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[Nono episode] 独親の竜――アギリアス――

               ✝0✝


 視界が赤く染まった。


 吐き気がした。助けてと叫ぶ声が出せなかった。それを後で後悔するのに、その時はできなかったのだ。


 両親が斧で切り裂かれる。


 数少ない竜が、これで二匹減った。そして、あとに残されたのは一人だけだった。両親を切り裂いた斧はこちらには向いていない。


 斧を持った人間は、感情のない瞳でそれらを一瞥すると、胸で十字を切って瞑目した。殺しておいて、それはないだろうと思った。


 人間は斧を持ったまま踵を返した。そのあとを追う勇気は湧かなかった。


 ただ、両親が殺されたことが信じられなかった。あんなにやさしかったのに、なぜ殺されなければならないのだろうか。


 人間は傲慢で、自己中心的で、自分たち以外の意見を聞こうともしない。


 それを理解した瞬間、人間が嫌いになった。


 だから、暗い部屋にいつまでも引きこもっていたほうがいい。外からの干渉さえなければ、この部屋は自分だけの世界になるのだ。敵のいない、ただ自分だけが住む世界。


 外に行けば人間に出会うし、危険がたくさんあるのだ。両親がそれを身をもって教えてくれたような気がした。


 竜は昔から強くなければいけないと言われてきたが、そんなことは関係ない。たとえ自分が竜だったとしても、弱い奴は弱いままで、自分の殻に閉じこもっておけばいいのだ。


 人間のいない世界で、安穏に満ちた生活を送るのだ。


 そう。それが一番の平和だ。


              ✝1✝


 奇妙な恰好をした二人が、昼時の街を歩いていた。


 片方は顔の右上半分を覆った狐面をした青年。背は高いほうだが、ローブをひこずり、端々がボロボロになってしまっていた。唯一見える右目は赤黒く、不審者に見紛う姿をしていた。


 もう片方はベレー帽をかぶった、巫女服の少女。へそが見えるほど大きく開かれた巫女服で、赤く短いスカートは何かを隠しているように、後ろの部分が少し膨らんでいた。首からは白銀の十字架が提げられていた。


 いや、それはもう十字架とは呼べないほどに劣化してしまっていた。


 いうなれば、ト字架と言ったところだろうか。


 少女は口にクリームをつけながら、溢れんばかりのブルーベリージャムを巻いたクレープを食べていた。


 幸せそうにそれをほおばる彼女を見て、青年はふっと微笑んだ。しかし、それは狐面の下に隠れて見えなかった。


「ウァレ! これおいしいんじゃけど!?」


「それはよかった。買い物で無駄遣いばかりしているとその内、何も買えなくなるからそろそろ無駄遣いは止めたいところなんだけど、それでもミカがそう言ってくれるならいいのかもしれないな」


「嫌味たっぷりに話すな! 金がないなら、あんたが働きゃええじゃろうが!」


 一気に不機嫌になった少女は、車イスを押す青年――ウァレの手を叩いた。少女は車イスに乗っていた。


 石畳の道を、二人は歩いていた。一週間分の食事の買い出しに来たのだが、少女が無駄遣いばかりするので、ウァレは頭を悩ませていた。


 確かに、金がなくなればウァレが働けばいいだろう。しかし、彼の珍妙な恰好で働けるような場所があるとは思えない。


 ウァレは狐面の下が疼くのを感じた。その狐面は、人前で外すことができないものだった。


 再び前を向いたウァレに向かって、一人の男が走ってきた。焦った様子で、何かから逃げるように走る男は、人を腕で振り払いながら走ってきた。迷惑な奴だ。


 そう思った次の瞬間。


「邪魔だッ!!」


「きゃっ!?」


 男が車イスの少女の肩を押した。倒れることこそ防いだが、彼女に危害を加えようとしたその男が気に食わなかった。


 ウァレはとっさに男の肩をつかんだ。


「なんだてめえ! はな――ぐあっ!?」


 男の台詞が終わらぬうちに、ウァレは男の脛を蹴り、胸ぐらをつかむと背負い投げをして地面にたたきつけた。倒れた男の肩の上に両膝を立てて動けなくすると、頬を片手でつかんだ。


「あはは。邪魔だって何? ミカはそこにいただけで、邪魔なのはお前なんだけど。人に迷惑かけている自覚ありますか? ないですね。汚い手でミカの肩を触りましたよね。俺のミカを触ったよね? あはは、あはははは~」


「ひぃっ!? や、やめ――」


 ウァレはぎりぎりと、男の頬を握る力を強くした。高圧的だった男から、やがて恐怖の感情が見え始めたころ、ウァレに声がかかった。


「あ! そ、その男……ひったくりです」


「……へぇ。社会的に邪魔な存在っていうわけかぁ。なら何をしても大丈夫だよね。殴ったりしちゃっても大丈夫だね。ミカに触った罪を償わせるために、針山で千日過ごさせることくらいはまだぬるいよね。……よし。タコ茹でにするか」


「ひえぇ!? お、俺が悪かった! だから助け――」


「ませんよ。罪を購うまでは、あなたは永遠に地獄を見ましょうね。ミカに触ったのだから当然ですよ。そしてひったくりという罪まで犯した。万死に値しますね。さて、どんな地獄を見せてあげましょうか。え? 火あぶりにしてほしいって? 人間が死ぬのに一番つらいと言われる火あぶりにしてほしいのですか? 俺はおすすめしないけど、なら両手両足縛って逆さづりにし、豚と一緒にゆっくり一年ほどかけて焼いてあげますね。皮が焦げたらちゃんと剥いであげますから。あ、ばい菌つかないように、ちゃんと水もかけてあげましょう。ええ。塩水を」


「誰も火あぶりにしてほしいなんて言ってない!?」


「やめんか、ウァレ。そんなやつ焼いてもおいしゅうないわ。それより、さっさと帰ろう。帰って火あぶりの準備せんと」


「やる気満々じゃねえかよっ!?」


 ウァレは汚い風穴をふさぐように男の頬を握りしめた。ぽきぽきと音が鳴り、少しだけ感触が変わったが、彼は気にしなかった。どうせ、顎の骨でも折れたのだろう。その程度気にしない。


「あの、その人ひったくりで、僕の荷物が盗られちゃったんですよ」


 男が泣き叫ぶ中、一人の青年がウァレに話しかけた。ウァレは顔を上げると、その青年を見た。


 燕尾服を着た、細い身体をした青年だった。穏やかな微笑を常に湛え、柔らかな雰囲気がある。グレーの髪は肩くらいまで伸び、瞳は赤銅色だ。両耳には、金色の涙を模したピアスが着けられていた。


「捕まえてくださり、ありがとうございます」


 騒ぎを聞いて駆け付けた警察に、ひったくりの男を渡すと、青年がウァレに話しかけてきた。ウァレは狐面の下で笑いながら返した。


「いえいえ。俺のミカが傷つけられたとなったら、あれくらい生ぬるいですよ。もっとしごきたかったですが、警察に任せちゃったので仕方ないですね」


 落ち着いた物腰でウァレは言っていたが、心の奥ではふつふつと怒りが煮えていくのを感じていた。それを抑えるために、できるだけ笑っていようとするのだった。


「おかげで荷物も返ってきました。えっと……何かお礼をしたいのですが、よろしければ僕の家に来ますか?」


「ええわ。今日はもう疲れた。さっさと帰って、お菓子食べたい」


 つまらなさそうにエミルカが言うと、ウァレはまだ食べるつもりか、とあきれた。彼女は街に来てからずっとクレープを食べていたはずなのに。


 青年は顔に微笑を浮かべたまま、少女に向かって言った。


「では、僕の家で何か食べます? クッキーがありますよ。レーズンクッキーが」


「行くぞ、ウァレ」


「変わり身早いな」


 苦笑しながら、ウァレは少女の車イスを押し始めた。






 やがて辿り着いたのは、二階建ての一軒家だった。普通のどこにでもあるような一軒家だが、窓ガラスが割れ、壁はトタンで覆われていたため、かなり古いもののようだった。


 家の中に入ると、突き当りにあったリビングに案内された。ウァレは少女を抱えると、椅子にリビングに置かれた椅子に座らせた。椅子の前には木で作られた机があり、そこにクッキーが置かれた。クッキーの脇にはブルーベリージャムも置かれ、少女は満面の笑みを浮かべた。


「いただきまーすっ!」


「はい。どうぞどうぞ」


 微笑を湛えた青年は、少女の前の椅子に座った。ウァレは少女の隣に腰掛ける。


「えっと……自己紹介がまだでしたね。僕はイーロイ・メビス・シロビ。先ほどはありがとうございました。おかげで今月も生活できます」


「俺はウァレ・フォール・エルタニル。こっちがエミルカ・トゥバン。今月も生活できるって、そこまでお金ないの?」


 シロビは困ったように笑いながら、はい、と頷いた。


「うちには貧乏神がいるんですよ。お金を吸い続ける悪魔が」


「それなのに、こんなものもらっていいのか? 言っておくけど、ミカも金を巻き上げるぞ?」


「私は金を巻き上げとらんわ!」


 エミルカはウァレの腹に肘を入れた。が、彼女自身にあまり力がないため、ウァレは平然としている。むしろ、その力のなさに可愛さすら感じて、狐面の下で頬をゆるませた。


ウァレの前で、シロビがいいんですよ、と手を振った。


「今月の生活を助けてくれたお礼です。遠慮はしなくていいですよ」


「ほんまか!? じゃあ、遠慮なく全部私のもの!」


「少しは自重しろよ……」


 しかし、彼の言葉が今更エミルカに届くことはなく、彼女は夢中でクッキーを食べ続けるのだった。幸せそうな顔を見ていると、まあいいかという気分にさせられて、ウァレはシロビに視線を向けた。


「お互い、金を吸い続けるやつがいると大変だね」


「そうですね。まあ、ウチにいるのは、少し特殊でして……」


「特殊?」


 訊き返すと、シロビは少し言い淀んだ。が、助けてくれた人たちに隠すことはできないと思ったのか、話し始めた。


「信じてもらえるかどうか分かりませんが、この家の二階に竜が住んでいるんですよ」


「――っ! ごほ、ごほっ!?」


「大丈夫か、ミカ。慌てなくていいから落ち着いて食べろ」


 エミルカは差し出された水を飲み干すと、口元をぬぐった。


「お、落ち着いて食べれんわ。なんでこんなところに竜がおるんじゃ……」


 この家は、街から少し外れたところにあったが、まだ街に近いほうだった。こんなところの竜がいてみれば、目立つことは間違いない。しかし、街で騒ぎになっていないのは、一体どういうことだろうか。


 シロビは苦笑し、


「あはは。まあ、信じていただけないのも当然ですね。なにせ、竜は幻や伝説と言われていますからね」


「そうじゃない。私は竜を信じとらんわけじゃのうて、こんなところに住んどることがおかしいと思っただけじゃ。竜は人に会わんように、森の中に住んどるやつがほとんどじゃし。あんたの言っとることを信じとらんわけじゃないけん、安心せぇ」


 エミルカの台詞に、シロビは目を丸くした。彼女が自分よりも竜のことについて知っているようだったので、驚いているのだろう。


 エミルカは顎に手をやると、少し考えこんだ。やがて顔を上げると、シロビに視線を向けた。


「今日は帰るわ。また明日、来てもええ?」


 突然の言葉に、シロビは一瞬驚いたのち、再び笑顔になって頷いた。


「ええ。何か急用でも?」


「うん。また明日、その竜に会わせてくれんか?」


 シロビは少し逡巡し、やがて頷いた。それを確認すると、ウァレはエミルカを車イスに載せて帰路につく。


「どういうこと、ミカ。まさか知り合い?」


 訝る視線を向けたウァレに、エミルカは静かにうなづいた。


「知り合いじゃないけど、知っとるだけ」


 意味深な言葉に首を傾げつつも、ウァレは黙って車イスを押した。また明日になってみれば分かることだろう。


             ✝2✝


 翌日。


 ウァレはシロビの家の扉をノックした。すぐにシロビが扉を開けてくれ、エミルカとウァレは中に入った。


「……で、昨日言うたとおり、会わせてくれるんじゃろうな?」


 開口一番、エミルカが言うと、シロビはまた戸惑いながら頷いた。どうやら彼はあまり会わせたくないらしい。


「いい、ですけど……気を付けてくださいね」


「気を付ける……って、何を?」


 訊くと、シロビは会ってみれば分かると答えた。ウァレは首を傾げつつ、エミルカを抱えて二階へ続く階段を上った。


 二階に着くと、シロビは二人を制止した。何かあるのか、シロビは廊下を睨み付けていた。壁にきらりと光るものを見つけると、ウァレたちに動かないよう言ったまま、そこへ向かった。


 シロビが慎重に向かったところに、細い針金が張ってあった。それを足で切ると、シロビはすぐに後退した。彼のあとを追うように、天井から鉄の塊が降ってきて、廊下に穴をあけた。彼が言っていた、金を吸い取るという言葉も、これを目の当たりにすれば頷ける。


 罠を解除したことに安心したシロビは、ウァレたちのところに戻ってくると、行きましょうと先を歩き始める。


 廊下の突き当りに部屋が一つあり、その扉をノックすると、シロビは返事を待たずに中へ入った。 ウァレも彼のあとに続いて入った。


「ひぃぃっ! な、なに勝手に入ってきているのよばかぁ!」


 すると、狭い部屋の中に敷かれた布団の中から、くぐもった声が聞こえた。シロビはしゃがみ込んで布団をひっぺ返した。


 布団の中から出てきたのは、三十センチほどの大きさの竜だった。身体の半分ほどの長さの首を持ち、トカゲのような鱗には、細いとげが生えていた。身体は紅く、瞳は黄緑。怯えた様子からは、弱弱しい雰囲気を感じ取ることができた。


「こいつが生活費を喰い続ける貧乏神……アギリアスです」


「アギリアス……そうか」


 エミルカは頷くと、ウァレの服の袖を引っ張った。ウァレはしゃがんでアギリアスにエミルカを近づけた。


「あ、あなたたちは誰!? なんであたしの部屋に勝手に入ってきてるの!?」


 アギリアスは、決して目を合わせようとせずに怒鳴った。ひっぺ返された布団を奪うと、身体を隠すように、布団の中へ潜った。ウァレとシロビは顔を見合わせ、やがて小さくため息を吐いた。


 そんな中、エミルカだけが布団に視線を向け続けていた。布団の隙間から、少しだけアギリアスの顔が見えた。怯えたような雰囲気があった


「ちょっと話があるだけじゃ。すぐに終わるけん、ちょっとだけ……ダメか?」


「あたしにはない。だから帰って! あたしの平穏の世界を乱さないで!!」


「……そっか。分かった。今日は帰るわ」


 潔く諦める彼女に、ウァレは怪訝そうな視線を向けた。エミルカは一つ頷くと、ウァレの服を引っ張った。無理に話をしようとはしないらしい。


 三人はいったんリビングに向かった。昨日と同じ配置で椅子に座ると、エミルカはこめかみをおさえた。


「むぅ……」


「どうしたんだよ。そんなにアギリアスのことが気にかかるのか?」


 当然のように、エミルカは頷いた。あの様子からして話は無理だったが、エミルカは話すつもりがあったらしい。しかしそれを無理にしようとする気はない。


 何があったのかは分からないが、アギリアスは人に会うのが苦手な様子だった。廊下に罠を仕掛けていたのも、きっと彼女だろう。そこまでして人に会おうとしないのはなぜだろうか。


 とっさにシロビに視線を向けると、彼は困ったように笑っていた。


「すみません。アギリアスは人間嫌いの竜ですから。それなのにこんな街中に住んでいるっておかしいですけど、彼女はほかに身寄りがないもので」


「身寄りがない?」


 シロビは頷く。


「ええ。彼女の両親はおらず、兄弟姉妹も、親戚も、そういったものは一切いないのです。だから、彼女を僕があずかっているんですよ。彼女の両親から、生前頼まれまして」


 つまり、シロビはアギリアスの親代わりというわけだ。


 竜は一人で生きているものが多いが、中にはそうでもない者もいた。アギリアスには両親がいたのだろうが、何か理由があっていなくなった。そこで、アギリアスをシロビに預けた。


そこにどういった経緯があったのだろうか。


竜には、己を守るために【呪い】を持っている。そのため、人間とは共存できないとされていた。が、彼らはそれを行なっているのだった。ただ単に、アギリアスが部屋から出てこないからなのかもしれないが、それでも【呪い】を持つ竜は人間にとって危険だ。


 まして、彼女は人間嫌い。いつ人を呪うか分からない。


すると、シロビは優しく微笑んだ。


「大丈夫ですよ。心配されていることは分かっています。竜が【呪い】を持っていることも、あなたたちも知っているのでしょう? ですが、彼女は人を毛嫌いすることはあっても呪うことはまずないですから。ああ見えて、根はやさしいんですよ」


「なら、なんで今みたいな状況に?」


「……アギリアスの両親は、人間に殺されとる」


 ウァレに応えたのは、エミルカだった。


「私は、彼女の両親に会ったことがあるんじゃ。じゃけん、アギリアスのことも知っとったし、話さんといけんこともあったんじゃけどな。ま、それはおいおいでええわ」


 それより、とエミルカはシロビを指さした。彼女は少し怒っているようにも見えた。


「なんで人間がアギリアスと一緒に住んどるんじゃ? あの両親が、あんたに自分の子どもを任せるとも思えんし、何よりおかしいのは……」


「僕は彼女の両親から頼まれただけですから、詳しいことはよく分からないのです」


 エミルカの言葉を遮って、シロビは答える。あまり彼女と自分の関係を詮索されたくないようだった。


 しかし、人間に会わないように暮らしてきた竜が、シロビの前にだけ現れたのはなぜだろうか。


確かに彼は信頼されやすいのだとは思う。まだ出会って二日目だが、彼はきっと真面目な性格なのだろう。


だからと言って、竜が自分の危険を顧みずに彼に会うなど考えられない。自分の娘を預けるなら、一度や二度会っただけでは信頼できないだろうし、それならエミルカに預けたほうが確実なはずだ。


 そう考えると、彼とアギリアスの両親との間には、想像以上のつながりがあるのだと思う。


 エミルカもそれを疑問に思っていたのだろう。しかし、シロビがそれ以上話したくないというのなら、彼女もそこまで詮索しようとはしなかった。ただ、彼のことを気に入らなく思っただけだ。


「……ま、蛙の子は蛙じゃな。どうせ訊いても話してくれんのんじゃろ」


 愚痴るように呟くと、エミルカはウァレの袖を引っ張った。ウァレは立ち上がると、エミルカを車イスに乗せた。


「……明日もまた来てええか?」


「ええ。もちろんです。アギリアスがあなたと出会ったことで、部屋から出てきてくれればいいのですが」


 エミルカは鼻で笑うと、瞑目して腕を組んだ。


「私に期待せんことじゃな。私と関わってええ思いをしたやつはほとんどおらんのんじゃぞ」


「俺はミカと出会ってよかったけどな」


「うっさい、ダボ」


 頬を染めながらエミルカは言い捨てると、ウァレは車イスを押して家から出て行った。


 少し歩いて後ろを振り返ると、ボロボロの家の二階の窓から、アギリアスがカーテンの隙間から外を眺めていた。


 ウァレと目が合うと、とっさにカーテンの向こうに隠れた。


 彼女はシロビと出会い、両親を人間に殺されて預けられた。人間嫌いなはずの彼女が、なぜ人間と一緒にいることを認めたのだろうか。


 きっと、自分から進んでそうなったわけではないはずだ。その証拠に、彼女は部屋から出てこようとしない。おそらく、彼女はシロビに会うことすら恐れているのだ。


 彼女を部屋から連れ出すことは、ウァレにはできない。できるのは、この車イスの少女だけだ。


 ウァレはエミルカの手助けになればいいのだけど、と思いながら街を歩いた。


 その間、エミルカはずっと顎に手を当てて何かを考えていたが、今日会ったばかりのアギリアスのことをウァレがとやかく言うことはできないので、彼は無言で帰路を辿った。






 昼過ぎに、ウァレたちはシロビ宅を訪れた。


 シロビは今日も笑顔で歓迎してくれた。家の中に入ると、真っ先にアギリアスに会うというエミルカに従って、ウァレは彼女を抱きかかえた。


 階段を上ると、昨日と同じようにシロビが罠の解除を行う。昨日の罠と今日の罠が別の種類だったことに驚いた。今日は四方八方から待ち針が飛んできた。


 無傷で罠を解除したシロビに続いて、ウァレたちはアギリアスの部屋の前まで歩いて行った。下を向けば待ち針が大量に落ちていて、足に刺さらないかと不安になった。


 シロビは部屋の扉をノックすると、返事を待たずに扉を開けた。ウァレはエミルカを抱えながらすっと部屋に入る。シロビは下で待っていると言い残して階段を下りて行った。


「……また懲りずに来たの?」


 布団の中から、くぐもった彼女の声が聞こえた。ウァレはエミルカを床に座らせ、その隣に腰を下ろした。


「私は話があるって言ったはずじゃ。話を聞いてくれん限りは、私は何度でもあんたに会いにくる。それに、あんたは人間が嫌いみたいじゃけど、私は人間じゃないけん。こっちの狐面も人間とは思わんでええわ。ノミでええ」


「誰がノミだ」


「……話があるなら、早くしてよ。人間じゃないって言っても、あたしは人間の姿をした存在に会いたくないの。こうして一緒の空気を吸っていると、まるで練炭を焚いているような不安がするの」


「そこまで人間嫌いなら、あんたはなんでシロビなんかと一緒に暮らしとるんじゃ?」


「……」


 アギリアスは言い詰まったように、黙り込んだ。しかし、早くエミルカたちを帰らせるためには話すしかないと妥協して、深いため息を吐いたのち話し始めた。


「……実は、よく分からない」


「分からない?」


「うん。あたしは両親を殺された。だからシロビがあたしを引き取った。そういうことになっているのは知ってる。シロビにはこれでも感謝してるのよ。でも、両親とシロビがどう関係しているのか分からない」


 それに、とアギリアスは一瞬言葉に詰まりながらも続けた。


「あたしは、目の前で両親を殺されたはずなのに、犯人の顔を見たはずなのに、何も思い出せない。人間が関わっていることは分かっているのに、それ以上は何も思い出せない。だから人間は嫌い。人間は怖い。シロビだって……どれだけいい奴だって、人間ならみんな怖い。さ、話は終わり? それとも、まだ本題があるの?」


「……私はあんたの両親に言づけを頼まれとる。じゃけど、今のあんたには話すことはできんな」


「何それ。あたし、あんたに出会ったの昨日が初めてなんだけど。なんでそう上から目線なの? 話がないならこんなとこに来なきゃいいのに」


 棘のある言い方をする彼女に、エミルカは哀しげな視線を送った。それはまるで、アギリアスの両親を憐れんでいるようだった。今の彼女は、両親が望んだ姿ではない、と。


「……それでも、今のあんたは見てられんのんじゃ。そのことだけは分かって」


「はあ?」


「今のあんたは、両親に見せられるようなもんじゃないってこと。自分では分からんか? 今の自分が、両親を裏切っとるってこと。こんな部屋に閉じこもっとっても、何も解決千古と。あんたはこのままずっとここで過ごすわけにはいかんのんじゃ。その内、この狭い世界から出て行かんといけん日が来る。人間が嫌いならそれでもかまわんけど、あんまり親を裏切んな。いなくなったとはいえ、あんたはまた会えるんじゃろ?」


「……なんで知ってるの? なんで、あんたはあたしのことをそこまで知ってるの!?」


 布団から顔をのぞかせたアギリアスは、警戒心むき出しの視線をエミルカに向けた。エミルカは無表情で彼女を見下ろした。それがアギリアスにとって気に入らなかった。


「じゃけん、私はあんたの親と面識があるんじゃ。あんたに言づけだって任されとるって言わんかったか? 今の自分を見直して、そういうことは言うんじゃな」


「あたしは、この世界で一人で生きていられればそれでいい! 人間なんかと関わらず、この一人の世界で生きていられればそれでいいの! よく知りもしない人間に何かを言われる筋合いなんて、全くないの!!」


 そう言い放って、アギリアスは再び布団の中にもぐりこんだ。


「この部屋は、あたしだけの世界だ! ほかの人間が干渉しちゃいけない、ただ一人の世界!! だから出て行って! これ以上、あんたたちと話すことなんてない! あたしの世界に勝手に干渉してこないで!」


「……最後に一つだけええか」


「ダメ」


 しかし、エミルカは言う。


「今のあんた見て、誰が幸せになるんじゃ?」


「……出て行って」


 最後は力なく呟き、アギリアスは布団の中でもぞもぞ動いたのちに、静かになった。これ以上は無理だと判断したエミルカは、ウァレに抱えられながら部屋から出て行った。


 部屋から出ると、心配そうにこちらを見ていたシロビが、薄く微笑んだ。ウァレはすぐに帰ることを伝えると、一階に下り、エミルカを車イスに乗せた。シロビにあいさつすると、家から出て行った。


 少し歩いて、ウァレはエミルカに訊いた。


「アギリアスに言づけってなに?」


「……あいつの両親が、生前、まるで死期を悟ったかのように来たんじゃ。その時、自分の子どもに言付けをしてほしいって頼まれた。私は【猫ノ狐】……竜と人間を繋ぐ者じゃけん、あいつらの頼みを受けた。じゃけど、昨日になるまでアギリアスには会ったことがなかった」


 しかし、今のアギリアスにそれを言づけることはできない。エミルカの判断が正しいのかどうかは分からないものの、確かに、今のアギリアスにはどんな言葉も届きそうになかった。


 まして、相手は自分が会ったことのない人間だ。彼女が人間に会えるようになるまでは、その言付けはできないのだろう。部屋に引きこもって外に出られない彼女は、何よりも頼りない。


「……にしても、シロビって一体何者なんだ?」


 話を切り替えようと、ウァレは言った。シロビについての疑問は、エミルカも持っていたらしく、うーんと首を傾げた。


「……アギリアスの世話を任された、にしては妙なところが多すぎる。私も、アギリアスの両親からはあいつのことは聞いとらんし、ほんまに何者なんかよう知らん。人間嫌いのくせに、アギリアスがあいつとだけは一緒に暮らしとるっていうこと自体もよう分からん」


 エミルカに分からないことは、ウァレにも分からない。彼女のほうがアギリアスとの関わりは長いもののように思えた。


 シロビは、決して悪い人間ではない、と思う。しかし、正体は不明。アギリアスの両親との関わりだって謎のままだ。彼に直接聞いたとしても、はぐらかされるような気がしてならない。彼は何かを隠しているようだった。


 何を隠しているのかは、もちろん分からない。それがアギリアスを救うことになるのか、もしくはその逆を行くのかも分からない。今の彼女の状況を作り出したのは、両親を殺した人間だが、少なからず、その人間と彼にも何か関わりがあるのではないかという疑問があった。もしそうなら、アギリアスは何も知らないままに、自分の世界と言い張る部屋に監禁されているのも同然だった。彼女がそれを望むように仕組まれていたものだとしたらと思うと、背筋がぞっとした。


「……とりあえず、しばらくは様子見じゃ。あの家にもしばらく行かん。それより、今はクレープ食べたい。ウァレ、買って」


「……お前、本当に子どもだな。ま、いいけど」


 呆れたように言って、ウァレは車イスを押した。誰もいない街道だった。


 その時、背後からウァレは口を押えられた。布のようなものを押し付けられ、そこから甘い芳香がした。次の瞬間、彼は意識をとだえさせて地面に倒れこんだ。


「ウァレッ! きゃあっ!?」


 最後に、エミルカの悲鳴が聞こえ、ウァレは無意識に手を伸ばした。


 その手は空を切って地面に落ちた。


             ✝3✝


 一人の部屋は静かだった。


 それが平和を暗示して、アギリアスは安心して眠ることが出来た。人間と関わらないで済む世界が、これほど快適になるなら、このままずっと、同じ暮らしでもよかった。


 最近は奇妙な来客が好き放題言っていたが、それも安楽に身を任せればすべて忘れられた。あれ? あいつ誰だっけ?


 辛いことはすべて忘れたいと思うのは、誰にでもあるだろう。だからアギリアスは眠ることで忘れようとした。彼女にはそれが出来たし、眠ることが何より安心と安全を感じられた。


 ゆっくり眠る空間さえあればそれでいい。


 人間と関わらず、誰にも関わらず、ずっと独り、それが世界が平和になる方法なのだと思った。この狭い部屋の空間だけは、それを表してくれた。


 アギリアスは布団の中で丸くなると、眠気に身を任せて瞼を下した。


 しばらくして、部屋の扉が開かれた。アギリアスは眠ったまま、そのことに気づかない。


 部屋に入ってきたのは三人。しかし、その内二人はぐったりと眠っていた。いや、気絶しているだけなのかもしれない。彼らに息はあったものの、一切動きはなかった。


 唯一動ける一人が、ほかの二人を地面に転がすと、アギリアスの布団の上に立った。その手には、骨をも打ち砕くほどに大きな斧が握られている。


 人間は、それを振り上げ、布団の中にいるアギリアスに視線を向けた。彼女はそれでも起きない。


 これを好都合とばかりに、人間は冷たい目で布団を見下ろした。殺意がその人間の周りに蟠っているようだった。


「……これも、お前のためなんだ。赦してくれ。こんな罪にまみれた僕を、そして、お前の両親を恨まないでくれ。これは罪だけど、お前のためなら、僕はなんだってできる。罪は必ず贖う。さあ、呪われてくれ……アギリアス」


 そして、その人間の周囲に黒い霧のようなものが発生した。


 それは竜の【呪い】――本来は人間が持つことのできないものだが、竜の【呪い】に犯されたものであれば、人間にも使えた。人間はそれを持っていた。


 黒い霧を布団の周囲にまとわりつかせると、人間は斧を振り下ろした。が、そこには床を砕いた感触しか残らなかった。


 人間は慌てた。今の一動作で、アギリアスが目を覚ますかもしれない。


 案の定、アギリアスは目を覚ました。自分の周りの異変に気付き、布団の中で息を殺して周囲をうかがった。今布団から出て行けば、それこそ何者かに殺されるかもしれない。


 人間は斧を肩に担ぐと、布団をひっぺ返した。もう、これ以上素性を隠すつもりはないらしい。次こそはアギリアスを仕留めると言っているようなものだった。


 アギリアスは目の前に現れたその人間を見上げて、悲鳴をあげそうになった。


「な、なんで……シロビ……あんただけは信じてたのに……」


「……これもお前のためだよ、アギリアス」


 シロビはそう言って、耳のピアスに触れた。それは、アギリアスの両親が呪ったピアス。


 彼の周囲で蠢いている黒い霧は、アギリアスの両親の【呪い】だった。アギリアスはそれにいち早く気づいて、歯噛みした。まさか、と思った。


「もしかして……あたしの両親を殺したのは……」


「僕だよ。でも、あれは彼らが望んだこと。君を強くさせるために願ったこと。でも、結局はダメだったね。君は何より弱くなった。アギリアスは、両親を裏切った。それは、部屋に引きこもっているからってだけじゃないってこと、自分でもわかってるよね?」


「裏切った……何を言ってるの? わけわかんない……」


 シロビがため息をついた。彼女の相手に、心底疲れたような雰囲気だった。


「両親は人間に殺された。なら、なんで立ち向かおうとせずにこうして引きこもっているんだい? 君の両親が、何を願っていたのか、知ってる? 君は弱かった。竜は強くあるべきなのに、君は弱かった。だから、自分を犠牲にしてまで、君に強くなってほしかったんだ。別に人間に復讐しろっていうわけじゃない。ただ、一人で生きていける強さがあればそれでよかった。なのに、現状はその逆を行っている。君は、両親の願いを裏切ったんだ!」


 アギリアスは答えられなかった。自分は親を裏切った。しかし、それは悪いことのようには思えなかったのだ。


 辛いことがあれば誰だって逃げるだろう? 立ち向かうのは怖い。恐ろしくて、足がすくむ。手を出してはいけないもののような気がするのだ。


 両親が人間に殺されたなら、人間を恐れるに決まっている。人間に立ち向かう強さなんていらない。立ち向かったとて、アギリアスには何もできないだろう。


「……知んないよ。あたしはあたしだ! 誰かがあたしの人生を決めていいわけがない! あたしにとって、この部屋が一番居心地がよかったんだ! だからここにいただけなのに・……それがなんでダメなの? そこまでして、あたしは強くならなきゃいけない?」


「うん。君は強くなければならなかった。両親を裏切ることなく、一人で生きていける強さを手に入れなければいけなかった。だから、君は殺される。僕は君の両親にこういわれているんだ。『もし、自分たちが死んでもアギリアスが強くならないようだったら、その時は殺しても構わない』って。それも君の両親の願ったことだよ。だから――君は僕に立ち向かわなければならない」


「嘘だッ!!」


 たまらず、アギリアスは叫んだ。


 両親がそんなことを言うわけがなかった。いつも優しかった両親が、実の子どもに『死んでも構わない』みたいな言葉を言うわけがなかった。


 シロビのことは信じられなかった。両親を殺したと言っている人間を、子音字られるわけがなかった。


 その時、アギリアスは自分が孤独だったことに気が付いた。


 人間と関わろうとせずに、部屋に引きこもっていた彼女には友だちはいない。シロビには裏切られた。ほかに竜の知り合いがいるというわけでもない。


 ああ、本当に一人の世界なら、こんなことにはなっていなかっただろうに、と彼女は拳を握った。


彼女の前で、シロビが斧を床に下し、重く鈍い音とともに床が砕けた。


「嘘じゃない。君は強くなるべきだったのになれなかった、それこそ嘘にしてほしいくらいだよ。まったく……僕が今まで君の世話をしてきたことはすべて徒労だったよ。君の両親には借りがあったから君の面倒を見てきたけれど、もう限界だ。僕は君を殺して、君に縛られないように一人になる!」


 そして、シロビはピアスを指先でつまんだ。その瞬間、ピアスに黒い刻印が這い、彼の周囲に黒い霧を発生させた。


「さあ、覚悟しなよ。この【呪い】、どういったものか知っているんだろう?」


「嫌……あたしにそんなもの使わないで!! あたしは、ただ一人になりたかっただけなのに……なんで殺されなきゃいけないのさ! 意味分かんない……あたしは何も悪いことしてないのに!!」


「したよ。君は弱い。両親を裏切った。だから、君に夢を見させてあげるよ」


 そう言って、シロビは無感情な瞳でアギリアスを見下ろした。殺意も何も感じない、ただの無の瞳……それがとてつもなく恐ろしいものだと気づいて、アギリアスは戦慄する。


「さあ、夢みなよ――『夢魔(Carse)』」


 そして、アギリアスはシロビの周囲にまとわりついた黒い霧に包まれる。


 その中で彼女が見たのは――記憶。


 彼女が最もつらいと感じた、両親が目の前で殺される記憶……斧を掲げたシロビが、奇声を発しながら、アギリアスの前に立ちふさがった両親めがけて斧を振り下ろした。鉄よりも固い鱗が易々と切り裂かれ、鮮血で視界が埋まった。彼女は何もできずに、ただそれを見ていた。


 地面に落ちた両親は、虚ろな目でアギリアスを見ていた。しかし、生のなくなった両親は、とても痛ましく、悍ましいものだった。


 アギリアスはそこから逃げた。守ってくれた両親を裏切って、人間に立ち向かうこともやめて、ただひたすら逃げて行った。


 しかし、彼女の頭の中では、両親の最期の姿が焼き付いていた。吐き気がした。あんなものを見るくらいなら、両親なんていらなかったし、誰もいない世界で生きていたほうがましだった。


 逃げても逃げても、彼女は恐怖の記憶に追いかけ続けられた。


 やがて、彼女は逃げることに疲れて、地面に崩れ落ちた。


 人間なんて、信じていられない。人間と一緒の世界に住むことなど、気管に異物が詰まったように、息苦しいと感じた。いっそのこと、死んでしまいたいとも思った。


 アギリアスはその後、シロビに預けられることになった。どういう経緯かは分からないが、いつの間にか彼がアギリアスの前にいた。


 人間嫌いに、いや、世界が嫌いになった彼女は、そのまま一人の世界で閉じこもることにした。


「嫌だっ! こんな……こんな記憶っ!!」


 アギリアスの現状を作り出したシロビは、狂ったように泣き叫ぶ彼女に無感情に言った。


「これが事実だよ。だから、君はここの二人も巻き込んだ。彼らには本当に罪はない。でも、君が殺されたときに、彼らが真っ先に疑うのは、僕だからね。始末しておかないといけないんだ」


 シロビが足を横に出すと、衣擦れのような音がした。音の方向に目を向けると、そこに狐面の青年と巫女装束の少女が横たわっていた。彼らは苦しそうな表情で、ただ眠っていた。


 アギリアスの両親の【呪い】を、彼らにもかけたのだろう。それは、かけられたものの一番辛いと感じた記憶を呼び覚ます【呪い】……彼らは呻くだけで、意識を取り戻さなかった。


 アギリアスは逃げたい衝動に駆られた。それは、今ある現状からではなく、彼らを巻き込んだ責任から逃れようとしているかのようだった。


 しかし、そんなことをシロビが許すわけがなかった。両手を前に突き出すと、そこに黒い霧を集中させた。


「君がこれ以上逃げるなら、僕はこの【呪い】で君を壊す。いや、もう壊れているから処分かな? ははっ。どっちでもいいや」


「いやだ……なんであたしばかりなの!? 辛いことから逃げるのが、そこまで悪いこと!?」


「辛いことから逃げるのは、生物として当たり前のこと。でも、両親が殺されたというのに、そこから真っ先に逃げようとした君がやったことは、当たり前とは到底言えないことだよっ! なぜ立ち向かわない!? 怖いからか! ならもっと怖いことを教えてやろうか!? 僕は、君みたいな無情なやつが怖い! 自分勝手な君が怖い! 君は生きる価値もない!」


「なんでそこまで言われなきゃいけないの……」


 理不尽だ。ほかのみんなは辛いことから逃げることを許されているのに、自分だけ許されていないような気がした。


 嫌だった。こんな理不尽な世界が。


 だから、アギリアスは自分の身体に黒い刻印を這わせた。自分の周りに黒い霧が発生すると、彼女は恨めしげな瞳で、シロビを睨み付けた。


「わけがわかんない。あたしはあたしで、生きていたいだけ! 強くなんてならなくてもいい! 勝手なこと言わないでよっ!!」


 そして、アギリアスは自分の周囲に発生させた黒い霧を、部屋中に蔓延させた。この部屋にいる者は、彼女の【呪い】から逃れられない。


 シロビは緊張したように、顔をこわばらせた。彼はアギリアスの【呪い】がどういったものなのか、知らなかった。そこまでのことは、両親からも聞いていなかったのだ。


 アギリアスは冷めた瞳を、シロビに向けた。


「あたしは、ただ異物を排除するだけ。独りでい続けるために必要なら、あたしは人間にだって立ち向かえるんだから!」


 そして、アギリアスが発生させた黒い霧が、二体の竜の形を成した。それを見た途端、シロビは驚愕に目を見開いた。


 アギリアスの【呪い】は、アギリアスの両親を作り出した。死んだはずの両親が、シロビに目を向けると、哀しげな表情を浮かべた。


 シロビはしばらく身動きできなかったが、一度首を振ると、ピアスに再度触れた。


「所詮は、人頼みか!? アギリアス、君の【呪い】も、他人の力がなければ使えないのか!? 結局、君は誰かいなければ生きていけないってことだろう!?」


「そ、それはそうだけど……」


 アギリアスは迷った。結局、自分は一人では生きていけない。強くもない彼女は、ずっと誰かに守られ続けていた。しかし、シロビが裏切ったことで、それも瓦解した。


 もう誰も守ってくれなくなった。なら、彼女は強くならなければならなかった。辛いことから逃げず、立ち向かう勇気さえ必要になった。


 それは恐ろしいことで、シロビに【呪い】を向けたからって、どうにかできるようなものでもなかった。そんなことをするくらいなら、自分は殺されてしまったほうが楽になるのかもしれない。


 立ち向かうことがこれほど怖いことだとは思わなかった。自分にはできないと思っていたことをすることが、これほどまでに恐ろしいとは思わなかった。


 シロビに【呪い】を向けなければ、きっと楽になる――アギリアスは、楽を求めて【呪い】を引っ込めようとした。その時、両親が哀しげな表情をしたことに、彼女は気づかなかった。


 対峙するシロビは、はあとため息を吐いた。なぜ彼がそうするのか分からなかった。


「――……立ち向かえ」


「っえ……」


 その時、倒れていたはずのエミルカが、息苦しそうにしながら目を開いた。その瞳が、アギリアスをとらえる。


「誰に何を言われようが、関係ないじゃろうが! 自分がやりたいと思ったようにやるんじゃ! 立ち向かえ……あんたはそれでええんじゃ! みんな、独りにはなれんのんじゃけん、誰かに頼ってもええじゃろうが! あんたがしたいこと、やりたいことを阻む奴は、自分の手で除けりゃええんじゃ!!」


「立ち、向かう……」


 そして、アギリアスは決意する。


 自分勝手でも構わない。ただ、やりたいことをやり通すためだけに、彼女はシロビに立ち向かう。


 一人になりたかった。そのほうが何より安全だから。でも、誰かを頼ることが当たり前の世界に生きているのだ。一人部屋で籠っていても、彼女はこの世界に生きている! だから、誰かに頼ってもいいんだ!


「――あたしは、やりたいことをやり通してみせる! 誰になんといわれようとも、あたしは強くなんてならないし、勝手だって言われても、裏切ったって蔑まれても、弱いまま、一人のまま、あたしは生きていくっ!! だから、力を貸して!!」


「両親を裏切る気か! とんだ親不孝者だ!! なら、もう一度忌々しい記憶をよみがえらせてやる! 自分が犯した罪を、もう一度見てみろ!!」


 シロビが叫びながら、黒い霧をアギリアスに向けて放った。


「――ウァレ!」


 その時、エミルカが隣で眠っていた青年に向かって叫んだ。いつの間にか、彼も起きていて、その手には付けていたはずの狐面が握られていた。


 アギリアスとシロビは、彼の素顔を見て、驚愕し、恐怖した。


 彼の顔の右上半分以外は焼けただれていた。唇からは常に鮮血が流れおち、眼球のなくなった左目は落ち窪んでいる。額には十字架のような跡があった。


 いや。彼の顔は十字を刻むようにして焼けただれているのだった。


 そして彼はその十字架に触れ、呪いの言葉を発した。


 同時に、エミルカが祝福の言葉を連ねる。


「――至誠(Verbum )なる(Dei )主の(factum )言葉(est:perii)

    我は(Nunc )≪魔(sumus )≫な(in )りて(magia )――」


     「――純(In )心なる(corde )は(puro )言の(verbo )葉(Dei )

         ただ、(Beaedictio)≪(,)童≫へ(datum )と(est )還(ei )り(ut )し者(filii)――」



  「「――――【魔童】(Curse)――――」」


 次の瞬間、彼らは人間ではなくなった。


 ウァレの耳は鋭く尖り、口からは牙をのぞかせる。彼の周囲には黒い霧が立ち込め、唯一ある右目を、赤黒く光らせた。それは体中に這った刻印から発生されたものだった。


 エミルカはベレー帽で隠していた狐耳を現せた。スカートの中に隠していた猫の尻尾は二つになり、頬には針金のように細いヒゲが伸びている。彼女の周りには、赤い瘴気が漂っていた。


「化け物……ああ! なら、あなたたち全員を呪って差し上げましょう! さあ呪え――夢魔(Carse)――ッ!!」


 シロビの発生させた【呪い】が部屋を埋め尽くそうと広がった。ウァレは倒れたまま、

右手をそこへ向け、自分の【呪い】をぶつけた!


 シロビの【呪い】に覆われると、アギリアスが見たのは、悪夢などではなかった。


 かつて、両親と過ごした、幸せの日々――もう二度と、戻らない日々の光景。


 アギリアスは奥歯をかみしめた。彼女はそのことを忘れて、シロビに殺された両親を置いて逃げた。シロビに立ち向かおうとせずに、ただ逃げた。自分で自分が許せない。


 アギリアスはシロビを睨み付けた。両親を殺したのは、理由はどうあれこいつだった。


「あたしは、あんたを許さない! あたしは、あたしを許さないことと同じくらいにはッ!! だから――力を貸して!! ――『幻霊(Carse)――ッ!!』」


 そして、アギリアスの両親が己の【呪い】を、シロビに向けて放つ。彼らは満足したように、そして申し訳なさそうに、シロビを呪うのだった。


「うあああぁあぁぁぁっっ!! やめろ……こんなものを見せるなッ! 僕は……ぼくはああぁっぁぁっつあ!? ぼくちゃんはあぁぁしぇがいだばぐもるばあはははははっっ!!」


 シロビは狂ったように笑って、部屋から出て行った。


             ✝4✝


 シンと静まり返った部屋で、アギリアスが茫然と立ち尽くした。自分の手で、自分に憚った者を退けたのは初めてだった。


 やればできた。しかし、彼女はやろうとしなかっただけだ。


 茫然とする彼女の前で、両親が振り返った。嬉しそうな、親の顔だった。


「――私は、あんたに話があるって()うたじゃろ?」


 その時、エミルカがアギリアスに話しかけた。アギリアスは首を彼女に向けた。エミルカは仰向けに倒れて天井を見上げて言った。


「……私はあんたの両親から言付けを頼まれとる。自分たちが死んだあと、あんたに会うときが来れば、話してほしいって」


「えっ……」


 アギリアスは自分の【呪い】で作り出した両親を見た。彼らは優しく、自分の子どもを見ていた。


 エミルカは瞑目する。


「『強くなれ――目的を達成するために、誰よりも強く――』……だって」


「――っっ!」


 アギリアスは、とっさに腕を伸ばした。


 自分で作り出した親の姿だっていうことは分かっている。でも、それでも触れたかった。


「あたしはずっと逃げてた! 苦しいこと、つらいこと、哀しいことから……何もかもから逃げてきた!」


 アギリアスは叫ぶ。


「立ち向かおうとしないで、自分勝手に生きてきた! この部屋だけが自分の世界だって偽ってきた!! でも違った! あたしは一人だけじゃない。自分一人で生きることなんてできなかった!」


 罪を購おうとするかのように、彼女は必死に手を伸ばした。


「あたし強くなるから! 自分がやりたいことのために、辛いことからも、苦しいことからも、哀しいことからも、絶対に逃げないように生きるからッ!!」


 だから、少しだけでも触れさせてほしい――少しだけ、いなくなったあなたたちに甘えたい! 


 しかし、彼女が触れる直前に、彼らは黒い霧となって消えた。


 彼女の手は空を切り、消えていく黒い霧を捕まえようと、必死に飛び跳ねた。だが、黒い霧はそのまま空気となって消えていった。


「うああぁぁあぁあああん!! 絶対に……絶対に、誰にも負けないように強くなるからああぁぁっぁぁっっ!!」


 アギリアスは痛哭し、床に崩れ落ちた。


 彼女を見つめ、ウァレたちは家から出て行った。


 もう、彼女は大丈夫だろう。一人で生きていくにしても、誰かと共にい暮らすことを選んだとしても、彼女は誰にも負けないように生きていけるだろう。


「これで、ミカも彼女の用事は終わったな。人間嫌いはミカも同じだけど、彼女はそれ以上だったな。でも、これでよかったんだろうな」


 ウァレはエミルカの車イスを押しながら、仮面の下でほくそ笑んだ。エミルカは疲れたようにふぅと息を吐くと、小さく呟いた。


「……ま、彼女、じゃないけどな」


「え……それってどういうこと?」


 エミルカはこめかみをもむと、アギリアスの両親と初めて出会ったときの言葉を思い出した。


「……アギリアスは男じゃ」


「……ああ、なるほど」


 だから、女々しいアギリアスを心配して、両親は強くなれ、と。


 そのために命を張った彼らは、親バカなのだろう。


 ウァレは声に出さないように笑いながら、夕焼けの道を歩いて行った。


 その日、アギリアスの世界は――崩壊した。




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