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クィルター宅は、真新しいマンションの最上階の一室だった。新築というだけで高級マンションではないのだろうが、最上階は家賃が高いという印象からか、キールは「金持ちめ……」とこっそり呟いた。
アトラント含め、アヴァルに永久移住するのは今更困難だが、クィルターやジェーンのように仕事や学業で一時的に移り住む人間はたまにいる。このマンションの住人も、そういう人間が殆どだとクィルターは語った。
「だからか、あまり地域の情報が耳に入って来なくてね。自力で探そうにもどう探していいのかも分からなくて、警察に頼ろうとしても相手にされず……」
「あ~、アトラント市警は人手不足ですからね。一つ大きな事件があると、他に手が回らない事はよくあるんですよ。アヴァルを作るに当たって警察官が集められたんじゃなく、抽選で選ばれた第一国民の中から、経験者を寄せ集めたような集団なんでね」
「それって治安を守る面としてはどうなのよ? 私も相手にされなかったし、機能しないんじゃ存在価値がないじゃない」
「そこまで言ってあげるのは……。まぁ、建国当初の第一国民だけだった頃は、それでもどうにかなっていたんだけどね。だから俺達が必要だってのもあるけど」
「――――」
キールを見てジェーンは口を開きかけたが、丁度クィルターが鍵を回し扉を開けたので、そのまま何も言わず口を閉じた。
クィルターに続いて他の三人も中に入る。
越して間もない部屋は整然としている。子どもと二人暮らしで物も少ないようだが、それ以上にその様はクィルターが家にいる時間が少ない事を窺わせた。
入り口にはクィルターの普段履きらしきもの以外に靴は表に出ておらず、壺や絵画等の部屋を彩る装飾の類もない。
短い廊下を進み、ガラスが嵌め込まれたドアを開け、通されたリビングにようやくポスターが三枚壁に貼られていた。淡泊な印象を受ける部屋の中、今時珍しいアール・ヌーヴォー調の画風のそれは、そこだけが華やかな雰囲気で目を引く。
それをじっと見るキールと、周囲をキョロキョロ見回すアトリに、クィルターは照れ笑いを浮かべる。
「家に人を入れる事なんて普段ないから、そんなに見られると恥ずかしいな」
言いながら扉から真っ直ぐ進み、カーテンを開けて窓から風と陽光を取り入れる。キールは「南向きの窓か……いい部屋住んでるな~」と、またしても羨ましそうに呟いた。
ジェーンはジェーンで、部屋中央に置かれたテーブルに手をそっと乗せ、思ったまま素直な感想を述べる。
「でも綺麗にしてますよね。仕事しながら家事も熟しているのは、素直に感心しますよ」
「そう言われるのも、また恥ずかしいものがあるけれど。その、ありがとう」
「訊きにくい事あえて訊きますけど、奥さんは一緒に住んでいないんですよね? その理由は聞いても大丈夫ですか?」
相談所を出る段階でジェーンにも、クィルターの娘の話は本人の口から説明された。ジェーン同様、『一人でも多くの人に知ってもらっていた方が良い』というクィルターの判断だったが、その時も娘の話だけで妻の話は出なかった。キールとアトリも気になっていたはずなのに、自分達から問う事はしなかったわけだが――
「いや、ジェーン。君それは、はっきり訊き過ぎってもんだよ。話さないって事は、娘さんを探すのに必要じゃない情報って事だし、無理に訊き出さなくても……ですよね~?」
同意を求めるようにクィルターに話を振るが、そう言いつつもキールはぐっと前傾姿勢になって、興味津々といった風に目を輝かせている。
アトリはアトリで、背を向けて興味がないように振舞っているが、ちらちらと何度も視線を向けて、明らかに耳をそばだてる気満々だった。
三者三様の露骨な態度に、クィルターは眉を八の字にして「あはは……」と笑ってみせた。
「やっぱり訊かれるよね。警察でも話したから、教える事自体は問題ないけど――お恥ずかしながら、私の力不足で色々と苦労を掛けてしまって、最後には逃げられてしまったんだよ……。こっちに来るに当たって娘のケイトは私の親に預けてきたら、理由は分からないけどどうやら向こうで学校に行っていないらしくて……だから最近になって、こちらに呼び寄せたんだ」
「それで男一人子一人か。不登校の原因は色々考えられるけど、とりあえずアトリとは違うだろうな~」
ヘヘヘと嫌な笑いを浮かべたキールに、アトリがムスッとして目に触れた大きなぬいぐるみを、キールの腹に勢い良くぶつけた。
腹部を手で押さえてフラフラと椅子に座ったキールを見て、クィルターがハッと気づいた表情になる。
「そういえば、お茶もまだだったね。今淹れるから三人とも座っていて」
クィルターが、リビングと続きになっている台所に向かおうとするところに、ジェーンが手で制す。
「それなら、私が淹れますよ」
「え? いや、お客様にお茶を用意させるわけには……」
「クィルターさんは、二人と相談する事もあるでしょ。その間私は暇だから、それぐらいやらせて下さい」
「そうかい? 悪いね。そこのキッチンの目につくところに物は置いてあるから、好きに使っていいよ」
頷いたジェーンが、クックトップの前に立つのを視界の隅に入れたが、本題に入る為にキールは組んだ腕をテーブルに乗せ、対面に座るクィルターと顔を突き合わせる。
「警察に駆け込む前に、家の中は調べたんですよね? 何か変わった点は? 物の位置が変わってたりとか、無くなってたりとか」
「私のものは特には……。ただ、ケイトのものがいくつか。鞄や靴や服なんかがね。あとはお金と食べ物も少し減っていたように思うけれど、それは気のせいかもしれないかな」
「ふむ」
キールは組んだ腕の人差し指をトントンと動かし、何か考える素振りを見せる。そうしてまたクィルターの顔を見る。
「さっき相談所で『家出をして私の気を引こうなんて考える子では絶対にない』って言ってたけど、そんなあからさまに本人が持ち出した状態で、神隠しだと言い張る方が無理ありません?」
「それは……」
「クィルターさんも本当は分かってますよね。それでも神隠しだとした理由があるんでしょうけど」
キールにじっと見られて、その視線から逃れるようにクィルターは顔を逸らす。疾しい気持ちがあるのは一目瞭然だが、キールはそれ以上は何も言わず、静かに言葉を待つ。
クィルターは俯き加減で、とつとつと語りだす。
「まあ、その……そうだね。正直に言えば私も、半分は神隠しに遭っただなんて信じていないよ。警察にはそう言った方が、力を入れて早急に見つけ出してくれると思ったからだよ。娘を心配するのは当然の親心じゃないかい?」
「…………もう半分は、本当に神隠しに遭った可能性もある、という事ですよね」
「家出だったとしても、九歳の子が一晩経っても音を上げて帰ってこないのは、やはり心配だからね。何かあったということも充分考えられるよ。親馬鹿と思われるかもしれないけど、ケイトは見た目の綺麗な子だから、誰かに狙われてもおかしくないと思うよ」
「そういえば、娘さんの写真ってあります? 探すのにあると便利なんですけど」
「それが、ケイトは写真が嫌いで……。私も無理に撮ろうとはしなかったから、手元に一枚もなくてね」
改めて部屋を見渡してみるが、写真立ては棚の上に置かれていたが、その中は家族写真ではなく芸能人らしき人のブロマイドだった。三枚のポスターが貼られた壁側にあり、よく見れば写真はポスターの人物と瓜二つだ。
「あれは?」
「ああ。お恥ずかしながら、私ファンでね。知っているかい? 『ティアーズ・オブ・ラブ』」
キールは「えー、あー」と笑って誤魔化す。頬を掻いて横を見るが、隣に座るアトリも無言で首を振った。
「『ティアーズ・オブ・ラブ』。人気の舞台劇ですよね」
長方形の盆にティーセットを持ってやって来たジェーンが言った。
「劇? ふーん。君知ってるんだ?」
「実際に観たことはないけどね。最近だとパリ公演の時は、即日ソールドアウトだったそうよ。私はあまり興味はないけど、学校の子達が話題にしていたわ」
「美大なんだっけか。やっぱ芸術方面に関心がある子が多いんだろうな。それで、どういう話?」
「ええっと、確か……異国人の女性と、三人の少女達の話? でしたよね?」
ティーセットをテーブルに並べながら、ジェーンはクィルターに訊ねる。クィルターは大きく頷く。
「教師の男と三人の娘が暮らす父子家庭の家に、異国から来た若い女が三姉妹のお世話係として雇われるんだ。最初は反発的だった三姉妹も、女と少しずつ気持ちを通わせていってね。娘の悩みや父親のトラブルなんか色々経て、最終的には女は男と結婚して家族になる――簡単に言うと、そういう物語だね」
「ヒューマンドラマっての? なんか、割と分かりやすい話ですね」
「でも、だからこそ万人に受けるとも言えるよ。それに話の筋も素晴らしいが、何より登場人物が魅力的だよ。特にヒロインのヴィオレッタは明るく献身的で、文字通り聖母のような人なんだ」
言いながら、クィルターはブロマイドを指差した。ロングの黒髪を一本の三つ編みにした、本翡翠の輝きを思わせる緑の瞳が印象的な二十代の女性だ。
どことなく既視感を覚えるそれに、キールは不思議そうに頬を掻きつつ、他のブロマイドに目を向ける。
黒髪の女性の他は、話に出た三姉妹だというのは分かる。ポスターもその三姉妹が一人ずつ描かれている。右から順に栗毛の長女、亜麻色の髪の次女、栗色の髪の三女で、アール・ヌーヴォーらしく細かい描き込みと、少女ながら女性らしい体の曲線とが見られる。
色合いは全体的に落ち着いているが、唯一次女の瞳の色だけが赤く冴えていた。
キールの視線に気づいてか、ジェーンが「ああ」と声を上げる。
「次女は、その目の色のせいで学校で苛められるのよ」
「アルビノか。まぁ見た目が原因の差別は、そんなに他人事でもないけど」
キールは、自身の髪の毛の先を指で抓む。混じり気のない濃い金色の髪が、指に弄ばれてクリクリ動く。それを見て上目遣いになっている琥珀色の目も、角度や光の加減で金色にも見える。
「あんた、苛めに遭うような風には見えないけど? 染めてないでその色は綺麗だとは思うけど、金色自体はそう珍しいものでもないでしょ」
「ノンノン! この美貌を、周りが放っておくわけないっての。学生の頃なんて『金色王子』ってニックネームで男子から妬まれ――」
「嘘八百」
アトリにぴしゃりと言い切られて、おまけに脳天にチョップまで食らった。
鈍い衝撃に「うをおおおぉぉ……」と頭を抱えるキールに、ジェーンは呆れて嘆息するとテーブルの上を示す。
「馬鹿言ってないで、折角お茶入れたんだから冷めない内に飲みなさいよ。ほら、アトリちゃんとクィルターさんも」
促されて三人はカップに手を出す。仄かに温かい熱が伝わり、薄らと湯気も立っている。
外で秋風を受けた身を温めるのと、一息吐く意味でも、一服しようと口に運び――
「うっ………!!」
「あ、あれ…………?」
アトリは顔を顰めて噎せ、クィルターは額に脂汗をかきながら首を捻ねった。
確かに飲んだものは紅茶だった。それは間違いなかったのだが。
改めてカップを顔に近づけると、漂って来るはずの紅茶のいい香りがしていない。味はするが想像を超えて渋く、まるで苦味だけを抽出したかのような刺激に、衝撃を受けざるを得ない。これまでずっと表情に乏しかったアトリですら、思わず涙目になったぐらいだ。
紅茶色の液体がカップに並々と入っている様子を、二人は絶句して見つめる。
紅茶であり紅茶ではない。ただの色水ならまだ良かった。
これは苦水――否、それを超越した毒水。
「っ…………」
――ふと、アトリは朦朧とした視界の中で、隣に座るキールを見る。
二人と同じく紅茶と思しきものを飲んだはずのこの男は、だが全く意に介した風もなくピンピンした様子で、それどころか、
「ん~、デリシャス!」
と言って、笑顔でゴクゴクと飲み干してしまった。
「馬鹿……舌……」
アトリが零した言葉はキールの耳に届く事なく、アトリはテーブルに突っ伏した。
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