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[Quinto episode] 山陰の竜――ディレイス――

             †0†


 朽葉を踏み鳴らしながら、彼らは逃げるように走っていた。


 日が傾き始め、辺りは暗くなり始めている。木々が生い茂る森の中、木の根に足を取られないように注意して進むのが難しくなってきた。


「はぁ……はぁ……はやく逃げなきゃ……はやくっ!!」


 少女は息を切らしながら必死に足を前へ運んでいる。彼女の隣では、一匹のトカゲが小さな羽を一生懸命はばたかせて飛んでいた。


「もう、だめだよ……でも捕まりたくない……捕まりたくないよっ!!」


 トカゲが弱々しく言ったのを聞いて、少女は歯噛みした。後ろを振り返ることはできないが、背後からは確かに足音がしていた。それがずっと付いて来る。


 その足音から逃げなければならないのに、体力は限界だった。このままでは捕まってしまう……何か対策を立てなければ、と思案する少女に追い打ちをかけるように――


「もうだめだ。もうだめだ! 捕まっちゃう……捕まっちゃって、僕は――」


「ダメ……弱気にならないでっ!! これからも一緒に遊ぶんだ! 一緒に笑うんだ! それなのに……捕まっちゃうなんて考えないでっ!!」


 彼女が湿った声で叫ぶと、頬に一筋の滴が流れた。

 

 トカゲは彼女を慰めたいと思った。しかし、自分には何もできないと無力に沈むだけだった。事実、トカゲの体は小さく、彼女を守れるほどの力もなかった。悔しくて泣きそうになった。


 背後から怒声が聞こえてくる。どんどん、彼らは近づいてきていた。少女とトカゲを追う彼らを、視認することはもうできない。すでにそれほどまでに、辺りが暗くなっている。


「――っきゃ!」


 その時、少女が転んだ。


 トカゲは彼女に寄り添うように降り立った。少女はトカゲを優しく見つめて、


「……先に行って……あたしを置いて行って……」


「嫌だっ! 一人になんてなりたくない!!」


「……あいつらの狙いは、あんたなの。あんたが逃げないといけないの。それに、大丈夫よ。あたしは信じてるから」


 少女はトカゲを優しく手で包んだ。夜風に冷やされた鱗が、熱を持つ体を冷やしてくれるようだった。彼女はトカゲの頭にキスをして、手を振り上げるようにして飛び立たせた。


「行って! あたしは大丈夫だから……絶対に、大丈夫だから!!」


 そう気丈に振舞いつつも、彼女は泣いていた。トカゲは彼女のことが気になってなかなか行けずにいたが、やがて追跡者の足音が近づいるのに気がつき、小さな羽をはばたかせた。


「……絶対、信じてるから。だから――」


 そう呟いて、彼女は捕まった。


              †1†


 空も白んできた。


 朝の森林の空気はとても気持ちがよかった。木々の優しさに体が包まれているような気がするのだ。地面を踏めば草露が足を濡らし、鳥が鳴くと森が輪唱する。少し冷たい空気も、慣れれば気持ちがいい。


 そこに一人の青年と、車イスに乗った少女が森を歩いていた。いわゆる森林浴である。が、その格好は珍妙だった。


 青年は、顔に右目以外を覆う狐面をかぶり、唯一見える目は赤黒かった。背は高かったがローブをひこずり、端々がボロボロになってしまっている。彼は言うなれば『不審者』だった。


 車イスの少女は、頭をすっぽり覆うように白いベレー帽をかぶっている。巫女服を着ていたのだが赤いスカートは短く、後ろは何かを隠しているように膨らんでいた。金色の髪は絹繊維のように繊細で、乏しい胸に流れている。へそが見えるほど大きく開かれた胸元には白銀の十字架が光っていた。


 否。彼女のそれはもはや十字架と呼べるものではない。


 朽ちて端が無くなり、ト字架となっていた。


 胸一杯に朝の空気を取り込むと、少女は頬笑んで瞑目した。


「本当に、朝はええな。空気がおいしいし、風が気持ちええ」


「そうだな。でも、珍しい……お前がそんな乙女チックなこと言うなんて」


「私が乙女じゃないって言いたいんか!?」


 少女は悲鳴を上げるように言って、青年の手を叩いた。車イスに乗る彼女が出来る精いっぱいの反抗だ。青年は痛いよ、と言って少女の頭を思いっきり撫でてやった。頭を揺さぶられた少女は恨めしそうに青年を見ていたが、それが照れ隠しなのだと知っている青年は、狐面の下でひっそり笑った。


 少女はずれてしまったベレー帽を直すと、腕を組んだ。


「むぅ。そんなにおかしいこと言っとるつもりはないんじゃけどな……」


 何やら考え始めた少女に微笑み、青年は顔を上げた。森に道はなかったが、彼らはこの近くに住んでいることもあり、森の地形はある程度理解していた。


 もう少し行くと崖がある。彼らが知っているのは、そこまでだ。そこからUターンして帰ろうと青年が言おうとした時、ふいに目の前に何かが飛び込んできた。


 それはトカゲだった。


 いや、トカゲと呼ぶには少し妙な形だ。第一、このトカゲには羽がはえていた。


 そして骨格も違うようだった。トカゲは四足で歩くはずなのに、目の前のそれは二本足で立っていた。小さな瞳は青色に輝き、黒緑色の体には鱗がびっしり生えている。


 トカゲは足より小さな手を地面につき、少女を見上げた。車イスの少女は、そんなトカゲを冷たく見下ろしていた。


「た、助けてくださいぃっ!!」


 トカゲは涙交じりに、慟哭した。






 教会の空気はどことなく冷たい。


 まだ朝なので、室内の空気が温もっていないのだ。それだけでなく、教会の壁には宗教画が掛けられ、そこから誰かがこちらを見ているような気味の悪さがあった。


 トカゲは教会内をぐるりと一瞥して、体を震わせた。


「――……で、なんの用?」


 トカゲの前には車イスに座った少女がいた。


 今の彼女はベレー帽を外し、頭に生えた狐の耳を晒していた。短いスカートの後ろは少しめくれ、そこから猫のような尻尾すら見える。それらを体の一部なのだというように耳をぴくっと動かして、機嫌悪そうな声で言ったのだった。


 トカゲは口ごもったが、ここまで来たのだから言うしかないと決意した。


「……僕は人間に狙われています。それは、僕が竜だから、というのは分かりますか?」


 少女は当然と言わんばかりに瞑目して頷いた。


「私の前に来るのは人間か竜じゃ。あんたが人間じゃない限り、絶対に竜」


 少し妙なことを言う少女だったが、自覚はないらしい。うっすらと目を開けた彼女は、どこかこちらを睨んでいるようにも見えた。そして自分が名乗っていないことに気がついて、慌てて名乗った。


「あぁあ、僕はディレイスと言います」


「……私はエミルカ・トゥバン。こっちの変態仮面趣味がウァレ」


「なんだよそのかっこ悪い異名は。この訛り巫女シスターが。……で、ディレイスさん。あなたはなぜ狙われているのですか?」


 ウァレもまた、ディレイスを睨むように言った。ディレイスは少しひるみながらも声をだす。


「……僕は竜ですから。長年、人間とは会わないようにしていたのです。しかし、最近友だちが出来たんです。彼女の名前はリチェル・メイ・ウィンターソン。僕は彼女だけなら仲良くなれたんです」


 ディレイスは語る。


「彼女は僕とは違って、とても顔が広かったんです。人とは積極的に関わっていましたし、それに優しいんです。子どもみたいに街を走り回るような、そんな活発な子でしたけれど……周りの人から信頼されていました。

 彼女はある日、友だちの少ない……というか、僕が人間を避けていたから当然なんですけど。まあ、そんな僕を見かねて、彼女の友だちに僕を紹介したんです。彼女は学校で幻獣研究同好会といった部活をやっていましたから、その仲間に紹介したんです。それが原因で……彼女は捕まってしまいました」


「捕まった?」


 ディレイスは頷き、


「その幻獣研究同好会の中には危険な思考を持つ人が三人いました。彼らは幻獣を見つけた時は、すぐに売るか、腹を切り開いて解剖をするかとか……そういう話をしていたそうです」


「それであんたを紹介したことで、そのバカどもがあんたを狙っとる、てこと? ふん。人間の考えとることはよう分からん。なんでそんなバカみたいなこと考えとるんかな。金なんかただの金属に過ぎんし、解剖なんかしても、気持ち悪い臓器見るだけなのに……うぇ」


「気持ち悪くなるなら想像するなよ。バカ」


 ウァレは顔を青くしたエミルカの背中を撫でながらディレイスのほうを見た。


「……で、そのリチェルさんはどうして?」


「リチェルは、僕を守ってくれたんです。彼らが僕を捕まえようとしていることに気がついて、その原因を作ったのは自分だからって……。僕は森に住んでいましたから、連れ去られても誰も気づいてはくれませんしね。でも、彼女だけは僕を知っていた。だから……守ってくれたんです」


 ディレイスが俯く。自分のせいで捕まってしまったと考えているのが、それだけで分かった。彼を責める者はいなかったが、同時に慰める者もいなかった。今この場において、彼は孤独だった。


 エミルカはディレイスを冷たく見下ろしたまま、手を握った。彼女は自分勝手な人間が嫌いだった。そして、人間に竜が迫害されてしまうのも看過することはできなかった。


 首から提げた十字架を握りしめ、エミルカは目を閉じる。


「……分かった。そのリチェルを助ければええんじゃな」


 そう言ったエミルカの拳が震えるほど強く握られているのを、ウァレは横目で見た。彼女が握っている十字架が折れてしまいそうなほどの気迫だった。ウァレは宥めるように彼女の肩に手を置いた。


「リチェルさんを助けて、それでディレイスさんも助ける……。さてディレイスさん、彼らの居場所は分かりますか?」


「えっと……はい」


 ディレイスは怯えたように体を震わせ、


「崖の向こうにあった、没集落……そのどこかです」


 と指をさした。


 先ほどまでいた方向だったことに気がつき、ウァレはため息をついた。


              †2†


 同じ道を戻る時間さえも惜しかった。


 早く助けるに越したことはない。たとえ仲間だったとしても、彼らはリチェルを捕まえた。そうなればディレイスがやってくると考えているのだろう。そして、それは当たっている。


 現にディレイスは戻ってきた。さながら、事件現場に戻ってきた犯人のように。いや、彼は犯人ではない。崖下の没集落、そこに犯人はいるのだから、彼らはどちらかというと警察だった。もしくは憲兵かもしれない。


 崖の上からの景色はなんとも風光明媚だったが、その景観をぶち壊すように没集落はあった。朽ちた人工物ほど景観を壊すものはない、そう思っていたエミルカは嫌そうな表情を浮かべた。


 過去の人工物の中に入らなければ、捕まった彼女を助けられない。しかし、今は誰も住んでいないのにもかかわらず、建物はいまだ多くある。それをしらみつぶしに全て探すのはなかなか骨が折れる。ある程度のヒントは必要だった。しかし、それを示すものは何もない。


 実行犯は三人だということは分かっている。その三人の動きを観察するか、もしくはその中の一人を捕えるかすれば、彼らの本拠地を捉えることは容易だ。だが、肝心の三人が見当たらなかった。それどころか、本当に人っ子一人いない。これが過疎化の進んだ村の末路か。


「……淋しいとこじゃな」


 車イスの少女は小さく呟いた。それにはウァレもディレイスも同意だった。しかし、なぜ彼ら実行犯はこんな山奥のことを知っていたのだろうか。彼らの祖父母、曾祖父母が昔住んでいたのだろうか。


 しかし、考えるのは後だ。今はリチェルを救出するのが先だ。


「……さて、じゃあどうやってあそこまで行くかだけど……この絶壁だと降りて行くのは辛そうだし、遠回りするにも道が分からないと意味がない」


 ウァレたちはこの崖までの道は知っていたが、その向こうへ行く方法までは知らなかった。


「むぅ……ディレイスは知らんのんか? あそこまで行く方法」


「あ、はい。道なら知っています。……でも、危ないところですよ? 本当に行くんですか?」


 ウァレは頷く。


「うん。危ないのは承知していますよ。今現在、どこから狙われているか分からないですしね」


「え……狙われているんですか?」


「いや、その可能性がないわけじゃないってこと。ただ、リチェルさんを人質にしているなら、助けに来るまで監視しているかもしれない。もしくは、捕まえるその瞬間を狙っているか……どちらにしろ、俺たちはもう巻き込まれている。いまさらちょっとの危険じゃ、帰る理由にはならないよ」


 その時、ディレイスは初めて他人を巻きこんでいるのに気付いた。しかし、もう後には戻れない。


 ディレイスは捕まるわけにはいかなかった。ウァレたちを裏切ってしまったような気がするし、捕まってしまえばリチェルを救うことさえ叶わなくなる。それだけは嫌だった。


 本当は、自分が怖いだけだった。あの没集落へ行くことで、彼女は助けられても自分が捕まってしまうのではないかと、不安だった。無性に怖かった。


 でも、それじゃダメなんだ。


 それだと、自分の身代わりに捕まっている彼女をいつまでも助けられない。それは背徳行為だ。


 ディレイスは恐怖にすくむ羽を一つ打つと、踵を返した。ウァレたちに示すように先導すると、後ろを振り返らずとも彼らが付いてきてくれるのが分かる。それがなぜかうれしくて、ディレイスはひそかに笑った。


 崖まで来た道を少し下り、二つに分かれた道の狭いほうへ入った。そこをしばらく歩くと、下り坂の道がさらに急になっていた。人の気配はないので、すいすい進んでいった。


 やがて、少し開けた道が見えてきた。そこまで行くと、辺りよりも少し陥没して低くくぼんでいることが分かった。この場所だけがスプーンでほじくり返されたようだった。


 その先は壁だった。まるで、城を取り囲む城壁のように高くそびえている壁には、木やツタなどの植物は一切生えていない。地層が丸見えで、波模様になったそれが森と同化しているようだった。


 その一か所に、洞窟があった。


 洞窟の前までやってくると、その恐ろしさに口をつぐむ。中は一寸先も見えなさそうだ。太陽の明かりを一切受け付けず、暗闇が侵入者を拒んでいるような気さえした。


「暗いな。これじゃあ何も見えない……」


「何じゃ、怖いんか? 私は大丈夫じゃけどな」


「ちょっと手が震えてるぞ、ミカ」


「こ、こここ怖くないもん! こんな何もないような洞窟……こ、怖くなんて……」


「強がらなくてもいいよ。そっちにもっと酷いのがいるから」 


 ウァレが指をさしたその先で、ディレイスは地面に蹲って頭に手を乗せていた。彼は今、背後から見ても分かるほどに震えている。


 エミルカはその様子にあっけに取られて、自分が怖がっている場合じゃないと理解した。この小さな竜が怯えているのに自分までも怯えてしまうのは、どこかおこがましいような気がした。


「……ディレイス。この先を進めばさっきのとこに出るんじゃろ?」


「は、はい……でも、怖くて怖くて……だって真っ暗じゃないですか! 何が出るか分からないし……」


 ディレイスの声までも震え始めた。

 呆れたウァレとエミルカは互いを見つめ、仕方ないと首を振った。


「……この先に進めばいいのなら、早く行きましょう。どうせすぐに着きますよ。だから、ディレイスさんは目を閉じていてもいい。――彼女を救う気があるなら、早く行きましょう」


 ウァレが語調を強めて言うと、ディレイスは蹲るのをやめて、ゆっくり頭を上げた。確かに洞窟は怖い。入るのをこれまで何度憚ってきたか分からないほどに、恐ろしい場所だ。でも行かなきゃ助けられない。行かないと、と自分に言い聞かせて、ディレイスはウァレの目の高さまで飛んだ。


「い、行きます。僕が行かなきゃ、リチェルを救うことなんてできませんから……でも、やっぱり怖い」


「無理はしなくたっていいよ」


「む、無理なんかじゃありません! やれます……やりますよ!!」


 ディレイスは自分を叱咤し、洞窟の中へと入って行った。ウァレたちはそれに続くようにして洞窟に入ると、懐中電灯を照らした。念のため車イスに常に装備しているのだ。


 ディレイスは目がいいのか、暗闇でもある程度のことは分かっている様子だった。ただ、水の弾ける音でひゃあっと飛び上がったり、涙を流して震える姿を見ると、なんとも情けない気持ちになってくる。


「もうすぐです……もうすぐです……だから大丈夫……大丈夫……」


 ついに自己暗示までするようになったディレイスだったが、幸いそれは当たっていたようだ。


 前方から光が射し込んでいるのが見えた。洞窟の出口が近いことに気がつくと、ディレイスはうれしそうに羽を羽ばたかせた。


「ウァレさん! エミルカさん! あとちょっとですよ!!」


「ディレイス、落ち着け。あと、静かにすることじゃな」


 エミルカがなぜそんなに慎重になるのか分からなかったが、それもすぐに分かることになる。


 洞窟の出入り口付近まで来ると、人の足音が聞こえた。この洞窟を通ることは先方に筒抜けだったようだ。足音から察すると、人数は二人。実行犯のうちの二人が洞窟を出たすぐのところで待機しているのだ。


 ディレイスたちは息をひそめて、洞窟の陰から外の様子を窺った。やはり視界に入るのは二人だ。それも、武装も何もしていない様子だった。足元もおぼつかず、ふらふらしている。しかし、違和感を感じて、ウァレはすぐに突っ込むのはやめた。


「……ウァレさん、チャンスなんじゃ……?」


「うん。でも、もうちょっとだけ様子を窺うのもありかなって。それに、本拠地の場所が分からないと一つずつ探す羽目になる」


「ん。あいつらどっかに行くみたいじゃ」


 エミルカが言ったとおり、二人の男は踵を返して没集落へと続く森の道へと消えていった。没集落に戻って何をするのかは知らないが、それでも居場所が分かるチャンスだ。


 ウァレたちは彼らを追った。森がしばらく続き、やがて道が開けてくると人口の建物が見え始めた。木で造られた家群だった。しかし、どの家も朽ちかけて壁に穴があいてしまっている。苔が家を侵食し、その重さで潰されているものもあった。もう誰も住んでいないことは明らかだった。


 二人の男は家の間をすり抜けてどこかへと向かっていた。ウァレたちはそのあとを追い続け、やがて一軒の廃屋にたどり着いた。


 廃屋は二階建てで、かなり傾いている。自重に耐えられなくなった家が、自分を押しつぶしているようだった。一階にある扉は開きっぱなしで、もう閉じられないことが窺える。


 彼らはその家の正面に立ちつくしているようだった。立っているだけで何もしないのは、警備のつもりだろうか。


 家だけ分かれば彼らは用済み。彼らを残りの一人に見つからないように処分しなければならないが、閑静すぎるこの辺りでは足音すら目立ってしまう。風が吹いてくれないので、無音と同じだ。


「……どうする? あいつらが邪魔で中に入れそうにないぞ?」


「むぅ……ディレイス、あんた【呪い】もっとるじゃろ?」


「え、はい……持ってますけど」


 竜にはそれぞれ【呪い】がある。竜それぞれでその効果は違うが、竜であるディレイスだって持っているはずだ。


 エミルカはディレイスに向かって微笑した。とてつもなく嫌な予感がして、ディレイスは震えあがった。


「え……いや、でも……役に立たない【呪い】ですよ!? 使えるわけないんですよ!?」


「ええけん。早く行って()い」


 微笑をたたえた彼女の顔は、とても恐ろしかった。

 ディレイスは反抗できず、しぶしぶ彼らのところまで飛んで行こうと羽を羽ばたかせた。


「くれぐれも、気付かれないようにな」


「そ、そんな無茶な……」


「うっさい、はよ行け」


 ディレイスはエミルカの台詞に恐れをなして、空高くまで飛び上がると、迂回して彼らの背後に回ることにした。


 残されたウァレは、エミルカに怪訝そうな視線を向けた。


「本当にあれ、大丈夫か? ディレイスが言っていたとおり、何にも役に立たない【呪い】だったら、奴らに気付かれるだけで終わるぞ?」


 ふふん、と自信満々にエミルカは胸を張った。


「大丈夫じゃ。ああいう奴ほど、もっとる【呪い】は強いはずじゃ。小心者とか、身体が弱い奴らは、自分を守るために強い【呪い】をもつことが多いんじゃ。じゃけん、ディレイスだってもっとるはずじゃ!」


「本当にそうならいいけど、信じるしかないしな……あ」


 ウァレの視線の先で、ディレイスは全身に黒い刻印を這わせていた。【呪い】の一動作だ。


「あれがディレイスさんの【呪い】か」


「うん。さて、あいつはどんな【呪い】をもっとるんかな?」


 視線の先で、ディレイスは翼を羽ばたかせた。刻印が風に乗って、二人の男に到達した――その瞬間


――何も起きなかった。


 むしろ、ディレイスの存在が気づかれてしまった。


「な……どういうことなの!? まさか、本当に役立た――」


「それ以上は言うな。それよりも助けに行くぞ!」


 ウァレは家の物陰から出ていき、二人の男の顔面を殴った。ふいの突撃に、二人の男はウァレの存在に気付かず、大人しく殴られた。悲鳴すら上げずに、二人は地面に倒れ込み、昏倒。一撃で終わるとは思っていなかったが、そこまで弱いなら、残りの一人がどこかに隠れていてもすぐに倒せるだろう。


 ウァレは肩を落として飛んでいるディレイスを見た。


「……で、きみの【呪い】って、結局何だったの?」


「あ、あれです……」


 ディレイスが指をさしたのは二人の男だった。そして、ウァレは違和感を感じた。人間として、もしくは生物として、何かが欠けているような気がしたのである。


「――あ、影がない」


 そう。二人の男には影がなかった。太陽は高いので、影があるはずだったのだが……ウァレの影が伸びた先にあるはずの彼らの影はない。つまり――。


「はい。僕の【呪い】は、対象の影をなくす【呪い】です」


「本当に、役立た……ごほん。じゃあ、リチェルさんを助けに行こうか」


 ウァレは家陰に置いてきたエミルカを迎えに行くと、本拠地であろう家に入った。


 その後ろをディレイスは追ってきた。


「――でも、なんだかさっきの人たち……違うような……」


               †3†


 家の中はじっとりとした空気がある。長年使われておらず埃が蔓延し、さらに太陽の日差しを受けてとても気味が悪い。エミルカは鳥肌が立つのを感じて腕をさすった。


 家の中を隅々まで探したが、何もないように見えた。それに、残りの一人すら見つからない。この家ではなかったのか?


 しかし、リチェルの痕跡だけはあった。彼女のものと思しき血痕が、奥の部屋に続いているのだ。怯えてしまってずっとウァレにひっついているディレイスは、それを見つけてひぃっ!? と悲鳴を上げた。


「ほ、本当にここなんでしょうか……なんだか、気味悪いところですね……違うところなんじゃ……」


「確かにそうだけど、ここも全部調べてみないと。それに、この奥の部屋に何かがあるはずだ」


 そう言って一番奥の扉を開けると、荒らされた雰囲気のある部屋にたどり着いた。何かを物色していたそうだが、散らかりすぎて何を探していたのか分からない。


 机の引き出しは開きっぱなしで、何やら書かれた紙が辺りに散乱している。天井に付けられていたはずの燭台は地面に落ち、壁に置かれたクローゼットは中身を全て出されている。中身はクローゼットの前に置かれており、まるでクローゼットを軽量化しようとしたみたいだった。


 まさかと思いつつ、ウァレはクローゼットを横へ動かしてみた。すると、地下へ下りる階段を発見した。なんともベタなところに展開に、ため息をつきたくなった。


「……ま、完全に怪しいけど、行ってみるか」


 階段では車イスが使えない。そのため、ウァレはエミルカを抱えた。エミルカは薄気味悪そうにその階段を見つめていたが、体をウァレに預けると「ちょっと寝る」と言って目を閉じた。ウァレは苦笑しながらおやすみ、とだけ答えてやった。


「本当に、大丈夫でしょうか……? この地下、どこにつながっているのかさえも分からないのに……」


「ま、大丈夫だろ。表のあいつらからすると、喧嘩はあまり強くないみたいだし」


「あはは。それを言うと、ウァレさんが強いみたいですね。まるでお姫様を守る騎士みたいです。今だってお姫様を腕に抱いて……いや、冗談ですよ? そ、そんなに睨むことないじゃないですか!?」


 睨んでいるつもりはなかったが、ウァレの表情はほとんど隠れてしまっているので、仕方ない。ウァレは狐面の下で笑いながら、階段を一歩一歩踏んだ。






 階段を下りた先は、少し明るい。そこから続く細長い廊下のような場所は石で覆われていた。そこに地面から天井まで鉄の棒が伸びている。明らかに後で作ったものだが、立派な檻だった。


 だから少女は抜け出せない。


 檻の隣では木の机が置かれ、そこに一人の男が突っ伏していた。眠った彼は元々仲間だったが、彼女は彼らに囚われた。かつての仲間に裏切られた原因を作ったのは自分だったが、裏切ったその男を赦すことが出来なかった。


「っち……でも、これでディレイス安全なら……まあいいか」


 少女はふうと息を吐いて、硬い岩盤に身を委ねた。その時、階段から足音が聞こえた。その人数は一人……おそらく、裏切った男の一人だろう。


 彼女は階段を睨んでいたが、そこから現れた人物が想像とは違った。


 男に違いはない。ただ、右目以外を覆った狐面をしていたり、その腕に小さな女の子を抱いていたりと、奇妙なところが多かった。


 裏切った男たちの別の仲間だろうか、と警戒心を強めたが、一匹の竜がそうではないと気づかせてくれた。


「ディ、ディレイス……なんでここにっ!?」


「リチェル!! 助けに来た!」


「ば、バカ! 大声出したら気付かれるでしょう!? それに……なんであたしを見切らないのよ。あんたが一番危険なのに……」


 少女――リチェルは檻の鉄を握った。檻の外側で、ディレイスが小さな羽をパタパタと羽ばたかせている。それが懐かしく感じて、リチェルは涙を流す。


「あぁ……もう、本当に……あたしなんていいのに。ぐすっ……あんたさえ助かってくれたら、あたしなんてよかったのに」


「そんなことないよ。僕にはリチェルが必要だったんだ。一人で寂しかった。だからこれからも一緒に、毎日楽しく過ごすために、僕はきみを助けに来た。……僕じゃ、やっぱり力不足?」


 リチェルは首を振った。


「ううん。助けに来てくれた……それだけで十分よ」


「ま、一人じゃないけどね」


 ディレイスがそう言い、リチェルはその背後にいる二人に気付いた。


「あ、えっと……」


「俺はウァレ・フォール・エルタニル。で、こいつがエミルカ・トゥバン」


「えっと。あたしはリチェル・メイ・ウィンターソン。あなたたちも助けにきてくれたの? ありがとう。でも、初対面なのに……いや、今の今まで会ったことすらないのに何で?」


「それは、ディレイスが私に依頼に来たけんじゃ」


 目を開けたエミルカは、リチェルを見た。


「あんたを救って欲しいって、私のところまで来た。じゃけん、私はあんたを助ける」


「そう……ありがとう。ウァレさん、エミルカさん」


 ウァレは笑い、エミルカを一旦地面に下ろすと、檻につけられた南京錠の鍵を探した。すると、一人の男が机に突っ伏して眠っていることに気がついた。彼の手には鍵束が握られていたのだが、手を退かすだけで取れそうだ。


 ウァレは慎重にその手を退かして鍵束を取ると、リチェルの檻に掛けられた南京錠に向かった。鍵束から適当に選んで差し込むと、最初の一つ目でカチャリと鍵が開いた。


 檻から出ると、リチェルは背伸びをした。長い間、檻という狭い空間に閉じ込められるのは、辛い姿勢を強いられる。そのうえ、恐怖心を掻きたてられていた。


 リチェルは腕を下ろすと、キッと目を鋭くさせた。


「……ありがとう。さ、早く逃げましょう。残りの二人が来ちゃいけないし」


「それなら問題ないよ。さっき倒したからね」


 ウァレの台詞に、リチェルは目を見開いた。


「え……すごいね。だって、この人たち、みんな徒手空拳の有段者だよ? それも、上のほう」


 リチェルの台詞に、ウァレは違和感を感じた。


「――え……今、なんて……?」


「えっと……要するに、あたしたちを狙った人たちは、かなり強いってこと」


 その時、


――ガツンッ!!


 ウァレは後ろから現れた男に、金属バットで殴られた。エミルカを抱いたまま、ウァレの体が堕ちていく。


「ウァレっ!!」


「ぐぅぅ……」


 低く呻いたウァレだったが、もう一度殴られ、ついに意識を失った。彼の下敷きになったエミルカは、必死に彼をゆすっているが、起きる気配は全くない。


 金属バットを持った男は、侵入者全員の顔を見回して、ふっと笑った。


「はん。俺たち相手に、逃げようとするかよ。そんなの、誰が許すかよ」


 男はエミルカに近づき、その顔面を蹴り飛ばした。意識を失う寸前で腹をけられ、エミルカは意識を失うことさえ許されないのだと感じた。歯噛みし、男を睨む。


「くっ……あいつらは囮だったんじゃな……」


「はは。あんな木偶に騙されるやつがいるとは思わなかったよ、ガキ」


「ぐあぁっ……」


 男はエミルカの顔面を踏みつけた。痛みに身をよじるが、ウァレが覆いかぶさって、エミルカは何もできなかった。痛みで飛んでしまいそうな意識を持ち直すが、それが苦痛を長引かせた。


「ああぁぁっ……!!」


「エミルカさん!! やめて……エゼルッ!!」


「ま、表の一人は確かにやられてたけどよ。で、そこの机で永遠の眠りについた奴は仕事すら果たせなかった役立たず。でも俺は違う……俺は選ばれたんだ!!」


 男――エゼルは何度も何度も、執拗にエミルカの顔面を踏みつけた。


「お前ら程度に、俺を止めさせられるかよ。なあ、リチェル。そろそろそこの竜、俺に渡せよ。そうすれば、みんな傷つかなくて済むんだからよ!!」


「嫌よ! ディレイスを売ろうとしてる奴に、渡すわけないじゃない!! それに、ディレイスはものじゃない! あたしの――」


「友だちか? それはそれは結構なことで。でも、俺たちも友だち……仲間だよなぁ? だから、その仲間にてめぇの下らねえ友だち寄こせって言ってんだよっ!!」


 ガンっとエミルカの頭を踏みつけると、エゼルはリチェルに近づこうと歩き始めた。


 その間、ディレイスは何もできなかった。


 とにかく、いま置かれている状況が恐ろしかった。自分を助けてくれたウァレは昏倒し、彼に押しつぶされているエミルカは動けない。リチェルは有段者の彼らに対抗なんてできるわけがない……。


 そして、彼女を救えるのが一人なのだと気づいた。


 でも、自分の【呪い】は役に立たない。影を消すだけの【呪い】……それがなんの役にたつって言うのだろうか?


――もう、諦めるしかない。


 それでも、彼女たちが諦めてくれない。


 諦めたほうが、ずっと楽なのに……。


「やめて……ディレイスは渡さないって、言ってるでしょ!?」


「はは。自分で一人占めか? それで、お前はいつ売るんだ? そんな幻獣、いままで誰にも見つかっていないはずだ。だから、どっかの研究機関にでも売れば高くつくと思うんだがなぁ?」


「ふん。これじゃけん、何も知らん素人が……竜に手を出すな!!」


「あん?」


 エゼルが振り返ると、顔に砂が当たった。エミルカが投げたものだったが、当然あいてを怒らせるだけだった。


 エミルカは無力だ。彼女はウァレの助けなしに生きてはいけない。なのに、何かできるはずのディレイスは何もしない……恐怖が、行動を阻止している。


「ガキは黙ってろ!!」


「ぐぁっ! ……あ……あ、んたなんかに、竜を渡すわけないじゃろうが! どうせ、研究機関だか何だかに売っても、あんたが恥をかくだけなんじゃし、私としてはどうでもええけど……でも、竜は物じゃない。ディレイスは、物なんかじゃないっ!!」


 何もできないはずのエミルカが、一生懸命にディレイスを助けようとしてくれている。なのに、ディレイスは何もできない。否。何もしようとしない?


 せめて……せめて……――。


「お前みたいなガキに、何が分かるっていうんだ? はん。何もできねぇくせに、よくもそんな口聞けるな?」


「うるせぇんじゃ、このガマガエル……」


「あ?! ……っ!」


 エミルカは男を睨み上げた。その目が、うっすら赤く光っていることに気付いた。


「私の前で、何もできないとか、諦めた口調で話すな……殺すぞ……ッ!!」


 背筋が凍った。


 エミルカは何もできない……それでも、彼女なりに何かをしようとしているのだ。そんな中、ディレイスにできることは……?


 せめて、せめて――。


「何だよお前……気味悪ぃ……」


「ふん。人を見た目でしか判断できんのんか、このカエルは。それとも、大事なのは金なんか? ただの紙切れに、なんの意味があるんじゃ。そんなつまらんことのために、なんでディレイスが犠牲にならんといけんのんじゃ?」


 エミルカは、慟哭する。


「ディレイスは誰のもんでもない!! ディレイスはリチェルの友だちで、そして、私の依頼者じゃ!! あんたみたいな金に溺れた溺死希望者とは違うんじゃ!!」


「おまえ、意味分からねぇよ」


 男はごみを見るような眼でエミルカの手を踏みつぶした。「ぐぁっ」と呻いたエミルカは涙交じりに「やめろ……」と呟いた。


 彼女を無視し、男はリチェルに近づいた。ディレイスは男の前に立ちはだかろうとして……足がすくんだ。


 ディレイスは恐怖に囚われていた。エミルカが、ウァレが傷つけられても、ディレイスは何もできない――彼は弱かった。


 動かないディレイスの横を通り過ぎ、男はリチェルのぼろぼろになった服をつかんだ。腰からナイフを取り出して、彼女の細い首につきたてる。


「早く竜を渡さねえと、お前を殺すぞ?」


「ぐっ……」


 リチェルは呻いて、地下室を見渡した。


 頭を強襲され意識を失ったウァレ。

 何度も踏みつけられ、ボロボロになっても強い意志を瞳に宿しているエミルカ。

 そして……弱くて頼りないけど、優しい親友、ディレイス――。


 リチェルは歯噛みした。誰も、助けてはくれない。いや、誰もそうすることが出来ない。自分がこうして判断しないままでいると、状況が悪化しかねない。


 だからリチェルは――


「誰も……傷つかさせない!!」


「ッ! な、なにすんだ!?」


 リチェルは男からナイフを取り上げようと手首をつかんだ。しかし、リチェルの力は及ばない。リチェルは体ごと壁へ持っていかれ、背中が壁につくと腹を蹴られた。


 呻きながら膝を折ると、今度は顔面を蹴られる。それでも、意識を失うことは許されない。ここで意識を失えば、あとに残るのはボロボロのエミルカとディレイスだけ。


 リチェルは消えかけた意識を何とか取り持ちつつ、必死にナイフにしがみついた。男の手を噛んだが、力が残っていないせいで意味がなかった。


 腹を蹴られ続け、中身が全部出ていきそうだった。

 頭を蹴られ、意識が波打ってぐわんぐわんした。


――その苦しみに、いつまでも耐えられなかった。


 リチェルはやがて地面に崩れ落ち、手からは力が失われた。ナイフはいまだに男が持っている。男は肩で息をしながら、ナイフを振り上げた。


「リチェルっ!!」


 ナイフはリチェルの服を斬り裂き……その下の白磁の肌を露わにさせた。斬られた服から豊満な乳房が見えたが、服をおさえて隠せるほどの力は残されていなかった。


 リチェルは涙を流した。この男は、そもそもリチェルを殺すつもりなどなかったのだ。ディレイスを捕まえた後で、じっくり嬲って凌辱するのだ。リチェルはただただ、それを受け入れることしかできない。抵抗する力はもう残されていなかった。


 男は下品に笑うと、ナイフをしまった。


「ふん。リチェル、お前はあとだ。じっくり楽しませてもらうぞ?」


「ぐぅぅっ……ぅぁ……ぁあぁぁ……」


 必死に歯を食いしばっても、嗚咽が漏れた。リチェルには泣くことしかできなかった。


――なんで、僕は助けない?


 唯一の友だちが、あんなに泣いているのに……何で――?


 男はリチェルに背を向けると、エミルカのほうへ歩いて行った。さっきまで持っていた金属バットを手にすると、それをエミルカの頭に向けて振り上げた。


「……さいっていじゃな……お前」


「知るかよ、俺の勝手だ。ここにいる奴、みんな俺の自由だ!! 友だち? 仲間? そんなもんは、裏切るためにあるんだろうがっ!!」


 エミルカはいまだに目を赤く光らせながら、


「ふん。独裁者はいつか破綻するのを、おまえは知らんのんか? ……もう一度()うとく。素人が、竜に手を出すな……そして、私の前で弱さを――自分の弱さを、肯定するなっ!!」


「――ッ!」


 その赤い瞳は、男を捉えていたはずなのに、


「……僕は、弱い……」


 その言葉は、ディレイスに向かって言っているようだった。


「やっぱりお前、頭おかしいぜ。死ね」


 エゼルがバットを振りおろそうとした。

 このままでは、また誰かが傷ついてしまう。


 だからディレイスは――助けたかった。


 だから、ディレイスは助けたかった。ここまで最後まで彼女を守ろることを諦めなかった彼を。

 だから、ディレイスは助けたかった。身を呈してまで救ってくれようとした彼女を。

 だから、ディレイスは助けたかった。いつの日か、一人じゃないことを教えてくれた彼女を。


 せめて、この手を伸ばせたならば――。


 せめて、男を止めさせることが出来るならば――。


 せめて――力さえあれば!!


「寂しいよ、友だちを失うなんて――

 だから、友だちを失わないために、

 だから、ずっと一緒にいるために、


 だから――だから……



 僕は――力が、欲しいッッ!!」


 ディレイスが叫ぶ……その瞬間。


「――な!?」


 男の動きが止まる。


 ふいに、彼の足もとの影が自分の体に絡みついた。金属バットを持った腕に絡み、その手が振り下ろされるのを阻止していた。


 影は力を増し、次第に男の腕からビキビキと異音が聞こえるようになる。


「ぐあああぁぁあぁぁあああっぁぁぁああっ!?」


「――折れろ」


 そう、誰かが呟いた。


 でも、誰の声か分からない。


 この場にいない誰かの声。


 でも、それは近くにいる者の声。


 そして、その声は。


 そして、ディレイスは。


――エゼルの腕を折り曲げた。


「ああああああぁァァッァあっぁぁぁああああァァァっッ!!?」


 声にならない声で叫び、エゼルは痛みに涙を流す。汚らしく鼻水もよだれも垂れ流しながら、必死に悶えている。へしゃげた腕から影が引いていったが、影はエゼルの下に戻っただけだった。ディレイスはエゼルを冷たい瞳で見下だした。


「もう、これ以上……僕の友だちを傷つけるなッ!!」


「ぐぅぅ……よくも……よくもぉ!!」


 腕が折れても、エゼルは立ちあがった。その手には黒い刻印――竜の【呪い】が伸びていた。


「呪われろ……生無き物!!」


 エゼルが叫びをあげた瞬間、今まで机に突っ伏していた男が立ちあがった。しかし、彼の瞳は白濁色をしており、意識もない。その顔はげっそりと肉が落ち、代わりに黒い刻印が体中を這っていた。


 彼は死んでいた。それでも、ゾンビのように動いていた。


「くっ……死んだ者を操る【呪い】か。外におった奴も、もともとは死んどったんか……」


 だから、徒手空拳の有段者だったとしても弱く、簡単に倒せた。


「呪われろ! 呪われろ呪われろ呪われろ呪われろ呪われろ呪われろォォオオ!!」


 エゼルが叫ぶと、ドスンっと階段から肉塊が落ちてきた。その肉塊の全てが人間だったものだということが分かり、リチェルは身震いした。ぬっと立ち上がったあその人間だった者すべてに黒い刻印は這い、その目はやはり白濁している。


「あははっ!! だれも邪魔させねぇ……俺は、竜を――金を手に入れるんだぁぁぁっ!!」


「――黙れ、下郎」


 威圧感のある声は、臆病なディレイスのものとは思えなかった。


「黙れ? あひゃひゃ! 竜が俺に命令だと? ……生意気なァアア!!?」


「生意気?」


 エゼルは人間だった者でディレイスを囲んで、言った。


「そうだよ、お前は生意気だ。なぜ俺の糧になれない? なぜなろうとしない? お前の犠牲は、俺のためになるんだ!! 光栄だろうが!! なのに抵抗ばっかり……その上、俺の腕を折りやがって……」


「自業自得、だ」


 ディレイスは腕を上げて言った。


「僕は弱くない。僕はあなたを赦さない。僕の友だちを傷つけた、あなたを赦さない!!」


 そして、弱虫で助けるのが遅くなった自分が赦せない。


 恐怖で足をすくませた自分が、なんとも情けない。


 しかし今は、不思議と恐怖なんてものはなかった。


 リチェルの泣き顔を見るのが、とても嫌だったから。

 彼女の笑顔を見るのが、何より好きだったから。


 だから。


「僕は、何より大好きな彼女を守るために戦うっ!!」


 突如、人間だった者の影が伸び、自分を包み込んだ。ディレイスが腕を振り下ろすと同時、人間だった者はドンッ! という轟音の後、跡形もなく消えていた。


「ぁっ……なんで……」


 エゼルは茫然と呟いた。そして自分を見て、自分の腕に這う黒い刻印が徐々に自分を覆うような錯覚がして……


「うああぁっぁあぁああああぁぁぁっ!? た、助け……助けエェェェェぇエエェッッ!!」


 男は地面を転がりながらも必死に逃げていった。階段の上で何かに躓いたり、狂ったような悲鳴を上げているのが聞こえる。しかし、ここには住民はいない。だれも助けてはくれない。


 彼は、仲間すらも己の手で失くしたのだから。


 リチェルたちは一瞬顔を見合わせた後、くすくす笑った。


 そうして笑うのが久々な気がして、リチェルはディレイスに微笑みかけた。ディレイスも、彼女のそんな表情を見るのが久々だった気がして、笑った。


 やがて。


「……ありがと、ディレイス」


「リチェル……」


 ディレイスは少し憂鬱げに。


「僕……一人で逃げちゃった……それに、助けるのだって、こんなに遅くなっちゃった。ごめん……」


「もう。謝らないでよ。……ま、それがディレイスらしいけどね」


 リチェルが笑うと、ディレイスが笑う。そうやって笑いあうことが、何より幸せだったことを、二人は知った。だから、これからもずっと一緒に笑いあっていこうと、言葉を交わさずとも約束出来た。


「ウァレ……ええかげん、起きろっ!!」


 そのとき、エミルカの慟哭が耳に響いた。ウァレはまだ意識を取り戻していないそうなのだが、狐面にほとんど隠されて表情はうかがえない。


「ん~……」


「ウァレ……ええかげんにせえよ……きゃっ!? ど、どこ触って……おお起きろっ!! っていうか、絶対起きとるじゃろ、あんた!?」


 エミルカの体をウァレの手が這う。それがエミルカの頭まで達すると、その頭を撫でた。


 そしてウァレは何事もないようにエミルカを抱えて立ちあがる。エミルカはしばらく彼の胸を叩きつづけていた。


 ディレイスとリチェルは互いを見あって笑った。リチェルはもう泣いていなかった。


 その代わりにと見せた笑顔が眩しくて、目に染みて、涙が零れた。


               †4†


 廃教会の中は相変わらず静かだ。


 誰も来ないので、エミルカやウァレは何もできなかった。なので、エミルカは朝には礼拝堂で礼拝している。ウァレもエミルカに倣ってそれをするべきなのだろうが、彼はそういった宗教には興味がなかった。神すらも信じていないのかもしれなかった。もしくは、神を敬わないだけか。


 そんなある日、ふいに教会の扉が開いた。


 そこから、一人の少女と小さなトカゲが入ってくるのが見えた。


「あの……エミルカさん、ウァレさん。このたびは、ありがとうございました」


 慇懃に礼をしたリチェルの手には、バスケットが掲げられていた。それをウァレは受け取ると、腕にしがみついて中身を見ようとするエミルカに渡した。


 エミルカは包帯で巻かれた腕を鬱陶しそうに見つめつつも、バスケットの中身を見た。すると、エミルカの頬が緩んで子どものような笑顔になった。


「……リチェル、あんたセンスいい!!」


 エミルカは上機嫌な様子で、バスケットを両腕に抱いた。リチェルは彼女のそんな仕草に笑った。


「はい。エミルカさんがブルーベリーが好きだと聞いて、だからブルーベリージャムのビスケット、作ってみました」


「リチェルの手作りは美味しいんですよ?」


 そう、ディレイスは小さな羽をはばたかせて言った。彼の身体にはすでに刻印は消えている。


 リチェルを助けたあと、外に出るとすぐに刻印は消えた。おそらく、彼の【呪い】の本当の遣い方は、暗い場所で使うことだった。


「影をなくす……じゃなくて、影を操る、か」


 ウァレはふと呟いた。礼拝堂の長椅子に座ったリチェルは、肩に乗ったディレイスを見た。ディレイスは頷いた。


「はい。どうやらそうみたいですね。僕、夜は恐いので早めに眠ることにしているので、それに気付けなかったようです。暗い場所……あの地下はロウソクの明かりで少しだけ明るかったですが、太陽とはまったく違います。なので、影が操りやすかったんだと思います」


「……って、つまり夜にはもっと強くなるってこと? それって……」


 エミルカは「弱い竜ほど厄介な【呪い】を持つ」と言っていた。ディレイスの言う通りなら、彼女の言葉は合っていたことになる。


 ウァレがエミルカを見ると、急にドヤ顔になった。イラッとしたウァレは、彼女の額を小突いた。エミルカはあうっと呻いて、ウァレの手をばしばし叩いた。


 そんな様子を見て、リチェルとディレイスは笑った。こうして笑えるのは、きっと彼らのおかげだった。彼らには感謝しきれない。


「リチェル……」


 ディレイスはリチェルにだけ聞こえる声で言う。


「色々あったけど、僕はもう逃げない。確かにまだ怖いけれど……それでも僕は、リチェルと一緒にいたいから。だから、これからもずっと友だちでいてね? 僕、きみのことが大好きだから」


「っ……ま、まあ……あたしも一緒にいるよ。ディレイスと友だちでいたいから……あと……大好きだから」


 リチェルは頬をほんのり赤くさせて言った。目を閉じると、胸に手を当てた。心臓の鼓動が少しだけ、早い。


「……さて、じゃああんたたちにこれを書いてもらおうか」


 エミルカはそう言って、ウァレに一冊のノートを取らせた。そのノートにはびっしりと色とりどりの付箋が貼ってあった。付箋は黒、赤、青、緑、黄の五色だったが、色の使い分けは見ただけだと分からない。


 リチェルにそれを渡すと、エミルカは腕を組んで得意げに言った。


「それは『縁帳』。私の依頼者とその関係者全員の名前を書いとる。あんたたちも私の縁に導かれたんじゃけん書いて」


「えっと……はい」


 リチェルはノートの背中の部分についていた鉛筆を取ると、自分の名前を書いた。次にディレイスだった。本人に書かせるのがエミルカの信条らしく、手伝うのは許されなかった。


 ディレイスにとっては大きい鉛筆を置くと、再びリチェルの肩に戻った。その間に、エミルカは青い付箋をページの上に貼った。


「あの……その色は?」


「ん? 知りたい?」


 リチェルが頷くと、いたずらするようにエミルカは笑った。


「ふふふ……青色は、空の色だよ」


 謎解きのように言ったその言葉……リチェルにはなんとなくわかったような気がして、思わず笑ってしまった。


「あはは。エミルカさん、ちょっと……」


「さんなんかつけんでええわ」


 エミルカは乏しい胸を張り、


「呼び捨てで結構! ね、リチェル」


「はい。エミルカ」


「え? え? どういうこと……青色って結局何!?」


 ディレイスは一人、分かっていないようだった。リチェルは後でこの小さな英雄に話してやろうと思い、ディレイスに笑いかけた。ディレイスもお返しに笑ってくれた。


 青色は空の色――空の下にいれば、それは仲間だから。


 リチェルはまたビスケット焼かなきゃな、とうれしそうに笑うのだった。



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