。しかし、前回からまだ二日目だ。こんなにも早く呼び出されたことは、未だかつてない。まさか離宮への侵入が悟られたのだろうか。痕跡は全て消し、壁を抜けて脱出した。早々看破されるはずはないと思うが……。
内心はともかくも、表向きは普段通りの様子を保って、王の執務室を訪ねる。今や目を瞑って歩いても辿り着けそうなほどに慣れた道のりだ。
いつも通りに扉の前に立ち、叩き金を鳴らす。程なくして内側から開けられた扉をくぐれば、いくつもの大窓から燦々と陽光が差し込み、眩いばかりに明るい部屋の有様が目に入った。
相変わらず内部は幾重にも垂らされた紗幕で分断されており、前に訪ねた時と比べても、目立った変化は見られない。そもそも紗幕のこちら側は目立った調度品自体もないのだが――と、そこまで眺めて、ふと気付く。
今まで頑なに王の姿を隠してきた紗幕が、ゆらゆらと揺れていた。鼻先に、かすかに花と緑の匂いを感じる。どこからか、外の風が吹き込んでいるのだ。
「陛下は、庭園の東屋でお待ちです」
扉を閉めたサハルが近寄ってくると、無感動に告げる。
庭園、と反射的に口に出せば、白く細い指が紗幕を……いや、その向こうの何かを指し示した。そこに庭園に繋がる出入り口でもあるのだろうか。
「あちらに踏み込んで構わぬと」
「そうでなくば、伝えはしません。陛下をお待たせしませんよう」
早く行け、と暗に急かされてしまえば、もはや抗弁のしようもない。
重くならざるを得ない足を動かし、紗幕の合間から、ついに境界を越える。紗幕はおおよそ部屋を半分に区切っていたようで、今まで俺が見知っていた空間とほぼ同じだけの広さが、そこにあった。ただし、その模様は随分と異なる。
壁際にはずらりと書棚が並び、更に奥の間へと繋がると思しき扉が二つ。それらの前に、どんと豪奢な造りの執務机が鎮座している。執務机の傍らには、政務の合間に寛ぐ為であろう長椅子や小机も置かれていた。俺の演奏を聞く間、王はそこで休んでいたのかもしれない。
全ての調度品が光を反射するほどに磨き上げられ、離宮とは違って文字通りに埃一つない様子ではあるが、執務机に山積みになった書類のせいか、どこか雑然とした印象が拭いきれない。だが、整理整頓という言葉を無縁を決め込んでいる我が国の王に比べれば、雲泥の差だ。
あの方もせめてこの程度にしておいてくれれば、と益体もないことを考えつつ、長椅子の脇を通り抜けて窓際へ足を進める。大窓に挟まれるようにして設えられた玻璃扉は、外へ向けて開け放たれていた。
扉から外に踏み出すと、さらさらと流れる水音が耳に入り込んだ。軽く見回してみれば、どうやら外部とは隔絶された中庭であるらしいことが分かる。白皙の石畳には細い水路が巡らされ、透明に澄んだ水が緩やかに流れていた。見渡す限りに花壇や低木が整然と配置されているが、王がいるという東屋は見当たらない。どうやら、相当に規模が大きい庭のようだ。
もう少し詳しい情報が得られれば良かったのだが、サハルから与えられたのは「王が東屋にいる」という一点のみだ。仕方なしに、花壇の作る道なりに歩き出す。最悪でも、一周すれば見つかるだろう。
果たして、王の待つという東屋は、庭園の外れにあった。
白い屋根の、壁のない小さな佇まい。王の背が向けられた一方だけが、日除けを下ろされて簡易な壁を装っている。周囲に余人の気配はない。ただ、王だけが一人、そこにいた。
王は東屋の中央に据え置かれた机を囲む椅子の中でも、一際立派なものに座している。東屋にあるよりも、執務室に置かれている方が余程似合って見える椅子は、或いはこの為にわざわざ持ち出して運び込まれたものなのかもしれなかった。小柄な体躯をまるごと覆い隠すほどに長く大きな背もたれに身を預け、腹の上で手を組んでいるらしき様子が、遠目にぼんやりと窺える。
いよいよ東屋に向かって歩みを進めながら、いつの間にか息を呑んでいたことに気がついた。ひそりと深呼吸をする。肺の中の空気を粗方吐き出してしまうと、肩に張り詰めていた緊張も解れた――とまではいかなかったが、少なくとも腹は括れた。
靴音を響かせ、気分はさながら行軍そのものだ。
足音に気付いたのだろう、王が身動ぎするのが見えた。細すぎるほどに細い身体が背を伸ばし、こちらを振り向きながら立ち上がる。その背が見えた。そして、その先も。
予想はしていた。そうなのだろうと、確信めいて感じてもいた。だが、実際に目の当たりにすれば、やはり驚かずにはいられないものだ。
それからの光景は、まるで時の流れが鈍化したかの如くに感じられた。
滑らかに翻るは、飾るまでもなく艶やかな長い黒髪。身に纏う白い長衣の裾がうねる。その豊かな布地に包まれてさえ、体躯の病的な細さは隠しきれない。砂漠の民らしい暗褐色の手が椅子の背もたれを掴み、ふらつく身体を支える。一瞬俯きかけた顔が上がり――黄金の眼が、俺を、見た。
視線が合ったと感じた瞬間、石畳に膝をついていた。片膝を折り、頭を垂れるのは騎士の作法だ。流浪の楽師がするものではない。だが、気付けば、そうしていた。
すると、小さな笑い声が上がった。鈴の鳴るような、ささやかな。
「そうかしこまる必要はない。あなたは楽師として、ここに来たのだろ?」
思いがけず、ざっくばらんな物言いに驚く。顔を伏せていて良かった。危うく間抜けな顔を晒してしまうところだった。
「いいえ、そうはゆきますまい。長らくのご無礼、平にお許し願いたく――ネシャート姫」
顔を上げぬまま答えると、ふふ、とまた笑う気配。
「ようやく会えた」