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骨神楽  作者: 鵜川 龍史
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 町はずれをここまで来たのは初めてだ。娼婦が客を取るための掘っ立て小屋が立ち並んでいるが、人の気配はない。ただ、道に点々と死体が腐っているだけだ。女がいなければ、兵士も寄り付くはずがない。

 右手のバチに絡みついた霊素の青緑の光彩が、次第に明滅の速度を上げていく。〈呼唖〉が近づいてきた証拠だ。動悸が光に合わせて早まっていく。深呼吸をするが、肺に流れ込んできた腐臭に咳き込んだ。空を見上げると、ペンキで塗りこめたように真っ暗だ。月の姿が見えない。首をはねられたらしい。

 渇きはまだ、冷え固まっている。血の臭いにも全く動じる様子がない。かといって、渇きそのものが無くなってしまったわけでは決してない。踏み固めらえた大地の下に眠る熱水の層のように、大地が割れるその時を待っている。そんな風に感じる。

 それは、渇きに対する予感ではないのかもしれない。真っ黒のはずの空に、闇が織りなす波模様を見出している僕の目は、これまでとは違う風景を見始めている。

 不意に、バチが強い力で引き寄せられた。食いついた。が、これは釣りじゃない。バチを持っていかれれば、こちらの存在に気づかれる。腰の小袋から骨片を取り出しバチにこすりつけると、下着を脱ぎ捨てるみたいに霊素の層が剥げ落ちた。同時に目を凝らす。霊素の行方を追わなくてはならない。とはいえ、闇夜に浮遊する青緑の光、しかもこちらは闇の層を見分けられる。しかし、霊素は突然、消え失せた。跡形もなく。

 僕は慌てない。原因として考えられることが一つしかないからだ。

 そしてそれは、首を持ち去った者が、骨性精霊術に精通していることを示している。

 骨を媒介に呼び出した〈霊子〉は、相互に干渉しやすい。安定した状態で降霊と交霊を行うには、招かれざる客は極力排除することが望ましい。そこで登場するのが、〈霊暗室〉と呼ばれるある種の結界空間だ。頭蓋骨の中でも、鼻の脇の部分――涙骨の細骨片を、東西南北四隅に置いて、元の頭蓋骨を奏でれば、〈霊暗室〉の出来上がりだが、これは言葉で言うほど簡単ではない。ケーリオ先生のところに通っていた時、僕は一度も成功させられなかったし、バスチアンも、バスチアンの取り巻きも、できなかった。

 さっきから頭の片隅に、蜘蛛の巣のように張りついている考え。

 アリアーヌ――。

 闇夜の水面のように、静かで一様な薄板が眼前に展開している。僕が通過したとして、気づくか否かは術者次第。ここでこうしていても仕方ない。左手でロジェの革袋を撫でさする。赤黒い熱が僕の胸に移って、覚悟が形を成す。

 〈霊暗室〉の内側に入ると、その中心にあった小屋に光が灯っているのが分かった。そして、そこから強い臭いが漂ってくる。熟れ尽くした果実の持つ、酸味と甘みを攪拌したかのような、終末の臭い。

 ロジェは彼女を連れ出せなかったのか――それならそれでいい。いや、それがいい。兄さんには可能性がある。皮剥ぎの職人としての技術は、枷にも剣にもなる。その上、アリアーヌを連れてとなれば、その可能性の幾許かは、彼女の存在によって確実に削られる。

 よかった。

 玄関扉のすぐ右には、薄紙を張った小窓が中の光を透している。壁を背に息をひそめるが、中から声は聞こえない。左手はロジェの革袋に、右手を扉に――鍵はかかっていない。小さな軋みを一つ上げ、扉が内側に開いていく。中を覗くと、正面の安楽椅子に座る人影が見えた。

 竿のような長身痩躯、神経質な薄い唇が真一文字に引き結ばれている。

「ジョエル・ダヤン――無事で嬉しいよ」

「どうして、ケーリオ先生が......。先生が、やったんですか?」

 再会の喜びは、すぐに困惑で上書きされた。そして僕の目は、冷静であることをやめなかった。

「その机の上にあるのは――」

 言葉にすることが恐ろしかった。言葉は、世界の可能性を現実に定着させるから。

「言葉にすることが恐ろしいかい。言葉は、世界の可能性を現実に定着させるからね」――そう、これはケーリオ先生の言葉だ。優しく、でも芯の通った、頭の奥に直接響いてくるかのような。

「でも、目の前の現実から目を背けることを教えたつもりはないんだがな」

 ケーリオ先生の口元が引きつれる。そんな笑顔は見たことがない。いや、これは笑顔なのか。嘲笑、哄笑、軽蔑、皮肉――先生の考えが分からない。

「それもまた、目の前の現実だよ」

 僕の心はどこまでも冷え固まっている。そんな表情を前にしても、僕は冷静だ。しかし、もう一つの現実の方は、そうはいかない。机の上で鈍い光を放っている三つのタグ。

「どうして、ロジェの職人票がそこにあるんですか」

「彼がここにいるからに決まっているじゃないか」

 心の蓋にひびが入るのを感じる。

「そんなはずはない。兄さんが出ていくと言ったら、必ず出ていくんだ」――兄さんは意志の人だから。

「意志の人だからこそ、必要があれば嘘もつくさ。ジョエルはロジェに嘘をつかれたことがないのかい」

 疑念が再び首をもたげて襲い掛かってきた。さっき感じた安堵も、つまりはロジェに対する嫉妬なのだ。それを都合よく、兄さんの可能性だ何だと。僕は愚かだった。現実から目を背けても、現実が変わるわけじゃない。

 現実を変えるのは、僕自身だ。目を閉じて革袋に手を這わせると、中からロジェの命が語り掛けてくる。

「そういうのを、自己欺瞞というんだ」

 部屋の奥の暗がりから、ぼんやりと青白い炎が漂い出てきた。

 おかしい。そんなはずがないのだ。

「私が指摘してやらないと、どこまでも深く入り込んでしまう。まったく、世話の焼ける弟だ」

 母さんと同じ栗色の瞳が僕を見据えている。

 これは現実ではない。

 いや、これは現実逃避ではない。

 何かがおかしい。

 ロジェは「私」なんて言わない。

 そして、僕は本当の現実に行き当たる。部屋の中心に一歩踏み出すと、ケーリオ先生の手に手を重ねた。冷えた空気の層が流動している。口元の歪みはそのままに、ケーリオ先生の細い目は苦痛を訴えていた。視線をロジェの上に置くと、その瞳も苦しそうに潤んでいる。

「ようこそ、〈黒猫と金魚〉亭へ」

 二つの声が重なり、そこに背後から鼻にかかったかすれ声が加わった。見なくても分かる。アリアーヌの声だ。

「ロジェが逃がしてくれたのに、わざわざ来てくれるなんて。歓迎するわ」

 その時、初めて僕はロジェの真意を悟った。最後の最後まで、僕はロジェに守られていたということだ。

「殺したんですか」

 質問ではない。確認の言葉だ。ロジェの血が革袋の中で震えている。袋の口を緩め、その力を感じとる。僕は愚かだった。

「殺したんじゃない」

 振り返ると、銀髪が輝きを増した。

「まだ殺している途中なの」

 アリアーヌの両手には二本ずつバチが握られている。にわかに光が増した部屋に、おびただしい頭蓋骨の群れが浮かび上がる。通りに転がっていた死体の映像が瞼の裏で重なり、思わず飛び退った。

「吸血鬼の骨は希少なのよ」

 アリアーヌが舞う。純白の薄衣が空気の中に溶けながら、四本のバチが骨の上を踊ると、部屋中の霊素が列をなし、華麗な三拍子のリズムに合わせてステップを踏みながら、それぞれの頭蓋骨の中に結晶していった。ロジェとケーリオ先生は耳をつんざく高音で歌い始め、〈霊子〉の群れはあるいは重なり、あるいは浮遊しながら、部屋を覆い尽くしていく。

 リズムが二拍子へと変わり、〈霊子〉が僕を標的に定めたのが分かった。このままでは、霊素を抜かれて取り殺される。あれを見つけなくては。

 無数の掌が吹雪のように僕に叩きつけられる。それでも、簡単に僕の防壁は崩れない。

「僕は、もう人じゃない」

「それなら、私も同じ条件よ」

 アリアーヌが右手の人差し指を唇の端に添え、上に押し上げた。

 『吸血症研究』に書かれた、「吸血鬼に向かう十六の階梯」の十三段目――「犬歯の中心に針孔が開き、対象の身体を損壊させることなく吸血可能になる。」

 そうしながらもアリアーヌは動かない。何かを隠すように。

 僕はロジェの革袋の戒めを一気に解き、中に右手を突っ込んだ。血の力が全身に浸み渡る。〈霊子〉の塊の中を駆け抜け、アリアーヌの眼前で止まる。虚を突かれたアリアーヌの足元にしゃがみ込み、真っ赤に染まった右手を振り上げる。革袋の中にあっても錆びることなく光を放っていた白刃が、薄衣と白い肌を一緒に切り裂いた。

「皮剥ぎのナイフ――」

 血を迸らせながらも体を翻して致命傷を避けたアリアーヌが、美しい形相でつぶやく。二つに裂けた衣の向こうで、それよりもなお透けるような白さの肌が、見る見るうちに修復されていく。

 十五段階――「急速な回復能力によって、身体を傷つけることが困難になる。」

 もうすでに知っているそんなことは。

 アリアーヌの背後の棚には燭台が置かれ、それを挟むようにして二つの頭蓋骨が並んでいる。ナイフを火の横に突き立てると、両手を上着の隠しに差し入れ、二本のバチを取り出した。振りかぶり、双方の眉間を奏でる。

 二つの〈霊子〉の上げていた金切り声が消え、霊素の奔流が二つの頭蓋骨の中心で渦を巻き始めた。赤黒い霧の中心で赤熱した鉄のような瞳が脈動している。

 罪への自覚で歪んだ骨から生まれる〈歪人〉――二人の目に宿った、僕に対する罪悪感が、死してなお頭蓋骨に干渉したのだ。

 二体の〈歪人〉は、澄んだ音で響き渡る戦乱の神楽に乗って疾駆し、〈霊子〉の一群を喰らっていく。その都度、頭蓋骨が塵に還り、あっという間に部屋中が白いヴェールに覆われた。アリアーヌが怒りの叫びをあげる。その声もまた――

「人じゃない」

 異形の咆哮がヴェールを揺らし、僕は正確にその起点をロジェのナイフで切り裂いた。肉を超え、骨に届く感触。ロジェの血の力が四肢に満ち、僕はもう一歩を踏み出す。右に薙ぎ払い、そのまま体を回転させ、逆側から再び首にナイフを叩き込んだ。切り離された白髪が床に零れ落ち、牙を剥いたままの表情で、アリアーヌの頭部は宙を舞う。

「喰らえ」

 再びバチを手にした僕は、鬨の高揚を奏でる。二人の〈歪人〉がアリアーヌを中心に交錯した。深紅の風にあおられたその表情は母さんを思わせる柔和さで、しかし風は、骨も血も髪も、跡形もなく喰らい尽くした。

 最後に僕は、バチを逆手に持ち直し、二つの頭蓋骨に振り下ろした。教会のステンドグラスが割れる時には、きっとこんな悲しい音がするのだろう。ロジェとケーリオ先生は、溶けて消え失せた。


 外に出ると、空は白み始めていた。僕は小屋の中に燭台の火を放ち、扉を閉めた。〈霊暗室〉がほどけていく。行き場をなくしていた霊素は、小屋から吹き上げる黒煙に乗って空へと溶けていった。

 首に掛けたロジェの職人票を握りしめる。僕が何を犠牲にして、今ここにこうして立っているのか――それは、僕の罪だ。しかし、そのおかげで、腹の底に凝った渇きは、固く蓋を閉ざされ、僕のために死んだ四人――いや、五人の命が鍵を掛けてくれている。

 ロジェの革袋、そしてその横に差したナイフが、歩き出した僕の血の行くべき道を示してくれている。体にとどまることを覚えた力が、ダヤン家の使命を果たさせてくれるだろう。

 背後の空を振り返ると、頭蓋骨が僕を見下ろしていた。暗い眼窩に赤い光が閃いた気がした。

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