夏の始まり
勢いよく飛ばされたユーシャは
熱した鉄板のように熱い砂浜をごろごろと砂煙を上げながら
波打ち際まで転がった。
そんな穏やかでない登場にも雄大な海は暖かく迎え、
くたびれた頭に海水の洗礼を施した。
「ぎやぁぁつ! 沁みる! 目が沁みるっ!」
初めての海水を目と口と鼻から触れて、痛切な悲鳴を上げた。
目の中のそれを洗い流そうとつい反射的に近くの水(海)で洗い流そうとすると、
早くも二度目の体験をすることになった。
「何やってんのかしら、あいつ」
まるで鏡に向かって威嚇する犬を見るように、
扉を閉めたシャルロットは初めての海にはしゃぐユーシャを眺めていた。
「はぁ、はぁ、この野郎。なめやがって。
干上がらせてやる!」
「どうしてそうなる。やめなさい」
周囲の海水を一瞬で蒸発させるほどの熱量を持った小型の太陽を
手のひらの上で作り出すユーシャを火に強い耐性のあるシャルロットがはたいて
その八つ当たりを阻止した。
「海水で顔を洗って、少しは目が覚めた?」
「だって、こんなとこに海があるから」
「それを素面で言ってるなら、どうしようもないわよ?
馬鹿な事言ってないで先行くわよ」
「あっ。ちょっと待てって。
靴の中がぐちょぐちょで気持ちわりぃんだよ。
おいっ。おーい」
何事にも風情というものがある。
油がぎとぎとで味噌がこってりの通ならとんで喜びそうなラーメンがあっても
それが女子高生が来るようなカフェで出されているとしたら台無しだ。
そんな感じで海辺の宿泊施設にもそれなりに合った外装をしてなければならない。
「にしても、これは酷すぎね?」
一言で表すならば、寺。
それも、敗残兵が合戦から逃げ落ちるときに使うようなボロさを感じる。
しかし、
「すごい! なんか歴史を感じさせられるわね」
「歴史? これが?」
玄関の鳥居から本殿(?)まで、三メートルしかない参道の脇には
腰の位置まで伸びた雑草がまばらに生え、
寺の障子も屋根瓦もところどころ穴が空いていて、
雨風に困りそうな物件をシャルロットは目を輝かせて喜んでいた。
先に来ていた数人の女子校生たちも全員、ささくれだった柱や
さび付いた願い事の時に鳴らす鈴などを
興味深そうな手つきで触っていた。
(そうか。こいつらお嬢様だから
こんなボロっちいところで生活したことがねえんだ)
こういう当たり前のようなことでも育ちによって価値観の違いが表れる。
目標とする客層に合えば劣悪な物品でも高い利益を生むことがある。
つまり、『相手』が存在する行動において最も重視するべきことは
自分に何ができるか、よりも、自分に出来ることを高く買ってくれる相手を見つけられるか、
が重要となるのだろう、とユーシャは考えた。
うん。これでまた一つ賢くなった。
賢くなったから、残りの臨海学校は全部楽しい海水浴にしようぜ?
「にしても、結構早く着いたんじゃねえか?
見た限りじゃ、俺たちで9と10人目じゃねえか」
「何を言ってるんだい。君らが最後だよ」
寺の中から出迎えたのはラヴだった。
普段は上下を『つなぎ』で固めた服装であるが、
今日はゆったりとしたアロハシャツを着用し、
かなりラフな格好をしていた、
「お前も来てたのか。つーか、なんだその服。
学校行事中にそんな格好してていいのか?」
「ハハハ。大丈夫だよ。
君たちを守るっている仕事の最中だけど、今の僕は有給休暇中でもあるから。
本当は休む暇がないくらい仕事に追われてるから
むしろ休みたくないんだけどさ。
有給って必ず年に数日取らなきゃダメでしょ?
だから、こういうところで使ってるの。
これで僕の休み、無くなっちゃった! アッハッハッハッハ」
「お疲れ様です」
ラヴの空虚で乾いた笑い声にシャルロットはほろりと涙をこぼした。
「俺たちを守るのが仕事ってことは他は特に何もしねえのか」
「そうなるね。『初めの挨拶』に顔を出すことにはなるけど、
面倒だから僕の番は二十秒以内で終わらせようと思ってる。
守るっていうのも基本は監視だけだね。
安全性なんて最初から確保されたも同然なんだから。
生徒たち強いから取り返しのつかないことが起こるってことは
まず無いし、学校から厳選された二人を同伴させてるんだ。
何のために僕がここにいるか忘れそうになるかもね。ハハハ」
「フラグか?」
「フラグじゃないよ? とは言ってもここはフワフワな羊の群れの中に
毛色の違う飢えたオオカミが一匹混ざってるからね。
そういう意味では君に存在意義をもらってるのかもしれない」
「へー。ところでオオカミってのは誰だ?」
「あんたよ」
横一列に並ぶ十人の生徒の前に二人の教員とラヴが立ち、
校外学習の『始まりの挨拶』が始まった。
司会を務めるのは担任のソフィアであり、生徒たちの左斜め前に立っていた。
「おはようございます。
これから『始まりのあいさつ』を始めます。
それではまず、ディラエラ先生からの言葉です」
「皆さん、おはようございます。
最初の一日がこんなに晴れたのはとてもうれしいですね。
これから私たち先生と事務員のラヴさんを合わせた十三人で
この臨海学校を一週間過ごします。
いつもの皆さんを見ていて大丈夫だと私は思いますが、
念のため、この臨海学校で守ってほしいことを少しだけお話しします。
まず――
【スキップ】
以上です」
「それでは続いて特別に来てくださりました、事務員のラヴさんから一言どうぞ」
『少しだけ話す』は絶対に絶対に長くなるフラグだという事を分かっていたので、
数学教師をしていたディラエラの話を【スキップ】で省略し、
ソフィアにセリフが来るまで飛ばした。
続くラヴの話も省略してやろうと思ったが、
「えー、大事なことはほとんどソフィア先生が言ってくれたので
私からは特にありません。
これからの臨海学校でどう過ごすかの話は今夜午後7時にここで説明するので、
必ず全員で集合してください。では解散」
と、本当に十数秒で終わるほどの短さだったので使う意味もなかった。
解散を言い渡された後、ラヴの言葉に女子生徒が一人手を挙げた。
「あの~、質問良いですか? それまではどう過ごせばいいんですか?」
「自由行動だから好きにして良いよ?」
「ってことは。今日は海水浴だけしてればいい。ってことか?」
「口を挟む前に手を挙げようよ。まぁ、そういうことになるね」
「あ。そう」
普段からハードなカリキュラムを組んだ学校だから
てっきりこの臨海学校でも、ものすごくスパルタ(ユーシャ視点)な
スケジュールと思っていた。
だが蓋を開けてみれば初日から海水浴。
「最高だなっ」
最高の夏の思い出を作れる。
そんな気がして、ユーシャは空高くに輝く太陽へ向かって
敬礼せざるを得なかった。