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三年前、僕の吸血症は日常生活に影響を及ぼすほどのものではなかった。そもそも、その対象は人血である必要もなかったし、動物の血なら僕の父さんの仕事柄いくらでも手に入った。
首都アルドワンから南に三日ほど下ったところにあるマレは、古くから交易の要衝で、商業を中心に栄えた町だった。それが五十年前、アルドワン領の南端の港湾都市メサジェと首都を結ぶ街道が整備され、マレを通過する商品が激減した。その一方で、東方の鉱山からの物資はマレを通る以外にアルドワン入りする経路がなく、結果として職人街を中心とした裏通りの活気がマレのすべてとなった。
父さんは皮革加工の職人で、動物の皮剥ぎを主に請け負っていた。絶えず血の臭いの漂う仕事場のせいで工房兼住居は町はずれに追いやられていたが、僕もロジェも父さんの仕事を誇りに思っていた。僕と違って力の強い、理想的なアルドワン人のロジェは、僕がまだ言葉も話せない時から皮剥ぎの手伝いをしていた。だから、仕事のきつさに音をあげた徒弟が急に顔を出さなくなっても平気だった。いなくなった徒弟の分、兄が働くだけだ。
僕は、筋肉のつかない腕を憎んだ。
唯一、手伝うことができたのは、骨粉づくりだ。動物の処理の過程で、最終的に骨だけが残った場合、それは呪術師や魔導士の触媒である骨粉の材料となる。力が要らない代わりに、手先の器用さと正しい知識が必要だ。ロジェは、僕を教会学校に通わせた。それこそが僕の生きる道だと示さんばかりに。
正直、学校は楽しかった。特に、骨を霊媒とする精霊術は、骨を用いた音楽的な儀式を実践することが多く、一番のお気に入りだった。骨の甲高く澄んだ音は、教会の中ではより静謐に感じられ、〈霊子〉が現れなかったとしても、僕の胸の中に神聖な力が流れ込んでいくだけで満足だった。そして、学校は授業がすべてだった。そこに通ってくる子供たちは、当然のことながら、仕事をする必要のないやつばかりで、僕のような、職人街の、しかも町はずれに追いやられた賤しい家の人間は、やつらには同じ生者として見えないらしい。骨を叩くためのバチは格好の得物で、僕の頭蓋はいい実験道具に見えるようだが、やつらの下手くそな精霊術に付き合うつもりも、僕自身が〈霊子〉になってやるつもりもなかった。
その日は、春の終わりとは思えないくらい暑くて、南からの強い風に乗ってやってきた湿気が町中のみんなを苛立たせていた。とりわけ、商業都市時代に財を成した成金名家バラデュール家の一人息子バスチアン――太っているくせに、いつでも襟の高いシャツのボタンを上まで留め、自慢の翡翠のチョーカーは首に食い込んでいる――にとってはめまいがするほどきつい一日で、暑さの理由を僕のせいにして気を紛らわせようとしていた。さすがに命の危険を感じた僕は、教会堂の奥にある一室に隠れてやり過ごすしかなかった。その部屋は、骨相学全般を専門としているケーリオ先生の倉庫にもなっていて、二百を超える動物の様々な部分の骨が保管されている。いつもの、熟れ過ぎて潰された柑橘類のような強い臭いが、この日の気温の高さでさらに霧のように立ち込めていた。その中には、骨格標本として組み立てられていながら、とても現世の生き物とは思えないおぞましい姿のものもいる。その背中に生えた翼の部分が藁のように細い二本の骨で構成されている様子を見ていると、僕の細い腕にも空を飛ぶ力があるのでは、なんていう空虚な夢に浸ることができた。
教会を出ることができたのはケーリオ先生が夕刻の鐘を鳴らした後で、その時間になると風も少し収まり、伸びた影に寄り添う涼風に汗を乾かした。職人街は、炉に火が入っている工房では、忙しく鎚を揮う音に合わせて勇ましく楽しげな歌声が響いていたが、多くの家からは肉の焼ける匂いが漂ってくる。うちが回した肉かもしれない。皮剥ぎの棄て肉を食べることは教会が禁じていたが、職人街では誰も守らない。もしそうならうちも今日は......と思い浮かべるだけで涎が出てくる。血を楽しむには生が一番だが、油を味わうには火を入れた方がいい。どちらがいいか悩みながら家の扉に手を掛けた時、後から思えば、もう何か変だという予感はしていたのだ。ただ、そんなことに気を回せるほどに、腹具合に余裕はなかった。
扉を開けた瞬間、ロジェが飛び出してきて、僕を地面に組み伏せた。兄さんの太い腕が首元を押さえつけている。押し返す力はない。全身から抵抗する意欲が消え失せると同時に、ロジェはそれが僕であることに気づいた。
「ジョエル......。ジョエル!」
薄れゆく意識の中、抱き起された視界の向こうで、開け放たれた扉の先で、作業台の上から投げ出された二本の脚に目が釘付けになる。僕が小さい時にスープをこぼしてできた左腿の火傷の跡、右足首に巻かれた不格好なテントウムシのアンクレット――去年、僕が屑鉄を使って作ったものだ――どちらも、それが母の脚であることを示していた。指先の血が薄まっていく感じと共に、猛烈な渇きの感覚が喉を支配する。僕はロジェをはねのけ、床に転がっていた金槌を拾い上げると、母の横に立っている人影に襲い掛かった。しかし、僕の腕が届く遥か前で、背中からの衝撃に再び床にのされた。今度は、僕だとわかった上で、兄が僕の右腕を背中に押さえつけ、金槌を奪う。力が足りない。
「ジョエル。待て。待て! 仕方ないんだ。分かってくれ」
無理やり顔を上げると、人影の右手に灰色の包みに入った丸い塊が握られているのが見えた。下からは水が滴っていて、ビロードのような包みも全体に湿っている。いや、よく見るとそれはビロードではなく、細い毛のまとまりであることが分かる。手に握られている部分は、房のようになって広がっている。
あれは、水じゃない――再び僕の心の奥底から、切実な渇きの感覚が脳天に向かって突き上げてくる。ロジェの押さえつける力が増す。額の中心が痺れてきて、血が猛烈な勢いで失われていく。
「父さんは悪くない! 母さんは仕方なかったんだ」
父さん......。
そうか、母さんの首を持っていたのは父さんなのか。
そこで僕の記憶は終わっている。
次に僕が意識を取り戻した時には、ベッドに体を縛り付けられていた。とはいえ、縄は腕や足首に食い込むほどには絞められておらず、それがロジェの優しさなのか後ろめたさなのか、あるいは僕の力に対する余裕から来るのか、分からなかった。それに、そんなことよりも、僕の中に渦巻いていた渇きが消え去っていることの方が気にかかった。口の中、喉の奥の様子を確かめようと、唾液を舌で探るが、血の痕跡は感じられない。
しかし、この胸の平穏さは、間違いなく吸血の後のものだ。
「すまない。そんな風にしてしまって」
扉を開けて入ってきたロジェのランプが僕の瞳を射抜いて、思わず悲鳴を上げた。その時まで、この部屋が真っ暗だったということに気づかなかった。
「お前自身も戸惑っているだろう」
前置きをしながら、ロジェは少しずつ話し始めた。
僕が肌も髪も真っ白になって気絶したこと。動物の血を与えても、様子が変わらなかったこと。突然、動き出し、床の血だまりを啜り始め、しばらくすると、肌の血色が戻ってきたこと。それでも、髪は白いままだったこと。
「どのくらい、こうしてるの」
「丸三日間」
「その間、血は?」
「何もしてないよ。飲まず食わず」
「ということは、少なくとも、三日間は吸血しなくて大丈夫だ、ってことだね」
「それはどうだろう。......実は、ケーリオ先生に相談した」ケーリオ先生だけは、僕の吸血症のことを知っている。だから、教会学校でも気にかけてくれている。「吸血鬼化した人の中には、三百人の村を一晩で全滅させたなんていう人もいるらしい。渇き、とは関係なく、ね」
今までは、空腹や喉の渇きの感覚と同じだった――この前の衝動とは、別。
「この前は、渇きが抑えられなかった。止めようと考える前に、体が動いていた」
「筋力が増していたのも気になる。もし、これが症状の進行とともに変化する、っていうなら、そのうち俺の手にも負えなくなる」僕の表情が曇ったのに気づいたのか、努めて明るい声を装って「と言っても、これが本当に吸血鬼化の兆候かどうかもわからないんだ。ケーリオ先生は、あまり拙速な判断はよくないって言ってた。とりあえず、動けるようになったら、学校に来いって。会ってから今後のことを考えよう、ってさ」
僕が心配しているのは、そんなことじゃない。どうしてロジェは、父さんと母さんのことを話さないのか。
「それは、タグ? 父さんの?」
ロジェの首に鈍く光っているチェーンは、父さんがかつて使っていたものと同じものに見える。マレの職人組合は、それぞれに職人票を与えて、人数や仕事量のバランスを調整している。ロジェの見習い票は、革紐で掛けていたはずだ。
「工房は俺が引き継いだ。......父さんは、死んだ。殺した」
処刑したんだ。家族の不祥事は家族で、というのが、この町のルールだ。それなら、父さんの罪状は。
「つまり、それは」
「妻殺しだ――父さんが母さんを......」
気付けば吐いていた。言葉にされるまで、そうではないと思い込もうとしていただけのこと。僕が啜ったのは、母さんの血だった。それなのに、いくらえずいても、胃の腑の底にこびりついた気持ち悪さは剥がれ落ちてくれない。手首に縄が食い込み、ベッド全体が軋みを上げる。ロジェがランプを掲げ、僕は再び悲鳴を上げて顔を逆向きにする。
「母さんは、仕方なかったんだ」ランプを床において、ベッドの汚れを拭いてくれる。
両親を一度に亡くしておいて仕方なかった、では済まない。が、その時の僕にはその問題を追究する気力も、理解する余裕もなかった。ロジェも、それ以上は何も言わなかった。ランプに照らされた影が、壁の上で怪物じみた踊りを披露していた。僕の中に産まれた衝動は、きっともっとおどろおどろしい姿をしている。
そのさらに三日後、縄を解かれた僕は、腹の底をしっかり縛り付けて、ケーリオ先生の元へ向かった。やつらとの接触を避けて、夕刻の鐘を待って家を出た僕は、職人街の人々の好奇と憐れみの視線を感じた。それが、両親の末路に対するものなのか、それとも僕の新しい状況を知ってのことなのかは分からなかったが、誰ひとりとして話しかけてこようとしないばかりか、目を合わせもしないことには、少なからず傷ついた。挨拶の声を掛けようとすれば、あからさまに視線を逸らしたり、工房の奥に姿を消したりした。
夕日を背にして輝く教会の入り口で、ケーリオ先生は雑草を抜いていた。丸めた背中は小さく、青い法衣も輝きを失っているように見えた。僕は責任を感じた。声を掛けるかどうか戸惑っていると、先生はおもむろに立ち上がり、背筋を伸ばして振り向いた。
「墓に行くかい」
父さんの墓はなかった。妻殺しに天国は開かれていない。母さんの墓はあった。ロジェだろうか、黄色い花弁の小さな花が添えられている。父さんが何を理由にして母さんを殺したのかは分からなかったが、少なくとも、母さんは天国に行く資格を失うようなことはしなかったということだ。ほっとしながらも、僕自身はと言えば、墓石ではなく、土の上から視線を外すことができなかった。
「会いたいんだろう。話がしたいんだろう」
うなずく必要はなかったし、うなずいたところでそれは叶えてはならないことだった。
「それは邪法だ。確かにお母さんの頭蓋骨を使えば、その〈霊子〉を呼び出すことはできる。しかし、それは君の人生を闇に満ちたものにしかしないし、何より、お母さんの死後の安らぎを奪うことにもなる。分かっているな」
手と法衣をはたきながら、ケーリオ先生は教会の扉を開いた。僕は教会のこの瞬間が一番好きだ。正面のステンドグラスから降り注ぐ光が、祈祷台までの絨毯を虹色に輝かせる。その上を歩いているだけで、自分が祝福の中で守られていると思える。そして、母さんはこの光の中を天上へと昇っていったのだ。
ケーリオ先生の私室に案内された僕は、温かいミルクを飲みながら、いくつかの質問に答えた。見たことのない赤黒い革装の本を覗き込みながら先生は、吸血症の第三段階「専ら人の血を好み、時に衝動的にこれを欲するが、人間を積極的に襲うことはない」状態だろうと言った。先生の目は、努めて冷静さを装っているものの、その奥に不安の火が揺らいでいるのが分かった。
「次の段階は?」
「『定期的に人の血を必要とし、衝動を抑えきれない場合には、人間を襲うことがある』んだそうだ。まるで、人間じゃないみたいな書き方だ......」
先生は冗談交じりに笑い飛ばそうとしたのだろうが、その言葉が僕の上に与えた影響に気づいたのか、最後は声にならず、奥歯を鳴らすだけだった。
そう。僕は人間ではなくなり始めている自分に、この時すでに気づいていたのだ。
僕は自分から退学を申し出た。ケーリオ先生は、僕の才能を惜しんで、骨相学や骨性精霊術の専門書を何冊か持たせてくれ、最後に、それらの本の上に、先程の革装の本を重ねた。そこには共通語の飾り文字で『吸血鬼の生態と対応』と書かれていた。その一冊が他の学問の可能性を押しつぶしているみたいだ。
先生にもらった麻袋に本を入れて教会を出る頃には、既に夕日の姿はなく、空の縁は鬱血したように紫がかっていた。背後から夜の鐘が不気味に響き、一日の仕事の終わりを命じる。墓地の脇にある小屋には火が灯り、視線の先では夕餉の煙が僕の帰路を曇らせていた。だから、職人街へ向けて折れる四辻で、突然名前を呼び止められた時には、本当に驚いたし、その焦りと恐怖が仮に僕の中の攻撃性に火を付けたのだと言えば、特殊なこの状況を知らない人なら信じてくれたかもしれない。
でも、意識が僕の手に戻ってきた後、目の前に広がっていた景色は、僕自身ですら、もはや自分の人間性を信じられなくなるほどだった。
死体はバスチアン・バラデュールのものに間違いなかった。彼がいつも自慢していた、魚をかたどった翡翠のチョーカーがそこに転がっていたから。と言っても、首から引きちぎられたわけではない。首が体から取れてしまったから、引っ掛かりを失ったのだ。
僕は首を探した。誰か来るかもしれないという恐怖よりも、その首を僕がどうしたのかが不安だった。
辻の隅に、ケーリオ先生からもらった麻袋が、ぼろをまとった人のようにうずくまっていた。よく見ると、その下が真っ赤に湿っている。見ているうちに赤い染みが袋の横まで広がっていく。袋を掴むと一目散に逃げだした。重さのことは考えないことにした。それよりも、喉に広がる焼けるような渇きの方が心配だった。