紙士養成学校の日常4~闇の小馬・前編~
さて、前回の後書きでもお話ししましたように、いきなりホラーシーンで始まります。異国で起こった悲劇とはいえ、和州の紙士養成学校やその周辺も決して平和ではありません。「小馬」なる妖魔を巡り、様々な出来事が起こります。
今回は推理小説(?)的な要素も入っており、そちらに関心がある方は多少なりとも楽しめる内容になっています。また、短編第二話の「紙士養成学校の日常2~紙士の家庭事情編」とリンクもしています。ただほぼ全シーンシリアスな内容ですので、その点はご了承下さい。
何故かいつも運悪く(?)事件に巻き込まれてしまう鳳凰兄妹ですが、今回ははたしてどうなってしまうのでしょうか……?
その日の空は穏やかに青く晴れ渡り、真冬の雪山の上空には雲一つ見られなかった。ここシルバートップスキー場は、広大な国土を持つベイアード共和国でも有数のスキー場。北アメリカ大陸を南北に貫く山脈・アラート山脈南部のロングランド山系、標高二千六百メートルから三千三百メートル付近にある。険しくも優美な峰々と深緑の針葉樹の森は人々を魅了し、吹けば舞うようなパウダースノーは国内でも屈指の雪質を誇る。そのためベイアード国内だけではなく、海外でも人気があり、シーズンともなれば連日多くのスキーヤーで賑わう。
十二月三日。この日は土曜日ということもあって、スキー場には平日の倍近いスキーヤーが訪れていた。シルバートップには百七十もの個性的なコースがある。スキーヤーは各々自分の実力にあった、または好みのコースを選ぶこと可能だ。要所に設置されたラウンジで食事や休憩もとれるので、いちいちホテルに帰る必要もなく、丸一日スキーを満喫できる。また、二千五百メートル付近にある麓の町には、ホテルの他に様々な商店やレストランが軒を並べ、買い物や食事を楽しめるのも魅力の一つだった。
アレン・ジョーダンはこのシルバートップスキー場のパトロール隊員の一人だ。アレンは二十五歳、ブロンドの髪に碧眼の典型的なベイアード人。ここのパトロール隊員になって今年で四年目になる。担当エリアは西側の中級者コース三本と初心者コース四本。だがそれらのコースを巡回していくのは、若いアレンでもなかなか骨の折れる仕事だった。負傷者の救出に迷子の保護、スキーヤーへの注意喚起。特にコース外滑走は雪崩に巻き込まれる危険性もあるので、神経を使う。他にも遭難者の捜索やオープン前のコースの点検、柵や看板の設置など、パトロール隊員のやることは多い。
この日の午後三時頃、アレンは担当エリアのパトロールを一通り終えた。幸い大きな事故もなかったので、本部へ戻ろうとしていたのだが、その途中の第二十番リフトの搭乗口付近で、よく知る人物を見かけた。同じパトロール隊に所属するスザンヌだ。スザンヌは二十一歳、栗色の髪が美しいチャーミングな女性だ。まだ隊員になって一年目の新米なので、アレンのように一人では巡回できず、ベテラン隊員のロバートに同行して別のコースを担当しているはずだった。
「おーい、スザンヌ。そんな所で何をしているんだい?」
アレンは一人佇むスザンヌの横までスキーを寄せると、声をかけた。
「あ、アレン。ロバートが戻ってこないの」
「何だって?」
アレンが尋ねると、スザンヌは事情を説明した。担当コースの巡回が終わった二人だったが、本部へ戻る途中でこの二十番リフトの前に差し掛かった時、ロバートが「時間もあるから、ついでにこの上のコースも見てこよう」と言い出した。そのコースというのが上級者向けの林間コースだったので、スザンヌが行くにはまだ早いと思ったのだろう。十分ぐらいで戻ってくるからと言い残し、ロバートは一人でリフトに乗って行った……というのだ。
ところがそれからもう一時間近く経つというのに、ロバートは戻ってこない。いや、それどころかその間第二十番リフトに乗ったスキーヤーが、誰一人として降りてこないのだ。見習いのスザンヌはハンディタイプの無線機を持っておらず、ロバートと連絡が取れない。不吉な予感にかられつつもスザンヌはここを動くことも出来ず、途方に暮れていたのである。
「成程、そうか。それなら俺が連絡を取ってみよう」
アレンはそう言って自分の無線機を腰のベルトから外すと、発信した。しかしいくら呼び出しをかけてもロバートは出ない。
「おかしいなあ。いつもなら直ぐに出るのに」
「ねえ……やっぱり何かあったんじゃないかしら」
スザンヌも不安を隠せない。そこでアレンは思いきった行動に出ることにした。
「俺が一緒について行くから、上に見に行かないか?」
「え、でもその間にロバートが戻ってきたらまずいんじゃない?」
「大丈夫だって。その時は俺がロバートに事情を説明するから。とにかく、行って見ようぜ」
「そうね。わかったわ。お願いね」
実のところ、アレンはちょっとしたデートを楽しむつもりで、スザンヌを誘ったのだ。これを機会に彼女ともっと親しくなれたら……と、考えていたのである。
その様なわけで、アレンとスザンヌはリフトに乗り、林間コースへ向かった。リフトを降りると、すぐ前に三本の林間コースの入口がある。うち一本は先程スザンヌがいたリフト搭乗口付近へと繋がっているのだ。ロバートが滑るのなら、このコースに間違いはないはずだった。
コースの入口までは少し登り勾配になっているが、パトロール隊員である二人にしてみれば何ということはない。慣れた足取りで上っていく途中、スザンヌが突然前方を指さし、叫んだ。
「あ、あの青いジャンパーはロバートよ!」
確かに勾配の先、コースの入口に当たる丘の上に青いジャンパーを着た男性の後ろ姿があった。パトロール隊員の証である黄色い腕章が左腕に見える。
「ロバート、どうしたの! 心配したのよ!」
声をかけながらスザンヌはロバートの許へと急いだ。しかしいくら声をかけてもロバートは無反応。ストックを前方へ突きだし、今にも滑り出そうとしているように見えるが、何故か微動だにしないのだ。違和感を覚えた二人は全速力で丘を登った。
ようやくロバートの真後ろにやってきたスザンヌは、彼の肩に手をかけた。
「ロバート、何でこんな所でーー」
スザンヌはロバートの肩を軽く押した。だがその途端、ロバートの体はぐらりと傾き、雪の上に横倒しに倒れた。
「ロバート……?」
二人は呆然とした。ロバートだと思っていた「もの」は、ロバートの服を着た石の人形だったのだ。しかも顔つきはロバート本人そっくり。まるで何かに驚いたかのように口を開け、目を見開いた瞬間を止めている。
「何だこれは? 誰かの悪戯かよ」
アレンはまいったなあと言わんばかりにゴーグルを外したが、丘の上から下を見下ろしてふとあることに気付いた。コースの先にも同じような物がーースキーウェアに身を包み、スキー板を履いた人型の石像が幾つも転がっている。ある物は腰を落として滑走のポーズをとったままコース中程に横転し、そしてまたある物はコース沿いの木の根本に首がもげた状態で。そしてそのどれもの足下からは、スキー板の轍が伸びているのだーーコースの上へ向かって。
「ねえアレン……。これって石の人形じゃなくて、人間が石になったんじゃないかし……ら……」
スザンヌは声が震え、歯の根が合わない。アレンは信じがたかったが、つじつまは合う。ロバートは滑り出す直前に、そして他の者は滑走の途中で石になったのだ。首がもげたのは、石になった直後木に激突したためであろう。
では誰がこんなことをしたのか。それはもう妖魔以外には考えられない。しかしスキー場側は今シーズンの営業を始める直前、業者に依頼して妖魔の駆除を行っているし、その後も妖魔が出現していないか定期的に見回りをしている。妖魔が現れたとは考えにくいし、人を石化できる妖魔など二人とも聞いたことがなかった。
「と、とにかく本部へ戻って報告だ。急がないと更に被害がーー」
アレンがそう言った時だった。サクッ。何かが雪を踏みしめる音がしたのだ。その音は二人の左手、木々の間から聞こえてくる。そうこうしている間にも音ーー足音はどんどん迫ってきて、ついには「それ」が二人の前に現れた。だがアレンもスザンヌも妖視能力を持たない普通の人間。「それ」の姿は見えない。目に映るのは足音と共に出来る雪上の穴ーー足跡だけだ。
「あ、あわわ……」
二人とも体が恐怖で硬直し、動けない。直後足跡の進行と音が止まり、その一メートルほど先の空間から突如、雪のように白い炎がぶわーっと吹き出した。
「危ない!」
アレンは反射的にスザンヌを突き飛ばし、二人とも雪上に倒れ込んだ。おかげでスザンヌは直撃を免れたが、アレンは下半身に白い炎を浴びてしまった。
「アレン!」
スザンヌは立ち上がり、アレンを起こそうとした。不思議なことにアレンの体に火は着いておらず、ウェアも燃えていなかった。だがーー
「こ……腰から下が動かない! 石になっちまった!」
アレンは苦しげに叫んだ。下半身が石化したアレンはもう逃げることが出来ない。それでもスザンヌは手をとって引っ張ろうとしたが、アレンがその手を払いのけた。
「俺はもう駄目だ。君は早く逃げて、このことをみんなに知らせてくれ!」
「いや! いやよアレン!」
「馬鹿っ、何を言っているんだ! 『奴』は君も狙っているぞ! ぐずぐずしていると君まで石にーー」
アレンは恐る恐る後方を見た。フーッという鼻から息を出すような音がする。石化により血液の循環が阻害されたアレンは次第に息苦しくなり、意識ももうろうとしてきた。それでもアレンは最後の力を振り絞って雪を握りしめ、スザンヌへぶつけた。
「行け、早く! 行くんだあ!」
アレンの必死の形相を見て、スザンヌはようやく決心した。
「ごめんなさい、アレン!」
アレンに背を向け、スザンヌはストックを立てると滑り出した。背後から聞こえてくるアレンの断末魔の叫び。だがスザンヌには悲しんでいる余裕などなかった。彼の死を無駄にしないためにも、今はとにかく一刻も早く本部に戻らねばならない。視界の中をコース沿いの木々が物凄い速さで流れてゆく。ゴーグルを涙で濡らしながら、スザンヌは無我夢中で滑り続けた。
スザンヌが中腹にあるパトロール隊本部へ戻って三十分が経過した頃。間もなく日没を迎えるというこの頃、普段であれば大部分のパトロール隊員は戻り、本部内はのんびりしたムードに包まれているはずだ。
しかし今日は違う。隊員は殆どいない。妖魔出現の情報を受け、まだコースやラウンジに残っている一部のスキーヤーに帰還を促すべく出払っているのだ。今いるのは隊長と二人の事務員、そしてスザンヌだけである。
スザンヌは本部のソファーに横になったまま、泣き続けていた。事務員の女性が寄り添って慰めていたが、落ち着く様子はない。アレンとロバートの死に激しいショックを受け、心身ともに衰弱しきっていたのである。
隊長はすぐに妖魔出現の一報を警察に入れ、次いで契約している妖魔の駆除業者に連絡をした。ところがーー
「畜生、駄目だ! 駆除依頼を断られた!」
「え、どうしてです?」
事務員の男性が尋ねると、隊長は受話器を叩きつけた。
「そんな危険な妖魔、うちでは対応できませんとさ! 軍にでも依頼してくれと言われたよ!」
「え、軍に……? そんな厄介な相手なんですか? それで向こうはどんな妖魔がここに出たのかわかっているんですか?」
「わかっているような口振りだったが、どういうことか教えてはくれん。『銃ぐらいじゃ死にませんよ。ロケットランチャーでも使えば倒せる可能性はあるでしょう。命中すればの話ですが』とかうそぶきやがった!」
隊長はどっかと椅子に腰を下ろすと、頭を抱え込んでしまった。スキーヤーを安全な場所へ避難させ、妖魔を駆除しなければならない。頼みの綱の駆除業者に拒否された今、もはや警察にすがるしかなかった。ところが警察署があるのは麓の町よりも更に下、標高千メートル付近の町だ。スキー場がある場所まで登って来るには、まだ暫くの時間を要するのである。
一方、宿泊施設が集まる麓の町も大混乱に陥っていた。妖魔が出たことが周知されたのは、スザンヌが本部に戻って一時間以上が経過した五時頃。既に日は沈んで闇の帳がおり、町の外へ出るには危険な時間帯となっていた。大部分の妖魔は夜目が利くため、夜間でも活動するからだ。まして相手は姿が見えず、どこから現れるのかわからない。明るければ周囲のものの動き、例えばなぎ倒される草や地面に付く足跡で、相手の接近を察知できるが、夜ではそれも難しい。まさに見えない恐怖が忍び寄っていたのだ。
町のほぼ中央にある老舗ホテル・ホワイトアローでも、百名近い宿泊客がロビーに集合していた。客の誰しもがこんな危険な場所から一刻も早く脱出したいと願っていたが、短時間で全ての人を避難させることなど不可能だ。しかもかなりの数のスキーヤーが自家用馬車でここまで来ており、それらが一時に動き出せば道路が大混雑し、身動きすらとれなくなる危険性もあった。
ホワイトアローの支配人はそれらのことを説明し、声を枯らして懸命に客を説得していた。
「皆さん、落ち着いて! 落ち着いて下さい! 妖魔は人がいる建物の中には絶対に入ってきません。屋外には出ず、個人行動も控えるようお願いします!」
しかし興奮した客は鎮まらない。方々から家族や友人が戻ってこないという、悲痛な叫びが聞こえてくる。
「間もなく警察が町へ到着します。明朝、警察に安全を確保してもらいながら、皆さんには町外へ避難して頂きます。申し訳ありませんが、それまではホテル内で待機して下さい」
だが「早くここから出せ!」という怒号や、子供の泣き叫ぶ声が飛び交い、ホテル内は収拾がつかない状態になっていた。そこへホテルマンの一人が支配人の許へ駆け寄り、耳打ちした。
「うちのホテルの行方不明者は八人です。この様子ではスキー場全体で百人以上の行方不明者が出ているでしょう」
「ああ、なんてこった。これでシルバートップはお終いだ。これだけの犠牲者が出たら、妖魔を駆除して再開しても風評被害で数年は客は戻ってこない……」
支配人がそう呟いてうなだれた時だった。何の前触れもなくホテル内の明かりが消えたのだ。それもこのホテルに限ったことではない。町内全てが停電となり、暗闇に包まれたのである。そしてそれはパニックに拍車をかけた。
「こんな所にいられるか! 逃げろ!」
宿泊客は我先に出入口へ殺到。支配人が「外へ出ないで下さい! 危険です!」と叫んで制止しようとしても、聞く耳など持たない。外へ出た宿泊客のかなりの数が、ホテル裏の駐車場目指して走り出した。
駐車場には個人が所有する馬車が、折妖馬を繋いだままの状態で停められていた。ホテルでは折妖馬を睡眠状態にしてロビーで預かるサービスもしているが、手数料を取られる上に馬をいちいち馬車から外すのが面倒なので、大部分の宿泊客は繋いだまま停める。折妖馬は寒冷地仕様になっていれば、数日この寒さの中放置しても問題ないからだ。
ところが町中の街灯も全て消えており、まだ暗闇に目が慣れていない状態では駐車場に行くことすらままならない。人々が路上でおろおろしているとーー
ゴーッ。
突然闇の中から白い炎が吹き上がった。上空五メートル付近の一点から放たれた炎はコーン状に広がり、その真下数メートル四方にいた人々をあっという間に飲み込んだ。数秒して炎は収まったが、炎が注がれた場所には動く者は一人としておらず、人の姿をした石像だけが七、八体残された。かろうじて攻撃を免れたものの、目が慣れてその様をまともに目撃してしまった人々は、戦慄の叫びを上げた。
「妖魔だ! 妖魔が出た!」
慌てふためいた人々はホテル内へ戻ろうとした。ところが今度は出ようとする客と鉢合わせしてしまい、入りたくても入れない。妖魔は情け容赦なくその背後、そして頭上から炎を浴びせてくる。またしても十名以上の客が犠牲になった。
この攻撃後、ホワイトアローの前から妖魔は去ったが、惨劇はこれに止まらない。停電に混乱し、屋外へ出た人間が町内には溢れていたのだ。そんな人々を妖魔は見逃さない。まるで「狩り」を楽しむかのように「獲物」に次々と襲いかかる。悲鳴と絶叫がこだまし、恐怖と殺戮が町を支配した。
約二十分後、ようやく警察が町へ到着した。しかし警邏馬車から降りた警察官は、衝撃のあまり声も出なかった。町中に転がる無数の人型の石像。皆恐怖の表情を浮かべ、逃げ惑う姿のまま固まっている。紙士警察官が急ぎ町内を探索したが、もはや妖魔の姿は何処にもなく、ただ冷たい夜風だけが町を吹き抜けていた。
「いや、久し振りに教壇に立つのもいいものだな」
講義を終えた前橋権蔵は、上機嫌で笑った。
吉華二十四年十二月十七日、土曜日の正午前。紙士養成学校本校の漉士クラスの教室。ここで二時限目の講義を行ったのは、校長である前橋だった。本来はこの講義の担当は藍沢なのだが、今彼は校内にいない。いや、和州にすらいない。今週藍沢のベイアード共和国への海外出張が急遽決まり、前日の十六日に出国してしまったのだ。その代役として校長の前橋が教鞭を執ることになったのである。もっとも高齢であるため受け持つのは講義のみ。実習は他の漉士クラス担当教師が交代で行うことになっている。
そもそもこの藍沢の出張も、不可解なものがあった。今週の火曜日、十三日に午後の実習を藍沢が直前で突然キャンセルし、代わって漉士クラスベテラン教師である永井文夫が担当。それきり藍沢は学生らの前に姿を現すことなく、ベイアードへ渡航してしまったのだ。しかも出張目的は現地施設の視察だという。この師走の慌ただしい時に、そんな「いつでもいけるような、緊急性のない」出張をするとは。さらに帰国日すら決まっていないのだ。
何かおかしいーー砂川凰香はこの話を初めて聞いた時から、そんな疑問を抱いていた。前橋の講義には藍沢の時のようなぴりぴりとした緊張感はない。気楽に受けられるからいいと大半の学生は言っていたが、凰香は逆に落ち着かなかった。ある奇妙な噂を耳にしたからだ。
ーー藍沢先生は妖魔局に行った校長に呼び出されたって話だぜ……。
確かに前橋は妖魔局長から要請を受け、十二日と十三日の両日に渡り、妖魔局へ出向していた。何故妖魔局長が前橋を呼んだのかはわからない。だが藍沢が講義をキャンセルした十三日午後に前橋が妖魔局にいたのは事実であり、この噂を裏付けるものであった。
「あの……校長先生」
最前列の席にいる凰香は、退室しようとする前橋へそっと声をかけた。
「藍沢先生はいつ戻られるんですか?」
「うーん、現地でのスケジュールがまだはっきりしておらんからな。詳細は未定だが、年内には戻ってくるのではないかな」
「そうですか。有り難う御座いました」
前橋はあっさりと答えたが、何となくはぐらかされたような気がして、凰香の疑念は晴れなかった。何だか胸騒ぎがする。そんな不安を抱えながら、凰香は寮へ戻るしかなかった。
話はその問題の日ーー十二月十三日の火曜日まで遡る。この日の昼休み、午後零時半頃の紙士養成学校本校の職員室。大半の教職員は昼食を済ませ、うちおよそ半数が自分の机でくつろいだり、雑談を楽しんでいた。
職員室内の席の配置だが、まず出入口からみて一番奥に教頭である福原の席があり、その前に三人の主任教師の席。そしてベテラン、中堅、若手といった順に出入口に近くなっていく。
さてこの時、役職教師四人のうち、武藤節子を除く三人が自席にいたが、そのうち鏑木徹の前に、部下である鈴木孝次が立っていた。
「なんだ鈴木、お前今週の金土と年休とるのか?」
鏑木が少々呆れたように尋ねると、鈴木はにやけつつも頭を下げた。
「すいません、主任。自分の受け持ちの講義、よろしくお願いします」
「まあお前も先月の折妖トーナメント戦では、随分な目に遭ったからな。ゆっくり骨休めしてこい。ところで、何処かにでも行くのか?」
「はい。家内とスキーにでも……」
「スキーだと? 全く、新婚はこれだから……」
鏑木はやれやれと言わんばかりに、煙草をふかし始めた。鈴木は半年前に挙式したばかり。しかも妻とはスキー場で知り合ったという。その二人が出会った思い出のスキー場に、今年は夫婦揃って出かけるのだ。
「それで何処のスキー場へ行くんだ、お前」
「流岡県の大鳥山スキー場ですよ」
「大鳥山? それってもしかしてーー」
「俺の故郷だよ」
鏑木の隣にいた藍沢が、むすっとした顔で答えた。すかさず鈴木が藍沢に向かって最敬礼する。
「藍沢主任、今年もごっつぁんになります」
「味を占めやがったな、こいつ。俺の名前を出して、宿泊先でいい思いしたんだろう!」
鈴木はにやにやするばかりで何も言わなかったが、実のところ藍沢の指摘通りだった。三年前、鈴木が初めて大鳥山スキー場を訪れたとこのことだ。宿泊した民宿で、たまたま村役場の広報ポスターを目にした鈴木は、あることに気付いた。村長の名前が「藍沢雅人」となっていたのだ。「相沢」は多いが、「藍沢」は珍しい姓だ。何気に宿の主人にその点を尋ねると、何とこの村長、藍沢の実の兄であることが判明。それを知っても鈴木は「へえー、そうなんだ」程度だったが、宿の主人は鈴木が紙士養成学校の教師であるとわかると、びっくり仰天。従業員を集め、こう告げたのである。
ーーこちらのお客さんは隼人さんのお知り合いだ。くれぐれも失礼のないように、丁重におもてなしするんだぞ。
それからというもの、鈴木は至れり尽くせりのもてなしを受けた。宿泊費が三割引となり、料理も豪華絢爛。最寄り駅まで無料で送ってくれた。以来、熱烈な歓迎を受けるようになり、鈴木は今年も同じ宿に予約を入れたのである。
「聞きましたよ、藍沢主任。藍沢家は流岡県内じゃ知らない者はいないほどの、名士の家柄だっていうじゃないですか。凄いですねー」
鈴木は気を利かせたつもりだったが、藍沢はへそを曲げた。
「けっ! 俺はどうせ出来損ないだよ。兄貴は州都市の大学を出ているが、俺は中学を卒業した直後、家を飛び出しているからな」
藍沢の予想外の反応にたまげ、鈴木が泡食って退散すると、鏑木が苦笑しながら声をかけてきた。
「おいおい、そんなにすねることはないだろう。大人げないぞ。だがお前の兄貴が村長とはな。初耳だ」
「兄貴は親父の地盤を引き継いだだけだ。あのスキー場が出来た当時は、まだ親父が村長だった。そもそも大鳥山スキー場は、親父が発案した村の一大事業として開発されたものなんだよ」
「成程。しかしたいそうな盛況ぶりみたいだな。スキーをやらない俺ですら、大鳥山は聞いたことがある」
鏑木が言う通り大鳥山スキー場は、毎年来場者数ベスト五に入るほど人気のスキー場だった。オープンしたのは十五年前と比較的歴史は浅いが、本州の中では雪質は随一と名高く、コース数も五十三と国内では三番目に多い。映画のロケ地に使われたり、テレビや雑誌に頻繁に取り上げられるなど、知名度は抜群に高かった。
「まあ確かにな。俺の娘達も毎年、姉貴の家に泊まってスキー三昧だ。俺が未だガキの頃は、しなびた山村にすぎなかったのによ」
「そうか。だがお前の親父さんも、随分思い切ったことをするな」
「俺とはそりが合わなかったけどな。つべこべ口うるさく文句は言うくせに、俺のこと一度たりとも誉めちゃくれなかった。最低な親父だったぜ」
藍沢が吐き捨てるように言うと、鏑木は眉尻を下げた。
「そう言うなよ。俺なんて親父のこと、覚えちゃいないんだから」
「え? お前親父さんのこと、覚えていないのか?」
呆気にとられる藍沢を見て、鏑木は意表を突かれたような表情を見せた。
「あ、未だお前には話していなかったっけ。俺の親父、俺が三歳の時にベイアードに連れ去られたんだよ」
「ベイアードにだって!」
「そうだ。終戦直後の七月だったって話だがーー」
煙草の火を消すと、鏑木は当時のことを話し始めた。
鏑木の父・護は終戦当時ーー今から四十九年前、紙士養成学校本校の染士クラスの教師だった。この年の一月、世界を巻き込んだ大戦が終結。同年三月より和州は敗戦国として、戦勝国である連合国軍に占拠されていた。連合国軍筆頭であるベイアード軍はこの間、和州の政府や軍ばかりではなく、民間人に対しても数々の「暴挙」に出た。その一つが国益に叶う優秀な人材を探し出し、本国へ連行することだった。
護はこの時まだ三十代半ばで、教師としては中堅といったところだった。しかし学生の妖視能力を引き出す才能に秀でていたことが仇となり、ベイアード軍に目を付けられてしまった。ベイアード政府は広い国土に見合うだけの紙士を確保せんと、大幅な増員に力を注いでいた。護はその政策に役立つ恰好の人材だったのだ。二年前に妻に先立たれ、護は幼い子供三人と暮らしていたが、無理矢理子供達と引き離され、ベイアード本国へ連れ去られてしまった。
「俺は幼くてその時のことは全く覚えていないが、兄貴は九歳、姉貴は七歳だったからもう泣きまくったそうだ」
「何だそれ、ひでえ話じゃねえか! 鏑木、お前達その後どうなった?」
「伯父貴に引き取られた。伯父夫婦には子供がいなかったからな。随分よくしてもらったよ。物質的にも精神的にも何一つ不自由なく育ててくれた。特に俺は未だ小さかったから、可愛がってもらったな」
両親はいなかったが年少時代、鏑木と兄姉は幸せに暮らしていたようだ。それが護にとってはせめてもの救いだったかもしれない。だがーー
「それで親父さん、あっちに行ってどうなったんだ?」
「十年後に現地で交通事故に遭い、死んだそうだ。あの時のことははっきりと覚えている。俺が中一の時の十月ーー」
この日鏑木は部活で遅くなり、六時過ぎに学校から帰宅した。ところが家の中の様子がおかしい。いつもはすぐに出迎えてくれる伯母は勿論、誰一人として出てこない。どうしたことかと鏑木が居間へ行くと、そこに家の住民全員がいた。伯父は仏壇の前に座り込み、背を向けたまま肩を震わせている。伯母は卓に顔を伏せる兄に寄り添い、姉は膝を突いて下を向いたまま、嗚咽を漏らしていた。家中が異様な悲しみに包まれていたのである。
「ど、どうしたんだよ、みんな……」
戸惑い呆然とする鏑木。すると姉がそろそろと顔を上げた。
「徹……」
「姉ちゃん……?」
鏑木がそっと声をかけると、姉は声を振り絞って言った
「さっき養成学校から連絡があったの。お父さん……お父さん死んじゃったって……。一昨日交通事故に遭って、死んじゃったって!」
そう話すなり、姉はうわーっと泣き崩れた。
「父さん、が……」
突然の父の訃報。しかし父親の思い出がない鏑木には、その死を知っても実感がわかない。ただその場に立ち尽くすだけであった。
話を聞き終えた藍沢は静かに目を伏せた。
「そうか……。それは気の毒なことだな。とうとう子供達に会うこともなく逝くなんて、親父さんもさぞや無念だったことだろうな」
「ああ。だが問題はその後だった。親父は今でも向こうで眠ったままなんだよ」
「何っ! 遺骨を戻してくれなかったのか!」
身を乗り出す藍沢に鏑木は頷いた。
「遺骨を返してくれるよう、伯父貴が妖魔局を通してベイアード政府に掛け合ったが、取り合ってくれん。せめて墓のある場所くらい教えてくれと頼んでも、梨の礫だ」
「何様のつもりだよ、ベイアードは! いくら戦勝国だからって、不誠実にも程があるじゃねえか! 国益のために尽くした人間に対する、それがベイアードの礼儀か!」
藍沢は怒りで顔を真っ赤にさせていた。ベイアードの和州に対する高飛車な態度は、以前から癇に障るものがあったのだ。同盟関係にありながらも、立場は常にベイアードの方が上。国力にものを言わせ、国防政策、貿易、その他様々なことに関してベイアードは和州に無理を強いてきた。もう終戦から五十年近くが経とうとしている。お互い対等な立場で付き合うべきだーーと、藍沢は常々考えていたのである。
ここで今まで黙って話を聞いていた福原が突然口を開いた。
「そのことについては、校長も随分と胸を痛めておられた。校長は鏑木君の父君に教わった、最後の学生だったんだよ」
終戦の年の四月、当時十五歳だった前橋は紙士養成学校本校に入学した。しかし入学から二ヶ月が経過しても、妖視能力がなかなか身に付かない。残るは後一ヶ月、それまでに妖視能力C以上を身に付けなければ、強制退学となってしまう。
そんな時、前橋の妖視能力取得訓練の担当が護に変わった。それからは今までの苦労が嘘のように能力が伸び、最終的には妖視能力Aにまでなったのだ。ところがそれから一月も経たないうちに、護は拉致同然にベイアードへ連れ去られてしまった。
「ことあるごとに校長は言われた。『今の自分があるのは、鏑木先生のおかげだ。先生が妖視能力を開眼して下さらなければ、紙士にはなれなかった』とな。校長も妖魔局長に直談判して、遺骨を遺族の許へ返還するようお願いされたそうだが、残念な結果に終わったそうだよ」
前橋の尽力に鏑木も深く感謝はしていたが、相手が大国の政府とあってはどうにもならない。父親の記憶がない自分ですら歯がゆいのだから、兄姉はもっと辛い思いをしているだろう。伯父も亡くなる直前、弟の遺骨を取り戻せないのが心残りだと悔やんでいた……。
と、暗いムードをうち破るかのように、藍沢の席の電話が突然鳴った。ベイアードに対する怒りを胸の奥に押し込め、藍沢が電話に出ると交換手が告げた。
「藍沢主任、校長よりお電話が入っています」
「校長から? 繋いでくれ」
前橋は今、妖魔局へ出向している。ベイアード本国から退魔庁長官が来和(外国人が和州へ来ること)し、妖魔に関する何らかの要請を和州政府にした。政府の命を受けて妖魔局がこれに応対し、和州で最も妖魔に詳しいとされる前橋がその共議の席に呼ばれたらしいのだがーー
「藍沢君。突然のことで申し訳ないが、大事な話がある」
受話器の向こうの前橋の声は、いつもにも増して重々しかった。大事な話と一体どういう内容なのか。藍沢は身構えたが、前橋が次に発した言葉を耳にした瞬間、頭の中が真っ白になってしまった。
「わ……わかりました。今すぐそちらへ伺います……」
そう言って電話を切ったものの、汗が額をつたい、腕の震えが止まらない。
「おい藍沢、どうした?」
同僚の様子がおかしいことに気付いた鏑木は声をかけたが、返事はない。そのまま後ろを振り向くと、藍沢は叫んだ。
「永井! 俺が受け持つ午後の実習、今日はお前がやってくれ!」
「え? どうしてですか、主任」
永井は突然の代役指名に戸惑い、眼鏡を押し上げて見詰め返した。
「校長から呼び出しを受けた。妖魔局に行ってくる」
その言葉に職員室が異様な空気に包まれた。前橋からの突然の呼び出しに、この藍沢の狼狽えよう。これは何かあると誰しも感じていた。しかしそれを口に出す者はいない。尋ねるべきではないと察していたのだ。
無言のまま藍沢は職員室を出た。しかし心臓が高鳴り、ただでさえ悪い足が鉛のように重い。
ーー何故だ。何故「あのこと」がばれた……! 俺は勿論、「向こう」の人間だって誰一人として話しちゃいないはずなのに……!
自分がひた隠しにしてきた「秘密」。それが発覚した今、どうなってしまうのか。最も恐れていた事態に陥らないことを、藍沢は祈るしかなかった。
話は戻って十二月十七日の午後一時過ぎ。砂川鳳太は校外での昼食を済ませ、寮の自室へ戻ってきた。寮食堂は一年を通して昼食は出ない。そのため学生達は自室で簡単な料理を作ったり、校外の飲食店へ食べに行ったり、校内の購買部や一般商店で食べる物を購入したりして食事を済ます。
今日は土曜日なので、平日と違って午後の講義実習はなく、のんびり昼食をとることが出来る。いつもなら鳳太も適当にパンでも食べて済ませるのだが、桐生が岡駅前の定食屋へ行ってきたのだ。
ルームメイトの向井は外出を面倒くさがり、インスタントラーメンを食べると言って部屋に残った。ところが室内に入るなり、その向井が踊るように鳳太を出迎えたのだ。
「鳳太あ、これ見ろよ! さっき届いたんだ!」
向井が狂喜して見せたのは、一枚の紙だった。それは何と如月県警察からの合格通知。向井は如月県警察の採用試験を受け、見事合格したのだ。
「ってことはお前、来年の四月から警察官かあ?」
「そうだよ! 警視庁の方は駄目だったから、どうなることかと思っていたけど、これでもう大丈夫だ!」
「そいつはよかったな……」
そうは言ったものの、鳳太は素直に喜べなかった。自分の就職先がまだ決まっていなかったからだ。鳳太の折士術の実力は九級相当しかない。殆どの企業の採用条件が七級以上のため、何処からも内定がもらえないのだ。しかもそれは妹の凰香も同じことだった。凰香の漉士術も九級相当。妖視能力SSにもかかわらず、女性ということもあってお声がかからない。このままでは兄妹揃って「プー太郎」だ。
無邪気に喜ぶ向井の顔を見るのは、鳳太にとって苦痛以外の何者でもない。鳳太は外へ出るため部屋の鍵を取ろうとしたものの、何故か定位置になかった。昼食をとりに行く際は持って行かなかったが、今朝登校した時は持って出た。ということは教室にあるに違いない。大方鞄から教科書を取りだした時、一緒に机の中へ放り込んでしまったのだろう。
一言外へ行ってくるとだけ言い、鳳太は寮を出て校舎へ向かった。鳳太の折士クラス上組の教室は、校舎三階の一番北端。裏口から校舎の中へ入り、北階段を上って行くのがいつものルートだ。まあ恐らく机の中にあるだろうから、急がなくてもいいやーーと、鳳太はのんびり階段を上っていったが、ふと二階から三階へ向かう階段の踊り場の手前で足を止めた。三階には折士クラスと染士クラスの教室しかない。午後は誰もいないはずなのに、上の方から人の声がする。しかも二人だ。うち一人の声はよく知る人物ーー鏑木のもの。だがもう一人は初めて聞く声だった。
人目のない時間に誰もいない場所で話すということは、他人に聞かれてはまずい内容の話をしているに違いない。鳳太は足跡を忍ばせて三階へやってくると、姿勢を低くして声がする場所ーー折士クラス下組の教室を廊下側の窓からそっと覗き込んだ。人気のない教室のほぼ中央で、鏑木が見知らぬ一人の男と対峙している。年格好は鏑木と同じくらいだかなり小柄で、体格も華奢。総髪で顎には無精髭をはやし、目つきも悪い。黒ずくめの服は相当くたびれた感じで、鳳太の目にはまるで浮浪者の格好のように見えた。
「よう、鏑木。こんな所に俺を連れ込んで、どうしようっていう気だ? 俺はここの図書室に用があって来ただけなのによ」
何処かふてぶてしい態度を見せながら、その男は鏑木を睨みつけた。
「テツ、お前については何一ついい噂は聞かん。法外な料金を要求されただの、契約違反をしただの、そんな苦情が妖魔局には殺到しているぞ!」
険しい表情で鏑木は「テツ」と呼ばれた男に迫ったが、当の相手は平然としている。
「俺は命を張ってこの仕事をしているんだ。それに見合った額を要求して何が悪い。それに契約なんて所詮は紙切れ一枚の約束事だ。状況によっちゃ破らざるを得ない時だってある」
「貴様、それでも漉士ーー退治屋か! 退治屋は契約を重んじるのが信念のはず。おまけに脅迫紛いのやり方で高額な依頼料を請求するとは……。それではただのごろつきと変わりがないぞ!」
「ハナ垂れ共の相手ばかりして、ろくに狩りの現場も知らねえてめえに何がわかる。俺は隼人みたいに命の安売りはしねえ主義でな。取るものはきっちり取るし、不利なら契約も無視する。俺は俺のやり方でやるんだ。わかったか!」
息巻く男を見て、鳳太は思わず舌を打った。何だこの野郎、退治屋かーーと。男の言う「隼人」とは藍沢のことだ。藍沢は退治屋だった頃、決して依頼者に高額請求する事はなかったと聞いている。男は同業者としてそのやり方が気に入らぬようだった。
一方、鏑木もこの程度の「反撃」では引き下がらず、更に男を責めた。
「校長のお気持ちも少しは察したらどうだ! 校長はお前の師。たいそう憂えておられたぞ!」
「ほー、そうかい? 校長になら四日前に会ったが、その時にはそんなこと、一言も言わなかったぞ」
「何だと? 校長に会ったのか、お前」
男の意外な発言に驚いたのか、鏑木の怒気が治まった。
「ああ、会った。妖魔局で局長と一緒にな。最初は月曜に来和した米国の退魔庁長官が、局長にただ協力してくれとだけ言ってきた。だがとにかく協力しろとの一点張りだったんで、それが人にものを頼む態度かと校長が切れてな。やっと詳細を白状したんだよ。そして翌日の火曜日、俺に声がかかったってわけだ。ベイアードでとんでもない妖魔が現れ、相当の数の人間が殺られた。それでその妖魔退治の手助けをするよう、依頼があったんだな」
「ベイアードで……? それでお前、その依頼を受けたのか?」
鏑木が訝しげに尋ねると、男は鼻先でせせら笑った。
「馬鹿野郎、そんな依頼受けられるか。俺だって命は惜しい。即刻断ったぜ」
「和州でも指折りの退治屋であるお前が断るとは……。ベイアードで出た妖魔とは、一体何だ?」
「聞いて驚け。ポニーだ、ポニー。『小馬』だ」
「こ……小馬だと!」
その瞬間、鏑木の巨体が凍り付いたかのように動かなくなった。名のある退治屋である男が依頼を断り、鏑木ですら戦慄を覚える妖魔「小馬」。しかし鳳太にはそれがどんな妖魔であるか、全くわからない。少なくとも和州の妖魔ではなさそうだが……。
ーー勉強不足よ、お兄ちゃん! 世界妖魔論は全クラス必修科目じゃない!
そんな凰香のがみがみ怒鳴る声が聞こえてきそうだった。しかし今はそんな妹のしかめっ面を思い浮かべている場合ではない。鳳太は更に会話を聞くべく、耳をそばだてた。
「テツ……それは本当か? 本当にベイアードに小馬が出たのか?」
「ああ。今月の三日っていう話だから、ちょうど二週間前か。退魔庁長官が言うには、最初は何処ぞのスキー場に現れてな……」
突如スキー場に出現した小馬はスキーヤーらを襲い、三百人以上を殺害。その翌日には百キロ以上離れたのどかな山間の田舎町を襲った。その日は日曜日で、たまたま町の冬祭りの当日だった。広場で祭りを楽しむ町民を小馬は情け容赦なく襲撃し、そこでも百人以上の犠牲者が出た。
これ以上の被害の拡大を防ぐため、政府は小馬討伐隊として二百名規模の軍を動員、被害のあった町へ派遣した。小馬は周辺の山に未だ潜伏しているとの情報を受け、軍は町の近くの湖畔で野営を開始。ところが夜になり、湖で越冬している水鳥の大群が何かに驚いて飛び立った。闇の中で鳥はパニック状態となり、低空飛行のまま野営地へ押し寄せた。小馬はその鳥の群に紛れ、驚いてテントの外へ出てきた兵を急襲したのだ。不意打ちを食らった兵は反撃する間もなく餌食となり、数名を残して全滅してしまった。
「……とまあ、そんなわけでもう軍もお手上げ状態だ。それでベイアード政府が和州に泣きついてきたってわけさ。和州は昔小馬と対決し、漉いたことがあったからな。その実績を見込んで協力要請をしてきたんだよ」
「そんなことがベイアードであったとは……。しかし和州が小馬を漉いたのは、もう六十年も前の話だ。当時の記録は残っているが、参考程度にしかならん。あの時は軍一個中隊と数名の漉士や退治屋を動員し、多大な犠牲を払ってようやく仕留めたはず。お前が断ったのでは、和州政府も打つ手がないだろう」
「それがそうでもないんだなあ……」
男は意味ありげなな笑みを浮かべた。
「俺だってただ断って帰ってきたわけじゃねえ。ある重要な情報を妖魔局長にくれてやったのさ。比較的最近、和州で小馬を漉いた奴がいる……ってな」
「何だと! それは本当なのか!」
「本当だ。その野郎が頑なに口を閉ざしてきたんで、知れ渡っていないだけだ」
「誰だ、そいつは」
すると何がおかしいのか、男はクックと笑い出した。
「だから俺は言ってやったのさ。その男は確かに小馬を漉いたが、今は狩りが出来ない体になっていると、な……」
「おい、それってまさか……」
サングラスの下の鏑木の目がこれ以上ないほどに見開かれた。ところが言った本人である男は笑いを噛み殺し、ぎりりと歯をきしませたのだーー悔しさを滲ませて。
「そうだ。隼人の野郎だ。あの野郎、俺が知らぬ間に小馬を一体、始末しやがったんだよ!」
「しかしお前、どうやってそれを知った?」
「口が減らない赤大将が俺に余計なこと教えやがったんだよ! あれは二年前のことだ」
ある妖魔の退治依頼を受け、男が水澤県の山奥へ入った時のことだ。標的を捜し、一人森を彷徨っていると、頭上から妖魔の気配を感じた。見上げるとクヌギの大木の枝に、蛇に似た一体の妖魔が絡みついている。不可視状態の赤大将だ。赤大将はその名の通り、八割以上の個体は体色が深紅。サイズは三十から四十くらいで、雪地潜の近縁種だが、攻撃性は低くて手出しさえしなければ襲ってくることはない。知能は高く、口達者で皮肉屋。自ら積極的に人間に声をかけ、からかうことを好む一風変わった妖魔だ。
赤大将は男をじっと見下ろしながら話しかけてきた。
「ヨウ、退治屋。アンタノコトハ噂ニ聞イテイルゼ」
「てめえのような雑魚には用はねえ。とっとと失せろ」
男は相手にせずさっさと木の下を通り過ぎようとしたが、赤大将のお喋りは続いた。
「噂ニ違ワヌ高慢ブリダナ。ダガイイ気ニナルナヨ。世ノ中上ニハ上ガイルモンダ」
「どういうことだ? 俺よりも腕のいい退治屋がこの和州にいるとでも言うのか?」
「アアイルヨ。アンタナンカ足下ニモ及バナイヨウナ凄イ奴ガ。ソノ男ハナーー」
舌を忙しなく出し入れさせながら、赤大将は男に告げたーーはっきりと。
「タッタ一人デ『小馬』ヲヤッタンダヨ」
信じ難い言葉に男は完全に逆上した。小馬は並の漉士なら、その名を聞いただけで体が竦んでしまう妖魔だ。しかも滅多なことでは遭遇する相手ではない。
「何だと! でたらめ言いやがって! 和州に小馬が出たなんて話、聞いたことがねえ! あることはあるが、そいつは五、六十年前の話だ」
「俺ガ言ッテイルノハ、ソンナ昔ノコトジャナイ。ツイ最近ノコトダ。俺ハコノ目デシカト見タンダヨ。ソノ男ガ壮絶ナ戦イノスエ、小馬ヲ漉ク瞬間ヲナ」
「そいつは誰だ!」
男が問い詰めても赤大将の表情は変わらない。しかし心なしかあざ笑っているようにも見えた。
「名前ハワカラネエヨ。シカシ顔ハハッキリ覚エテイル。ソノ男ノ左顔面ニハ三本ノ爪痕ガアッタカラナ」
「な……何だと! まさかそいつって……」
「ホオ、知リ合イノヨウダナ。悔シイカ?」
「うるせえ! これ以上減らず口を叩くと、こうしてやるぞ!」
男がロックオンしようと右手を突き出すと、赤大将は首をすくめた。
「オー、恐ロシ恐ロシ。ナラコノ辺デ退散スルカ。マ、精々頑張ルンダナ。アバヨ」
その言葉を最後に、赤大将は大きくジャンプして木から木へと飛び移り、消えていった。
藍沢が小馬を漉いたーー男には赤大将が言ったことが信じられなかった。だが赤大将は人に対して嘘をついたり、騙したりする妖魔ではない。その情報は信用性が高く、退治屋の間では結構重宝されていたのだ。
ではいつ何処で藍沢は小馬と対決したのか。藍沢が顔に傷を負ったのは今から二十五年前のことだ。そして足の怪我が原因で退治屋を引退したのが、十五年前。つまりその十年の間ということになる。場所も水澤県(本州のほぼ中央に位置する県)からそう遠くないはずだ。赤大将の行動範囲は広いが、空を飛べない。よって半径三十キロ以内といったところだろう。
しかし赤大将は詳細を一切語らなかった。故に男が知り得たのは、藍沢が小馬を仕留めたという事実のみ。だが男のプライドをズタズタにするのには十分だった。男は養成学校時代の同級生で犬猿の仲だった藍沢をライバル視し、目の敵にしていたからだ。
「成程……そういうことがあったのか。テツ、お前もその事実を四日前に妖魔局で話すまでは、口外してしないんだろう? 自分が藍沢より下だと思われたくはないからな」
「ちっ、当たりめえだろうが。いくら隼人が退治屋を引退しているからと言っても、そんなこと流布されたら、こちとらおまんま食い上げだ」
「だがお前は敢えてそれを局長に教えた。と……いうことは、無償ではないな! 貴様、情報料としていくら要求した!」
「三百万。俺が依頼を受けた時に備え、前金としてアタッシュケースの中に現金が用意されていたからな。その中からちょいと頂いただけだぜ」
男はしらっとした顔で答えたが、鏑木は目をつり上げた。
「貴様、何てことをした! その結果、藍沢がどうなったかはわかるだろう!」
鏑木も藍沢が視察目的などではなく、実際はベイアード政府の要請を受け、現地へ渡航したことは知っている。だがまさか小馬退治の手伝いをさせられるとは、想像もしていなかったのだ。確かに小馬との戦いを制した藍沢のアドバイスがあれば、ベイアード側も心強いだろうが……。
「なーに、心配はいらねえよ。隼人はあの体だ。前線には出られねえ。のんびり構えて、後ろから指示出していりゃいいんだ」
「貴様、本気でそんなことを言っているのか! 貴様とて藍沢の性格を知らぬ訳ではあるまい。あいつは自分が必要とされれば、平気で前へ出て行くぞ! もしも藍沢の身に何かあったら……!」
「そうか。それなら香典でも用意しておくか。もっとも火葬には出来ねえ体で帰ってくるだろうから、骨は拾ってやれねえけどな」
「貴様という奴は……!」
鏑木は歯を食いしばり、怒りで体を震わせた。自分が怒られているわけではなかったが、その恐ろしいほどの迫力に鳳太は縮みあがった。
ーーすげーカブさん、本気で組長モードだ……。折妖トーナメント戦の時の比じゃないぞ。
鳳太も折妖トーナメント戦で鏑木から随分と叱られはしたものの、ここまでではなかった。以前見た時は仁王のように感じたが、今度は閻魔だ。今の鏑木ははらわたが煮えくり返る思いなのだろう。
鏑木は丸太のような腕を突きだし、男の胸ぐらを掴もうとした。滅多なことでは自分から手を出さない鏑木が暴力に訴える。それほどまでに激怒しているのだ。ところが男は軽々とその手をかわし、薄ら笑いを浮かべた。
「おいおい鏑木、俺は和米親善に一役買っただけだぜ。それに今回の件、お前だって無関係じゃないんだぞ」
「どういうことだ?」
相手の言っていることが理解できず、鏑木は一瞬固まった。
「実は俺が呼び出される前、つまり月曜日に退魔庁長官から詳細な説明があった後、局長は要請を受諾するに当たり、ある条件を出した。それは占領時代にベイアード軍が和州の許可なく勝手に持ち出した、妖魔や紙士に関する重要書類や資料の返却だ。だが校長がこれ以外にも、ある追加条件を出した」
「ある追加条件……?」
「そうだ。ところでお前の親父、終戦直後にベイアードに連れ去られ、向こうでくたばってそのままなんだってな。そこまで言えばもうわかるだろう?」
はっとなった鏑木は、ぼそりと呟いた。
「そうか、親父の骨を……」
「そういうことだ。隼人がもし首を横に振っていたら、和州は米国の要請を断わらざるを得なかった。よかったじゃねえか、奴が承知してよ。だがそのきっかけを作ったのは俺だぞ。全く、礼の一つでも言ってもらいたいもんだぜ」
男の厚かましい態度に鏑木は一変、声を荒げた。
「ふざけるな! 校長や藍沢に感謝はすれど、貴様に礼を言う気など毛頭ない!」
「ふん、つれない野郎だな。それならもういい。あばよ」
男が動き出し、鳳太は慌てて教室隣の男子トイレの中へ駆け込んだ。ところが男が教室を出る直前、鏑木の声が背後から追ってきた。
「テツ! お前まさか、彼女に手を出したりしていないだろうな?」
「随分と見下げられたものだな」
男はくるりと振り返り、鏑木を睨み返した。
「いくら俺だってそこまで落ちぶれちゃいねえ。かりにも義理の姉貴だ。指一本触れちゃいねえよ。なら鏑木、そういうお前はどうなんだよ。お前だってあいつに気があったんだろう?」
「俺は妻帯者だぞ!」
「はいはい、そうでしたっと……。じゃあな」
男はそう言って階段を下り、去って行った。そしてしばしの間をおいて、鏑木も教室から出てきた。だが出入口で立ち止まると俯き、か細い声で言った。
「すまない、藍沢。頼むから無事に帰ってきてくれ……」
鳳太は見た。鏑木の目から大粒の涙がこぼれ落ちるのを。数秒後、鏑木は重い足取りで三階から去って行った。
ことの一部始終を目撃した鳳太は、トイレから出てくるとふうとため息をついた。偶然とはいえ、聞いてはならぬものを聞いてしまったのだ。ベイアードに出現した妖魔、藍沢の海外出張の実態と過去の「小馬」との対決、鏑木の父親のこと……。これらは自分の心の奥にしまっておかねばと鳳太は誓った。先日の折妖トーナメント戦で鳳太は、「警告」を出されている。もしこんな話を広めたら、間違いなく次は「退学」だ。
そして藍沢の件については、凰香に知られることだけは絶対に避けなければならなかった。凰香は何故か春の野外実習が終わった頃から、藍沢の「ファン」になったようなのだ。少しでも鳳太が藍沢のことを悪く言おうとーーそう、「鬼教師」と口走っただけでも、「先生の悪口、言わないでよ!」と本気で怒り出すのである。凰香に精神的な負担をかけたくないーー兄としての思いやりだった。
しかし、鳳太の心中は穏やかではなかった。鏑木が「テツ」と呼んでいたあの男のことが、腹立たしくて仕方がなかったのだ。
ーー何だよ、あのテツって奴。カブさんを泣かすとは、ふてえ野郎だ。絶対に許さん……!
機会さえあれば、あいつをぎゃふんと言わせてやりたいと、鳳太は本気で考えていた。だが、今はどうしても気になることがある。鏑木と男との会話に度々出てきた「小馬」だ。
小馬がいかなる妖魔なのか。何百人もの人間を殺害している、とてつもなく恐ろしい妖魔であることはわかるが、その正体は勉強不足の鳳太には見当もつかなかった。
鳳太は自分の机から自室の鍵を捜し出しすと、二階へ向かった。目指すは小馬の謎を解く手掛かりがある場所ーー図書室である。
鳳太が図書室へ向かっている丁度その頃ーー午後一時半頃、凰香は寮の自室にいた。ルームメイトの馬渕涼美はいない。少し早めにアルバイトへ出かけてしまったのだ。
泥棒が入ったその翌日、鳥勝は営業を再開し、馬渕もいつも通りアルバイトに行くことが出来た。窃盗による被害こそなかったが、一体何が目的であんなことが起きたのか、桐生署は調査中だと言って一切教えてはくれない。しかし馬渕から凰香はこんなことを聞いていた。
ーー女将さん、前日に娘さんに妖紙のこと、話したんですって……。
事件があった前日の火曜日、店は定休日で、店主夫婦の娘が子供を連れて実家へ帰省していた。そんな時女将が何気に言ったのだ。「あの時この子が見つけた妖紙、保管期限が過ぎてうちの物になったのよ」と。しかし娘が興味を示さなかったので、話はそこで終わってしまい、女将も馬渕へ譲ったことは伝えなかった。
さらに翌日、つまり事件当日の朝、娘は桃木町の自宅近くで子供の幼稚園の送迎乗合馬車を待っている間、そこへ集まっていた四人の母親仲間との雑談の中で、この話をしたという。最終的に「拾った妖紙が鳥勝にある」ということを知っているのは、店主夫婦を除けば娘も含めてこの五人。警察もこの事実を把握しているようだ。
もし凰香が考えるように、犯人が妖紙目的で盗みに入ったのであれば、犯人はこの五人か、もしくはその関係者ということになる。だが捜査が進展している気配はない。店主夫婦に犯人逮捕の報告は未だにないのだから。
ーー犯人が未だ見つからないなんて、何か嫌な感じ。早く解決しないかしら……。
一人でいることもあり、凰香は次第に陰鬱な気分になってきた。こんな時は大好きなクラシック音楽を聴くに限る。凰香はカセットレコーダーを取りだした。このレコーダーとクラシック音楽が録音された十本程のカセットテープは、一昨年の誕生日に祖母にねだって買ってもらった、凰香の大切な宝物だ。気分が明るくなるような曲が入ったテープを選び、レコーダーにセットして再生ボタンを押そうとした時ーー
ピンポンパンポーン。廊下の方から聞き慣れた音が聞こえてきた。これは寮内放送が始まる合図の音だ。凰香は手を引っ込め、耳をすませた。
「お呼び出しをいたします。105号室の土井さん、渡辺さん。203号室の砂川さん。お電話が入っています。至急一階管理人室までお越し下さい」
何と自分に呼び出しがかかったのだ。しかも土井や渡辺にまで。一体誰からの電話なのか、さっぱり身に覚えがない。疑問に感じつつも凰香は部屋を出て、急いで管理人室へ向かった。
正面入口脇にある管理人室へ行ってみると、土井も渡辺もおらず実際に来たのは凰香だけだった。凰香の姿を見て、受話器の通話口を押さえた寮母がほっと笑みを浮かべた。
「あ、砂川さん。よかった。土井さんも渡辺さんも来ないから、ひやひやしちゃった」
「それで管理人さん、誰からの電話なんですか?」
「若い女の人。みどりって言えばわかるって……」
「翠さん!」
凰香は思わず叫んでしまった。翠。そう藍沢の長女・翠だ。今年の五月下旬に州都市内の百貨店で偶然出会った、あの勝ち気な娘である。
受話器を寮母から受け取り、凰香は電話に出た。
「もしもし、お電話替わりました。砂川です」
「あ、砂川さん? 翠だけど。渡辺さんと土井さんは?」
声の主は間違いなく翠だった。だが以前会った時のようなはつらつさがない。その声は酷く焦っているように凰香には聞こえた。
「午後から出かけるようなことを言っていましたから、今寮にはいません」
「そう……。それであなた、今から時間はある?」
「はい。特に用はありませんから」
「それなら悪いんだけど、駅前まで出てきてくれない? 私今、桐生が丘駅前の公衆電話からかけているのよ。駅の改札前で待っているから、今すぐに」
「でもどうして急に……」
凰香が困惑しながら尋ねると、翠は一気に声の音量を落とした。
「父の海外出張について訊きたいの。どんな些細なことでもいいから、教えて欲しいのよ」
何か懇願するような、懸命な思いが電話口からひしひしと伝わってきた。そんな翠の態度に凰香は直感した。やはりそうだ。藍沢の海外出張には何かいわくがあると。
「わかりました。今すぐ行きますから、もう少し時間を下さい」
そう言って凰香は電話を切るといったん自室へ戻り、外出着に着替えて寮を出た。
電話を切っておよそ十五分後、凰香が桐生が丘駅の改札口前まで行ってみると、翠が不安げな表情を浮かべて立っていた。スーツ姿のところから見て、仕事帰りのようだ。凰香の許へ駆け寄った翠は、挨拶もそこそこに言った。
「砂川さん、ごめんなさいね。急に呼び出したりして。とにかくここじゃゆっくり話も出来ないから、近くの喫茶店にでも入りましょう」
翠に連れられ、凰香は駅前のこじんまりとした喫茶店に入った。席に着いてコーヒーを二つオーダーすると、直ぐに翠は経緯を話し始めた。
「昨夜ちょっと用があって、実家へ帰ったの。そこで父がその日の朝にベイアードへ海外出張に出かけたことを母から聞いたんだけど、とにかく母の様子が変なのよ」
いつもなら豪胆でしゃきしゃきしている母の景子が、何処となく落ち着きがない。そのくせ何を聞いても上の空、ぼーっとしている。さらに手慣れたはずの家事をちょくちょくミスをする。お湯が沸騰していても気付かず、やかんを黒こげにしてしまう。塩と砂糖を間違えて味付けする。食器を洗っている時、皿を何枚も割ってしまう……といった有様なのだ。
「茜の言うことには、どうも父が出張へ出てからおかしくなったらしいの。でも母に尋ねても何でもないと言うし、父の出張についても現地施設の視察としか答えてくれないのよ」
「そうですか……。それで翠さんはお母さんの異変の原因が、先生の出張にあると考えているんですか?」
「そう。どうしてそんな風に思うかと言うとね。実は昔、似たようなことがあったからよ。十八年前、私が未だ五歳だった時の話だけど」
そう言って翠は遠くを見詰めるような目で語り出した。
今から十八年前ーー吉華六年の七月。翠が通う幼稚園が夏休みに入った直後のことだった。当時退治屋だった藍沢は、遠方から妖魔退治の依頼が入り、家を空けることになった。出発するその日の朝、いつものように玄関で家族が見送りに出た時のことだ。
「今度の仕事は長くなりそうだからな。お母さんの言うことをきいて、いい子にしているんだぞ」
にこにこと笑い、翠の頭を撫でる藍沢。だがーー
「その時の父の顔、脳裏に焼き付いているわ。あの名残惜しむような目。まるでこれが最後かと言うように、愛おしげに私のことを見下ろしていたのよ」
妹の茜にも同じような態度で接し、藍沢は家をあとにした。普段ならこの後すぐに家の中に入ってしまう景子が、後ろ姿が消えるその瞬間まで夫のことをじっと見ていたことも、翠の印象に残った。
そしてその直後から、景子の様子がおかしくなった。家事のミスを頻発するようになったのだ。アイロンで火傷をしたり、包丁で指を切ったり、焼き魚を炭にしたり。何をするにも心ここにあらずといった感じなのだ。かと思えば一人座り込んでため息をつき、翠がいくら声をかけてもまるで反応を示さない。そのくせ電話が鳴れば大急ぎで出る……とまあ、普段の景子なら考えられないような異常行動の連続であった。
「それから四、五日経った頃かな……。午前十時頃だったと思ったけど、電話が鳴ったの。凄い勢いでダッシュして、母は電話を取ったわ。そして暫くして、急に大声で怒鳴りだしたの。『どうして今まで連絡くれなかったの! どれほど心配していたのか、あんたわかっているの!』って。そしてぼろぼろ涙をこぼして、泣き出したのよ。あの気丈夫な母がよ。信じられなかったわ」
それはまさしく藍沢からの電話だった。依頼が無事完了したとの連絡だったのだ。電話を切ると景子はその場にくたくたとへたり込んだが、娘二人を呼び寄せ、「お父さん、明日帰ってくるって」と囁いたーー目に涙を浮かべたまま。
そして翌日の朝、何事もなかったように藍沢は家に帰ってきた。ところが景子は夫の顔を見た途端、無言で抱きついたのだ。
「馬鹿っ、何をするんだ! こ、子供達が見ているだろう!」
顔を真っ赤にさせて藍沢が怒鳴っても、景子は離れない。藍沢も妻の気の済むまで付き合うしかなかったーー
「これでわかったでしょう」
話し終えた翠はコーヒーに口を付けたまま目を伏せた。
「父は相当危険な仕事を請け負ったのよ。母は心配のあまり精神的に不安定になり、おかしくなった。そして今回も似たような状況になっている。胸騒ぎがするのよ。また父が危ない仕事をしに行ったんじゃないかって」
翠の話を聞いて、凰香までも不安になってきた。もし翠の勘が当たっていれば、藍沢はとんでもない出張へ出たことになるのだ。凰香も真実を知りたいと切に願っていたので、わかっている限りの全ての情報を翠へ伝えた。
「成程。父は校長に呼び出されて妖魔局へ行ったのね。よくわかったわ」
不気味な笑みを浮かべる翠を見て、凰香は不吉な予感に駆られた。
「あの……翠さん、どうなさるつもりですか?」
「これから実家へ行くわ。そこに行けば、父の職員名簿が見られるでしょう?」
「それってまさか……」
「そのまさかよ。校長の自宅住所を調べて家に乗り込み、本当のことを聞き出すのよ。勿論いきなり訪ねるのは失礼だから、事前に連絡して手土産持って行くけどね」
翠の恐るべく行動力に凰香は一瞬言葉を失った。いくら父親のためとはいえ、その上司の家に押し掛けるとは。一方で翠が妙にむきになっているように、凰香には見えて仕方がなかった。
「翠さん、でもどうしてそこまで……」
「だってこのままじゃ私、絶対に後悔するから」
そう言うと翠は寂しげに目を閉じた。
「父と最後に会った時、口論になって喧嘩別れしちゃったの。もし父の身に万が一のことがあったら……」
「喧嘩別れって……」
「先週の土曜日のことなんだけどね……」
翠の話によればーー十日の午後、何となく実家へ帰った時のことだった。この時母親と妹の茜は留守で、家には翠と藍沢の二人きり。居間でこたつに入り茶を飲んでいると、藍沢が何の気なしに尋ねてきた。
「翠、いい相手は見つかったのか?」
「うーん、社内恋愛はちょっと難しい状況になったわね」
「どういうことだ?」
顔をしかめる父親に翠は語った。実は先月行われた社内での飲み会の席で、翠は酔って絡んできた同僚社員に、往復ビンタを食らわせたのだ。しかもそれだけではない。今月に入ってもう一つ大きな事件を起こしていたのである。
今月の上旬の昼休み。その日は日差しも暖かく気持ちがよかったので、翠は会社ビルの屋上で一人のんびりと手作り弁当を食べていた。ところが屋上にいるのは自分だけのはずなのに、何処からか声がする。おかしいと感じた翠が辺りを見回すと、非常階段の方から聞こえてくるのがわかった。しかも複数の声が。
普段利用しない非常階段に人。首を傾げつつ翠がそちらの方へ行ってみると、最上階と屋上を繋ぐ階段部分に三人の男性がいた。うち二人は翠より一年先輩の社員。そして残る一人は、今年入ったばかりの新入社員だった。
三人は翠が上から覗いていることに気付かない。しばらく成り行きを見守っていた翠だが、許し難い光景を目にした。何と先輩社員が新入社員から金を脅し取ろうとしていたのだ。相手は目上で、しかも二人。新入社員が逆らえるはずがなく、完全ないじめだった。
ーー何よ、いい年してカツアゲなんて。自分達の方が給料もらっているくせに! 見ていらっしゃい!
翠はその場を離れると給湯室へ行き、バケツに水をくんだ。そしてバケツを持って非常階段の所まで戻り、音を立てないようにヒールを脱ぐと、先輩社員の背後へ忍び寄った。三人の立ち位置は先輩社員が階段の上、新入社員が下。そこで翠は新入社員に「もっと後ろに下がりなさい」と手で合図を送った。最初は驚いていた新入社員だが、翠が意図するところを悟って一気に階段を駆け下りた。その直後ーー
「あんた達、何やっているのよ!」
そう叫ぶや否や、翠はバケツの水を先輩社員に向かって勢いよく浴びせた。暖かいとはいえ、今は十二月である。ずぶ濡れになり、寒さで震え上がった先輩社員は悲鳴を上げ、たまらずビル内へ退散したーー
「それがその日のうちに社内中に広まっちゃって。藍沢翠はおっかない女だって男性社員に怖がられるようになったの。まあカツアゲした連中が悪いんだから、上司にはちょっと小言を言われる程度で済んだけど」
……と、茶を飲みながら平然と話す翠。しかしその横で藍沢は娘の度の越えた振る舞いに呆気を通り越し、激しい怒りを覚えていた。
「お前はどうして……」
とうとう堪えきれなくなった藍沢は爆発した。
「そういうつまんねえところまで、俺に似るんだ!」
「お父さんの娘なんだから、仕方がないじゃない!」
翠も負けず嫌いな性格、売られた喧嘩は買う。似たもの父娘同士の開戦を告げるゴングが鳴った。
「女なんだから、もっと淑やかにしろっ!」
「誰がこんな風に育てたのよ! やられたらやり返せって言ったのはお父さんでしょう!」
「うるせえ! このままじゃお前、お局街道まっしぐらだぞ!」
「別にいいじゃない! 私の人生なんだから、好きにさせてよ!」
この一言が藍沢の怒りに油を注いだ。娘の将来を案じて言っているのに、当の相手はこの反抗的な態度。藍沢は拳でこたつの卓を力任せに叩き、湯飲み茶碗が転がり落ちた。
「それが親に向かって言う言葉か! もう二度と帰ってくるんじゃねえ!」
「言われなくても金輪際来ないわよ! お父さんの馬鹿!」
こうして翠は実家を飛び出し、それきり連絡を取ることはなかった。ところが今週の金曜日になってどうしても取りに行く物が出来て、突然実家を訪ねたところ、父親が海外出張で不在であることを知ったのである。
「もし父がこのまま帰ってこなかったらと思うと、いても立ってもいられなくって……。それであなた達なら何か知っているんじゃないかと思って、電話したの。でもおかげでいいことが聞けたわ。有り難う。お礼と言っちゃ何だけど、一緒に家まで来てお茶でも飲んでいって」
「え、先生のご自宅に? いいんですか?」
「構わないわ。母や妹にはあなたが来たこと、父に黙っておくように言っておくから。それじゃ早速実家へ行ってーー」
と、翠がオーダーを手にして立ち上がろうとした時、喫茶店のテレビにふと目が行った。丁度ニュース番組を放送しているところだ。
「……では、次のニュース。今朝、州都市川口区長綱川の河川敷で、男性の遺体が発見されました。今朝八時頃、犬の散歩をしていた男性が河川敷に人の遺体らしき物を発見、警察に百十番通報しました。死亡していたのは所持していた免許証から、州都市西区のアルバイト従業員、片岡修平さん五十五歳と見られ……」
画面には被害者の片岡修平なる人物の顔写真が映っていたが、何故か翠は食い入るように見詰めている。
「片岡さんの首には動物に噛まれたような痕があったことから、警察は事故と事件の両面から捜査をしています……」
そのニュースが終わっても、翠はテレビへ視線を向けたまま。心配になった凰香が声をかけた。
「翠さん! どうしたんですか?」
その声でようやく翠は我に返った。
「あ、ごめんなさい。今ニュースでやっていた人、何処かで見たことがあるような気がして……」
「会社の取引先の人……じゃないんですか、もしかして」
「いえ、私は会計課だから、外部の人とは殆ど接触がないの。会社関係の人ではないわ。何て言うか、もっと前に会っていたような……」
翠は明らかに狼狽えている。これ以上、心の中にもやもやしたものを抱えるのは避けたいのだろう。何とか思い出そうとはするものの、どうしても記憶の底からあの男性に関するものをすくい上げられない。
「仕方がない、もういいわ。今はそれどころじゃないし。とにかくここを出て、実家へ行きましょう」
そう言って翠は凰香と共に喫茶店を出た。何かきっかけさえあれば思い出すだろうと考えた翠だったが、そのきっかけは間もなく意外な形で訪れることになる……。
「あら珍しい。今日はお兄さんの方が来るなんて」
貸出カウンターにいた学校司書の中年女性が、鳳太を見るなりからかうように微笑んだ。妹さんの方はよくここに来るのにねーーと、言いたげな態度だ。鳳太は口をへの字に曲げたまま、彼女の前を通り過ぎた。
鳳太は「小馬」について調べるため、ここ校内の図書室にやってきた。土曜の午後ということもあって、今図書室にいるのは学校司書と鳳太だけだ。
その静かな室内で鳳太が真っ先に向かったのは、禁帯出扱いになっている書籍が並んでいる棚だった。ここに目指す本ーー「妖魔大系」がある。妖魔大系はその名の通り妖魔の図鑑で、全七巻からなる。鳳太が手に取ったのは最終巻の七巻だ。この巻の巻末に索引があり、まずはここから当たってみようと考えたのである。
ーーえーっと、小馬小馬と……。
ところが五十音順の「こ」の箇所を見ても、「小馬」はない。どうも正式名称ではないようだ。だがここで鳳太はひらめいた。
ーー待てよ。小馬って言うくらいだから、外見は馬に似ているんじゃないか? あの野郎もポニーとか言っていたし。
実は妖魔大系には五十音順以外にも、生息環境別やサイズ別などの複数の索引が存在する。その中の一つに類似生物別というものがあるのだ。
鳳太が類似生物別索引の「馬」のところ開くと、そこには相当数の妖魔の名前が並んでいた。上から一つ一つ名前をチェックし、「小馬」に該当するものがないかどうか調べていく。
ーー「トロイの木馬」……じゃないな。「ディーバリーの氷馬」でもないし。ん……?
類似生物別索引「馬」の一番最後にあった名前に、鳳太の目は釘付けになった。
ーー「暗黒霧の小馬」……。もしかしてこれか?
五十音順以外の索引は、解説の掲載順に載っている。問題の「暗黒霧の小馬」は第七巻、即ち今鳳太が手に取っている本に詳細な解説があるのだ。第七巻は索引以外にもオセアニアと「その他」の地域に生息する妖魔の解説が掲載されている。「その他」の地域とはアジアやヨーロッパ、南北アメリカなど主要地域外の場所ーーたとえば南極などのことだ。だが生息地域が定まらない妖魔もこの「その他」には含まれ、暗黒霧の小馬はこのページに載っていた。
早速鳳太は該当ページを開いてみた。そこにあった妖魔のイラストは、まさしく馬そのもの。サイズは十六から十八というから、体高は百十から百二十センチほど、丁度ポニーぐらいだ。目には瞳はなく、真っ白。だがそれ以外の体色は漆黒か濃紺で、たてがみは逆立って後方へなびき、尾は普通の馬に比べてやや長くてふさふさしている。不気味に光る目を除けば、そう恐ろしい妖魔には見えないがーー
ーー何だよ、この妖魔! とんでもない奴じゃないか!
特殊能力や解説の欄を読んだ鳳太は、恐怖のあまり冷や汗が出てきた。解説によれば有史以来、この妖魔は全世界で五件の人里近くでの出現記録がある。うち四件は駆除できず、その脅威から逃れるため地域住民が移住を余儀なくされている。そして残る一件は和州での記録だ。今から六十年前の麗明六年、北和州にこの妖魔が現れ、大変な苦労の末に駆除に成功した。
ーーカブさん、「六十年前に、多大な犠牲を払ってようやく仕留めた」って言っていたな。ってことはやっぱり、あの鬼教師が相手にしなきゃならないのは、この暗黒霧の小馬なのかよ!
この六十年前の駆除に至るまでの一部始終は、「紺の小馬退治録」という本に収められているという。鳳太は妖魔大系を棚へ戻すと、妖魔に関する歴史や記録を収めた「妖魔史書」のコーナーへ足を運んだ。目的の本は間もなく見つかり、その場で開いてみたものの、戦前の文書であるため不慣れな鳳太にはかなり読みづらい。ろくに目も通さず本を閉じてしまったが、ある直感が働いて見返しの部分を開けてみた。そこには紙のポケットが貼り付けられていて、貸出記録カードが中に収められているのだ。
貸出記録カードをポケットから引っ張り出してみると、数人の名前が記入されておりーー鳳太の直感は的中した。上から二番目に見覚えのある名があったのだ。
「六.七.二十二 藍沢」
これは吉華六年七月二十二日、つまり十八年前に藍沢がこの本を借りたことを意味する。退治屋だった藍沢が一人で小馬を漉いたとされるのが、今から二十五年前から十五年前の間。時期が一致する。
ーーあの鬼教師、恐らく小馬を退治する前にこの本を借りて、参考にしたんだ……。
しかし一つ気になる点がある。藍沢の名前は赤い字で書いてあるのに、他の貸出者は黒い字だ。これは何か意味があるのではないかと思った鳳太は、先ほどの学校司書に尋ねてみた。
「ああ、そのことね。赤い字で名前が書いてあるのは、学生や学校関係者じゃない人が借りた場合よ。ここで紙士免許を提示すれば、卒業生も本を借りることが出来るの。さっきも一人、卒業生の人が来ていたわね。結局何も借りずに出て行ったけど」
あなたも卒業したら来てもいいのよーーと、最後に一言余計なことを付け加えて学校司書は教えてくれた。彼女の言う「さっき来た卒業生」とは恐らくテツと呼ばれていた男のことだろう。図書室に用があると話していた。何を調べに来たのかは定かではないが。
しかし、これではっきりした。藍沢はベイアードに現れた暗黒霧の小馬を倒す手助けをするため、海外出張に出たのだ。
ーーこりゃ口が裂けても凰香には言えないな……。あいつがこれを知ったらどうなるか……。
鳳太はそんなことを思いながら図書室を後にした。勘のいい凰香のこと、もしかしたら気付いてしまうかもしれない。とにかく知らぬふりをするしかないーーそう決心した鳳太だった。
翠が凰香を連れて実家へ戻ったのは、午後三時を少し回った頃だった。翠の実家、即ち藍沢の自宅は州都市鈴江区にあって、紙士養成学校から電車を使って四、五十分程度の所だ。
ただいまーと言って翠が家の中にはいると、未だ若干幼さを残す若い女性が玄関先に現れた。
「あ、お姉ちゃん。おかえり」
「あれ茜、お母さんは?」
「さっき出かけたよ。何か落ち着かなくて、家にいられないみたい。それでお姉ちゃん、その人は?」
女性ーー翠の妹・茜は興味津々といった感じで、姉の後ろに立つ凰香を指さした。
「あ、この人ね、お父さんの教え子の砂川さん。あんたと同じ年よ」
「へえ、女の子で漉士クラスの学生さんなんだ。よろしくね」
凰香が会釈すると、茜は人懐っこそうな笑みを浮かべた。見た目といい感じといい、翠とは全く違う。顔つきは丸みをおびて平凡、髪も短髪。スタイルもさほどよくない。だが翠のようにきついイメージは皆無で、明るく朗らかな雰囲気がそこここから溢れ出ていた。
「でもお姉ちゃん、どうしてうちに招待したの?」
「ちょっと知り合ったのよ。お茶を入れてあげて」
はーいと言って茜は家の奥へ入っていった。凰香を連れてきた理由について突っ込みを入れないところをみると、余り物ごとを深くとらえないタイプのようだ。この点も姉とは明らかに異なる。
居間に通された凰香は、翠とこたつへ入った。広さは八畳ほど、室内はタンスにストーブなど、ごく普通の家と同じ物が置かれている。翠は紙士の家庭は嫌だと不満を漏らしていたが、流石に室内は一般家庭と変わりがないようだ。
茶の支度をするため台所に立とうとした茜だったが、ふと足を止めた。
「あ、そうだ。お姉ちゃんに手紙が来ていたよ」
「手紙? 誰から?」
「それがよくわからないの。差出人、書いていないから」
「それ、どういうことよ? とにかく見せて」
翠に急かされ、茜はタンスの上からA4サイズの茶封筒を手に取り、姉に渡した。宛名ははっきりと「藍沢翠様」とあるが、裏面には何も書かれていない。
「何か薄気味悪いわね。とにかくちょっと向こうで開けてみるわ」
そう言って翠は別室へ行ってしまった。茜は再度台所へ向かい、間もなく急須と三つの湯飲み茶碗を乗せた盆、そしてポットを持って戻ってきた。
「私とお姉ちゃん、全然似ていないと思ったでしょう?」
急須にポットのお湯を注ぎながら、茜はにかっと笑った。凰香が遠慮がちに頷くのを見ても、その表情は変わらない。
「お姉ちゃんは百パーセント父親似で、私は母方の祖母似なの。そんなもんだから、みんな言うのよ。本当に姉妹なのって」
「私にも双子の兄がいるんだけど、やっぱり全然似ていないの。だからいっしょにいると、よくカップルと勘違いされるのよ」
「なーんだ。お互い同じことで苦労しているのね」
二人は声を上げて笑い出した。初対面なのに心が打ち解けられる。これも茜の人懐っこさのなせる技だった。
ひとしきり笑った後、凰香は話題を変えた。
「ねえ茜さん、就職先は決まったの?」
「うん。お姉ちゃんみたいな一流企業じゃないけど、取り敢えず内定はもらったわ。砂川さんは?」
「それが……まだなの」
凰香は現在九級相当の実力しかない。女性には特に厳しい職業とされる漉士にあって、これは致命的だった。六級相当の土井、五級相当の渡辺は企業に就職が決まったが、凰香は何処も相手にしてくれないのだ。
「先生があちこちの会社に掛け合ったくれたんだけど、みんな断られちゃったって……。いくら妖視能力がSSでも、女の人は駄目だって。男の人なら将来性を見込んで採ってもいいって所はあったみたいだけど……」
女性は結婚し妊娠すると長期休暇を余儀なくされる。故に会社は即戦力にならない低級女性紙士を嫌う傾向があるのだ。藍沢もこのことを憂えていた。
ーーお前は典型的な大器晩成型だな。漉士としての実力が開花するには、もう少し時間がかかる。少しそそっかしいところはあるが、それは経験不足に起因するものだ。紙漉きをこなしていけば自然と収まる。それにしても勿体ねえなあ。せっかくのSSなのによ。何処の会社もお前の素質に目を向けないとは……。
藍沢が残念がっていたのが思い出される。兄の鳳太も就職先が決まっていない。こうなったら二人でフリーの妖魔狩人をするしかないと思い始めているのだがーー
「ちょっと茜! これ見てちょうだい!」
突然翠が居間に駆け込んできた。その手に二枚の紙と三枚の写真を持って。
「どうしたのよお姉ちゃん。そんなに慌てて」
「あの手紙の中にこんな物が入っていたのよ」
驚く茜に、翠は紙のうちの一枚ーー横書きの便せんを差し出した。だがその便せんを見て、茜も凰香も唖然とした。そこには意味不明の文字の羅列があるだけだったからだ。
「何か暗号っぽいね、これ」
「やっぱりあんたもそう思うのね。あんた国文で推理小説好きだから、こういうのは得意でしょう。解読してよ!」
「もうお姉ちゃんたら、人使い荒いんだから。そういうところまでお父さんそっくりね」
「うるさいわね! あ、こっちの方は砂川さんが見て。これはあなたの方が断然詳しいはずよ」
翠はそう言ってもう一枚の紙を凰香に手渡した。それは明らかにリストと思われる一覧だったが、紙は褐色に変色しており、かなりの年月を経過したものと思われた。そしてそのリストに上げられた物とはーー
「これって妖紙のリストじゃないですか!」
そう。そこにあったのは正しく妖紙の詳細だった。素妖の種類、ランク、レベル、色、枚数が表形式で記載されており、全部で十二種類十五枚。凰香はその一つ一つを上からゆっくりと確認していった。
「うわっ、結構怖い妖魔があるわ……。ランク5の幽鬼だって。これ、脱水が出来るから折妖にしたら危ないわ。え、ランク12忍包が二枚……? 色は銀と灰色ですって……?」
凰香が驚くのも無理はなかった。忍包の所には「番」と注記まであり、凰香には憶えがあったのだーーはっきりと。
ーーまさか……まさか。単なる偶然よね。春の野外実習で、先生が漉いた忍包と同じなんて……。
忍包が運送馬車や列車にへばりついても、穏行を使えば紙士にも気付かれない。こうして意図せずして、住処の山奥から都会へ来てしまうことは稀にあるという。春の野外実習で出くわした忍包も、この一例であると誰もが疑いもしなかったのだが……。
だが驚くのは未だ早かった。凰香はリストの一番最後に恐るべき妖魔の名を見つけたのである。
「ランク6小馬って……。これ、もしかして暗黒霧の小馬のこと……?」
「何の、その暗黒霧の小馬って。そんな凄いの?」
翠の質問に凰香は語気を強めた。
「凄いなんてもんじゃありません。漉士が遭遇したくない妖魔を上げるとしたら、真っ先にくるのはこれだと先生は言っていました」
凰香は暗黒霧の小馬について翠に語った。暗黒霧の小馬は馬の姿をした妖魔。その大人しそうな外見とは異なり、世界で最も脅威とされる妖魔の一つだ。ランク1個体のレベルは18と、妖魔としての格は極めて高い。知能は人並みで念話も使え、性格は狡猾かつ極めて残忍、そして執念深い。同胞以外の者には情け容赦がなく、そのため人間からは勿論、他種の妖魔からも非常に恐れられている。
小馬の最大の武器は、特殊能力の一つでもある口から吐く「石化の白炎」である。これを浴びると妖魔は体が硬直し、脊椎動物は瞬時にしてその部位が石と化してしまう。人間が浴びると人の肉体以外の物、つまり服は石化せず、服を纏った石像となるという。なお、植物や昆虫などの無脊椎動物には影響はないらしい。
小馬にはもう一つ恐るべき特殊能力がある。体を霧状にする「霧化」だ。霧になっている間、小馬は如何なる物理攻撃も受け付けない。銃撃しようと刃物で切りつけようと皆素通りしてしまうし、爆風に晒しても何のダメージも被らない。小馬は霧化しても石化の白炎を吐けるので、この状態で戦うのはかなりの危険が伴う。さらに恐ろしいのは、漉士の紙漉きも通じないことだ。印を結んで光の枠を放っても、これも素通りしてしまう。小馬を漉くには実体化、つまり馬の姿をした瞬間を狙うしかないのである。
霧化した小馬は空を飛ぶことも出来る。この時の最高移動速度は時速五十キロ程度。森など開けていない場所では実体化した時よりも速く、人の足ではまず逃げ切れない。霧になった小馬は上空数千メートルまで上り、気流に乗って世界中を旅する。寒さにはめっぽう強いが暑さは好まないので、温帯か亜寒帯地域を山岳地帯を目指し、気に入った場所を見つけると降りて居着いてしまう。その地ーー縄張りが人の住む場所に近いと、非常に厄介なこととなる。小馬は縄張り内に入ってきた人間をめざとく見つけて襲うので、人はその地に踏み入れなくなるからだ。
さらに居着いた小馬は仲間を呼ぶ。パートナー、即ち繁殖相手を得るためだ。この段階までに小馬を駆除できなければ、人は他の地域へ移動せざるを得なくなる。繁殖相手が来ると小馬は一気に縄張りを拡張するので、早晩人の居住地域までその範囲に飲み込まれてしまうためだ。人間という邪魔者を排除した小馬は繁殖を開始。生まれた子供は二、三年親の縄張りで暮らした後、霧となって気流に乗り、新天地を求めて旅立ってゆく。
小馬は人との接触例が少なく、故に身体的データや弱点など、紙漉きに必要な情報を殆ど得られていないのが現状だ。そのことが益々小馬の駆除を難しくしているのである。
「そんな怖い妖魔だなんて……。でも砂川さん、どうしてその妖紙がこのリストに? そんなおっかない相手なら、そう簡単には漉けないでしょう」
「やっぱり先生から講義で聞いたんですけど、戦前に和州で小馬が出て、紙漉きに成功したことがあるそうです。ほら、リストのこの字……」
凰香が注目したのは、漢字の形態だった。突撃獣の「獣」の字のように、旧字体の漢字が要所に見られる。漢字は戦後すぐに見直しが行われ、画数が多く複雑な字は簡略化された。つまりこのリストは、戦前に作られた可能性が高いのだ。
「成程ね。小馬を含めたここにある妖紙は、戦前に漉かれた物ってことなのね」
「恐らくそうだと思います。問題はこのリストの出所です。一体何処からーー」
そこで凰香はあることに気付いた。リストにあるいくつかの妖紙の前に、鉛筆でうっすらと印が打ってある。ランク2突撃獣とランク5青雷鳥の前にはXが、ランク6雪地潜とランク9霧纏の前にはレ点が。この四つを組み合わせれば何が出来るのか、凰香にはわかっていた。
ーーちょっとこれ、涼美ちゃんがバイト先でもらって、お兄ちゃんが折妖作ったあの妖紙と同じ組み合わせじゃない! 絶対にこれは単なる偶然なんかじゃないわ!
まさかこれを使って……凰香は背筋に悪寒が走るのを感じた。そんな時ーー
「あ、わかったわかった! お姉ちゃん、解読できたよ!」
突然茜が大声を上げた。翠は目の色を変え、妹に迫った。
「本当に解読できたの、茜! 早く教えてよ!」
「もう本当に、そういうせっかちなところまでお父さんにーー」
「そんなことはいいから、何て書いてあったのよ!」
「じゃあ今から解説するから、ちゃんと最後まで聞いてよ」
茜はほとほと呆れ果てた様子で説明を始めた。
「この紙に書いてあること、このままじゃ意味不明で全然わからない。でもヒントはこの中にあるのよ。この一番最初の『小語』ってところ」
茜はこたつの上に問題の紙を置いた。その紙には以下のようなことが書かれていた。
「小語:んおおよまねけけかおたりヤヲにてくてカいシいげよちみんしよけくなタなアんりかさいきどワまなレをさどのうがまといすあよしバみそとねウでめてどたかお」
小語以下は平仮名と片仮名が入り交じり、訳がわからなくなっている。しかし茜は言った。小語とは「ちょっとした言葉」という意味だが、これに惑わされてはいけないと。小語は「ショウゴ」と読むが、同音異義語に「正午」がある。正午は十二時のことであり、これをさらに読み替えると「十二字」となる。小語以下の字数は七十二文字。これは十二字ずつ六行に並び替えろと言う意味だと茜は解釈したのだ。
「それじゃ実際にやってみるよ。するとどうなるか」
茜は方眼紙を用意し、十二文字ずつ区切って文字を並び替えてみた。
んおおよまねけけかおたり
ヤヲにてくてカいシいげよ
ちみんしよけくなタなアん
りかさいきどワまなレをさ
どのうがまといすあよしバ
みそとねウでめてどたかお
これでもやはり意味が通じない。そこで今度はこれを横ではなく、左下から縦に読んでみるとーー
「ほら、ちゃんと文章になるよ!」
茜はその文を声に出して読んでみた。
「みどりちヤんそのかみヲおとうさんにおねがいしてよウまきよくまでとどけてねめいワくカけてすまないけどあなタシかたよレないおかしをアげたおバさんより」
即ちーー
「翠ちゃん、その紙をお父さんにお願いして妖魔局まで届けてね。迷惑かけてすまないけど、あなたしか頼れない。お菓子をあげたおばさんより」
確かに意味が通じるが、「お菓子をあげたおばさん」とは何者なのか。だが翠にはすぐにわかったようだ。
「お菓子をあげたおばさんって……。昔、私を誘拐した、あの女の人のこと? その人が何で今更こんな物……を……」
何かに気付いたのか、翠ははっとして立ち上がった。
「思い出した……。さっきのニュースで言っていた片岡って人……。あの人は花火でお遊んでくれたおじさん、つまり私を誘拐した男の人よ!」
「えーっ!」
凰香は腰を抜かさんばかりに驚いた。翠は十六年前に自分を誘拐した犯人二人組のことは、殆ど印象に残っていないと話していた。だが記憶の片隅にきちんと残っていたのだーーあの二人の顔が。
「おじさんは既に死んでいる。しかもただの死に方じゃないわ。何か物凄く面倒なことに巻き込まれたのかもしれない。もう、こんな時にお父さんがいないなんて!」
「お姉ちゃん、『その紙』って一緒に送られてきたそのリストのことだよね? それを妖魔局まで届けて欲しいってこと?」
茜の問いかけに翠は頷いた。
「きっとそうね。砂川さんが言うにはかなり危ない妖魔の妖紙が含まれているって話だし……。でもお父さんがいないんじゃ妖魔局になんてーー」
と、そこまで言ったところで、翠はニヤリと笑った。
「これで校長の家に行く理由が一つ増えたわ。これを校長の所へ持って行って、お父さんの代わりに妖魔局へ届けてもらえばいいのよ」
「でも大丈夫なんですか。何かおばさんがよからぬことを企んでいて、翠さんを利用しているかもしれないんですよ。相手の思惑に乗らなくてもーー」
だが凰香の心配をよそに、翠はふふふと声を上げた。
「あの人達、根っからの悪党じゃないわ。私を誘拐したのも父が持っていた妖紙が欲しかったからであって、本当はあんなことしたくはなかったのよ。それにもし本当の悪党だったら、私に頼ってなんて来やしないわ」
ここで茜が翠の肩をつついた。この暗号には未だ続きがあったのだ。
「お姉ちゃん、どうして平仮名の中に片仮名が十文字だけ混ざっているのか、わかる? 勿論これには意味があるのよ。片仮名だけ拾ってみると……」
片仮名十文字は「ヤヲカシタアワレバウ」である。これを組み直すと、また別の文になると茜は睨んでいた。「ヲ」があるところから見て、「○○ヲXX」となるようだ。○○が何でXXが何であるか、茜にはわかっていた。
「あるんだよね。名詞と動詞が一つずつ。『アヤカシ』と『ウバワレタ』が。つまり『妖紙を奪われた』ってことじゃないの?」
「え、それじゃ奪われた妖紙って……」
翠も、そして凰香も耳を疑った。奪われたのはこのリストにある妖紙に違いない。だからそのことを妖魔局へ伝えて欲しいーーそれがおばさんの本当の狙いなのだ。では、誰に奪われたのか。最も重要なポイントだけに、おばさんも何らかの方法で伝えようとしているはずだ。
「そのヒントは、この三枚の写真じゃないの?」
そう言ったのは茜だった。問題の三枚の写真は全く同じ物。何処かの家の中にあると思われる、三面鏡が写っている。
「三面鏡の写真が三枚……。ひっかけかしら? それとも掛け算? 3×3で9とか」
翠は首を捻ったが、茜には既に見当がついていた。だてに推理小説は読んでいない。
「そうじゃなくてさ。三面鏡は鏡台のことでしょ。それが三枚で三鏡台。つまり三兄弟ってことじゃないの?」
「それじゃ、犯人は三兄弟ってことなの、茜。あんた、とろいと思っていたけど、結構やるじゃない」
「暗号にしてもこの写真の意味にしても、推理小説の中じゃ結構古典的な方法よ。それでお姉ちゃん、どうするの? これ持って校長先生の所に行くの?」
「決まっているじゃない」
翠は送られてきた物を纏めながらきっぱりと言った。
「こんな厄介な物、手元に置いていたらろくなことがないわ。さっさと妖魔局へ持って行ってもらわないと。今から電話して、校長の家まで行ってくるわ」
翠は席を立つと、電話をかけに行った。電話台下の物入れの中に、紙士養成学校の職員名簿があることを知っているのだ。
茜が入れてくれた茶は未だ暖かかったが、凰香は飲む気にはなれなかった。気になることが多すぎるのだ。「このリストにある妖紙を三兄弟に奪われたから、妖魔局に伝えて」ーーそれが「おばさん」がこんな物を翠へ送りつけた理由であろう。しかし何故暗号を駆使したのか。恐らくぱっと見て意味が悟られないようにするためであろうが、何を恐れてそんなことをするのか。
リストに印がついた四種の妖魔についても気になる。Xは紙合わせをして使用済み、レ点は紙解きをして採血をしたという意味にもとれる。そうして作られた妖紙が何故道端に落ちていたのか。落としたのはおばさんなのか、奪った犯人なのか。こちらも謎だらけだ。
そして何より奪われた妖紙がどうなったのか。幽鬼や小馬といった極めて危険な妖魔の妖紙があの中には含まれている。悪用されればとてつもなく恐ろしいことが起きるに違いないのだ。全ての謎の答えを知るのはおばさんのみである。
しかし凰香にはさらに気になることがあった。小馬の妖紙の件だ。凰香の推測通り、戦前に現れた小馬を漉いたものなら、どうしてあのリストの中にあるのか。されどそれを調べる手がかりはある。小馬を駆除した際の記録が本になって残っており、うち一冊が学校の図書室にあったからだ。
ーーあれを調べれば、漉いた妖紙がどうなったかわかるはずだわ。
リストの件は翠に任せればいい。凰香は礼を言って家を出ると、学校へ向かった。図書室は土曜日でも午後五時まで開いている。急げば間に合うはずだった。
「航、親父どうしたんだ?」
午後五時前。仕事から帰宅した鏑木卓は、廊下でむくれる弟の航に尋ねた。
「知らねえよ。学校から帰ってきた途端、独りにしてくれって自分の部屋に籠もっちまった。今朝までは『うちは男ばかりだから、初孫は女の子がいいよな』とかのろけていたくせによ。お袋がいくら声かけても、黙り込んだままだ。もうお手上げだぜ」
「何ふさぎ込んでいるんだろうなあ……」
卓もよわったなあと言わんばかりに眉間を掻いた。
この二人は鏑木の息子達である。次男の卓は二十四歳の郵便局員、三男の航は二十一歳で大学生だ。長男の繁は結婚して家を出ているが、独り者の弟二人は未だ州都市内の実家に残っていた。
とはいえ、この二人は傍目では兄弟には見えなかった。弟の航は父親譲りの強面の大男で、体つきもがっしりしたラガーマン。一方兄の卓は華奢でほっそりしており、顔つきも「仏さんみたい」と揶揄されるほど優しげだ。長兄の繁は美人の母親似で、イケメンの口に入るなかなかの好青年。つまり、卓だけが両親のどちらにも似ていないのである。
ちなみに鏑木の妻、即ち三人の息子達の母親は紙士ではない普通の女性。息子達も紙士ではなく、この一家で紙士なのは鏑木本人だけだった。
その鏑木は航の言うように、帰宅してすぐに自分の部屋に籠もってしまった。藍沢が小馬退治に協力する交換条件の一つに、父親の遺骨の返還があげられていることを知り、ショックを隠せなかったのだ。藍沢が妖魔局に呼び出される前から既に条件は提示されていたとはいえ、もし彼が帰ってこなかったら……そう思うと、胸が押し潰されそうだった。
妻も息子達も、そんな父親にどうすることも出来ず、困り果てていた。ところがそんな時、家の電話が鳴った。帰宅して未だ着替えも済ませていなかったが、たまたま近くにいた卓が受話器を取った。
「はい、もしもし……。あ、いますけど……。ちょっとお待ち下さい」
いったん受話器を置くと、卓は父親の部屋の前まで行き、声をかけた。
「親父。藍滑町の柵間さんから電話が入っているけど、どうする?」
息子の声に鏑木ははっとなった。藍滑町の柵間とは柵間絵梨花のこと。紙士養成学校時代の同期で、よく知る人物だ。ここは応じなくてはまずいと感じた鏑木は部屋から出て、卓から受話器を受け取った。
「もしもし、鏑木君? 先月の主人の法要の時は有り難う。仕事終わって疲れているのに電話なんかして、ごめんなさいね」
受話器から女性のーー絵梨花の声が聞こえてきた。絵梨花は四十九歳になるが、声はかつての「お人形さんのように可愛らしい」時の面影をはっきりと残している。柔らかく心地よいその声を耳にして、鏑木はほっとするものを感じていた。
「えりちゃん、気にしなくてもいいよ。俺は大丈夫だから。ところで急に何だい? そっちから連絡くれるなんて、珍しいじゃないか」
鏑木は空元気を悟られまいと、精一杯上機嫌を装った。顔が見えないせいもあり、絵梨花も気付くことなく話し続けた。
「今日はちょっと訊きたいことがあって電話したの。実はね……ついさっき、てっちゃんがお店に来たの」
「何だって、テツが!」
鏑木は声を張り上げた。鏑木がテツと別れたのが一時半頃。今は五時前なので、その間テツは州都市から隣県の如月県中南部にある藍滑町まで移動したことになる。
「そう、突然ぶらっと……。そして『兄貴の仏前にでも供えてくれ』って言って、小さな紙袋を差し出したのよ。ところがーー」
絵梨花はてっきりその紙袋の中身は供物の果物かと思ったのだが、中を見て腰を抜かした。入っていたのは現金、しかも半端な額ではなかったのだ。
「もうびっくりして……。こんな大金、受け取れないって返そうとしたら、てっちゃん、『臨時収入だから、気にするな』って言って、どうしても引き取ろうとしないのよ」
「それでいくら入っていたんだ?」
「それが……三百万円」
その額を聞いて、鏑木の眉尻がぴくりと動いた。
「それならせめてこのお金の出所を教えてって頼んだの。ほらてっちゃん、こんなこと言うと何だけど、お客さんに無理言ってお金もらうこと、結構あるじゃない? だからこれももしかしたら、そうやってもらったものじゃないかって心配になったのよ。そうしたらーー」
絵梨花は少し間をおき、やや重い口調で言った。
「『そんなに知りたきゃ、鏑木に訊きな』って言い残して出ていっちゃって……。それで今日そちらに電話したの。このお金の出所がはっきりしないと、気になって仕事が手に着かないのよ。鏑木君、よかったらそのこと、教えてくれないかしら?」
受け取った金が綺麗か汚いかもわからず、絵梨花は途方に暮れているようだった。だがその話を聞いた鏑木の手は、わなわなと震えていた。
ーーあの野郎、俺にあの金の出所を説明させる気だな!
鏑木は怒りのあまり受話器を叩きつけてやりたい衝動に駆られたが、その様なことはおくびにも出さず、こう答えた。
「ああそれは、テツが妖魔局から情報量とかいってもらったものだ。どんな情報をあいつが売ったかは俺も知らないけどな」
「そう。出所は妖魔局なのね。それならちょっとは安心だけど……。でも本当にもらってもいいのかしら。公金だし」
「いいんじゃないか。妖魔局はテツに渡すために、事前に金を用意していたって話だし、あいつが売った情報も国益に叶うものだったようだ。それにその金、海斗の高校進学にも使えるじゃないか」
「でも海斗、中学出たら直ぐに養成学校へ行きたいって言っているのよ。せめて高校出てからにしたらって言ってもきかないし。それはともかく海斗、折士クラスを希望しているの。あの子が本校に入学したらよろしくね、鏑木君」
「ああ。俺も後四、五年は主任やっているだろうから、その時は面倒を見るよ」
それから間もなくして鏑木は電話を切った。テツがあの「情報料」を絵梨花に譲ったと知り、鏑木は少し安堵していた。
ーーあの金がえりちゃんや海斗のために使われるのであれば、藍沢も納得はするだろう……。
絵梨花の夫・治雄は、鏑木の元同級生であると同時に、藍沢の元ルームメイトで親友。その夫に二年前に事故で先立たれ、絵梨花は経済的に追いつめられた。夫婦は藍滑町で公認ショップを経営していたが、折士である夫の死によって折妖の取り扱いが不可能となった。絵梨花は染士で妖紙しか取り扱いが出来ず、事業が縮小してしまったのだ。女手一つで一人息子の海斗を育てていかねばならず、絵梨花の苦労も絶えなかった。
それにしても鏑木が「テツが妖魔局に売り渡した情報」の詳細について、絵梨花に話さなかったことは正解だった。あの金の裏事情を知れば、心根が優しい絵梨花のことだ。真っ青になり、妖魔局へ金を戻そうとしたに違いない。
取り敢えずこれで暫くの間、絵梨花が生活に困ることはないだろう。だが鏑木にはテツの行動が理解できなかった。自分に文句を言われたからあの金を絵梨花に譲ったのか、それとも最初から譲るつもりだったのか。テツは常々兄嫁である絵梨花と甥の海斗のことを気にかけ、たまに店に顔を出しては資金援助をしているという。だが退治屋であるテツは、依頼者から多額の依頼料をむしり取ることで悪名高い。資金援助をしてくれるのは有り難いが、その出所を思うと心が痛いーーと、絵梨花は嘆いていた。
藍沢の台詞ではないが、テツは何を考えているのかわからない。とにかく食えない男だーーと鏑木は思いつつ電話のそばを離れたが、もう自分の部屋には戻らなかった。内容はともかく、絵梨花の声を聞いて心の重石が一気に軽くなったのである。
鏑木が絵梨花からの電話を受けていた頃、翠は前橋の自宅にいた。幸い前橋の自宅は翠の実家から一時間もかからない場所にあった。翠は事前にかけた電話では「おばさん」から送りつけられた書類のことしか話していない。話を聞いた前橋は「直ぐにこちらに来なさい」と言ってくれたので、翠はその日のうちに前橋に会うことが出来たのである。
勿論もう一つの目的である、父親の海外出張の真実についても翠は尋ねたかったが、まずは書類のことから話さねばなるまい。翠は通された広々とした純和風の客間で、桧の卓を挟んで前橋と向かい合った。
「急にお邪魔して申し訳ありません。でもどうしてもこれをお渡ししたくて。まずはこちらをご覧ください」
翠はそう言って妖紙のリストを差し出した。それを受け取った前橋は、瞬き一つせずじっと見詰めた。前橋は漉士。妖魔のプロであり、最高峰の実力者だ。漉士の卵である凰香など足元にも及ばないほどの知識量を誇る。ここに記されている幾つかの妖魔が、どれほど危険な存在であるかは重々わかっていた。
次いで翠は茜が解いてくれた暗号文を出し、その意味を説明し、三枚の写真も見せた。一通り説明を聞いた後、前橋は翠に言った。
「成程。そのおばさんとやらはこれを藍沢君に託し、妖魔局へ届けて欲しかったのか。このリストにある妖紙を三兄弟に奪われた……とな」
「はい。恐らくそういうことではないかと思います。父は今不在なので、校長先生に代わりにそのリストを妖魔局まで届けて頂きたいんです。厚かましいことと承知しておりますが、お願い出来ますでしょうか?」
「よし、わかった。わしが責任を持って明日にでも妖魔局長に渡そう。安心しなさい」
「でも明日は日曜日です。大丈夫でしょうか」
「今夜局長には電話を入れておく。大丈夫だ。ところで」
前橋の目つきが一気に鋭くなった。
「翠さん、もしあんたがこのおばさんだったら、このリストを何処に持って行くかね?」
「何処って……」
急に質問され、翠は答えに詰まった。その様子を見て、前橋はゆっくりと語りかけた。
「普通は警察……ではないかね? 手間暇かけて妖魔局に持って行こうとはしまい。藍沢君に託そうとしたのは、恐らく彼女の『知り合い』の中では妖魔局長に直接会えそうな人物は彼しかいないからだろう。つまり、彼女はどうしても妖魔局長にこれを直に渡したかったんだよーー警察ではなく」
「では校長先生は、おばさんがリストを警察には持っていけない理由があるとお考えなのですか?」
前橋は大きく頷き、さらに話し続けた。
「そう、警察では駄目なんだ。むろん妖魔局も警察庁の一組織だが、局長は強い権限を持っている。対妖魔保安を一手に担う機関の長だからな。警察庁長官といえどおいそれと手出しは出来ん。おばさんは妖魔局長でなければ安心してこれを預けられないんだろう」
「でもどうして……」
「理由は幾つか考えられるが、全てわしの推測の域を出ん。わしの口からここで話すことは出来んよ」
「それじゃこんな暗号にしたのも……」
「何らかの妨害が入って中身を見られた時の用心として、こんな手の込んだことをしたのだろうな。このリストをどうしたいのか、誰に渡したいのかを悟られたくはなかったのだろう。こんな暗号、あんたのような若者ならわかるかもしれないが、わしのような年寄りにはさっぱりわからん」
翠は前橋の話を聞いて黙り込んでしまった。ことは翠が考えている以上に深刻なようだ。「花火で遊んでくれたおじさん」が死亡していることも気がかりだった。
しかしこのリストの件について、自分に出来ることはここまで。気を取り直し、翠はもう一つの目的を果たすため、思い切って口を開いた。
「校長先生、実は私が今日伺ったのには、もう一つ理由があります。それは父の海外出張についてです。父が何故ベイアードへ行ったのか、本当の理由を教えて下さい」
真剣な眼差しを自分へ向ける翠を前にして、前橋はしばし考え込んだ。
「本当の理由……か。何故そんなふうに考えるのかね? その訳をまず聞かせてくれないか」
翠は母親の様子が二度に渡っておかしくなったこと、過去に父親が危険な仕事を請け負ったらしいことなどを話した。話を聞きながら前橋はその目をじっと覗き込んだ。漉士である前橋の視線は鋭利な刃物のように鋭いが、翠は微塵も怯む様子を見ない。相手の思いを知った前橋も決意した。
「うーむ……。よろしい。他言しないと約束できるのなら、全てとは言わないが話そう」
「本当ですか! 約束します」
それを聞いた翠の顔に若い娘らしい笑顔が戻り、前橋も目元を緩ませた。
「わかった。では教えよう。藍沢君はベイアードに出たある妖魔を倒す手助けに行ったんだよ。過去に彼はその妖魔と対決し、紙漉きに成功している。その実績を買われたんだな」
「でも父は足が悪いんです。手助けなんか……」
「勿論それは米国側も承知している。藍沢君は前線には立てない。つまりアドバイザー役として、協力することになったんだよ」
前橋の話を聞いて翠は胸をなで下ろした。父が危険な現場に立つことさえなければ、きっと無事に帰ってくる。だがーー
「校長先生、それで米国に出たその妖魔って、何ですか? あと、父が昔その妖魔を紙漉きしたっておっしゃいましたけど、それって十八年前の夏じゃ……」
「まず最初の質問だが、これは答えることは出来ん。この妖魔が現れたこと自体、ベイアードも国外に公表されることを酷く恐れている。手こずり他国に協力を求めたと知られたら、大国としての面子にかかわるともな。あと二つ目の質問だが」
前橋は腕を組み、うーんと唸った。
「これはわしにもわからん。藍沢君が話してくれなかった。藍沢君は言っていたよ。いつ何処で誰が依頼したのか。退治屋の誇りにかけて、それだけは口が裂けても絶対に教えられないと。退治屋は契約を重んじ、依頼者の不利益になるような言動は慎まねばならん。藍沢君のような実直な人物なら尚更だ。その時の依頼者にはっきり言われたそうだ。決して口外しないでくれとな」
「そうですか……。どうも有り難うございました」
翠はそう言って礼を述べると、前橋と別れて家を出た。一人客間に残った前橋は自慢の顎髭を撫でながら呟いた。
「あの娘御、いい目をしておるな。勘も鋭い。さすが藍沢君の娘だけある。しかしーー」
前橋は改めて翠から渡された妖紙のリストを見た。前橋も気付いていたのだ。リストに鉛筆でつけられた四つの印を。
ーーこの印の組み合わせ、あの妖紙と同じだな。恐らくあれは、このリストにある妖紙を使って作られたか、これを参考にして作った物に違いない……。
だがそれ以上に気がかりなものがあった。そう、「小馬」である。
ーーこれは間違いなく六十年前、北和州の瑠璃ヶ岳に出現した小馬の妖紙だ。だがこの妖紙は……!
実は翠が訪ねてくる前、前橋が帰宅した直後の午後二時頃、ベイアードへ渡航している藍沢から国際電話があったのだ。その時藍沢は米国に現れた小馬に関する、ある重要な事実を報告していた。
ーー校長。ベイアードで出た小馬は、かつて和州で漉かれた妖紙を紙解きしたものに間違いありません。特徴が一致します。
藍沢の話によればスキー場を襲撃した後、小馬は冬祭り中の町を襲った。この町には一組の妖魔狩人が住んでいて、そのうちの漉士が小馬のロックオンに成功していたのだ。人の目に露わになったその姿とはーー
ーー色は濃紺、額には白い星が一つ。これは「紺の小馬退治録」にある小馬の外観と全く同じものです。今まで目撃例がある小馬の体色は、その殆どが黒。紺色、しかも体の一部に白い毛がある個体は、自分が漉いた黒い小馬を除けば、こいつだけです。
そこまで話すと、藍沢の口調が一気に重々しくなった。
ーー最初の事件現場と次の現場は、百キロ以上離れています。この話を聞いた時、何かおかしいと感じました。普通小馬は十数キロ四方の縄張りを持ち、その中に侵入した人間だけを襲うからです。しかし奴は違います。短期間で長距離を移動して積極的に、しかも人が集まる場所を選んで襲っている。奴は和州で一度紙漉きされ、その屈辱を忘れていません。人間を憎悪し、その怒りが収まるまで人を殺さずにはいられない。奴は人間狩りを楽しんでいるんです。
前橋ですらその話を聞いて悪寒を感じた。何と厄介なことになったのか……とも。藍沢の性格をよく知る前橋は釘を刺した。
ーーとにかく、くれぐれも気を付けるように。無理は絶対に禁物だ。
わかりましたと藍沢は答えたが、前橋は不安だった。藍沢はいざとなればかなり無茶をする。和州で紙漉きされた妖紙が紙解きされたものであれば、和州人として責任を感じ、突っ走る危険性もあるのだ。もし事前にこの事実が判明していれば、前橋は藍沢を派遣したりはしなかっただろう。
さらにあのリストの小馬と同一個体であったとは。しかも「おばさん」の言うことが真実であれば、奪われた妖紙がベイアードで紙解きされたことになる。では誰がそんな狂気の沙汰とも言える行いをしたのか。「三兄弟」なのだろうか……。
前橋は翠から渡されたリスト以外の物を手に取った。すると翠の話には出てこなかった、意外のことに気付いた。三枚の三面鏡の写真のうち、一枚にだけある物が写り込んでいる。独楽だ。三面鏡の台上に正月遊びで使うような赤い木製の独楽が一つ乗っているのである。これは一体何を意味するのか。
深まるばかりの謎。それを解決するには、全てを知る「おばさん」の身柄を確保する必要がある。しかしその行方はようとして知れない。おまけに彼女のかつての「もぐり紙士グループ」仲間が遺体で発見されている。もし彼が殺害されたのであれば、おばさんにも危険が迫っている可能性がある。
しかし前橋は教師。これ以上の深入りは無用だ。折妖トーナメント戦の時同様、またしても結果を待たねばならず、もどかしさを隠せない前橋だった。
その日の午後七時。寮食堂での夕食を終えた凰香は、寮の自室へ戻ってきた。馬渕は日付が変わるまで鳥勝でアルバイトをしているので、今夜は一人きりだ。
今、凰香の手元には図書室で借りてきた「紺の小馬退治録」がある。凰香が図書室に駆け込んだのは閉鎖十五分前。室内でゆっくり閲覧している時間はなかったので、借りて自室で読むことにしたのだ。しかし凰香が図書室へ入った時ーー
ーーあら、今度は妹さんの方が来たわ。
学校司書の女性が笑いながらこんなことを漏らしたのだ。その言葉を聞いて、驚いたのはむしろ凰香の方だった。鳳太が図書室へ来ることなど、滅多にないのだから。
ーー兄が今日、ここに来たんですか?
ーーええ。一時半くらいだったかな。妖魔大系を熱心に見ていたわね。棚から取り出した位置からすると、見ていたのは七巻ね。その後、妖魔史書のコーナーへ行って、本を一冊取り出したけど、それはちょっと見ただけで直ぐに棚に戻していたわ。
普段は学生の動きを目で追うことなどしない彼女だったが、相手が滅多に来ない「珍客」だったので、ついチェックしてしまったらしい。
ーーへえ、あのお兄ちゃんがねえ……。試験前でもないのに、どうしたのかしら?
ーーあ、そうそう。あとこんな事も訊いてきたわ。貸出記録カードの名前の色について、赤と黒の違いはなんですか……って。だから貸出者の校外か校内の違いだって教えてあげたのよ。
そうですかと言って凰香は貸出カウンターの前を離れた。兄の意外な行動にいささか疑問は持ったものの、重要な「案件」を抱える今の自分にとっては、取るに足らぬ出来事だ。妖魔史書コーナーへ行って目当ての本を取り出し、学校司書の許へ戻ってきた。貸出期間は校内者は一週間、校外者は二週間だ。凰香はここで学生証を提示し、来週の土曜日まで借りられることになったがーー
ーーちょ、ちょっと待って! それ、見せて下さい!
学校司書が貸出記録カードに自分の名を記入しようとするのを、凰香は思わず制止してしまった。貸出記録カードに見覚えのある名前がある。しかも赤い字でだ。凰香も気付いてしまったのだ。藍沢の名があることに。
翠は言っていた。吉華六年の七月、夏休みに入った直後に藍沢が「相当危険な仕事」に出たと。藍沢が本が借りたのは吉華六年七月二十二日。返却日は二十四日だ。もしこのあと直ぐに妖魔退治へ出たとすればーー
「まさか先生が十八年前に受けた危険な依頼の相手って、この小馬のこと……? でも小馬が出たなんて話、聞いたことがないし……」
もし小馬が和州に出現したら、それこそ天地がひっくり返るような騒ぎになるはずだ。妖魔局へは勿論、政府にまでその情報は伝えられ、対策チームが立ち上げられる。腕利きの退治屋や妖魔狩人が召集され、自衛隊まで駆り出されて大規模な山狩りが行われるだろう。だがいくら手を尽くしても、犠牲者ゼロで済むわけがなく、退魔史上稀にみる大惨事になることは必至だ。
しかし講義でも噂でも報道でもそんな話は聞いたことがない。これは一体どういうことなのか。やはり自分の思い過ごしで、藍沢は別の妖魔を退治しに行ったのか。
いくら考えても結論には至らない。凰香は一回伸びをして頭の中をリセットし、借りてきた本を開いた。この本が纏められたのは事件からおよそ一月後。その記憶もまだ生々しい頃で、壮絶なる戦いぶりが克明に記されていた。
麗明六年五月初旬。小馬は何の前触れもなく北出県と荒岩県との県境に跨がる名峰・瑠璃ヶ岳に現れ、山菜摘みに来ていた麓住民を数名殺害した。難を逃れた住民から連絡を受けた地元の妖魔狩人が、この妖魔の正体を確認、妖魔局へ報告した。
この報を受け、政府を通じ陸軍が動いた。北出県に駐屯する精鋭部隊・第七連合隊第十七中隊二百十三名と、軍属の漉士四名。これに和州でも五本指に入る民間の三組の退治屋を加え、小馬討伐隊が結成された。討伐隊は同月二十三日、瑠璃ヶ岳に潜入。二十二時間に及ぶ死闘の末、どうにか紙漉きに成功したが、その結末たるや悲惨極まるものだった。生き残ったのは三名の兵士と一組の退治屋のみ。残りの者は小馬の石化の白炎によって石にされたか、石化による血流阻害によって死亡。小馬を漉いたのは軍属の漉士の一人であったが、彼は腹から下を石にされ、最後の力を振り絞って印を結び、事切れたという。かくして人々は小馬の脅威から解放されたがーー
「ない! ないわ! 漉いたはずの妖紙がその後どうなったか、記録が!」
本には事後処理についても書かれてはいた。が、生き残った五名に与えられた報酬や死亡者の遺族に対する保証、関係責任者の処遇に関する話が中心で、肝心の妖紙についての記載は一行たりともない。妖紙は処分されずに生存者が持ち帰っているはずだ。この小馬討伐は旧和州陸軍の主導で行われた。よって妖紙は戦利品として、陸軍の手に渡った可能性が極めて高い。
それでは何故その記録がないのか。もうこれは故意としか考えられない。世界でたった一枚しかない、貴重かつ危険な妖紙だ。陸軍が所在を明らかにするはずがない。当時は戦争の影が和州にも忍び寄っていた時代。とっておきの「兵器」として陸軍が自らの秘蔵物としたのか、何処かに譲渡または売却したのか……。
だがそれが流れ流れて「おばさん」の物になり、何者かに奪われた。これは確かなことだ。本にあった小馬の特徴は「色は濃紺 額には白い星」。あの妖紙のりストにあった小馬の妖紙の色は「濃紺 白斑一つあり」だったので、同一個体に違いないのである。
凰香は祈った。この妖紙が悪用されないことを。しかしその願いも空しく、既に事件は起きてしまっていることを、彼女は知らなかった。