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第10話

 夏の盛りが近付くと、日々の渇きは一層に過酷になっていくようだった。雨は降らず、日照が続く。街々を潤す女神の恩寵たる水も、目に見えて嵩を減らしているという。

 王宮の庭の緑でさえ、精彩を欠き始めていた。花は落ち、葉は萎れる。それに比例するかの如く、王として振舞うネシャート姫の体調も悪化していった。日中は辛うじて執務室で政務を行うものの、それだけで限界といった有様だ。顔色は悪く、時に食事すら儘ならない。

 そんな状況にあっては、楽師を招く暇など作れようはずもない。サハルが顔をしかめ、言葉短く咎めるのにも構わず、姫は俺を寝所に呼び寄せるようになるまで、さほど時間はかからなかった。そうして俺は王の寝所で彼我を分かつ境界となっていた衝立を越え、天蓋で囲われた寝台の傍らに座し、苦しい息の彼女が眠りに落ちるまで歌を歌うのが日課となった。

 王の横たわる寝台で奏でるものも、以前とは大きく変わった。幻影は描かず、難解な物語も語らない。選ぶのは常に穏やかな音色であり、精神を落ち着かせ、眠りに誘う癒しの歌のみ。ただ単純に竪琴奏でながら、ぽつぽつと言葉を交わすだけのことも少なくなかった。

 事ここに至り、俺の芸は王を楽しませるものではなく、姫を眠らせるものとして求められつつあった。嘘か誠か、姫自身が楽の音を聞いているとよく寝られると主張して譲らないので、サハルでさえ匙を投げた格好だ。楽師とすれば、身に余る光栄というものだろう。しかし、そんな風に呑気に構えていられる余裕など、俺にはありはしないのだ。

 胸の内をじりじりと焼く感情は、焦燥に近い。セルギリドの宮廷楽師の中には、幻影を描くよりも対象を鼓舞し、或いは癒すような歌を得意とする者もいた。今になって思っても仕方のないことではあるが、もう少しそういった歌を習っておけばよかったと腹立たしくてならない。そうすれば、日に日に磨り削られていくような王の身も、今少し休ませられたかもしれないというのに。

 そう言って詫びると、深夜になってようやく政務を終え、寝台に入った王は小さな声で笑った。

「詫びることなんて、あるものか。あなたは私の我が儘によく付き合ってくれている。本当にありがとう」

 姫の声はいくらか小さくはあるが、確かな響きをもって紡がれる。声を発するのも困難になるほど消耗してはいないことに密やかに安堵し、その一方で隠され切らぬ疲弊に寒気を覚えた。

「あなたの歌は、十二分私を安らがせてくれている。あなたの声はとても心地良いよ」

「恐縮でございます」

 寝台に横たわる姫の目に映ることはないだろうが、自然と頭を下げていた。

 ぽろぽろとこぼれる砂のように、今宵も竪琴の音は静かに流れる。

「ナーセル王は、だから、あなたを寄越してくれたのかな」

「……と、おっしゃいますと?」

「セルギリドへの滞在の折、私はよくジアーに歌を聞かせてもらった。私は、あの人の歌が好きでね。あなたの歌い方はジアーによく似ていて――思えば、声も少し近い気がするね」

 姫の言葉を聞きながら、なるほど、と思う。

 陛下が散々な言い様だった割に、俺をこの任務から外さなかった訳がようやく分かった。俺を楽師として仕立て上げた師こそ、セルギリド王国宮廷楽師ジアーだ。彼に近い声を持ち、彼に教えを受けた俺は、初めからネシャート姫だけに伝わるよう送られた合図だったのだろう。

「でも」

 思考に沈んでいた頭が、内緒話とばかりにひそめられた声を拾い、再び寝台へと意識を向けさせる。

 この寝所において明かりと言えるものは、燭台に灯されたわずかな蝋燭ばかり。室内、そして何より天蓋に囲われた寝台の中は物の陰影も窺えぬほどに暗いが、それでも礼儀として直接目は向けずにいた。ただ音と気配だけで、その様子を窺う。

「あなたはジアーと近いけれど、やっぱり違うな。ナーセル王は素晴らしい人選をしてくださった。あなたの声と歌が、私はとても好きだよ」

「過分なお言葉でございます」

「そんなことはない。あなたのお陰で、私は大分保てている。また、ちゃんと、礼を……」

 どうやら、姫は喋っている最中で眠りに落ちたらしい。言葉は萎むように小さくなって、やがて溶けるように消えた。その頃合を見計らっていたのだろう、程なくして侍女サハルが音もなく部屋に入ってくる。

 俺がこうして日々姫の下に侍るようになっても、彼女の態度はおよそ変わることがない。手持ちの燭台の灯りに照らされた面差しは、今も無愛想どころか「さっさと出て行け」と言葉よりも雄弁に命じている。

「今宵も役目を終えたゆえ、これにて失礼する」

 述べても、返事はない。ただ、浅い首肯が素っ気無く返されただけだ。

 実を言えば、この王宮の内部においてネシャート姫が王に成り代わっていることを知っている者は、それほど多くないのだという。日々王の執務室を訪ねてくる臣下の中には気付いている者もいるだろうが、皆敢えて口にしないな、とは数日前の会話で姫自身がこぼしていた。

 そもそもネシャート姫とて、先王の直系だ。王位を継ぐ資格は間違いなくあり、臣にすれば乱暴者で知られる者よりかは、日々真面目に政務に励む者の方が喜ばしいに違いない。だから誰も何も言わないのかもしれず、或いは、純粋にその余裕がないだけのことかもしれなかった。未だアウレィリヤの王宮は閑散としており、数少ない官吏たちは目の回るような忙しさで日々働いている。

 そんな環境にあって、ネシャート姫が幼い頃より忠実に仕えてきたサハルは、大臣ヴァファーと並び、現在の状況を最初期から把握している数少ない人物であるのだそうだ。先日の姫との庭での会談の内容も、概ね伝えられている。つまり、現時点で俺が何者か知っており、それどころか最初の時点から察していたはず。

 その割には、どうにも邪険に扱われているような気がしてならないのは、果たして何故であるのやら。身分を明かすまではともかく、その後も――むしろ、最近一層に対応が辛くなっているように感じられるのだが。

 しかし、それを問うには、寝台の傍へと歩みを進める侍女の背中は頑なに過ぎた。明白に会話を拒んでいる。仕方なしに問答は諦め、寝所を辞すことにした。侍女の態度がどうであれ、俺の仕事に変わりもなければ、支障が出ている訳でもない。

 寝所の扉をくぐり廊下に踏み出すと、ぬるい風に押し包まれた。元より温暖を通り越して、通年暑い気候の国である。街の家々がそうであるように、王宮もまた開放的な造りをしている。壁のない回廊が、そこここに見られた。王の寝所から自分の部屋に帰るまでも、いくつか庭に面した回廊を通る。

 点々と掲げられた燭台と、空に浮かぶ月とで、最低限の見通しは利く。だが、だからこそ生気を失った夜の庭は、余計に寒々しく感じられた。これではまるで、王宮の中に現れた枯野だ。

 つい足を止め、苦々しい気分で庭を眺めていた――その時。

 コツ、コツ、と硬質な足音が聞こえた。こんな夜更けに、と音のした方に目をやれば、誰あろう王と共にこの国を支える最重要人物が歩んでくる姿が目に入る。壁際に下がり、礼を取って見送ろうとすると、

「王はお眠りになったか」

 大臣は俺の前で足を止め、短くそう訊ねた。

「……は、今し方に。寝台に入られてから、四半時ほどお話しになりましたが」

「その程度ならば、許容範囲内というものだろう。寝つきが良いのは喜ばしい。貴君には手間をかけるが、なるべく陛下の望む通り振舞ってもらえまいか」

「心得ております。至らぬ身なれど、全力を尽くす所存に」

「すまないな」

 それだけを残し、大臣は歩みを再開する。その足音は、やがて王宮の暗がりの中へと消えていった。

「……望む通りに、か」

 辺りに再びの静寂が戻ると、知らず独り言が漏れた。耳の奥に残る響きに、薄ら寒い感慨を覚える。

 大臣の、あの声音に滲んでいたのは、紛れもない諦念だった。



 神殿とやらは、未だ暗躍を続けているらしい。

 城下では、ついに大臣のみならず王に対してまで不評が囁かれ始めていた。簒奪者の化けの皮が剥がれてきた、などと口さがない者は言う。大臣に対する、王と結託して国を我が物としようとしている、という馬鹿馬鹿しい噂も未だ根強い。

 ネシャート姫との会談から後、俺は定期的に街へ足を運ぶようにしていた。それは本国への報告の為であり、また街の様子そのものを窺う為でもあったが、お陰で人々の坂を転げ落ちるような変化も克明に感じ取れてしまった。水が低きに流れるように、誘導されていく。

 本国には、アウレィリヤで起きつつある異変、「新王」の容態などを逐一伝えた。もし万が一のことが起こり、アウレィリヤの民が我が国に大量流入するようなことになれば、一大事だ。その前兆とも成り得る事態を前に、黙っていることはできなかった。今の状態がどうあれ、やはり俺はセルギリドに仕える騎士なのだから。

 その一方で、もどかしい思いも常にあった。

 この国に何か異変が起こっており、どうにかしなければならないのは火を見るよりも明らかだった。だが、その「どうにか」が微塵も読めない。何をすればいいのか、どうするべきなのか――俺がこの国の者でないからやもしれないが、その方策がまるで見えてこない。

 セルギリドも風神を奉じ、その加護を受けているように、この辺りの国々は皆何がしかの神を崇め、その加護の元に暮らしている。だが、加護の有無が国の興亡に直結するほど深く結びついている国など、どれほどあるものやら。国の最重要機密として秘されているとしても、他に訊いたことがない。文字通りの門外漢としては、ただ王の要請に応えることが精々だ。一層もって歯痒い、と思う。

 そんなある日、いつも通り寝所に俺を呼び寄せた王は、ひどく疲れた様子で言った。

「懺悔を聞いてくれないか」

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