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骨神楽  作者: 鵜川 龍史
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 床が濡れているのは、こぼれたワインのせいではない。天井から滴り落ちてくるのは、同じ赤でももっと馴染み深いものだ。

 ロジェが――最後の家族である兄が帰ってこなくなってから、十日までは数えられた。そこから先は、鐘の音が戦いと混乱の音に取って代わり、どこが一日の切れ目なのか分からなくなってしまった。足元だけを照らし出す晶石の光も、気づけばその深奥にうす曇りが差し、一日と待たずに魔力切れになってしまうだろう。

 何より、空腹だ。ロジェの残していった食料だけが命の綱。干しブドウをちびちびかじりながらしのいできたが、それも今口の中にある一粒が最後だ。強い酸味にもかかわらず、唾液がうまく出てこない。喉が張りついて息が苦しい。

 天井を見上げ、晶石の蒼褪めた光を向ける。照らし出された雫が、赤く糸を引いて落ちてくる。その度にか細い音を部屋中に響かせる。両手の平をそろえて遮り、それを口元に運ぶ。生臭さに吐き気がこみ上げるが、無理やりねじ伏せる。と言っても、吐くようなものは胃の中には何もない。

 一滴、二滴――足りない。渇きが波になって押し寄せる。

 耳を澄ます。剣と盾のぶつかり合う音、怒号、罵声、馬の蹄の音......。何か、戦いの兆候を示すものがないか。帝国とアルドワン領の間の休戦協定は、所詮は政治的なものに過ぎなかった。町中での小競り合いや、暴力沙汰は決して珍しくないし、それを鎮圧する過程で死人が出ることも少なくない。そもそも、この職人街にはアルドワン正規軍の下請けが多い。これまでも、少なからずたくさんの血が流れてきた。しかし、これほどまでに大規模で継続的な戦闘状況は初めてのことだった。

 しかし、僕は戦えない。骨と筋ばかりで力の入らない腕。ロジェのような職人の持つ腕ではない。僕も仕事をしたかった。父のような、兄のような職人になりたかった。ロジェは繰り返し言った。お前は俺が守るから、ここに隠れていろ、と。

 しかし、その兄もいなくなってしまった。

 僕はこのままここで朽ちていくのか。......嫌だ。腰に括りつけた革袋を握り締める。ロジェはそんな死に方は許してくれない。

 息をついて周りを見回す。古びた小さな地下倉庫。と言っても、職人街の外れにあるひなびた酒場の倉庫では、何があるというわけでもない。ここで暮らすようになって三年余りが過ぎたが、その間、床に並んだ酒樽に酒が満たされたことはない。入荷した端から飲みつくされてしまうからだし、戦争の余波で物資が回ってこないからでもある。

 晶石を部屋の隅に向ける。青黒い石壁におぼろに浮かぶ古びた文字は、活気に満ちていた頃の名残だろう。脇に木造りの階段が据えられていて、厨房の入り口につながっている。意を決して立ち上がり、階段まで体を動かす。膝は痛かったが、体が軽いおかげで、苦しさはそれほどでもない。

 手摺りに腕を預けて段を上がり、上げ蓋になっている扉に力を掛ける。関節がきしむのと同じような音がして、扉が開いた。途端に、血の臭いが流れ込んでくる。晶石を消してポケットにねじ込み、深呼吸をした。

 転がっている死体は五つ。三つは帝国兵、二つはアルドワン正規兵。テーブルやカウンターの様子を見ると、他にも怪我人がいたようだが、少なくとも中で死にはしなかったらしい。知り合いの死に顔はあまり見たくはない。と言っても、この五つの死体には首がない。死に顔は誰かが持ち去ってしまったらしい。

 暴力の痕に頭が痛む。何か食べたかったが、すぐに戻してしまいそうだ。仕方ない。

 五つの死体を見比べる。帝国兵は色が白く、生臭いので嫌いだ。生焼けの魚のはらわたの臭いがする。さっきの血もこいつらのうちの誰かのものに違いない。アルドワン正規兵の二人は、鎧の上からでも分かる厚い胸板と浅黒い肌の持ち主だ。近頃は正規軍でも移民や亡命者を使っていることが多いが、ありがたいことに、二人とも領内の出身者らしい。手と腕を見ると、血管や肌の様子から、一方は既に四十を回っていそうだが、もう一人は若い。おそらく二十を過ぎたばかりか。考えるまでもなくこちら一択だ。

 この様子を誰かが見たら、と思わなくはなかったが、渇きはそんな冷静さを簡単に吹き飛ばした。ただ、僕が彼らを殺したと思われるのは心外だ。その辺の人間みたいに、感情に任せて命を奪ったりはしない。

 そういう意味では、父さんは人並みに人間だった。

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