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骨神楽  作者: 鵜川 龍史
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 二ヶ月後、再びロジェが姿を現した。右手に持ったずだ袋を僕の前に放り投げる。全身から熟れ切った柑橘類の臭いが立ち上っていた。

「数日中にここを引き払うことになる。食料を入れておいた。あとは好きにしろ」

「アリアーヌは......」

「連れていくつもりだ」

 甘ったるい臭気が喉をひりつかせる。渇きの感覚が飢えの衝動になめらかに移行する。

「アリアーヌはなんて言ってるんだよ」

「関係ない」

「僕は、関係なくない!」

「いや、お前じゃない。彼女の意志は関係ないって言ってるんだ」

 気づけば右手には一本のナイフが納まっている。皮剥ぎの道具――命を奪う道具だ。喉の奥が唸り声を上げる。

「吸血鬼らしくなってきたじゃないか。父さんの恐怖が、今はっきりとわかったよ」

 前のめりになっていた暴力への意志が、突然の言葉に、鎖で縛られたようにがんじがらめになる。こめかみの辺りが熱く痺れて、膝をついた。叫び声を上げようにも、かすれた呼気しか出てこない。

「なんだ、知らなかったのか。アリアーヌは、本当に隠し通したのか。大した女だ」晶石に照らされた青白い顔が、口元を不気味に歪めた。「母さんは吸血鬼だったんだよ」

 飢えが渇きの中に飲み込まれ、その渇きは自己嫌悪へと溶け出した。母さんの首を下げた父さんの影が瞼の裏で明滅し、僕の首を下げたロジェの肉体へと移ろう。

「だから、ジョエル、お前には何の罪もない。その渇きは、母さんの血の証だ」

 兄さんの悲痛な表情が、決意に取って代わる。僕の目の前にしゃがみこむと、腰に下げていた革袋を下に置き、中に左腕を差し入れた。次いで、ナイフを握った右手が、左腕を縦に切り裂いた。奥歯がぎりぎりと鳴り、苦悶のうめきが地響きのように部屋を揺らした。人間の血の匂いが倉庫中に広がり、僕の意識が何かを置き去りにしようとしたが、ロジェの瞳が――母さんと同じ栗色で、もちろん僕とも同じだ――つなぎ留めた。

「世界を回れ、ジョエル。きっと、吸血症にも向き合うための手立てがあるはずだ」

 ロジェは縄を取り出すと、傷の上部を縛って止血した。革袋を締め、僕に差し出す。

「母さんの時のことを覚えているだろう。この血は、お前が本来、手にして生まれるはずだった力を取り戻すための鍵だと思う」

 嵐の後の凪の中、渇きという小舟はどこに進む意志も失ってしまった。それでも、僕は両手を伸ばして、その革袋を受け取った。闇夜に浮かぶ星を捕まえるように。

「じゃあな」

 そしてロジェは消えた。数時間後には、金属と金属が断続的にぶつかり合う音が聞こえてきた。マレが戦場になっているのだ。息をひそめているうちに、夜が更け、朝が来て、それを繰り返しているうちに、鐘の音は聞こえなくなった。教会は――ケーリオ先生はどうなったのだろうか。一方で〈黒猫と金魚〉亭の中に踏み込んでくる者はいないらしく、天井の上は至って静かだ。まだ、町はずれまで戦火が拡大していないのだろうか。それとも、戦況はいまだに全面的な展開に至らず、個別的な戦闘が局所的に発生しているだけなのかもしれない。

 ロジェはアリアーヌと去ったのか。少なくとも、その日以降、アリアーヌは姿を見せなかった。

 ロジェの残した革袋は、口にすることは出来なかった。何度も渇きに飲まれそうになったが、そのたびに、ロジェの血の臭いが、兄さんの覚悟と思いが、そして母さんの血を口にしたあの日の後悔が、僕を正気に引き戻した。残ったわずかな骨粉を使って、腐敗止めの術を施した。この先、本当にロジェの言うように、僕が世界を旅する時が来たなら、この革袋が僕を人間に引き留めるお守りになるだろう。

 それから何日が経ったのだろう。十日から先は数えられていない、という話はしたのだったか......。

 アルドワン正規兵の死体で渇きを満たした僕は、喉をすっきりさせたくてカウンターの奥を見るが、酒瓶はことごとく持ち去られ、残されていたのは割れた素焼きのマグだけだった。改めて店内を見回す。ひどいものだ。殺すことだけを目的に殺害された体は、本当に単なる肉の塊に過ぎない。それにしても、誰が首を持ち去ったのか。一兵卒の首などいくらにもならないだろうに。それとも、名のある将が混じっていたのか。いや、それならば、アルドワンと帝国、双方の首が持っていかれているのはどういうことだ。誰か、一人でも首が残っていれば、そいつに聞いてみることもできたのに、と上着の隠しに入っているバチを探る。

 その時、妙な考えが頭をよぎった。

 〈霊子〉を呼び出すために、頭を持って行ったのでは......。

 遺体を避けて、フロアを歩き回る。机も椅子も、柱も床も、血だまりと剣の傷ばかり。一つだけ壊れずに残っていた椅子を立て、腰を下ろして腕を組む。当然の疑問だ。そんなことをするには――できるのは、誰か。

 ケーリオ先生――先生が生きていると信じたい。しかし、時を告げる鐘はもう聞こえない。もし、生きていたとして、この町にいることはないだろう。逃げていてほしい。どこか、安全な場所に。

 それなら、他に誰が――。

 アリアーヌ。

 腰に下げた革袋を握りしめる。ロジェがああまで言い切ったのだ。アリアーヌがこの町に残っていることは、あり得ない。

 独り言ちながらも、僕は再びアルドワンの若者の遺体の横にしゃがみ込んでいた。首の切断面のところに顔を寄せて目を閉じる。死んだはずの体から立ち上る熱気を感じる。――血だ。小さなころから、ずっと僕の暮らしの隣にあった、気がつけば僕の体の中が渇望するようになっていた、血だ。

 そして、その奥に、かすかに残っているあの匂い。

 ケーリオ先生の、あの部屋の、僕に今を生きながらえる道を与えてくれた、甘く熟れ切った柑橘類の匂い。

 銀髪のアリアーヌの、〈黒猫と金魚〉亭のアリアーヌの、母さんのように僕の上に君臨するアリアーヌの――アリアーヌと、ロジェの。

 ゆっくり目を開ける。形を与えられる前の霊素が部屋中に満ちている。手を伸ばせば、風のように辺りを飛び回っているのを感じられる。この薬品は、現世の輪郭を曖昧にして、霊素の実体化を促す。だから、遺体を解体する時に用いることで、〈霊子〉を定着させながら、頭蓋骨を切り離すことができる。ケーリオ先生のくれた本の中に書かれていたことだ。だからもちろん、体の方に残っている霊素は、そのままここに留まり続けている。

 僕はバチを取り出し、その先端で戯れる霊素の姿を感覚する。若い兵士の腕鎧をずらして肘を露出させる。皮膚のすぐ裏側にある骨の存在を確かめ、バチを振り下ろした。

 くぐもった骨の音が〈黒猫と金魚〉亭の一階に響き、驚いた霊素が自分の遺体に還っていった。この兵士の霊素もぶよぶよとした煮凝りの層のように、体の周りに集まった。頭蓋骨の反響音が生み出す〈呼唖(コア)〉を媒介にしないと〈霊子〉へと結晶させることはできない。それでも、骨の奏でる音は、仮にそれが皮膚に覆われているせいで本来のきらびやかな響きを失っているとしても、霊体に働きかけることができる。

「君たちの〈呼唖〉はどこへ行った。僕をそこへ導いておくれ」

 切断面をバチでなぞり、そこに塗布された薬品と兵士の血を掬い取り、水あめを絡めとるように霊素の層を巻き上げていく。三年間の修練の賜物だ。

 霊素はバチを引っ張り、扉の外へと導こうとしている。僕は自分が裸足であることを思い出し、兵士の靴を拝借した。僕の足は痩せ衰えているはずなのに、ぴったりだった。

 裏口の扉を薄く開けると外はまだ明るく、日の傾き具合を見る限り、日の入りまで三時間といったところだ。職人街の方角に意識を集中すると、鎧を着こんだ人々が忙しなく動き回っている音がした。戦いの音はないが、職人達の労働歌も聞こえない。アルドワンの兵士であることを願いたいが、帝国兵の可能性の方が濃厚だ。だとすれば、職人たちはどうなってしまったのか。

 ダヤン家が受けてきた仕打ちを考えれば、彼らの死を願ってもおかしくはない。それでも、そんな想像をしたこと自体に恥じ入ってしまうほど、僕にとって職人街の職人たちは大切な日常だった。鎚の音も炉の火の熱気も、油の臭いも野太い歌声も――腹の底に、渇きとは違う飢えた怒りが湧き上がってくる。そうやって、奪われていくんだ。僕は警戒心を新たにし、日の暮れるのを待つことにした。

 夜になれば、誰かが酒やなんかを求めてやってくるかもしれないと思ったが、結局誰も来なかった。もちろんアリアーヌに代わってもてなしてやろうなどと考えたわけではない。しかし、ここに人が来れば、少なくともこの町を自由に闊歩しているのが、どちらの勢力なのかがはっきりすると思ったのだ。

 表口の扉を開く勇気はなかった。誰かに見つかることを怖れたわけじゃない。〈黒猫と金魚〉亭の正面口からは、うちの工房が見えるのだ。かつて僕たち家族が幸せに暮らしていた場所が、他の人のものになっているのは、さすがに耐えられない。

 再び裏口をゆっくり開けると、入り込んできた夜気が頬を撫でた。その冷たさに冷静さを取り戻した僕は、改めて路地裏に踏み出したが、その瞬間、鼻孔から這入りこんできた死の臭いに目の奥が痺れた。ポケットの奥から弱り切った晶石を引っ張り出し、おぼろげな光を路地に向けると、点々と死体が転がっていた。腐敗している。一番近い死体に近寄ってみると、これも首無しだ。確かめるまでもなく、これは飲めない。指先に付いた血をなめることもできない。よく見ると、胸元が大きく開いたワンピースで、これは娼婦に違いない。先に転がっているのも、同じような恰好をしている。せっかくのごちそうだが、こちらもまた腐敗が進行している。渇きが腹の底に降りてくる。左手が革袋を探ろうとするのを右手で制した。

 僕は吸血鬼じゃない。人間だ。

「ひでえな、こりゃあ」

 夜の街に響く低くて重い声。とっさに晶石をポケットに戻す。建物を隔てた向こう側だ。巡回の兵士か。帝国訛りがない。思わず安堵の吐息が洩れる。表に回ろうと、家屋の横の細道に足を踏み入ると、怯えた声が聞こえてきた。

「覚えてるか、首無し殺人のこと」

「ああ、三年前だろ。うちの父方の祖父が、バラデュール家と取引があって、実は何度か会ったこともあるんだ。あの生意気な坊主に」

「そいつは気の毒に」

「ああ。まったくだ。どんなに生意気だって、人間の命の価値は減ったりしない」

「まだ、犯人探しは続いているのか」

「知らない――知らないが、もう三年だ。続いていたとしても、犯人は挙がらないだろう」

「でも、この死体は」

「確かに、あの坊ちゃんと同じ首無しだな。首喰いの化け物でもいるのかね、このマレには」

 死体を振り返る。やったのは僕じゃない。僕じゃないけど――。

 「化け物」という言葉が夜気に染みついた腐臭をまとって、僕の中の渇きに働きかけてくる。次第に早まっていく鼓動が、耳元で聞こえる。渇きをねじ伏せようとするが、慣れない道具を使っているみたいでうまくいかない。僕は狂ってしまった。「首喰いの化け物」だ。

 そうだ。僕の目はおかしい。だいたい、死体を、飲めるか飲めないかで判断しているのは、普通じゃない。だとすれば、僕はもう後戻りできない一線を、とっくに超えてしまっていたということだ。

 熱くたぎっていた渇きが、急に冷え固まるのを感じた。かといって、渇きが消えてなくなったわけじゃない。踏み固められて、その上を馬車で疾走できるようになった、とでも言えばいいのか。僕は巡回の兵士の声を無視して、再び裏路地を振り返る。晶石の光がなくても、道の先までよく見える。僕の目は、そういう目になっていたのだった。そして、視界に入る限り、女性の遺体は続いている。まっすぐ行けば娼婦街だ。行ったことはないが、〈黒猫と金魚〉亭で客を取った娼婦が、裏口からこちらの方向へ消えていく足音を、これまで無数に聞いてきた。

 上着の隠しからバチを取り出し、霊素の引き寄せられる先を確かめる。分かり切っている。死体は餌だ。兵士の〈呼唖〉はこの先にある。罠だと分かっていれば、僕にもできることがある。革袋越しにロジェの息吹を感じとる。僕には味方がいる。

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