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マレの町始まって以来の陰惨な殺人事件の余波は、被害者がバラデュール家の跡取り息子ということもあり、町を挙げての犯人探しが過熱したが、アルドワン領は隣国との戦況が芳しくなく、バラデュール家の財力をもってしても応援を集めるには至らず、ひと月と待たずに忘れ去られていった。
同時に、その事件と前後して姿が見られなくなっていたジョエル・ダヤン――すなわち、この僕――を疑う声も上がらないではなかったが、昔からバラデュール家と職人たちは反目しあっていたため、ことの追及はうやむやに済まされた。
ケーリオ先生だけは、僕が犯人だと分かったはずだが、僕の無事を祈ってか、自己の保身のためか――僕の吸血症を知りながら、積極的に生存を手助けしたことが明らかになれば、異端審問にかけられないとも限らない――口を閉ざしていたようだ。
その日から、僕は工房の地下で生活することになった。先生からもらった本を頼りに、自分の吸血症と向き合う日々だ。骨粉に呪素を加えるだけの簡単な魔術で晶石を作り、天井からぶら下げた籠に入れる。その下に、木箱をひっくり返して置き、『吸血鬼の生態と対応』を広げる。表題こそ共通語で書かれていたが、所収されている文章には北方特有の表現が多く、辞書がなくては分からない部分がいくつもあった。それでも、全体的に図や表が多く、大意を把握することはできたが、その中に僕の助けになりそうな情報は見当たらなかった。
問題は僕にまつわることだけではなかった。
工房もまた危機に立たされた。僕の責任ではない。兄は、技術的には優れた職人だったが、奉公人を従えるには若すぎた。父さんを頂点に据えた三角形は台形になってバランスを欠き、働き手は一人また一人と減っていった。そのたびに、仕事としてこなせる総量は減り、職人組合から改善通告が申し渡されたが、それに対応できるはずがないことは組合も分かっているはずだった。職人街として必要な加工済み皮革の、まずは半量、やがて四分の三が、近隣の町からの輸入に頼るようになった。そうなってくれば、もはやダヤン家の皮革にこだわる理由はない。ましてや、妻殺しで処刑された父親と失踪した次男が残した家に掛ける同情など微塵もなく、ロジェは程なく職を失った。
それでも、ロジェの技術があれば、腕を磨きながら諸国を遍歴することも可能だったはずだ。兄さんがそれをしなかった理由ははっきりしていた。だからこそ、僕は僕を許せなくなっていった。
事件から半年後、兄さんは家を売った。正確には、組合から接収された。貴重な工房としてのスペースを遊ばせておくわけにいかないというのが表面的な主張だが、裏でどんな力がかかったか分かったものではない。この町に、ロジェを助けてくれる人はいなかった――たった一人を除いて。
家の向かいの細い路地を少し入ったところに、〈黒猫と金魚〉亭という酒場があった。場所柄、娼婦が客を取りに来たり、純粋に酒に酔いに来たりする店で、主人はアリアーヌという女性だった。年は母さんより少し若いぐらいだったが、輝く銀髪を腰まで伸ばし、陽射しの下で光を放つその姿は、既に〈霊子〉のようだった。彼女には魔術の心得があり、僕の作った骨粉の卸先の一人だったし、もとをただせば、僕の骨粉づくりはアリアーヌの手ほどきによって身につけられたものだし、ロジェにケーリオ先生のことを教えてくれたのも、実はアリアーヌだった。
彼女がどうして、僕たちに良くしてくれたのかは、分からない。父さんと何か関係があった様子は、子どもながらに分からなかったし、母さんと友人だったわけでもなさそうだ。ロジェに、この点を聞いてみたことがあるが、いつでも芳しい答えは得られなかったし、この話を持ち掛けるとロジェは必ず不機嫌になった。そのうち、僕はこの話をしなくなった。
組合の人間が、工房の道具を差し押さえに来た日の夕方、アリアーヌがうちの扉を叩いた。
「男手がなくて困ってるの。うちに来てくれれば助かるのだけれど」
いつものあの鼻にかかったかすれ声は、床下にいてもよくわかった。僕はその瞬間、一人で生きていくことを覚悟した。にもかかわらず兄さんは、
「弟がいるんです。この、下に」
僕は兄さんに守られて生きていくしかない。それはとてもありがたいことだが、兄さんが守ろうとしているものが何なのか、たまに分からなくなる。僕なのか、それとも僕からこの町を守ろうとしているのか。
僕の事情をロジェから聞いたアリアーヌは、取り立てて驚くこともなかったどころか、吸血症のことをよく知っており、『吸血鬼の生態と対応』の上に、北方言語の辞書と、『吸血症研究』と書かれた本を重ねてくれた。バスチアンの事件のことを知らないはずはなかったが、話には出なかった。僕の知らないところでロジェに言い含められていたのかもしれない。
酒場の地下倉庫は、工房の地下よりずっと居心地が良かった。広かったし、天井の上から聞こえてくる娼婦たちの嬌声は、そういうことに興味を持ち始めた当時の僕にとって、数日おきにやってくる夜の渇きを紛らわせるのにちょうどよかった。
そう、その頃にはもう、第三段階から第四段階への階梯を上り始めていたのだ。
アリアーヌは日に三度、食事を持ってやってきた。目を射抜く銀髪も、薄暗がりの下では夜の海のような灰色になり、僕は母さんの髪を思い出した。週に一度は湯を使わせてくれたし、寝具が余っている時には、清潔な寝床も用意してくれた。酒場の二階は宿になっていた。
アリアーヌはケーリオ先生のことも思い出させた。あの、熟れた柑橘類のような甘さと酸味の入り混じった臭い――アリアーヌも骨相学に造詣が深く、若い時はケーリオ先生と机を並べて学んだこともあるという。
「でもね」
と、淋しそうな表情で目をそらす。それが男女のことに関わるように思えたのは、僕自身が色恋沙汰に興味を持ち始めていたからなのか。ケーリオ先生は――もちろん先生としては素晴らしいし、宗教者としても尊敬しているが――とても女性が興味を持つタイプの人間には見えなかった。痩せていて背が高く、牛追いの竿みたいだった。薄い唇は神経質を絵に描いたようで、早口で唾をよく飛ばした。バスチアンたちは、そんなケーリオ先生のことを陰で馬鹿にしていたが、そのことを知りながらも分け隔てなくみんなに接する姿は、神さまなんていうどこにいるか分からない存在よりも、教え導く存在として信じられる人だった。
いや、もし、アリアーヌがそれでもケーリオ先生に好意を持っていた過去があるのなら、もしかしたら。
ますます痩せ衰えていく体を見ながら、僕は自分の人生の可能性を夢想する。そして、いつでも最後にはアリアーヌのイメージが母さんに重なって、手慰みの自己嫌悪に堕ちていくのだ。
「ねえ、バスチアン・バラデュール。未来の僕は、君のところからはどう見える?」
白くて美しい頭蓋骨を奏でながら、〈霊子〉に語り掛ける。小さく虚ろなバスチアンは、いつでもゆらゆら揺れるだけだった。
そんな宙づりで平穏でみじめな日々は、二年間続いた。アリアーヌの持ってくるご飯はいつでも母さんの味を思い出させたし、ロジェの腕は見るたびに父さんに近づいていった。月の半分は、近在の町に出向いて職人としての腕を磨いているようで、首にかかったチェーンには見たことのないタグが一つまた一つと増えていった。
「僕の首には何もかかっていない」
「賞金がかからなくてよかったじゃないか」
冗談とも本気ともつかない言葉を返すロジェは、厳しい表情をすることが増えた。体を鍛えようとしたこともあったが、力がつくどころか、夜の渇きがひどくなった。ロジェの持ってきてくれるのはもちろん動物の血で、感謝の言葉を口にしながらも、それが渇きを癒してくれることはほとんどなくなっていた。
『吸血症研究』には、吸血症の段階がもっと細かく書かれていた。そのおかげで、僕の状況が着実に、一歩一歩悪化していることがよくわかった。全くありがたい本だ。
その一方で、アリアーヌは時々人間の頭蓋骨を持ってきた。そんな時には、必ずあの腐敗した柑橘類のような臭気を漂わせていた。彼女がそれをどこから手に入れてくるのかは知らないが、僕は指示に従って骨粉にするだけだ。
一度だけ、アリアーヌの目を盗んで〈霊子〉を呼び出したことがあった。骨が奏でる金属的な音が、空気中に溶け出した霊素に波を引き起こし、頭蓋骨の内部に結晶させる。しかし、その時生まれた波に不協和な音が混じっていたことを僕は聞き逃してしまった。生前、罪科を背負った人の骨は、その内部に歪みを持つ。結果、通常の精霊術では歪みを歪みのままに結晶化させてしまい、〈歪人〉と呼ばれる悪性化した〈霊子〉を生み出してしまう。
頭蓋骨の中に、いつもと違う赤黒い結晶の渦が生まれ、狂暴な二つの赤い目が中心に浮かんだ。それを見た瞬間、僕の深奥にある力――渇きと共にやってくる、吸血症の力――が溢れ出し、そいつの中へと吸い込まれていくのが見えた。この力が奪われれば、僕は普通のアルドワン人になれるのでは、という考えが浮かんだが、僕を睨み付ける赤い目がその力で次にやることを想像すれば、それがあまりにも馬鹿げた考えだということはすぐにわかった。
僕は、麻袋から頭蓋骨を取り出し、バスチアンの〈霊子〉を呼び出した。僕ともこの部屋とも共振の度が高いので、たった一打で青白い炎がきれいな新円を描き、バスチアンを顕現させた。
「バスチアン・バラデュール! あの〈歪人〉を消滅させて!」
いつでもゆらゆら揺れているバスチアンだが、この時は違った。僕の命令を聞くまでもなく、この部屋に巻き起こる大渦の中心に異形の悪を感じとっていた。次の瞬間、耳の奥を叩くような破裂音をさせたかと思うと、バスチアンの頭蓋骨は霧となり、〈霊子〉は〈歪人〉に激突した。もう一つの頭蓋骨にひびが入り、部屋中を覆っていた不快な低音が消え、最後にバスチアンの光がひと際大きく輝いたかと思うと、僕の体をも吹き飛ばす衝撃波と共に、部屋から消え去った。
バラバラになった木箱の中から体を起こすと、そこにはアリアーヌが立っていた。その無言の叱責は――無言である理由こそ違え――母さんそのものだった。母さんは、僕の吸血症を恐れていた。きっと、僕の中の力がいつか人を傷つけるということを感じ取っていたのだ。一方、アリアーヌの無言は、僕と彼女の関係に根ざしている。僕はひたすら平伏し、二度と分を超えたことをしないと誓った。
数日後、ロジェが食事を持って降りてきた。これは珍しいことだ。アリアーヌがどうかしたのか聞くと、ひどい疲れで眠っているという。僕は眉をひそめた。
「その臭いはどうしたの」
「死臭がひどいか。近頃、仕事が忙しくて」
「違うよ。アリアーヌと同じ臭いがしてる。骨を精製する時に使う、特殊な薬品の臭いだ」
「......気のせいじゃないか」
何も妙なところはないはずだった。もし、兄さんがアリアーヌの仕事を手伝っているとしても、それはおかしなことではない。それなら、どうして兄さんはとぼけたのか。
「アリアーヌの様子を見ないと」ロジェは視線を逸らしたまま立ち上がった。「食べ終わったら、置いといてくれ」
僕はそれ以上の追及をやめた。仮に、ロジェとアリアーヌが男女の関係になっていたとして、僕には関係のないことだ。
いや、ロジェから薬品の臭いがしただけで、どうしてそんなことまで考えるのか。
この状況がよくないのだ。夜ごと娼婦の声と吸血の渇きとの板挟みになっているこの状況が。アリアーヌは恩人だ。そんな汚れた目で見るなんて間違っている。仕事がしたい。骨を削るのではなく、僕の腕に、肉体の力に還元されるような、そんな仕事がしたい。僕はいつまでロジェの背中に隠れていなくてはならないのだろうか。




