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世界に異変が起こったのは、今から十五年前――西暦一九九九年の事。
突如発生した地殻変動により、北大西洋上に島が出現した。
側面から見たダイヤモンドのような形をしたその島を巡って、どの国の領土となるか、名乗りを上げた七か国同士が、オブザーバーも加え会議を行った。
浮上直後の調査により、これといって森林資源や鉱物資源があるわけでもなく、島自体の価値は薄いと分かっていたが、自国の産業開発の手を広げる為に土地そのものを欲する国は多い。
領海、排他的経済水域等の観点からも、各国が強く領有権を主張し、苛烈な論争が繰り広げられる――かと思われていたが。実際には三回の会議を経て、思いの外すんなりと話は纏まった。
結果として、ある国が資金面や技術面で支援するものの従属という扱いではなく、新たな国という形を取る事になった。
島国は『アヴァル』と名付けられ、最初の国民として移住する権利は、各国から希望者を募り抽選で決定とした。
ジョン・クィルターは第一国民ではなく、今年になってから仕事の都合で引っ越してきたばかりだった。
アヴァルの主要都市の一つ、南部最大の人口を誇る『アトラント』は、越して間もない彼にはあまりに広く、九歳の少女一人を見つける事など到底出来る事ではなかった。
女性職員に言われた『アトラント民間総合相談所』というものがどんなものなのか、クィルターは全く知らなかった。だが警察が当てにならない今、他に縋るものもなく、とりあえず聞いた住所と簡単な地図を頼りに行ってみる事にした。
地域によっても差はあるが、アヴァルの街並みは欧州風である事が多く、アトラントも例外ではない。一部現代的な設備を有してはいるが、極力テクノロジーとは無縁の環境作りがなされており、俗世との関わりを制限している。
例えば、アヴァルではパソコンはあるがインターネット回線は必ず有線で、携帯電話の基地局がなく電話は固定電話のみ。それも各建物にあるものではなく、一部の家庭、他は会社や公共施設にある程度。
統制の取れた風景に環境作りは、まるでどこかのテーマパークにいるかのような錯覚を受ける。事実、この十五年間でアヴァルは観光リゾートとして、徐々に客足を伸ばし人気を得つつある。今視界にいる道行く人の中にも、観光客が混ざっているだろう。
だが統制が取れているという事は、逆に言えば似たような風景が多いという事だ。土地勘のない者には、一目では道や建物の違いが判断出来ない。それは海外赴任してきたクィルターにも言える。
アトラント市警察署を出てから二十分、大通りの十字路でクィルターは足を止めた。
「あ、あれ……? こっち……かな?」
キョロキョロと周囲を見回し、女性職員が描いてくれた地図を回し、唸りながら首を傾げる。
ここまでの道程は合っていると思うのだが、地図にある十字路がここで良いのかが分からない。更に前方に視線を向けると、似たような十字路が見えるのだ。地図によると目印があるはずなのだが、それらしいものがこの十字路では見つからない。
女性職員の描いた地図も悪い。簡易にも程があるし、道と道の距離感が掴めず、ところどころ何かのイラストが描かれているのだが、それが何か分からない。九歳の娘の落書きの方が幾分かマシというレベルだ。
「これは……タヌキの絵、なのかな? うーん、こんな事なら描いてもらった時、きちんと聞いておけば良かったな……」
いつまでも地図と睨めっこしていても仕方ないので、丁度通りかかった地元民らしき婦人に声を掛ける。
「失礼、奥様。少しお訊ねしたいのですが」
「……なんだい」
風貌からして主婦だと分かる婦人は、クィルターを見て訝しげに眉を顰める。
クィルターは人の良さそうな顔をより一層和らげ、警戒されないように努める。
「道が分からなくて……この地図の場所に行きたいのですが、どう行ったらいいのでしょうか? 民間総合相談所というところらしいのですが」
「あらま、相談所に行きたいのかい? なんだい、なんだい。あの子達のお客人かい」
ころころと笑ってから、婦人は身振りを加えて説明してくれる。
「相談所へは、そこの肉屋の角を曲がって、道なりに進んだ先のT字路まで行けば分かるよ。その角にあるビルの三階だからね」
「肉屋……あ、これってタヌキじゃなくて、豚の絵だったんだ」
見ると、十字路の角にある肉屋の店先には、豚が象られた看板がある。店のマスコットキャラクターなのだろうが、地図のイラストとはえらい違いだ。
改めてイラストをまじまじと見つめるクィルターの横で、婦人は最初の不審がっていた様子はどこへやら、満面の笑みで話しかけてくる。
「あんた、相談所を知らないってことは、よそから来たんだろう? アトラントはどうだい? いいところだろう?」
「ええ。風景はどこも美しいですし、先端技術とは縁遠いですが芸術面で豊かな環境なので、娘の教育においてもいい場所だと思います。――ところで、その相談所というのは、そんなに有名なところなのですか?」
「まあ、そうだね。アトラント全域ではどうか知らないけど、少なくともこの辺りに住んでいる人はみんな知っているんじゃないかい? なんと言っても、色々と目立っているからね」
「そ、そうですか」
何が目立つのか、婦人の言っていることの真意はクィルターに分かるわけもなく、曖昧に相槌を打つ彼を置いて、婦人は話を続ける。
「相談所に用があるなんて、よっぽどの事があるんだろうね。あの子達がきっと力になってくれるだろうから、気をしっかり持って頑張るんだよ」
「は、はいっ!」
労いと共に背中を叩かれ、クィルターは思わず背筋を伸ばした。婦人は満足そうに頷くと、突然自身の鞄の中身を漁り出した。
「そうだ、あんた。相談所へ行くなら、これ持っていっておくれよ。『この間のお礼』って言えば分かると思うからさ」
「え、え? あの、ちょっと……!?」
婦人は「頼んだよ」と鞄から出したものをクィルターの手に押しつけると、清々しい笑顔を浮かべて立ち去ってしまった。
クィルターはしばし呆然とするが、両の掌に乗ったものを見下ろし、気を取り直して歩を進める。