第12話
つくづく、予想し得ない言葉を聞く日だった。
王に、と思わず繰り返し呟けば、「そうとも」とあっさり首肯が返ってくる。
「そもそも、不思議に思わなかったかな。私が『王』として役目を果たしているということに」
言われてみれば、その通りだった。いかに正当な血統であろうとも、深窓の姫君として育てられてきた令嬢が突然当主の役目を果たせと言われたとして、そう容易に事が成せるはずがない。
だが、ネシャート姫は充分以上に王としての職責を果たしていた。であれば、既にそれを成し得るだけの素地が築かれていたということになる。
「イマード王は、早い時期から姫に王座を継がせることをお考えに?」
「おそらくは、そうだったのだろうと思う。娘が王位を継いではいけないという法はないし、長子が継がなければならないという法もないからね。……父上は私を贔屓されたけれど、決して兄上を無視していた訳ではなかった。でも、兄上に与えるよりも良いものを決まって私に与えるということは、無視されるよりももっと辛いことであったのかもしれない」
「ですが、それはあなた様の拒否できることもなかった。――いや、拒否しようとも思われなかったのでは。王に己の跡を継ぐものとして目され、その為の教育を施されようとしているのなら、それは王の決定の下に行われる国策に等しい。一人の感情で左右できることではない」
そして、王の目論見通り……或いはそれ以上に、ネシャート姫の王たる資質は磨き上げられたのだろう。だからこそ、沈みゆく国は決定的な瞬間を先延ばしにし、首の皮一枚繋げて生き延びてきた。その重責を担うことになった彼女に、その意志と、能力があったからこそ。
姫君は、かすかな声でくすくすと笑う。見てきたように言う、と応じる声は歌うに似ている。それでいて、どこか自嘲するような、斜に構えた風でもあった。
「兄上には申し訳ないことをしたけれど、その通りだ。私は王の子として生まれ、育まれた。国に尽くす責任がある。王として立ち、国を守れと託されるのならば、それを否定することは許されない。例え、そうすることで兄妹の関係に亀裂が入ろうとも、国を託される大事の前には瑣末なことだ。……と、判断したのが、ある意味では間違いだったのかもしれないな」
疲労の滲む声音。肉体的な不調以上に、精神的な疲弊が表れた萎れた響き。
だが、ここで会話を途切れさせることはできなかった。我が王に持ち帰る為にも、事の真相をつまびらかにしておかねばならない。
「王に軽んじられ、玉座からも遠ざけられた。それゆえ、王子は父王からの簒奪を謀った。――真に、そのような?」
「結果としてみれば、そうなるのだろうと思う」
それは、この姫が度々見せる、奇妙に曖昧な物言いだった。何かあることを匂わせながらも、決して明言しようとはしない。果たして、それは言いたくないことのか、それとも言えないことなのか。
何か憚ることがあるのか、と言えば、万事憚ることではあるだろう。人知れず国を支える為に王妃が身を捧げ、それを遠因として王は心を壊し、我が子たる王子によって玉座を追われ行方が知れない。それどころか、当の父王を退けて玉座に着いた新王ですら、今はどこにいるのやら。挙句の果てには、王妃に次ぐ人柱候補であった姫が王を装っている始末だ。
「簒奪を謀った王子は、今、いずこに」
以前にも訊ね、答えられないと返された問いだ。だが、話せるうちに話しておくと姫自らが告げた――今ならば。そんな根拠のない確信でもって口に出すと、ふう、と一層に物憂げな吐息が聞こえた。
「もう、どこにもいない」
どこにも、と重ねる声は、未だかつて聞いたことのない音をしていた。まるで割れ鐘の残響。
「私が殺した」
囁く声音は、ひたすらに空虚だった。図らずも息を呑む。冗談、などと言えようはずもない。その声音一つでもって事実と思い知らせる、寒気のする響き。
「何故、そのような……」
「そうするより他になかったから、なんて言い回しは陳腐に聞こえるかもしれないな。ともかく、兄上はもういない。だから、ヴァファーと幕を引こうと企んだ。私と彼は共犯であり、同時に等しく偽者だ。二人で王を取り繕ってきた。……けれど、もう、終わりは近いな」
嘆息。明白な諦観。けれど、そこには耐え難く惜しむ未練も、確かにあった。
そこで、はたと気がつく。ジャラール王子が死亡しているというのなら。彼に玉座を追われたイマード王は、いずこに?
「それでは、イマード王は」
「父は自ら死を選ばれた。兄上が玉座から降りるように告げられると、『お前にこの国は担えない』と呪いを残して、我が手で命を絶たれてね。……本来私がいるはずの離宮を、今は封鎖しているだろう? あそこには、その証拠となるもので、隠滅しきれなかったものを封じてある。あなたが見つけなくてよかったよ」
最後の一言には、あからさまな自嘲の響き。俺は何とも答えることができなかった。
「ともかく、この国は遠からず涸れ果てる。あなたも、そろそろ国に戻るといい。そうして、この愚かな王たちの顛末を、ナーセル王にお伝えしておくれ。いずれ渇いた民が、そちらの国に向かうかもしれない。その埋め合わせという訳ではないけれど、私の持ち物で土地なり鉱脈なり、役立てられそうなものは全てお渡しするから」
言うが早いか、衣擦れの音がした。半ば無意識に目を凝らせば、天蓋の薄絹の向こうで、細い人影が立ち上がろうとしている様が透かし見える。しかし、弱りに弱った姫の身体は、その動作にさえ耐えられぬらしかった。
どさり、と倒れる音がする。反射で息を呑み、床に座っていた腰が浮いた。寝台を囲う天蓋には術が施されており、王の意に染まぬ者の侵入を阻む。迂闊に近づくことも躊躇われようものなのだが、それはそれとして現状を看過することもできない。
「ご無理をなさいますな。サハル殿をお呼び致します」
「いや、いい。ヘイダル、私の傍へ」
苦しい息の下で、姫は告げた。それはまずい、と頭の片隅で思うが、かと言って拒む言葉も喉から出ない。それどころか、荒れる呼吸に紛れて呼ばれれば、余計に従わねばならぬという気さえしてしまう。
いよいよ焼が回ったか、と自嘲混じりの苦笑を一つ。一呼吸分の間を置いて、覚悟は決まった。元より如何なる処罰とて受けるつもりで、身分を偽り潜入したのだ。今になって罪状が一つ増えようと、どれほどのことだ。
竪琴を床に置き、立ち上がる。慎重に歩みを進め、天蓋の薄絹の合わせ目に手を入れて隙間を作ると、
「すまない、運んでもらえるだろうか」
落ちた鳥のように、細い体躯が倒れ伏していた。
真白く滑らかな敷布はよれて皺になり、その上に艶やかな黒髪が流れ落ちて広がっている。その色彩の落差に、妙に後ろめたいものを覚えた。見てはならぬものを目の当たりにしているかの……いや、本来見るはずはなく、見るべきでもないことは確かだが。
細く息を吐き出し、努めて平静を保とうと試みる。うつ伏せに倒れた体躯は、病的に細い。辛うじて肘を突いて身体を起こしてはいるが、それ以上の動きが望めないらしい様子であるのも、一層痛々しさを際立たせていた。
「……失礼致します」
念の為、重ねて一言断ってから、靴を脱いで寝台に上がる。
鳥肌が立つほど滑らかな感触の敷布を踏み、細すぎる麗人の傍らに膝をつく。念には念を入れて、「宜しゅうございますか」と更にもう一度確認をしてみると、病人というよりも半死半生の顔色で、姫はおかしそうに笑った。
「そんなに何度も訊かなくとも」
頼むよ、と伸ばされた手を、粛々と受け入れる。一瞬、騎士団で一般的に周知されている効率的な人間の移送方法が脳裏を過ぎったが、いくらなんでもこの場この時この相手に適用するには適当でなさすぎる。そんなことを思い浮かべてしまっている時点で己の狼狽が知れた気がして空しくもなったが、とにかく埒もない思考を振り切り、無難に横抱きにすることにした。
恐ろしくなるほどに軽い、その身体を。
「どちらにお連れすれば?」
「寝台の左手の奥に、扉があるだろう。その奥が私の私室になっている。そこへ」
「かしこまりました」
慎重に寝台を降り、指示通りの扉の元へと向かう。重厚な造りの、おそらくは樫の扉だ。叩き金もなく、取っ手の丸い握りと、鍵穴だけがわずかに蝋燭の明かりで光っている。
そこまで来て、やっと手が塞がっている上に鍵はどうなっているのか、と思い至ったが、姫が手を伸ばすと扉は独りでに開いた。わずかに空気が流れ、古い書物の匂いが鼻先をかすめる。
「失礼致します」
一歩踏み込むと、壁に掛けられた燭台へ一斉に火が灯った。その灯りに照らされ、古びた書物の並んだ書架や、見慣れぬ鉱石や装飾品などが収められた棚が整然と並べられている様が目に入る。書架の前には、立派な造りの机があった。平時であれば重厚たる威容を誇っていたのであろうが、今は書類やら何やらに埋もれて見る影もない。
腕に抱いた姫君は、その机の元へ行け、と言う。
「右側の、上から二番目の引き出しを」
姫を抱いたまま、若干手間取りつつも言われた通りの引き出しを開けると、そこには小ぶりの箱が納まっていた。銀細工と、磨き上げられた色とりどりの宝石で飾られている。
姫が手を伸ばすので、膝を折って体勢を低くさせると、枯れ枝のような指が小箱を取り上げた。危なげない手つきを見るに、それほど重量はないのだろうが、それでさえ取り上げたくなるほどに姫の手指は細っている。
「先ほど話した譲渡に関する誓約書を、これに封じておいた。これを持って、なるべく早くにこの街を出るといい。ご苦労だった、ヘイダル。ナーセル王に、主に元気な顔を見せて差し上げなさい」
腕の中から俺を見上げ、微笑んで見せる細面は明らかに病み衰えていたが、それでいて「王宮の花」と謳われた美しさも気品も、少しも損なわれていないように思われた。その眼には拭いきれぬ諦観が刻まれていたが、それでいて未だ霞まぬ矜持もまた、揺るがぬ光として宿っている。
この状況にありながら、姫は尚も「王」でたらんとし続けていた。そのあり方に、俺は心底からの敬意を抱こう。
「我が王への使い、確かに拝命致しました。――ですが、その前に」
もう一つ教えていただけますか。
呟くと、姫は小さく頷いて、目顔だけで先を促す。良いとも悪いとも言わない。だが、拒絶でもないのだろう。だろうと、判断することにした。
「ようやく、分かりました。あなた様は、もう随分と前から人柱に立っていたのですね」
こぼした言葉には、再び答えはなく。ただ、淡い笑みだけが返された。




