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相談所に依頼して三日目の夜。
ジェーンは大学からの帰り、同級生のエリザベス・ハルフォードと二人で歩いていた。大学を出た頃には外は暗くなっており、体も疲れた様子で足取りが重い。
「あぁもう、疲れた! 先生も容赦なさすぎよね。まさかこんな時間になるなんて」
「でもジェーンは留学生だし勉強するのが目的で来たんだから、これで正しいんじゃないかな?」
「そうは言っても、イーゼルの前に座りっぱなしは、体力も精神も結構擦り減るわよ」
手を組み伸びをするジェーンに、エリザベスは「そだね」と小さく笑った。
その後、二人は他愛のない話をしながら歩いていたが、ふとエリザベスが言葉を選ぶ素振りを見せる。察したジェーンは言葉を待つが、エリザベスの深刻そうな顔つきに自身も自然と表情が引き締まる。
やがてエリザベスは、街灯の下で立ち止まる。手に持ったトートバッグの持ち手を強く握り締めながら、ジェーンを上目遣いで見つめる。
「ジェーン――最近、何かあったんじゃない?」
ジェーンは虚を衝かれて目を見開き、咄嗟に言葉が思いつかない。
「何か、って……何かしら……」
ようやく出た言葉は余計エリザベスを不安にさせたようで、更に強く握ったトートバッグを胸まで引き上げ、瞳が揺れる目は伏せられる。
「だって、様子がおかしいよ。どことなく落ち着きがないの、隠してても分かるからね?」
「リリアン……。そんな事言ってくるなんて、リリアンこそどうしたのよ」
「私はただ――ひょっとして、昨日の子が何か関係ある?」
「昨日の子って、アトリちゃんの事? 長い金髪のお人形みたいな?」
黙って小さく頷くエリザベスの、その元気や自信がなく縮こまった体、そして脆く崩れてしまいそうな肩や後頭部をジェーンは見つめる。
自然と手が伸び、そのままエリザベスの手を包み込むように握る。
「リリアンったら、私を誰かに取られるとでも思っているの? 私はどこにも行ったりしないわよ。リリアン、あなたもそうでしょ? 私が留学を決めてあなたが空港に迎えに来て、初めて会ったその日から、これからは離れないって誓い合ったじゃない」
「うん……。ずっと欠けていた半身を見つけたような、そんな気持ちだったよ。手紙でしか知らなかったジェーンを近くに感じられて、凄く……凄く嬉しかったよ。この幸せがいつまでも続けばいいなって、そう思ったよ」
「私も同じよ。それなら、分かっているでしょ? リリアン」
ジェーンはエリザベスに顔を近づける。コツン、と額と額をくっつける。
冬の気配を匂わせる秋の夜風は冷たく、二人の吐く息は薄ら白いが、繋いだ手とおでこから互いの熱を分け合う。
「ジェーンの、あったかい……」
「そうね。あったかくて、気持ちいい……」
二人はしばらくそうしていたが、どちらからともなく名残惜しそうに離れる。
横を車が通り過ぎ、ヘッドライトで一瞬二人の姿がはっきり照らされる。エリザベスの顔からは憂いの色が消えていた。
ジェーンはショルダーバッグを掛け直し、大通りから一本入った道を振り返る。
「それじゃあ、私今日はこっちから帰るから」
「えっと、大丈夫? そっちが近道なのは知ってるけど、街灯なくて暗いし人通り少ないから危ないんじゃないかな……」
「遅くなっちゃったからこそ、出来るだけ早く帰りたいでしょ。大丈夫大丈夫。少し早歩き気味で行くから」
「そう……? 最近神隠しなんて話も聞くし、充分気をつけてね」
エリザベスと手を振って別れ、ジェーンは前言通り、早足で暗がりの道を進む。エリザベスにはああ言ったが、ジェーンも怖くないわけではないようで、眉を顰めて口は真一文字に引き結んでいた。
メインの通りから外れたので、本当に街灯が一つもない。両手を広げれば手が届きそうな狭い通路で、建物の窓から漏れる僅かな明かりと、上空で雲に見え隠れする月だけが、道を照らす光源だった。
心情を表すようにジェーンの歩みが徐々に早まり、それが小走りになった頃、
「あっ!」
道に投棄されていた何かに引っ掛かったのか、ショルダーバッグに付いていたキーホルダーが外れて地面に落ちた。「もう……」と冷えた溜め息を吐き、拾う為にしゃがんだ。
その背後――
「ひっ……!?」
人が立つ気配がして、ジェーンは飛び上がった。背筋に走る緊張は気のせいなどではない。
恐怖で体が強張り、振り返る事も出来ない。それ以前に、振り返っては取り返しのつかない事になる気配すら漂っている中で、そんな愚行を反射的にしなかった事を褒めたいぐらいだった。
頭上で息遣いを感じる。硬直するジェーンの顔の横を、後ろから手が伸びてくる。
それが視界に入った――瞬間、どこからか破裂音のようなものがして、ジェーンは弾かれたように手を跳ね除け全速力で走り出した。
ショルダーバッグは揺れて邪魔にならないよう胸に抱きかかえ、拾ったキーホルダーは仕舞うのを忘れ握ったまま、ただひたすらに足を動かす。
前に、前に、もっと前に。
息がちゃんと吸えているのかも分からず、無我夢中で道を通り抜けるが、どこまで行っても明かりが少なく人通りもない。しばらく裏道が続くのは分かっていたのだから、途中どこかで道を逸れれば良かったのだが、そこまでの冷静な判断は出来なかった。
頭を使うよりも何よりも懸命に足を回転させるように進めるのに、いくら行っても追いかけてくる足音や息遣いが消えず、ジェーンは「大丈夫……大丈夫……」と何度も小声で呟くが、体力的にも精神的にも追い詰められていく。
疲れから足が縺れ、減速したジェーンが諦めの表情を浮かべる。