第17話
扉が開いてゆく。地下深くであるというのに、少しずつ少しずつ扉が動く度、通路に光が差し込んだ。
扉の向こうの空間は、思いの外に広大だった。階段の壁に点々と埋め込まれていた、あの光を放つ鉱物が天井一面にあしらわれており、それが昼間にも似た明るさを作り出している。足元――白い石畳で覆われた床には、網の目のように細い水路が走っているが、そこを流れるものは見られない。くぼんだ路の底に、わずかに溜まっているばかりだ。それは、まさしくこの国の命数のように思われた。
大臣は無言で進んでいく。空間の中央は床と同じ質の石を重ね、一段高い造りになっていた。元は何やら小規模な建物が築かれていたと見えるが、今は完全に倒壊して瓦礫の山と化している。もしかすれば、あれが女神の寝所であったのやもしれない。
「ネシャート姫」
ふと、大臣が呼びかける。彼はまっすぐに瓦礫を見据えていた。瓦礫――いや、その前を。
果たして、我々の探し人の姿はそこにあった。
幾重にも積み重なった、かつての壮麗さの面影をわずかに匂わせる残骸の前。献じる供物を並べ置いたのであろう祭壇の傍らに、彼女は剣を杖に跪いている。病み衰えた風貌が、目を丸くしてこちらを振り向いた。
「おや……存外に早く、見つかってしまった」
「全く、あなたは最後まで王たらんとする」
「王たるもの、そうでなくてはね。――民に首をはねられるか、祈りに朽ちるか。どちらが早いか分からないが、それまでにできることをしなければ」
軽やかに笑う王の姿に、俺は図らずも戦慄した。
自分が何をする気で、その結果どうなるか。彼女はそれらを理解し、納得した上でここにいるのだ。そう悟らざるを得ない、あまりにも凛然とした表情。
姫様、とサハルが掠れた声で呼びかける。それにさえ、王は迷いのない表情で微笑むばかり。
「サハル、今までよく仕えてくれた。本当にありがとう」
「いいえ、姫様、そんな――」
「それにしても、ヴァファー? ヘイダルまで連れて、どうしたというのかな。この国の、最後の王の姿でも見納めに?」
もはや立ち上がることもできないのだろう、王は時間をかけて身体をひねり、祭壇に背を預けた。地べたに座り込んだまま、俺たちを眺める。
その痩せこけた面差しには、今や目の逸らしようもない死相と、相反する晴れやかさがない交ぜになっていた。痛々しく、だが、それでも抗いがたい威厳が滲む。
「いえ、陛下、そのようなことは」
あくまでも落ち着き払った声で言い、大臣は石段を上がった。内心の焦燥を押し隠しついていけば、もう王の傍まではほとんど距離がない。ほんの数歩で歩み寄ることができるというのに、何故か、俺はその数歩を踏み出すことができなかった。
しかし、大臣は躊躇いなく、わずかな距離を詰めた。王の目の前で片膝をつき、彼女を見下ろす。
「あなたは、もう十二分に尽くされた。もう、お休みあれ」
静かな、穏やかな声だった。
何、と目を見開く王の鼻先で、大臣の指が宙に文字を描く。あれは……眠りの魔術か!
「ヴァファ……!」
眠りの魔術は、魔術の心得がある者ならば大半が行使することのできる、ごく初歩的なものだ。だが、弱りに弱った王は、その程度の魔術にさえ抗うことができなかったのだろう。己の最大の腹心の名を皆まで呼ぶこともできず、黄金の眼が瞼の下に隠されてゆく。
程なくして、王は完全に目を閉じ、祭壇に背を預けたまま動かなくなった。
「……ご無礼、お許しは乞いませぬ」
ぽつりと呟いた大臣が、己の首に掛けていた飾りを外し、王の首に掛ける。
「私は、あなたに幸いを、喜びを差し上げたかった。幸せに暮らせる国を。それを果たせなかったことだけが、残念でなりません。――あなたは、充分に役目を果たされた。幕引きは、僭越ながら私が。どうか、お健やかにあれ。我が王よ、私が心から仕えたただひとりのお方よ」
切々と響く声に、俺は何を言うとも、するともできなかった。
十余年も共犯として、国を変え、国を支える為に奔走してきた貴人と臣下。そこに俺のような余所者の割り入る余地など、あろうはずがない。その感慨は、正しく祭壇の傍らにあった王の傍に寄れないでいたものと同じだった。
寂寥とももどかしさともつかない感情を持て余していたその時、おもむろに大臣が王を両腕に抱き上げるのが見えた。そのまま踵を返し、立ち尽くす俺とサハルの許にまで歩んでくると――あろうことか、腕に抱いた身体を俺に向かって差し出す。
唖然とする俺に向かって、大臣は「ヘイダル卿」と名前を呼んで促す。
「これは、貴君にしか託せぬことなのだ」
じっと見据えて紡がれた言葉に、誰が否やと言えようか。
ごくりと息を呑み、浅い首肯だけを返す。両手を伸ばせば、枯れ枝のような体躯が腕の中に与えられる。俺がきちんと王を抱き直したことを確認すると、大臣は俄かに瓦礫の向こうを指で示した。いつの間にやら、壁の真っ只中に亀裂めいた細い隙間が口を開けていた。
「あちらに抜け道がある。空間を歪めた脱出路だ。出口まで歩いていけば、安全な場所に出られるだろう。逃げ延びる為の用意は、予め整えておいた。……姫を、よろしく頼む」
「命に代えましても」
大臣が自らの手ではなく、俺に王を託したという時点で、彼の思惑は予想がついていた。
ゆえに、彼にこれ以上かける言葉はなく。その代わりに「サハル殿」と、そう呼んだのだが――
「いいえ、私は行けません」
王の忠実な侍女は、厳然として頭を振った。俺は今日何度目とも知れぬ驚きを噛み締め、半ば衝動的に声を上げていた。
「何を馬鹿な! あなたが残ったところで、何になると? 王の傍に仕えるが、あなたの役目であるはずだ。このような状況であればこそ、王にはあなたが必要だ」
「ええ、ですから――姫様を確実にお守りする為に、私は残るのです」
琥珀の双眸に強い意志を滾らせて、サハルは告げる。
その相貌を見下ろして、そうか、と今更に気がついた。黒く長い髪。金に似た琥珀の眼。そして、背格好も、サハルと王……いや、ネシャート姫はよく似ていた。
「姫様の振りをすることには、慣れておりますので」
どこぞの領主の類と違って、反乱軍は姫様の顔を知らぬでしょうから、幻を纏う手間も省けます。
さらりと言って、サハルは一歩後ろに退いた。滑らかな所作で姿勢を正すと、深々と頭を下げる。
「ヘイダル卿、本来あなた様にお頼みすることではないとは言え――どうか姫様を、よろしくお願い致します」
深く息を吐く。二人がこの場に残るという意志は固く、俺では崩せぬであろうことは、もはや認めるほかなかった。
「確かに、承った……。あなた方の志は、決して無駄にせぬと誓う。ネシャート姫は、お任せあれ」
殊更に強く、はっきりと言い切ってみせる。せめて、彼らの心残りとならぬように。
俺の言葉を受けて大臣は頷き、サハルは顔を上げてかすかに微笑む。二人に目礼を返すと、俺は王を抱き直して踵を返した。瓦礫を迂回し、白壁に刻まれた亀裂に飛び込む。内部は、これまでの明るさが嘘のように一面の暗闇で押し包まれていた。
つ、と背筋を冷たいものが伝う。だが、退路はない。進む以外に道はないのだ。
「姫様、どうかお健やかに――」
祈る侍女の言葉に背を押され、一歩一歩暗闇を踏み締める。背後からのわずかな光は、すぐに届かぬものとなった。後に残されたのは、前後左右はおろか上下も定かならぬ、一面の黒。
何も見えない、だからこそ何かを見てしまいそうな闇の中を、ひたすらに前へ前へと足を動かす。
どれだけ歩いたのか、どれほども歩いていないのか。感覚が失われるまでにはそれほど長い時間はかからず、途中でがらがらと何かが崩れるような音を聞いた気もしたが、それも幻でないという確信がない。
どこを歩いているのか、どう歩いているのかも、今となっては分からない。腕の中の温かみだけが、唯一の導にすら思われた。




