第7話
気付けば、王宮に滞在し始めて、二月が経とうとしていた。春が過ぎ、夏を目前に迎えたアウレィリヤは、毎日が茹だるように暑い。セルギリドであれば、この時期はまだ涼しいくらいだ。恐ろしいまでの気温差には、ほとほと参っている。
こんな国で、よくも生きていけるものだ。今やすっかり馴染みとなった厨の下男と共に葉野菜を洗いながら、思わずそうこぼすと、
「いえいえ、さすがにいつもじゃありませんよ。こんなに暑いこと、滅多にありませんって。というか、初めてじゃないかな。こんな夏が毎年来るんじゃ、いくら何でも渇き死にしちゃいますよ」
苦笑と共に、そんな答えがあった。ふむ、さすがにこの暑さは砂漠の王国とて異常か。立っているだけで汗が滲み、喉がカラカラに渇く。尋常でない暑さだ。
幸い、楽師たる俺はその喉――商売道具を痛めぬようにと、厨に出向けば好きなだけ水なり茶なりがもらえることになっている。そのお陰で、最低限干からびずには済んでいるが……。
「この暑さで、水不足が戻ったりはしないのか」
「西の街で水量が減ったとか噂はありましたけど、七日前でしたっけ、陛下が祈祷に入られたでしょう? あれでまた持ち直したらしいですよ」
「……その代償のように、寝込まれたがな」
何がどうなっているのだか。内心の嘆きを押し殺す代わりに、ため息を吐いた。
王に仕える侍女サハルが、突然に俺に貸し与えられている部屋を訪ねてきたのは、まさしく七日前のことだった。「陛下は体調を崩され、しばらくお休みになります。お声がかかるまで待機しているように」とだけ言い捨てて去って行った時には、一体何が起こったのかと唖然としたものだ。
驚いて情報を集めてみれば、何でもアウレィリヤでは新王が玉座についてから、月に一度王が女神に祈りを捧げる習慣ができたのだという。その度に王は身体に変調をきたし、寝込む羽目になっているのだとか。伏せがちで王宮の外に出ないというのも、この影響あってのことだったらしい。
それを知った時、俺は掛け値なしにぞっとした。
この二月ばかり王宮に滞在して、数少ない官吏と大臣と王が休む暇もないほど身を粉にして働き、辛うじて国を回していることはよく分かった。理解せざるを得なかった。あの綱渡りのような危うい均衡が崩れ、国が立ち行かなくなるような事態にでも陥れば、その累は我が国にまで及びかねない。
国土のほとんどが砂漠で構成されるアウレィリヤは、意外なようだが豊富な鉱物資源の売り手でもある。周辺諸国の中でも、アウレィリヤのみで産出される希少な種も少なくない。また、国が危うくなれば難民として我が国に向かう者も出てくるだろう。
いずれにしろ、一度は街に下りる必要がありそうだ。この任務の為、街には四月前から我が国の騎士団の手の者を潜ませてある。頻繁に街に下りて、いらぬ嫌疑をかけられても困るので足を向けていなかったが、そろそろ報告に行かねばと思っていたところだ。
そう考えながら、ふと思い出す。水不足は先王の時代からの悩みであったはずだ。それが祈祷で解決できる類の問題であったのならば、何故先王はそれをしなかったのか。彼の王は、決して愚昧な人となりではなかったというのに。
「王による祈祷で水不足が改善するのなら、先代の時分はどうして問題になっていたんだ」
「ああ、いえ、イマード様の頃は行っていなかったんです。ジャラール様が初めて行われて。女神に祈りを捧げて聞き届けてもらえるのは、ネシャート姫のように特別な血を濃く継がれた方や、大臣のように神官の素質を持つ一部の人だけなんです。だから、イマード様もご自分では祈祷はされなかった。……ジャラール様も、血としてはイマード様とお変わりないはずなんですけど」
どうしてでしょうね、と下男は呟く。その声を聞きながら、俺は嫌な推測が脳裏に過ぎってならなかった。
「ないから、じゃないのか」
「え?」
「素質が乏しいのに、祈りを届けようとする。その為に消耗しているのでは」
推測の一つを口に出した途端、下男は目を丸く見開かせた。そんな、とかすれた声がこぼれる。
「この国は、女神の加護によって水を得るんだろう。一体、それはどういう仕組みなんだ」
「く、国中から集められた供物を王宮で取りまとめて、年に一度、女神アウラに捧げるんです。城下の大神殿で、あちこちの街の神官長が集められて、陛下と共に祈ります。その祈りが届いて、供物と引き換えに、水がもたらされると」
動揺の如実に表れた語りを聞きながら、またか、と胸の内で呟く。
ここでも「神殿」の名が出てきた。俺はこの国の神や、それに仕える者たちについて詳しい訳ではないので、その是非を論ずることはできない。だが、この王都に向かう途中に立ち寄った街々で聞いた声は、未だに覚えている。
――神殿は横暴だが、逆らえば水が止められる。
――女神の恩恵に与るには、神殿に従わねばならない。
随分と支配的なのだな、と思ったものだ。実を言えば、「神殿は腐っている」と聞いた時でさえも、それゆえにさほど驚きはなかった。むしろ、どこか腑に落ちたような気さえしていた。
「……腐っているという神殿が、その役目をきちんと果たせるのか?」
重ねて問い掛けると、下男の顔はますます色を失ったように見えた。それどころか、俺の思いつきじみた言葉を間に受け、自分で自分の言葉に囚われてしまったらしい。強張った表情で、何かに取り憑かれたかのような調子で呟く。
「いえ、そんな、そのはずで――でも、もしかして、イマード様の時の水不足も……」
「待て待て、そう真に受けてくれるなよ。俺は君に教えてもらった範囲でしか事情を知らん。余所者の与太話だとでも思ってくれ」
うわ言じみた呟きに、俺は敢えてまともに取り合わなかった。でも、と食い下がる素振りを見せる下男へ、手元の野菜を指差してみせる。
「手が止まっているぞ」
そこで、やっと下男は我に返ったようだ。ハッとして、すっかり動きの止まっていた自分の手を見下ろす。
「――! そ、そうでした……。すみません、変なことばっかり喋って」
「いや、俺も雇い主に何かあっては稼ぎを失うからな。ついつい嘴を突っ込んでしまった」
「確かに、その意味じゃヘイダルさんも他人事じゃないですよね」
「全くだ。平穏に過ごさせてもらいたいものだな」
再び口を突いて出たため息は、会話の流れと言うより「神殿」への不信感によるものだ。そして、この国そのものへの危機感でもある。
ひどく嫌な予感がした。まるで、無数の罅の入った橋の上に立たされている気分だった。
王が政務に復帰するまでには、更に三日――祈祷から十日もの日を要した。
俺が約半月振りの召喚を受けたのは、暮れなずむ空の赤い夕刻のことだ。ようやっと昼間の灼熱の暑さも落ち着き始め、過ごしやすくなりつつあった。そんな中、未だかつてなく険しい表情を浮かべたサハルに案内されたのは、驚くべきことにこれまで演奏の場となっていた王の執務室ではなかった。王宮の、更に奥まった一室である。
よもや、と些か薄ら寒い思いで扉をくぐってみれば、部屋の中には天蓋で囲われた巨大な寝台と、それを隠す衝立が鎮座していた。どう見ても、寝所以外の何物でもない。予感的中、という訳だ。……嬉しくはないが。
「陛下は未だお加減が優れませんので、今回はこの場にて演奏を」
「心得た」
軽く応じてみせ、衝立の前に適度な距離を取って腰を下ろす。
目の前の衝立には細かな透かしの装飾が全面に施されており、向こう側が全く窺えない訳でこそないが、明瞭に見て取れるとは言いがたい。……となれば、幻影を浮かべるは天井がいいか。見上げて目に入る場所に。
これまで寝込んでいたのだから、異国の宮殿やら王城やらが舞台になるよりは、外界の自然を歌うものの方がいいか。砂漠、いや、草原のような。
「――此度演ずるは、南の果ての砂漠の物語。一人の娘と、彼女に見出されたる古の精霊の……」
少し迷ってから、この国とは似て非なる土地の物語を語ることに決めた。
竪琴を奏でだせば、瞬きの間に見上げる中空へ砂漠の幻影が漂い始める。晴れ渡った砂漠を行くのは、若い娘の影絵。娘は砂に埋もれた小さな廟に差し掛かると、その中から古びた香炉を拾い上げる。その炉に封じられていたものこそ、古の焔の精霊だ。
永い封印の幽閉に倦み果てていた精霊は、己を解放してくれた娘に深く感謝し、彼女の為に尽くすことを誓う。娘は貧しい家を切り盛りする働き者で、精霊は娘を助けて細々とした願いを叶えた。日夜働きに出る父、病弱な母、まだ幼い弟妹。それらの間で身を粉にしていた娘は、精霊の助けにより少しずつ安らぎを得始める。
しかし、それを良く思わないものがいた。娘の幼馴染の青年である。密かに娘に思いを寄せていた青年は、娘の傍にあって頼られる精霊に嫉妬し、疎んだ。街の呪い師に相談し、精霊を再び香炉に封じる術を得た青年は、娘に近づき――
「……本日は、ここまでに。日も落ちたゆえ、また次回に持ち越させていただきたく」
語り始めは赤かった空も、今やすっかり夜の帳が下りている。演奏を切り上げて述べると、
『いいところだったのに!』
乱雑で大振りな文字が、衝立の上に閃いた。
今まで何度も目にしてきた、王の言葉を伝える女文字。警備の兵だろう、部屋の外にはいくつか気配が感じられるが、この間の中にはまた二つだけ。あの侍女サハルと、もう一人きり。
もしや、と推測していたものが、やはり、とまた少し天秤を傾ける。ここまでいくつもの推測は立てていたが、今や最も有力なものは一つに絞られつつあった。
「陛下」
俺の思考を他所に、サハルの短く嗜める声が上がると、抗議の文字も消失する。後に残されたのは、沈黙のみ。
「病み上がりに無理は禁物かと」
『もう充分回復している』
「陛下」
「侍女殿は、そのように判断しておられぬようで」
『味方がいない……』
あからさまにぼやく様子に、つい苦笑が浮かぶ。……ふむ。味方、か。
「味方と言えば、陛下には王宮の花と称えられる妹姫がおいででは。そちらは如何に?」
かまをかける、というほど意図的なつもりではなかった。この流れならば、さほど不自然でもあるまいと口に出したに過ぎなかったが、返ってきたのは沈黙と、どのような感情によるのやら――やけに角張った文字だった。
『ネシャートは、今は離宮にこもっている』
「離宮に?」
『意見を違え、臍を曲げられた。ここしばらく顔も合わせていない』
「ふむ、残念なこと」
『残念? ……ネシャートに興味が?』
「噂に聞こえた美姫とあらば、無関心ではいられますまい」
そう述べた建前に、答えはなかった。