第5話
多忙な王からの手紙は、あの冷淡な態度の侍女かまでは分からないが、ともかく誰か女性の手によって代筆されたもののようだった。
文の終わりの、最後の一文字。その末筆が大きく跳ね、花のような装飾を描く。
その独特な書体は、アウレィリヤの上流階級の女性の筆跡に特有のものだ。書き手の家柄によって装飾にも細かな違いがあると話には聞いているが、生憎とそこまで踏み込んだ知識までもは持っていない。識者であれば、この代筆の主がどこの家の女性か判別できるのだろうが……。
流麗な筆致の文章は、体調を崩しているゆえ直接に声を掛けられないことを詫びる一文で始まった。それから、これまでに奏でた物語についての所感がまとめられており、絹の道を辿る夜空の物語も素晴らしいが、昼間であれば昼間の景色が楽しめる物語も見聞きしてみたい、という要望を綴っていた。そして、本当ならもっと機会を増やしたいと思っているのだ、とも。
その手紙を読んだ時、まず抱いたのは安堵だった。こうして読む限りでは、少なくとも楽師として受け入れられている――素性を怪しまれていない――ように思える。そして、披露した芸が「素晴らしい」という評価を受けたことに。二月の超突貫で仕立て上げられた即席楽師であるだけに、芸が王の眼鏡に適うかどうかは、国を発つ最後の最後まで最大の懸念として扱われていたものだった。
偽りの身分にのめりこむのは、もちろん良いことではない。それは分かりきっていたが、やはり自らの手腕を評価され、要望まで添えられれば気分は良くなるものだ。
何しろ、本業がにっちもさっちもいかない。慰めの類も、多少沁みざるを得なかった。
相変わらず王宮の内部は閑散としており、王は執務室から出てくることはなく、姫君の姿は窺えない。姫君の暮らすという東の離宮への侵入を考えたこともあったが、周囲の要所要所に兵が置かれており、その監視網をすり抜けるのは至難の業だと撤退を余儀なくされた。
この人手の乏しい王宮において、あの警備の手厚さは、いっそ異常だった。王の執務室の周囲よりも、よほど多くの人手が割かれているように思える。よほど余人の目を憚るもの、ないし状況があるとでも言うのか。もっとも、他に有力な情報も得られていない現状では、先入観を持ちすぎるのも危険ではある。
焦れることに、調査は遅々として進まない。その鬱憤を晴らすべく、半ば八つ当たりのように、俺は王に献じる物語に磨きをかけた。描き出す幻影はより色鮮やかに、語り伝える歌はより滑らかに。
そうして待った四度目の機会は、よく晴れた午後に与えられた。
折角であるので、以前に寄越された手紙に書かれていた通り、今回は日なたの物語を選んだ。東方の幻想を歌う物語ではあるが、黄金の都とは一線を画す。千紫万紅の花が咲き乱れ、酒の川が流れるという夢幻の郷。
王は思いの外にこの物語を気に入ったらしく、拍手の音は今までで一番大きかった。
王からの手紙は、その後も演奏の度に届けられた。
四度目の演奏の後には、どの場面が美しかったであるとか、どの件が耳に快かったであるとか、丁寧な感想がしたためられていた。女性の筆跡であることに変わりはないが、書き手の昂揚をそのまま表すかのように弾んだ書きぶりは、あの冷淡な侍女によるものとは到底思えない。おそらく別人だろう。……だと、勝手に思っている。
王は一貫して多忙な様子であり、体調も改善してはいないらしいが、演奏は定期的に求められた。五度目の演奏は、四日後の朝早く。六度目は、更に五日後の夜更けだった。朝早くや夜遅くの演奏は、己の状態を保つのも一苦労だが、今はそれが役目とあらば全力を尽くす他ない。しかも、俺とは比べ物にならない激務に追われているはずの王が、演奏の翌日には必ず感想をしたためた手紙を寄越してくるのだ。
日頃食客めいて気ままに過ごしている無頼者が、どんな愚痴を言えようか。……いや、もちろん食客めいた素振りをしつつも、捜査は怠っていないが。
ともかく、そうして食客と楽師の間をふらふらしながら過ごす内に、一月が過ぎようとしていた。七度目の機会が与えられたのは、王宮に滞在してちょうど三十日目の、満月の夜のことだった。
未だ王宮にこもり、ひたすら政務に励む王の身体の加減は、良くもならないが悪くもなっていない程度の小康状態を保っているという。昼や夕ならばいざ知らず、夜の演奏はそれだけ王の休息の時間を削るに等しい。
自然、昼間に比べると短い物語を選ぶようになり、その傾向は回数を重ねるごとにより明白なものとして伝わったことだろう。それを職務怠慢と見るか、或いはまた別の理由と解釈するかは、受け手次第というところだが――
『もう少し、あなたの語りを聞いていたいのだが』
この国の若き新王が、何を思ってそう切り出したのかは、定かでない。
その言葉は、音声ではなく空中に閃く文字でもって伝えられた。竪琴の音の余韻が消え、海の彼方にあるという楽土を装う幻影の消えた室内は、わずかな蝋燭の灯りが浮かぶだけの薄闇に沈んでいる。
その暗がりに現れた光の粒が、不可視の筆が走るように一文を描き出したのだ。中空に漂う文章の末尾には、またあの花のような飾り。手癖を読む限りでは、これまでにもらった手紙の文面を書いていた人物のもので間違いない。
王の在所とあらば、兵も少なからず潜ませられていることだろう。だが、それを別として紗幕の向こうに感じられる気配は、たったの二つきりだ。一つは、あの侍女。であれば、もう一つは王であるはず。他に代筆を担うような者の気配は感じ取れないが、まさか、あの愛想のない侍女が代筆の主であったのか? 或いは、それとも……
声すらも聞かせない、頑ななまでの王の身の隠し様を初めとして、疑問に思うことはいくつもある。だが、一月かけてやっと得た王――であろう、という推測の域を出ないのが、些か残念ではあるが――との対話の機会だ。何はともあれ警戒は抱かせぬよう、されど可能な限り情報を引き出すように努めねばならない。
しかし、軽率に返事を返してよいものか。逡巡していると、紗幕の奥から声が上がる。抑揚のない声。侍女は素っ気無い物言いで、陛下の言葉に回答せよ、と命じる。
「……噂では、陛下は加減がよろしくないと」
少し迷ってから、それだけを答えた。
すると、薄闇に浮かぶ文字が霧散し、新たな文章が紡ぎだされる。
『確かに問題がないとは言えないが、偶の気晴らしくらい許してくれないか』
「その是非を定めるは、無頼の楽師には過ぎようもの。命令とあらば、従うより他に術はありませぬが」
『中々に頑固と見える』
短い文章の末尾の装飾は、これまでの華やかなものではなく、どこか刺々しさが滲んでいた。不満の表れだろうか?
「陛下」
しかし、そこにあの侍女の声が割って入り、短く嗜める。
ほのかな光で描き出された文字が消え、落ちた沈黙は二人の間で如何なるやり取りが交わされているからか。
『……配慮には、感謝する』
程なくして現れた文言は、明らかに渋々と言った態であり、思わず忍び笑いが漏れた。装飾は途中で投げ出したように中途半端。有体に言って、乱雑な手の書き文字は、字面だけで不満が如実に感じ取れるほどだ。
「否、無礼にも寛大なお言葉、感謝申し上げる。この国に唯一つの貴き身、夜の時間は有用に使われるが良いかと」
『私に伴侶はいない』
声に出しての会話であれば、間違いなく語尾が被っていたほどの即答。ついつい浮かぶのは苦笑であり、そしてまた新たな疑問だった。
――そういえば、新王は未だ独り身だったはず。国が落ち着きを見せているのなら、今こそ世継ぎや妃の話題が上りそうなものだが、それも全く聞こえてこない。まるで、誰もが口を噤んでいるかのように。
その辺りも気にかからないではないが、冗談を装って尋ねるには、まだ機が熟していない。軽く咳払いをし、会話を仕切りなおす。
「……そうではなく。体調が優れぬのなら尚のこと、よく休まれるべきでは」
述べると、光の粒が空中に文字ではなく、ゆらゆらと波線を描いた。時には、ふわふわと踊るように。声に出しての会話であれば、「え~」だとか、そんな間延びした台詞に相当するのかもしれなかった。
『夜は長い。毎日のことでもないのだし』
「陛下」
また侍女の声が割り込み、王の言葉は筆記の最中に途切れた。
沈黙――そして落ちたため息は、誰のものだったのか。
『サハルは厳しい』
やたら大仰に角張った調子で描かれた名前。それが侍女の名前なのだろう。
名指しで嘆く輝ける文字を見ながら、俺はただ笑声を堪えるのに終始していた。そして、その裏で思う。随分と侍女に弱く――物分りのよさそうな振る舞いをする王だ、と。