[Octavo episode] 泡沫の竜——ギュルタス——
✝0✝
街に旋律が走った。
誰もが彼を見て叫び、怯え、狂気を瞳に宿していた。注目の的だった彼は、周りの人々のことなど目に入っていないかのように、街を闊歩し続けていた。
人の視線など、どうでもよかった。
彼は人間からかけ離れた存在であり、記憶されても数分と経たずに忘れられてしまうのだ。
人間のことがまったく気にならないというわけではない。むしろ、自分の前に悩みを解決してくれる存在が現れると信じていた。
信じているからこそ、彼は人目のつく街の中を闊歩していた。人の視線が痛いほど刺さるが、自分の悩みを解決してくれる人ではないのならば、彼にとっては一切のメリットにはならない。
メリットがないなら、話しかける必要もなければ覚えてもらう必要もない。彼は自虐的に自分をとらえていた。
そのとき、彼の前に一人の女性が現れた。
彼の姿を見て、その女性は驚いて言葉を失っていたが、彼は自分の姿に見惚れて言葉を失ったのだと誤認識された。
「……ああ、本当に忘れられなければいいのに」
彼は、自分の前から走り去っていく女性の背中を見て、ひっそりつぶやいた。
彼が去った数分後には、いつもの街に戻っていた。まるで、先ほど街に現れた伝説の生物がいなかったかのように……。
✝1✝
その時、少女は手にしていたブルーベリージャムの入ったクレープにかじりついた。
車イスに乗った彼女の身を包むのは、東方の神事服である巫女装束。胸元が大きく開いたそれに、短いスカートを合わせている。スカートの後ろ側は少し膨らんでおり、何かを隠しているように見えた。絹繊維のような頭にベレー帽をかぶり、まるで生きているかのように、それは時折ピクリと動く。大きく開いた彼女の胸元には、白銀の十字架が提げられていた。
否。それはもう十字架とは呼べないほどに劣化していた。
片側が欠け、いうなればト字架と言ったところか。
彼女の服装は、街中ではよく目立つ。しかし、彼女と同じくらいに目立つ青年がいた。隣に立つ、狐面の青年だ。
彼の顔は右上半分以外を狐面で覆われていた。唯一見える瞳は化けもののように赤黒く、身長が高いにもかかわらず、ローブをひこずっていた。そのためか、端々がボロボロになってしまい、彼は『不審者』に間違われそうだった。
彼は少女の頬に着いたクリームをハンカチでふき取ると、車イスを押して歩き始めた。
「ウァレ! これうまいぞ! 食べるか?」
「最初からくれるつもりがないくせに、そういうこと言うなよ。そんなこと言われちゃうと、お前の手まで食べてしまいそうだ」
「食いしん坊なんか、それともただの変態なんか?」
青年――ウァレは答えず、仮面の下で密かに笑った。狐面に隠された彼の素顔を知る者は数少ない。車イスの少女はその数少ない内の一人だった。
少女――エミルカは彼を蔑んだ瞳で見たのち、「もうええわ。やらん」と頬をふくらましてそっぽを向いた。本当は、彼にもあげるつもりだったのだが、失礼なセリフに彼女は腹を立てていた。
ウァレは楽しそうに「ごめんごめん」と謝ると、ふと立ち止まった。エミルカのきれいな髪から視線を外すと、店に並んだ野菜などを見ている。彼らは食料の調達に来ていたのだ。
エミルカの持っていたクレープは、そもそも買うつもりがなかったところ、彼女がどうしてもとねだって聞かなかったので買ったまでだ。しかし、彼女の笑顔が見られるだけで彼には十分だった。買い物途中の誤算はいつものことだった。
買い物が終わると、もう日が暮れようとしていた。夕焼けに映る街は、これから客の対象を仕事帰りの男にするのだろう。酒屋があちこちで呼び込みを始め、踊り子が広場で舞っている。
「……ウァレ、あんな踊ることと欲情にしか能のない痴女どもに目をやるくらいなら、早う戻るぞ」
「いや、別にあの子たちはそんなことであの仕事しているわけじゃないと思うけど。っていうか、言い方ひどいな」
エミルカはふんっと鼻で笑うと、ウァレの手の甲をつねった。
「ひどぉない。常識、一般論を答えただけじゃし。あんな胸に脂肪の塊つけて男を誘惑しよる奴らなんか、どうせ頭の中で淫乱なことしか考えとらん欲情魔に違いないんじゃ!!」
「あー……なるほど。うらやま――なんでもない」
ウァレが途中で言葉を止めた。彼女がとっさに視線を鋭くして、彼を見上げたからだ。
いや、見ているのは彼のその向こう――要するに背後だ。
ウァレはその視線に気づいて、とっさに振り返った。
ウァレの後ろには、二メートルほどの巨躯が立っていた。筋骨たくましい体つきをした、トカゲのような生物。首は短く、頭にはとさかのように黄色の髪が逆立っている。肌は蛇のような鱗で覆われ、爪は黒く長い。
ウァレはその巨躯に似合わない小さな瞳を見ると、驚き交じりに言った。
「なんで……ここに竜が……?」
「ドゥハハッ! なぜいるかだと!? すまない! オレ様はここにいないほうがよかったなッ! それよか、死んだほうがましか!? ドゥハハ!」
「「……」」
ウァレは両耳に手を当てて、その竜の大声を遮った。辺りを見回すと、その竜の存在に気づいた街の住民たちが彼らを見ていた。
しかし、その竜は集まった視線を気にしていないかのように慟哭のような笑いを上げ続けていた。
「ドゥハハ! 貴様か!? 【猫ノ狐】とかいう、頭の悪そうな名前のやつはッ!?」
「……頭の……悪そう……?」
その瞬間、頭の悪そうな肩書を持つエミルカの目が殺気で血走った。ゴゴゴと地鳴りがしそうなほどの怒りを両の手に湛えると、それを握りつぶすかのように握りしめた。
「落ち着け、ミカ。頭が悪そうなのは今さらだろ」
「ワレ何言うとんじゃ、コラァ……」
しかし、竜は彼女の殺気に気づくことなく、挑発するかのように続けた。
「ドゥハハ! オレ様は、貴様を探していたぞ! 貴様は、竜の願いをかなえてくれるそうじゃないか! ならば、オレ様の愚鈍で安着なバカバカしくて、誰もが泣いて笑いこげてバカだのアホだのと罵るようなくそ忌々しいオレ様の夢を叶えてはくれないか!? 今なら靴くらいは舐めてやるぞ!!」
「誰がやるか、このアホんだらっ!! あと、なんでそんなに消極的に熱血なんじゃ!? 意味わからんわっ!! 靴も舐めささんわッ!! 私はどこの女王様なんじゃ、コラッ!! このダボ!!」
「落ち着けミカ。口が汚いぞ」
「これは方言のせいじゃ!!」
「形ないもののせいにするなよ……」
呆れたように、ウァレは呟いた。彼女がどこの生まれなのかは分からないが、その訛りは酷い。
ウァレはため息を吐くと、背後の竜に向かって言った。
「……とりあえず、ここじゃ目立つし、移動するか」
ウァレたちが教会へ戻ると、街の人々はさっきまでいた竜のことなど忘れたかのように仕事をしていた……。
「……んで、頭の悪そうな肩書を持っとるこの私に、何の用じゃ? ダボ」
「……さっきから思ってたけど、ダボって何?」
しかし、エミルカは答えず目の前に座った竜を見上げた。彼女は車イスに座っているので、竜が同じように座っていると、身長差がかなりあることに気づかされた。
竜はエミルカを見下ろすと、胸に手を当てて忠儀を示した。人間臭い竜だ、とウァレは思う。しかし、口調はどこか傲慢としていた。
「オレ様の名前は、ギュルタス。覚えていてもためにはならぬから、覚えるかどうかは貴様らに任せる」
「じゃけぇ、なんでそんなネガティブなんじゃ……。私はエミルカ・トゥバン。そっちの狐面の怪しいのがウァレ。覚えろ」
「なぜ命令形?」
「ドゥハハ! 了解した。オレ様は貴様らの名を覚えた。だが……問題はこの後だな……」
知覚できるかも分からないが、とギュルタスは言って、腕を組んだ。その時、ウァレは自分の視界がぐにゃりとねじれたのを感じた。
次の瞬間には、ウァレは目の前の竜の名前を思い出せなくなる。それはエミルカも同じようだ。彼女は目を見開いてギュルタスを見ていた。
名前を聞いたという記憶はあるが、それをいつ聞いたのか、はたまたどういった名前だったか、それを忘れてしまったのである。
「……これは、どういうことなんじゃ? 竜……」
エミルカが呻くように言うと、ギュルタスは困惑顔を浮かべて言った。
「……オレ様は、【呪い】を使うのが下手なんだ……」
「【呪い】を?」
竜は自分の身を守るために、それぞれ【呪い】を持っている。【呪いは】生まれ持った性質のようなもので、竜は自分の【呪い】を自在に操ることができる――はずだった。
しかし、ギュルタスはうまく【呪い】をコントロールできない。暴走状態に陥った竜が【呪い】を暴走させて自滅することは多々あるが、ギュルタスはそういうわけではないらしい。
その証拠に、彼の【呪い】……おそらく『忘却』の【呪い】は、『何かを忘れている』という物忘れ程度に記憶が消されている。
ウァレたちは椅子に座った竜の名前を思い出せなくはなったが、それを聞いた覚えだけはある。だから、物忘れ程度にしか記憶が消されていないのだろう。彼が【呪い】を自在に操られるようになれば、ウァレは自分の名前すら完全に忘れるはずなのに、だ。
エミルカはこめかみをもみながら、ギュルタスに訊いた。
「――で、それをどうにかしてほしいから、私のところへ?」
「……いや。まったく【呪い】が関係ないわけではない。だが、オレ様の願いは違う。オレ様は、ある人間と話をしたいだけなのだ」
「人間? それは誰?」
ウァレが訊くと、ギュルタスはうーんと唸った。
「……実は、オレ様にも名は分からぬ。だが、とても美しい顔立ちをした娘だ。オレ様は、幾度かその娘を見た。街を歩いているとき、その娘は驚いたように腰を抜かしてな、その後、慌てて逃げ出したのだ。ふん。オレ様のこの容姿に恥じらいだのかもしれぬな」
「それはな――むぐっ」
ウァレは慌てて彼女の口をおさえると、ギュルタスを見た。ギュルタスは、エミルカの言おうとしていたことが分かっておらず、首を傾げていた。
エミルカの口を押えた手を噛まれながら、ウァレはギュルタスに言う。
「恥じらいだかはともかく、その娘に一目ぼれしたってわけ、か……」
「――ぷはっ。そんなもん、自分でどうにかすりゃあええんじゃ。なんで私たちを頼ろうとするんじゃ」
ウァレの手から逃れたエミルカが言い放つ。ギュルタスは真剣なまなざしをエミルカに向けた。
「そこで、話は戻るのだ。オレ様は【呪い】を使うのが非常に下手だ。自分でも呆れて涙が出るくらいにな。ぐすん!」
「ほんまに泣かんでええ、鬱陶しい」
「オレ様は今、無差別に【呪い】を放っている。自分で自覚するところなく、だれかれ構わず、道を歩くだけでその人物から一部の記憶を消去するのだ。それがある限り、オレ様はあの娘に会っても忘れられたままなのだ」
「忘れられないために、【呪い】を自在に操りたい、か……なるほど」
ウァレは頷き、エミルカを見た。彼女も同じことを思っていたのか、静かに頷いた。
「……分かった。あんたのそのバカみたいな【呪い】、どうにかすりゃええんじゃな。それと、その娘と話かける機会を与える……か」
「いや、オレ様は【呪い】をどうにかしたいわけではない。ただ、忘れられなければいいだけなのだ」
優柔不断とも取れる発言に、エミルカはこめかみを押さえて呻いた。
「……なんじゃ。もっと簡潔に話せれんのんか?」
「オレ様は、長い年月を生きてきた。しかし、【呪い】をどうにかしたいという気持ちはないのだ。ただ、オレ様はその娘のことが気に入ってしまったのだ。だから、唯一でいい。唯一、オレ様を忘れない存在になってほしいのだ。その他多数の人間どもには興味などない」
「この変態竜が……」
エミルカはしかし、目の前の竜を放っておくわけにはいかなかった。彼を放っておけば、街でちょっとした騒ぎが起きるだろう。忘却の【呪い】がばらまかれて困るのは、何もこの竜だけではないのだ。
彼には自覚がないのかもしれないが、彼は今、危険な状態だ。本来自分を守るはずの【呪い】が、自分の意思と関係なく動き回る。街中で悠然と歩いていたのは、『どうせ忘れられるから』という妥協があったのだろう。しかし――それではいけないのだ。
エミルカはやがて、静かに頷いた。
「――分かった。あんたの願いを叶えちゃる。私たちにも、その娘のことが分かればええんじゃけど……分かるんか?」
「大丈夫だ。オレ様は顔をきちんと覚えている。忘れるのはいつも人間側なのだ。……もういっそのこと、全て忘れてしまえばいいのに……」
そのとき、ギュルタスの瞳が一瞬、細められた。彼が何を考えているのかは理解の及ぶところではないので、ウァレたちも気にしなかった。
「まずは、名前を憶えてもらうためにどうするか、かな。……ミカ、何かないのか?」
「それは大丈夫じゃ!」
自信満々に頷いたエミルカに、ウァレは言い表せられない不安を覚えた。自分で聞いておいてなんだが、彼女がしようとすることが、とても真っ当なものだとは思えなかった。
不安そうにするウァレを差し置いて、エミルカは話を進める。
「名前を憶えてもらうのは、ひとまず大丈夫じゃ。私を信じい。じゃけん問題は、その娘がこんな図体だけのバカみたいな竜に会ってくれるかじゃな……」
「……とりあえず、その娘に会うために一度街まで行ってみるか? といっても、今日は遅いからまた明日だな」
窓の外を見てみると、太陽が沈みきっていた。ウァレは底知れない哀愁を身に沁みつつ、惜しみながらギュルタスを見た。彼も頷いた。
「……では、今日のところはここらで引き上げるとする。また明日、忘れていなければよろしく頼むぞ。ドゥハハ!」
「うっさい! 早帰れ‼」
エミルカの慟哭が、教会に響くと、逃げるようにギュルタスは出ていった。
次の日、街に赴いたウァレたちは、エミルカに睨まれながらその女性を見た。彼の後ろには、全身をローブで包み込んだギュルタスもいた。
ギュルタスは自分が竜であるかを悟られないようにするための工夫をしていた。幸い、顔さえ見られなければ巨躯の人間とさして変わらない。そのおかげで、街行く人々は先日のことが嘘のように、彼に気を留めなかった。
おかげで彼も憧れの娘と会話ができる……しかし。
「……ミカ、これはやりすぎというか、何というか……」
「あ? 何言うとるかよう分からん。はっきり話せぇや」
ウァレはエミルカとの会話を断念すると、後ろに立つローブを見上げた。
今、彼の首からネームプレートが提げられていた。端から見ると、彼はかなり図体がいいくせに道に迷うドジで、首からネームプレートを提げて自らそれをアピールしている痛い男ということになる。そんな人間に話しかけられたなら、逆に不審者と見紛うこともあるやもしれない。
実際、ウァレの目の前に立つ娘は、そんな彼を見上げて困ったような表情を浮かべていた。
目の前の娘は黒髪黒瞳の、和風な女性だった。来ているのも紋服で、この街には会っておらず、かなり浮いていた。優しそうな風貌で、大人の女性という雰囲気を醸し出していた。ウァレと同じくらいに身長も高く、首には四角いものをネックレスのように提げていた。
「あ、あの……何か用があるのでしょうか? わ、私……急いでいるのですが」
娘は、怪しい三人組に声を掛けられて困惑していた。中でも、彼女にとってはウァレが一番の不審者だった。
ウァレは仮面の下で笑うと、エミルカと共に歩き始めた。ギュルタスは一瞬、ウァレたちを追おうとしたが、足を踏み出すのを止めた。彼らを二人きりにして、話し合わせるつもりだったのだ。
しかし、ギュルタスの前で立ち尽くす娘は、目の前の巨躯に驚いたまま動かなかった。不審者全員がいなくなるのかと密かに安堵していたのだが、この男だけが残ったことに少し腹を立てていた。
ギュルタスは、少しの間、口の運動と言わんばかりに口をパクパクさせていたが、やがて勇気を振り絞って話しかけた。
「オレ様はギュルタスだ。あなたの名前を教えてもらいたい。オレ様はギュルタスだ。あなたの生年月日から体重身長座高まで、ありとあらゆるものを知りたいのだ。オレ様はギュルタスだ。あなたの職業を知りたいのだ。オレ様はギュルタスだ。普段、服を洗うときにどんな洗剤を使っているかを知りたい。オレ様はギュルタスだ。あなたのバストヒップウエストを知りたいのだ。オレ様はギュルタスだ。あなたのあなたは今、誰かと付き合っていま――あ! ちょっと逃げないで!! オレ様はギュルタスだぁぁぁぁッ!!」
「あれじゃあただのストーカー野郎じゃがなッッ!!」
叫んで、エミルカはギュルタスの頭をはたいた。彼の前に、娘はすでにいない。彼のあまりの気持ち悪さに、悲鳴を上げることすら忘れて逃げていったのだ。
ウァレは呆れた風に、ギュルタスを見た。彼の台詞に、気にかかるところがあったのだ。
「なんで、自己紹介したくせに何度も同じ名前を繰り返したんだよ……」
「そ、それはエミルカが、そうしておけば名前を憶えてもらえるとッ!」
「私は、あんな気持ち悪い言い方しろなんか言うとらんわ! 名前を繰り返すだけでよかったんじゃろうが!」
「ミカ、どっちにしろギュルタスの性格上、逃げられてたぞ」
ギュルタスの質問の変態さを思い出して、ウァレはため息を吐いた。彼の質問のほとんどがセクハラまがいのものだったが、彼自身はそれに気づいていないらしい。それもまた問題であった。
「むぅ……とにかく、今日は出直しじゃな。また明日、あの人探して何とか話だけでも聞いてもらやぁええじゃろ」
しかし、ギュルタスは首を振った。
「……いや、オレ様はもういい」
「はあ!? なに言うとるんじゃ!!」
「オレ様、分かったんだよ。人間なんかと話しても無駄だって……あいつら、すぐにオレ様のこと忘れて、平気で笑って、今みたいに話しかけただけで逃げていく……結果は変わらぬ。人間が変わらぬと同じように、オレ様も変わらぬ。だから、どうせ話しかけても無理だ。オレ様には……できん」
「じゃけん、諦めるんか。もう二度とやらんと、一回だけで諦めるんか!」
「そうだ」
そして、ギュルタスはウァレたちに背を向けた。
「――オレ様は、とんでもなく弱虫なんだ」
そう、言い残して……。
✝2✝
夜の街に、悲鳴が上がった。
誰もが彼の姿を見ては驚いて逃げ惑う。人の波におされて転んでしまうものや、どさくさに紛れて店先の商品を懐に入れるという輩もいた。
しかし、彼にはそんなことは些細だった。今更だった。
逃げた自分が許せない。
自分が願ったことを簡単に諦めてしまったことが許せない。
何一つ努力しないまま終わらせた自分が許せない……。
それでも彼は、立ち直れない。
ギュルタスは歩く。そのたびに人が波となって引いていく。が、彼らはそのことを数舜後には忘れるのだ。
――こっちは覚え続けるのに、な。
ギュルタスはそう思い、表情を暗くした。彼は人に忘れられるが、自分が覚えていることで、より一層の孤独を感じていた。
「道を開けよ! ええい、どけい!!」
その時、人並みをかき分けて出てきた人間がいた。彼らは剣を佩いている。この街を守る兵士だった。
それを視認した瞬間、ギュルタスは身の危険を感じて走り始めた。そんな彼を追うように、どこからか放たれた弓矢が地面を穿った。
ギュルタスは背後を振り返らないまま、人気のない路地裏へと逃げ込んだ。そうすれば人間たちの攻撃から免れられると思ったからだ。
しかし、ギュルタスを追ってきた人間たちは、街の住人などのことはどうでもいい、とでも言いたげに街を破壊していった。
ギュルタスが逃げて行ったあとを弓矢がおい、また、別の方向から来た人間たちが退路を断つよぅに火炎放射器を噴き出す。
やがて、ギュルタスは四方を壁と人間に囲まれた。その時になって、ようやく自分が謀られたのだと気が付いた。しかし、もう遅かった。
「さあ、お終いだ。化け物!」
「……オレ様は、化け物なんかじゃねぇよ。オレ様は……」
だが、人間たちはギュルタスの台詞が終わらないままに両手剣を抜き放つ。月の光で輝いた刀身が、ギュルタスの顔を恐怖に塗り替える。
ギュルタスは逃げようとした。【呪い】をうまく使えないせいで、彼は今の状況を打破する手立てを持っていなかった。酷いものだ。いざというときに、人間の記憶を消すことができないのだから。
人間たちが、一歩、ギュルタスに近づいた。反撃を警戒している物腰だった。ギュルタスは呆れて嘆息する。
「別に、襲ったりしないのにな。なぜオレ様は狙われるんだ? ただ、ここにいるだけで……人間というものは、本当に分からない。分からない……オレ様は人間に無視されても絶対に襲ったりしなかったのに……なぜ、オレ様は狙われるんだ? 理解不能だ」
「何を言っているのか、分かりませんわね」
その時、人間たちの中から女性の声がした。辺りを見回すと、見つけた。が、あまりにも信じがたいことに、ギュルタスは目を剥いた。
黒髪黒瞳の紋服を着た娘は、彼女に似合わない大きな剣を持っていた。その上、ほかの人間たちはきちんと防具をつけているにもかかわらず、彼女に関してはそういったものを一切着けていなかった。
「あなたは……ふふ。昼間はどうも。あなたはああして、女子どもをさらうつもりだったのでしょう? そんなことはさせません。今ここで、私が処理しますッ!」
「違う……勘違いだ……オレ様はそんなことしようなんて思っていない! オレ様は、ただ独りが嫌だっただけなんだッ!! オレ様のことはみんな忘れるから……だから、一人でもオレ様のことを覚えてくれる奴を探してただけなんだ!! だから――」
「問答無用! 人々を恐怖に導いた、あなたの罪……我らが処理しますッ!! だああぁぁぁっっ!!」
女性は、剣を軽々と持ち上げると、ギュルタスに迫った。華奢な体とは思えないほどに大きな剣を持っていたにも関わらず、彼女は機敏に動いた。
一瞬で距離を詰められたギュルタスは、目を閉じた。
殺される覚悟もした。
このまま、自分の【呪い】に振り回されて、ただの一人にすら覚えてもらえないままに、殺される覚悟を決めた。
しかし――彼はいつまで待っても、その時が来ないことに気が付いて目を開けた。
「ギュルタス! 大丈夫か!?」
彼の目の前に、狐面をかぶった青年が立っていた。彼はギュルタスを見上げて何かと叫んでいる。
剣を振り上げたまま固まった娘は、突然現れた青年に驚き、やがて剣をゆっくり下ろ
した。腰に付けた鞘にしまうと、苛立たしげに顔をゆがませながら「行こう」と、ほかの人間たちに言って去った。
「……ふう。何とか行ってくれたみたいだな」
「ウァレ……なぜオレ様を助ける? こんな弱気で、自分の願うことすら叶えられないポンコツを、なぜ助けたんだ……?」
ウァレは仮面の下で笑った。細めた目が怪しくて、ギュルタスは半歩引いた。
「なぜも何も、俺たちはあなたの依頼を受けた。いまさら途中投げすることはできないよ。ミカが、優しいものでね」
しかし、彼の言うエミルカは、今ここにはいなかった。
ギュルタスは唖然とウァレを見ていた。やがて、人間たちが消えていった方向を見ると、
「……オレ様は、殺されるべきだったかもしれない。知らぬ間に人間たちに恐怖を植えつけていた……故意ではないとはいえ、オレ様はとんでもないことをしてしまったのかもしれない」
「そんなことはない。人間どもが勝手に怯えているだけだよ」
ウァレが、暗い空を見上げて、言った。
「竜は人間から逃げて、今みたいに存在しないと言われてきた。そんな竜が、今更自分たちの目の前に出てきたことに怯えているだけだよ。本当の竜は――もちろん、悪い考えをする竜もいるけど、ほとんどの竜は、一生懸命に生きている」
「一生懸命、か……」
ギュルタスは呟く。ウァレは彼に言った。
「ギュルタスだって、そのうちの一人だろ。人間に覚えてほしいから、人間たちの前に姿を見せるんじゃないか? 一人でも覚えてくれる人を、探しているんじゃないか?」
ギュルタスは黙り込んだ。なぜなら、ウァレが言ったことに、一つだって当てはまらなかったから。
「憧れの人間に覚えてもらいたいから、今日だって頑張ったじゃないか。だから、明日もやればいい。だから――」
「嫌だ……」
ギュルタスは、全身を震わせた。結局、誰一人彼を理解してくれる人などいなかったのだ。
「オレ様は、もう人間なんてどうでもいいんだよッ! オレ様のことを、すぐに忘れる人間なんて……オレ様にとってはどうでもいいことだッ! 分かった気になるな!」
「ギュルタスッ!!」
ギュルタスは慟哭しながら、暗くなっていく街へ走り出した。
「……バカじゃの」
ウァレの後ろで、物陰に隠れていた車イスの少女は、そう呟いて空を仰いだ。その時、彼女の頬にポチャリと水が弾けた。
雨が、降ってきた。
✝3✝
教会は閑散としていて、人の息遣いが聞こえてきそうだった。
ウァレとエミルカは、長椅子に並んで座っていた。数日前からギュルタスの居場所が分からなくなってからというもの、何もすることがなかったのである。
ウァレは膝に置いたコーヒーを一口飲んだ。
「……俺がダメだったのかな。ギュルタスの気持ちを分かってやれなかった」
「違うじゃろ。ギュルタスのメンタルが、ものすごく弱かっただけじゃ。あんたは悪ぅない。……じゃけど、全然姿見んようになってしもうたな……」
エミルカは首から提げた十字架を握りしめた。依頼を受けた自分が、彼の依頼を全うできなかったことが、とても悔しかったのだ。
その時だった。
教会の扉が開かれ、雨の降る中現れたのは、一人の娘だった。肩まで髪を切りそろえた、黒髪黒瞳の女性……ギュルタスを襲った人間だった。
「お邪魔します。少しここで雨宿りさせてください……あれ? あなた、前に見たことがありますね……あ、あの竜の時の!」
娘は、ウァレを指さして叫んだ。ウァレは彼女の登場に、身を強張らせた。てっきり、そのまま剣を抜かれて『あの時はよくも邪魔したな!』と切り捨てられるかと思ったのだ。が、そういうことはなかった。
「私はオルナス・明石・ユナ……こう見えてハーフなんです」
オルナスは、椅子に座って自己紹介した。ウァレもそれに対して自己紹介をする。
「俺はウァレフォール・エルタニル。こっちのがエミルカ・トゥバン。今日はここまで歩いてきたの?」
ええ、とオルナスは頷いた。自分の腰に提げた剣の柄に触ると、ふっと微笑んだ。ウァレの隣で頬を膨らませたエミルカが、彼の頬をつねった。
「今、私たちはある竜を探しているんです」
「それはギュルタス……前に会ったあの竜とはまた別なのか?」
「はい。私たちは最近起きている不可解な出来事……集団で一斉に記憶喪失になるといった、事件を起こしているとされている竜を探しているんです。なので、あの時の竜とはまた別でしょう」
ウァレはエミルカと顔を見合わせた。間違いなく、それはギュルタスの仕業だった。が、オルナスはその事実を知らない。
このまま彼女がそれを知ってしまえば、今度こそギュルタスが殺されるかもしれない。そうなる前に、彼を止めなければ。
しかし、
「――もしかして、あなたが一緒にいた竜が起こしているんですか?」
彼女は目聡かった。すべてを理解したように、微笑んでウァレを威嚇する。ウァレは額に汗を流しつつも、否定の言葉を連ねた。
「……あはは。そんなこと、あいつがするわけな――」
「あの竜が、起こしたんですね?」
しかし、とりつく島もないという風に、彼女はウァレの言葉を頑なに信じなかった。自分の感じたことが一番正しい、と声に出さずに言っているようだ。
「返事をしてくださらないということは、肯定を意味しますよ? そうとってもよろしいのですね?」
「いや、だから彼は……」
「っちぃ……下手にでりゃ情報聞き出せると思ったのによ……」
突如、オルナスの雰囲気が変化した。足を組むと、長椅子の背もたれの上に腕を乗せ、はぁとため息を吐いた。
オルナスは首から提げた四角い箱に触れながら言った。
「お前が一緒にいた竜、迷惑だから何とかしてくれない? 夜中に徘徊して、人間に迷惑かけてるのよ」
「……ギュルタスが人間を襲っとる言うんか? ふん。あのバカなやつが、そんなことできるとはよう思えんのじゃけどな」
エミルカが切り捨てるように言うと、オルナスが視線を鋭くして彼女を睨んだ。教会内に、ピリピリする嫌な雰囲気が立ち込めた。
やがてオルナスはため息を吐くと、
「事実だ。実際に見た人間がいる。で、ここに来れば何かわかると思ったんだけどな……その様子だと、あの竜のことは教えるつもりはないってことだな」
「……依頼されとるけんな。私は、あいつが願うことを叶えるだけじゃ。ウァレ!」
ウァレはエミルカに呼ばれ、彼女を車いすに乗せた。車イスを押し始め、教会の出入り口まで来ると、いったん車イスを止める。厳しい視線を送ってくるオルナスを振り返ると、
「俺たちがギュルタスをどうにかする。人間は、あまり関わらないほうがいい」
忠告すると、ウァレたちは雨の降りしきる街へと向かって行った。
空が夜を告げる――。
✝4✝
誰もいない。
誰もいない。
自分の周りにだれもいないことが、いつの間にか当たり前になっていた。それが孤独なのだと気づいたときには、すでに遅かった。
友だちができるのが夢だった。
本当に小さなことかもしれない。もしくは、そんなの簡単にできる、といわれるかもしれない。しかし、自分には難しかったのだ。
まず、他人に覚えられない自分は、誰かと共に行動することができなかった。一緒に行動していても、向こうは忘れるばかり……辛いことは自分が覚えていて、誰も自分のつらさを分かってはくれなかった。
忘れられるのが嫌だ。
それでも周りの人はどんどん忘れていってしまう。
全ては自分のせいだと、それは分かっていた。しかしそれでも……忘れられるのは辛かった。それが原因で、みんなが離れていくのが嫌だった。
だから、もういっそのこと――
「――オレ様のことを忘れるなら、全てを忘れてしまえッッ!!」
気味が悪いほどに閑散とする街。
街を駆ける彼らの足音すら聞こえなかった。音が、自分の存在する理由を忘れているのかもしれない。
人間たちは、この不可解な現象に驚いて、家の中に引きこもってしまっていた。外を出歩いているのは、鳥目だということを忘れたカラスくらいだった。
「ギュルタスはどこにおるんじゃ!!」
苛立ったように声を荒げたエミルカ。ウァレが目を凝らして辺りを見るが、肝心のギュルタスの姿はどこにもない。
ギュルタスは、街を歩きながら【呪い】をばらまいているはずだった。彼は自分の力をうまくコントロールできていないので、街全体に【呪い】をかけるなら、ある程度人間に近づかなければならない。
ウァレは車イスを押しながら、街全体を走り回った。しかし、結局ギュルタスを発見できなかった。
街に彼の【呪い】が蔓延しているのに、だ。肝心の彼の姿だけが、この街のどこにもない。
「ギュルタス! お前は今、どこにおるんじゃ!!」
痺れを切らしたエミルカが、叫んで言い放つ。
「お前は私に願った。私は、お前をどうにかするために、今もここにおる! じゃけど……その姿が見えんかったら、意味ないじゃろうが!! じゃけぇ、今すぐ出てこいッ!!」
「……」
静かな街に、エミルカの声だけが反響した。しかし、その声は次第に消えていく。音が、自分を忘れていく。
エミルカはそれを感じて、歯噛みした。悔しい……けれど、いつまでもそれを気にし続けるわけにはいかない。
「ギュルタス! ギュルタス!! あんたを忘れない奴が、絶対おる! じゃけん、諦めるな! 自分の叶えたい願いを、そう簡単に諦めんなッッ!!」
「……オレ様には、無理だ」
その時、ウァレの背後から声が聞こえた。この、偉そうともとれる話し方は紛れもなくギュルタスのものだ。
「ギュルタス! どこにおるんじゃ!!」
しかし、彼の姿は見えない。路地裏に潜んでいる、というわけでもなさそうだった。ウァレの背後で、ギュルタスは怯えていた。
「無駄だ。オレ様の姿は今、誰にも見られない。オレ様自身が、自分の身体を忘れていっているんだ」
「まさか……そんな……身体が、身体を忘れていっているのか!?」
しかし、それは事実だ。ギュルタスの姿はどこにも見えない。だが、彼の声だけは、確かにウァレの背後から聞こえるのだ。彼は、徐々に自分の身体を忘れていっていた。
「……オレ様は、もうすぐ消える。存在を忘れる。街行く人の顔を忘れるように、オレ様はみんなに忘れられる。そして、オレ様がオレ様自身を忘れるのだ。だから、もう無駄だ。もうすぐ、オレ様はこの世から消えてなくなる」
「そうはさせない。ギュルタス、お前は願った。独りになりたくなかっから、願ったんだろ!? なら、一人になろうとするな。俺たちがお前の存在を消させない!!」
ギュルタスはドゥハハ……と、乾いた笑い声を出した。
「いいのだ。オレ様は、人間の存在を忘れさせようとした。そのせいで、今こうなっているならば、オレ様はそれを受け入れる。オレ様は罪を犯したのだ。なら、断罪されるのが当たり前だろう?」
「ギュルタス、断罪されるなら、消えるな。お前は今、逃げているだけだッ!」
「そうだ。だから何だっていうんだ? オレ様は人間を消そうとした。人間が許せなかった。だが、その気持ちは消せなかった。その時、オレ様は気づいたんだよ。――オレ様は、人間が大っ嫌いだってことに!! 人間はこのまま消えて、オレ様も消えれば……世界で悲しむ者も消えるだろう!? ドゥハハハハハッッ!! そうだ、それがいいッッ! 全て忘れてしまえばいい!!」
狂ったように、ギュルタスは叫びにも似た笑い声をあげた。
エミルカは舌打ちする。何とかして、ギュルタスの姿をもとに戻さなければ……いや、それ以上にこの街にかけられた【呪い】を、早く解かなければならない。
「ウァレ……ギュルタスを助けるんじゃ! 願えッ!!」
エミルカが叫ぶと同時に、ウァレは自分の顔を覆っていた狐面を外した。
その中から現れた顔に、ギュルタスは一瞬身を固めた。
そこに現れたウァレの顔は、酷いものだった。右目以外の部分が焼けただれ、唇からは常に鮮血が流れ出している。左目は落ちくぼみ、額には十字架のような模様さえあった。
否。そういう風に焼けただれているのだ。
ウァレは、額の十字架に触れた。
そしてウァレは呪いの言葉を紡ぐ。
「――至誠(Verbum )なる(Dei )主の(factum )――ッ!?」
しかし、彼の言葉は途中で止まった。おかしいと思ったエミルカが、彼の顔を覗き込むと、ウァレは小さく舌打ちした。
「どうしたんじゃ……ウァレ!」
「ミカ……俺は、できない」
「はあ!?」
エミルカが素っ頓狂な声を出すと、ウァレは悔しそうに歯噛みしながら狐面を付け直した。
「どういうつもりじゃ、ウァレ……ギュルタスを助けるには、あんたの【呪い】が必要なのに、なんでじゃ!?」
声を荒げるエミルカに、ウァレは言う。
「――忘れたんだ」
「……え?」
「忘れたんだよ。【呪い】の使い方も、呪言も……なにもかも忘れたんだよ!!」
「そんな……じゃあ、ギュルタスを助けるのも、この街の【呪い】も、どうにもできんってことか……」
エミルカは俯く。ウァレの【呪い】……『陰と陽を反対にする【呪い】』だけが、この街を、ギュルタスを救う手段だったのに、それは失われてしまった。ウァレは、ギュルタスの【呪い】によって、自分の力の使い方を忘れたのだ。
「ドゥハハッ! もう、無理なことが分かったか!? もう、どうすることもできないことは、分かったか!? ならば、みんなみんな、全てを忘れて、オレ様と共に、その存在もろとも消えてなくなれぇぇぇっぇッッ!!」
そうして、ギュルタスの【呪い】が肥大化する――。
「やめろ、ギュルタスッ!」
しかし、ギュルタスはやめない。身体の周囲に黒い霧をまとわせ、それを徐々に拡大していく。その霧が街全体を覆ったとき、彼の【呪い】で、全ての人が何もかもを忘れてしまう。
それは人間だけにとどまらない。
全ての物が、自分のあるべき姿を忘れ、自分のするべきことを忘れてしまう。
泡沫に沈む街に、雨が降りしきる。
曇天の空を覆ったのは、【呪い】の込められた霧だ。彼を止めなければ、全てがなくなってしまう。しかし、彼の姿はどこにもなかった。
――どうすればいい?
ウァレは考えたが、何も思い浮かばなかった。彼が持っているのは、ある竜から受け継いだ【呪い】だけ。その【呪い】すら使えないならば、彼は何もできない。
それはエミルカも同じようで、首から提げた十字架を握りしめたまま無言だった。その十字架の片方が欠けた理由を、忘れたかのように。
「ドゥハハ! もう、どうすることもできないのが、分かったかッ!! ならば忘れろ……すべては! オレ様の泡沫のもとにありッ!!」
そしてギュルタスは――【呪い】を執行する。
ギュルタスは哄笑した。
自分が望んだものが、次々と消えていく様子に、満足するかのように。
自分が望んだものが、忘れ去られていくのが、快楽に似ているかのように。
自分が望んだものが、こんなものではなかったと、後悔するかのように……。
街が消えていく。その存在理由を忘れてしまい、自分の形を忘れてしまったのだ。その中にいた人間は、自分が消える理由を忘れながら、消えていく。
消える。
消える。
「ドゥハハ! これで……これで、オレ様を忘れやがった人間はいなくなった! ドゥハハ! 全て、貴様らが悪いのだ。よくもオレ様を忘れやがって……この世界とは違う場所で、一生後悔するがいい! オレ様を忘れやがったことを!」
ギュルタスは、全てが消えた真っ白なキャンパスに向かって哄笑した。何も映らない世界に、彼の音だけが響いて……
――そして、声すら消えてしまった。
その時だった。
「な……なんだこれは……うわっ! くそう!! 俺の命令に従えッ!!」
突如、周囲に蟠っていた黒い霧が、ギュルタスに歯向かった。ギュルタスは【呪い】の霧に襲われ、徐々に存在を消していく。
足元から徐々に、自分の存在が世界に忘れられていった。
ギュルタスは、自分のもののはずの【呪い】に翻弄され、虫食いのように白いキャンパスに埋められていくのを見た。
「やめろ……この【呪い】は、オレ様のものだろう!? なぜ言うことを聞かないッ!? なぜ、オレ様が消えなければならない!? オレ様が被害者だったのに……なぜだッ!? 消えるのは……やっぱり嫌だッ!!」
しかし、彼の声は誰にも届かなかった。
世界が、ギュルタスの存在が消えていくのを笑ってみているようだった。どこからともなく、「ざまあみろ」と言っているのが聞こえた。
幻聴だ! 彼は耳をふさいだ。が、耳をふさいだ彼の耳も、手も、腕も、何もかも消えていった。
「やめ……ろ……オレ様の、言うことを聞けい! オレ様が、この世界で一番の弱者なんだぞ!! この世界で、一番の被害者なんだぞ! オレ様が消える理由はない! 人間どもが消えて当然だったのに――オレ様までも消そうとするな、【呪い】ッッ!!」
誰かが笑ったのが聞こえた。それも幻聴? ギュルタスは、その音を遮るために手を耳に当てるという行為を忘れた。この音が、どうやれば消えるのかを忘れた。
ギュルタスは目を剥く。なぜかは思い出せないが、自分が消えているではないか。あと
は頭を消すのみになっていた。
ギュルタスは怖くなって叫ぼうとした。しかし、叫ぶという行為はどうすればいいのか忘れた。顔が、半分消えていた。
ギュルタスは何も感じなくなった。五感全てが、自分の役割を忘れた。目の前も見えなくなった。頭が消える……。
そして誰もいなくなった――。
✝5✝
「ギュルタスッ!」
ウァレは叫ぶ。彼は、自分の【呪い】に浸食され、目が本来の機能を忘れていた。
そして今、ギュルタスは自分というものを忘れながら、地面に横たわっている。一度消えた彼が元に戻ると、再び消え始めていた。彼が消えていくごとに、ウァレたちの消えた記憶が返ってきた。
皮肉なことに、いや、自業自得で、ギュルタスは自分が消したものを、自分がいなくなることで、世界に思い出させていた。彼は結局、世界の誰にも自分を覚えてもらえなかった。
かくいうウァレも、彼の名前を忘れた。彼が誰だか分からなくなった。その竜は、さっきまで話をしていたはずだったのに、泡沫に消えていった。
街の外に住民が出てきた。住民たちは、これから来る長い夜を、何かを忘れた、というもどかしい気持ちで過ごすのだろう。しかし、彼らは一生そのことを思い出せない。
街の人々は、地面に倒れている竜を見下ろしても、何も思い出さなかった。むしろ、その竜はそこにあるべき銅像のようにさえ思っていた。銅像の前にわざわざ立ち止まる人は、銅像のモデルとなった人間などのことが好きな人物や待ち合わせくらいのものだろう。
だから、ウァレはエミルカに話しかけた。
「……なんで、俺たちここにいるんだっけ?」
全てが消えたと思った街が、全てを思い出したとき、彼の存在意義は完全に消えてなくなった。
彼は道端で、誰の目にも触れられないまま、世界に忘れられるまでそこに放置されるだろう。。誰からの認識にも、彼という存在が忘れられているのだから。
エミルカが、頭に疑問符を浮かべるウァレに悲しげに目を伏せながら言った。
「――バカな竜がおっただけじゃ。このダボ」
エミルカの言葉が結局分からなかったウァレは、エミルカの車イスの背後に回った。車イスを押すと、教会のほうへと帰っていく。
雨はすでに上がっていた。
空が、徐々に白んできた。
太陽の下で、彼は独りつぶやく。
「なぜ……オレ様が消えなければ――」
その声すらも消え、そして、自分を守るはずだった【呪い】に裏切られ―――
――彼は消える。