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[Quarto episode] 桜街の竜――ローリアス――

              †0†


「そろそろ着くか?」


 一人の青年が、自分がまたがっている巨大な生物に話しかけた。その生物の肌は、桜の幹のようにざらざらしており、マグマが体内にあるようなぬくもりを感じた。大きく広げた翼は横幅だけで全身を覆ってしまうほど大きく、後ろへ流れた尻尾は丸太のように太くて長い。


 その生物は竜だった。伝説、もしくは幻と云われる生物――青年たちはそれにまたがっていた。


「そうですね……あと五、六分と言ったところでしょうか」


「もう嫌じゃ。こんなさ……さ……くしゅっ……寒いの……」 


 青年に抱かれるようにして座った少女がくしゃみした。青年は自分のローブの中に彼女を入れて温めていたが、雲の上はそれを凌駕するほどに寒かった。


 彼らは空を飛んでいた。比喩ではなく、その竜にまたがって飛んでいた。当然、人間は空を飛べない。そのため青年や少女は寒さに慣れていなかった。それ以上に、少女は小柄だったため寒さに弱かった。


「むぅ……依頼を受けてきてみれば極寒地獄ばっかじゃがん!」


 少女は目下にある桜色の体をばしばし叩いて不満を口にした。青年は少女をローブの下からおさえた。


「あんまり暴れるな。ローブがめくれて寒い。それに、お前がレーズンなんかに釣られなかったら、こうはならなかったんだぞ……ぐあっ!?」


 突如、青年の隻眼の目が少女の人差指に襲われた。

 怒った様子で少女は、人差し指の先をガンマンの如く息吹いた。


「ふん。レーズンバカにする阿呆が……主の天罰が下るぞ!!」


 脅すように声を低くしたが、青年は笑っていた。否――


 彼の表情は仮面に隠れて見えなかった。まるで、その下にある傷を隠しているかのように――。


「ふふふ。さて、早く着きたいのならもう少しスピードを上げますけど……そうすると寒くなりますが、よろしいですか?」


「ダメじゃ。寒くならんようにスパッと行くんじゃ」


「そんな無茶な」


「無茶じゃない。私はあんたを信じとるんじゃ。昔、カドゥラスとかいうバカから助けちゃったじゃろうが。その恩をここで返せ」


「カドゥラス……ふふふ……」


 カドゥラス……その名前を出すと、竜は目を妖しく光らせた。


「今はもう地獄のかなたにいる頃でしょうか? ふふふ、どこかで飢え死にでもしているんでしょうか? そして誰にも助けられないまま、悲しみに溺れて溺死でもしていればいいんですよ、あの竜は!?」


「いや、この前会ったけど……」


「――――っち」


 舌打ちが聞こえたが、青年は聞こえないふりをして前を向いた。

 今はまだ下の様子はうかがえないが、もうじき目的地に着くころなのだという。


 青年は顔だけ振り返って、自分たちが旅だった街の方角を見た。しかし、かなり離れてしまっていたため、当然見えなかった。


「……さて、そろそろ降下します。しっかり掴まっていてくださいね」

 

 竜はそう言うと、大きく広げた翼を傾かせて旋回し始めた。雲の下へ行くと、遠くに街が見えた。青年たちはそこへ向けて飛んでいたのだ。


 街は次第に大きくなっていく。それと同時に、街の人々の歓声が聞こえてきそうだった。


「……三日後は星桜祭か」


 そう呟くと、少女がローブの中で小さく頷いた。


              †1†


 足を踏み出すたびにコツコツと、心地よい石の音が聞こえた。


 街には石畳の道が続き、棚田のような地形に建物が建っている。階段がそこらにあり、子どもたちのはしゃぐ姿が普段は静かな街に活気を与えてくれる。石は冷たい印象を与えていたが、子どもは太陽だ。人の心を温めてくれる。


 その街では三日後に祭りが開催される予定だった。街で最も重視される祭り。普段は働いている時間でも、男たちはテントや祭壇の設営をし、女たちは彼らに食事を作っている。普段は冷たい街でも、この時期だけはそれを忘れさせてくれる……と、


「……」


 彼女は思っていた。


 街の領主の娘であり、街の人々からも人気のある女であった。その容姿も見目麗しく、婚約を申し込む男が絶えなかった。しかし、彼女にはある問題があり、それが原因で結婚できずにいた。もし、その不要因子さえ取り除けられたなら、と、彼女はいつも思っていた。


 女は金色のショートヘヤーを隠すように、マントについていたフードをかぶった。彼女は目立つことがあまり得意ではなかった。しかし、その服装は白のドレスと、一目見ただけでも誰かが分かるほどに目立っていた。


 その上、彼女の左目は眼帯で覆われていた。身長はやや低めだったが、子どもらしい印象はなく、むしろ大人の風貌さえあった。


 女は腕に抱えた紙袋の中から、リンゴを一つ取って齧った。紙袋には一杯にリンゴが入っているように見える。


 彼女が街の角を曲がった時、前から歩いて来る青年とぶつかってしまった。青年はとっさに女を抱きかかえ、紙袋をおさえてくれた。


「すみません。大丈夫ですか?」


 青年は珍妙な恰好をしていた。右目以外を覆った狐面をしており、唯一見える右目は赤黒い。背は高いがローブをひこずり、端々がボロボロになってしまっていた。青年は一言でいえば、はっきり言えば『不審者』だった。


「あ……はい。こちらこそ……その……すみません……」


 女はその場から逃げるように、小走りで自分の家へと向かって走って行った。


 青年は彼女の後姿を見送った後、連れの少女に目配せをして同じ方向へと歩いて行った。






 女は自宅である領主の館へとたどり着くと、扉の前ではぁとため息をついた。


 やがて決心したように唾を飲み込むと、大きな扉を開いた。赤いカーペットの敷かれた廊下には一人のメイドが立っていた。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


「……」


 女はメイドを無視して自室へと向かった。彼女の部屋は廊下の突き当たりにある大聖堂……そのさらに向こうだった。無駄に広い屋敷は父親の趣味だった。人々に権力を晒して胸を張りたいらしい。


 女は恐る恐る足を踏み出した。足音を殺し、仕事をしている父に気付かれないようにしているようだった。後ろからはさっきのメイドもついてきた。メイドも女のしていることの理由を知っているのか、同様に足音を殺していた。


 大聖堂まで来ると、女は額に浮いた汗をぬぐった。父親に見つからないようにするためだけに、こんな苦労をしている自分が非常にバカらしい。女は、できるだけ早く『領主の娘』としての肩書きを捨てたいと思っていた。


 大聖堂には一体の像が立っていた。トカゲのような顔をして、大きく翼を広げた……竜の銅像だ。この銅像は古くから伝えられ続けていたもので、祈りが届くと謂われている。女はその銅像に向かって手を組んだ。


「……」


 少しの間、女は銅像に願うと踵を返して部屋へと向かい始めた。


 しかし――


「帰ってきていたのか、イル」


「ッ!!」


 突然、後ろから響いてきた低い声に、女――イルは振り返ることが出来なかった。父だ。そう意識すると恐怖に足が震え、頭がぐるぐるとしてくる。意識を断たせないために口の中を血が出るほど噛みしめると、ゆっくりと振り返った。


「た、ただいま……」


 小さくお辞儀をすると、イルは視線を父に向けないように俯かせたまま、足先を自室へと向けた。しかし、再び呼び止められてしまう。


「イル。これから人が会いに来る。お前も顔を出しなさい」


「……はい、パパ」


「あと、そのあとで二人きりで話をしよう。なに、お前が本当のことを話せばすぐに済む。本当のことを話せば、な」


 イルは逃げ出したい衝動のあまり、胸を抑えた。恐怖で震え続ける足をゆっくりと前へ進めることすら恐ろしい。もしも父親が、自分から逃げようとしていることを知ったら……そう思うだけで生きることさえ辛くなってきた。


 イルは部屋に入ると抱えていた紙袋の中身を部屋中にぶちまけた。リンゴが潰れ、その下に隠すように入れていた試料瓶の蓋が飛んでいき、白い粉が床にこぼれた。


 そしてベッドの中で叫んだ。声が部屋の外に漏れないように、枕を口元に当てて……それでも声が外に漏れてしまった時には、父親に・・されるのが常だった。イルは数年前に皮を剥がされた腕をさすった。思い出すだけでヒリヒリして痛かった。


 涙を流すことすら許されなかった。この後、この屋敷に訪問してくる人物に会わなければならないのだ。その時に自分が泣いていると、「みっともない」と父親に・・されてしまう。枕を噛んで、こみあげてくる哀しみと怒りをかみ殺した。


 その時だった。


――ピンポーン……


 屋敷にインターホンが鳴った。





 入口付近で何かと話をしていた来訪者だったが、やがて足音が自分の部屋に近づいて来るのを感じてぎょっとした。しかし、足音は途中で止まり、どうやら大聖堂で止まったようだった。


 イルは覚悟を決めて部屋の扉を開けた。廊下にはメイドが立っていた。メイドに目を合わせないように顔を俯かせながら大聖堂へと向かうと、来訪者が二人いることに気がついた。


 片方は右目以外を覆った狐面の青年――街中でぶつかってしまった珍妙な恰好をした青年だった。


 そしてもう片方も珍妙な恰好をしていた。


 少女だった。車イスに座り、その頭を白のベレー帽で覆っている。体を包んでいるのは極東の神職服……巫女服だろうか。しかし、巫女服にしてはスカートが短く、胸の部分がへそが見えそうなほど大きく開かれていた。絹繊維のように繊細な金髪は腰まで伸び、首からは十字架が提げられていた。


 否。それはもう十字架とは呼べないほどに劣化していた。左側が欠けており、言い表わすならばト字架といったところだろうか。


 イルは珍妙な二人を物陰からしばらく窺っていた。が、不審な人物でないことを確認すると、ゆっくり近づいて行った。彼らは振り返った。その場に父親がいなかったことが何よりの幸いだった。


「――ああ、さっき街中でぶつかった人ですね、お久しぶり、と言えばいいのでしょうか」


「……ああ、さっきあんたが見惚れとった女か」


「言い方酷いよ、ミカ」


「あ、あの……あなたたちは……」


 イルが聞くと、狐面を取ろうともせずに、青年がお辞儀した。


「これは失敬。俺はウァレ・フォール・エルタニル」


「私はエミルカ・トゥバン。ちょっと用事があっただけじゃ」


 エミルカは冷たく言うと、大聖堂の竜の銅像へと向き直った。彼らはこれを見るために来たのか?


「人を殺人者を見る目で見んな。確かに私たちは変な恰好しとるかもしれんけど、あんたがそれを気にする必要はないはずじゃ。何しろ、ここに住んどる奴はみんなそういうのには長けとるんじゃろ?」


「……何のことですか?」


 なんのことを問われているのかを分からないイルは、エミルカを見下ろしながら言った。エミルカは無表情に竜の銅像に目を向けたままだった。


 竜の銅像は、イルにとって珍しくとも何ともないものだった。しかし、部外者からすると珍しいものなのかもしれない。彼らは本当にこの銅像を見るためだけに来たのかもしれない。


 街の人の顔は一通り見たことがあるので、彼らが街の部外者だということは一目で分かった。イルは顔を覚えられているだけでなく、会った人全員の顔と名前を覚えるように心がけていた。


「初めまして。ウァレとエミルカでしたか?」


 ふいに聞こえてきた声に、イルは背筋を凍らせた。


 上から目線な言葉遣いに、エミルカは不機嫌そうな顔をしたが、まるで興味のないように目を閉じた。イルはそうすることのできる彼女がうらやましかった。


「お前もいるのか。ならちょうどいい。俺の部屋で話そう」


「待ってください、チェル卿」


 ウァレが呼び止めると、チェルは不機嫌そうに眉をひそめた。彼は自分の指示に従わない、そして自分を命令してくる人間が大嫌いだった。しかし、ウァレが矢継ぎ早に尋ねたので反論できなかった。


「この竜の銅像……モデルはやっぱり、ローリアスですか?」


 ローリアス……イルはその名前を聞いたことがあった。しかし、その名前はイルと父親であるチェルしか知らないはずだった。チェルは驚いた風もなく鼻で笑い、


「その話もする。とりあえず俺の部屋に行こう」


 イルは、先導する形で一人歩きだした彼が怒っているのを悟った。


 恐怖する足を前へ動かしながら、イルは足の震えを抑えようと歯を食いしばった。


 その時、肩が叩かれ、思わずイルは小さく悲鳴を上げて飛び上がった。肩を叩いたのはウァレだった。


「――大丈夫ですよ、イルさん。俺たちはローリアスから聞いていますから」


「え……?」


 そう言い残し、ウァレはエミルカの車イスを押して前へと歩いて行った。イルは彼の背中を追いかけるように小走りに進んでいった。


「わたし……自分の名前言ったっけ?」







 チェルの部屋の壁には動物の毛皮が掛けられていた。領主らしく、そして金持ちをアピールしたい気持ちの表れか、部屋も広い。部屋を入った右奥には応接室があり、ウァレたちはそこへ通された。


 当然、イルもそこへ入って行った。応接室も広く、革張りのソファーが置いてあった。応接室には応接室で廊下へ出る扉がある。チェルはウァレたちに自分の部屋を見せたかったのだろう。本当に、他人の気分を害することに長けた人間だ。


 上座に当然のように座ったチェルは、ウァレたちが座る前から話し始めた。


「大聖堂に置いてあった銅像……確かにお前の言う通り、ローリアスをモデルに作られたと聞いている。しかし、本当のことは分からん。そこのところ、お前たちのほうが詳しいんじゃねえか?」


「そうじゃな。ローリアスのことはあんたよりも知っとる」


 エミルカはチェルの厳めしい顔に怖じ気もせずに答えた。


「私は昔、ローリアスを助けたことがある。そのころからの『縁』があって、いま私はここにおるようなもんじゃ。あいつに感謝せぇよ」


「ふん。いもしない竜を崇めろと? お前たちはやはり狂っているな」


「――っえ?」


 チェルの台詞に、驚いたのはイルだった。


 その様子に気づかないまま、チェルは続ける。


「はなから信用はしてないと思え。こっちはお前たちに依頼はしたがな、信用したわけじゃねえぞ」


「別にええわ。私だって興味があるのはあんたの話じゃない。人間如きの話じゃない。私はここで起きとることに興味があるだけじゃ」


 エミルカは瞑目した。これ以上話す気がないとみたウァレが、そのあとを継いだ。


「この街で、伝染病が流行っていると聞きました。それも、あと三日で大きな祭り……星桜(せいおう)祭がある。チェル卿は伝染病でそれが中止になることを阻止したい、そういう依頼ですね?」


 チェルは頷く。


「ああ。この街で正体不明の伝染病が流行っている。症状は主に発熱、めまい、そして敗血病。さらに体に黒班が出来るそうだ」


「……俺たちは医者じゃない。でも、その原因には心当たりが少なくともあります。一応、探ってみましょう」


「ああ。祭りが開かれるまでの三日間、この館の客室を出入りしてくれて構わない。ただし、夜中は大聖堂は入らないように。では、俺は仕事に戻る」


 チェルはそう言い残して、応接室を去って行った。その直後。


「……ふん。竜も知らんような奴が、よう生きてこれたもんじゃ。それに、何じゃあの態度……私を愚弄するつもりなら、そのうち天罰でも何でも与えちゃるわ!」


 エミルカがいきなり悪態を吐いた。首から提げた十字架をチェルが出て行った扉に向けてかざし何やら叫んでいる。そんな彼女を宥めるように、ウァレは静かに立ちあがって言った。


「まあ、きみの正体を知らない人間はあんなもんだろ。さて、邪魔者がいなくなったところでイルさん、お話聞かせてもらえますか?」


「え……?」


 突然の指名に、イルはどうしていいか分からなくなった。そもそも、彼らに会ったのは今日が初めてだったはずなのに、なぜこうも気楽に話しかけてくるのか分からなかった。


 そんな彼女を察したように、エミルカが小さく言う。


「ローリアスは、あんたを助けるようにとも言っとった。あんた、あいつに会ったことあるじゃろ?」


「ローリアス……」


 イルには心当たりが一つだけあった。それは幼いころに、この屋敷で出会った桜色の竜……大聖堂に飾られた竜の銅像のモデルとなった、大きな竜。だが、なぜ彼らがそのことを知っているのか分からなかった。


「あの……なんでそんなことを知っているんですか? だって、父もローリアスとは会ったことがないみたいですし……それに、わたしとローリアスは――」


「何年も会ってない? そのこともローリアス本人から聞いていますよ。俺たちはこの街に来るために彼女の力を借りましたから」


「ローリアスに会ったのですか!?」


 思わず大声を出してしまったイルは、恐怖したように体を震わせて扉を見つめた。隣の部屋にはチェルがいるはずだ。しかし、チェルに聞こえていなかったようで、怒声が返ってくることはなった。イルは彼に聞かれないように小声で話し始めた。


「ローリアスとは数年前までわたしの前に姿を現してくれました。しかし、ある日忽然といなくなったんです。何年も経っているので、わたしのことなんてもう……」


「大丈夫じゃ。ローリアスはお前のこと、忘れとるわけじゃない。ただ、姿を隠しとっただけじゃ。この伝染病騒ぎも収まればすぐに会えるじゃろう」


「そう、ですか……」


 イルは安心したように微笑んだ。父親のいるこの館で、久々に笑ったような気がした。


 その後、ウァレたちは客間へ向かった。彼らは祭り――星桜祭の開かれる三日間はこの館で暮らすらしい。父親とメイドと……それだけしかいなかった館だったが、三日間だけは地獄ではなくなるかもしれない。イルはこの時だけはそう思っていた。


――しかし……






 夜になり、夕食も終え、寝ようとした時にあいつはやってきた。


 部屋の扉がノックされる。

 寝巻に着替えている途中だったというのに、扉が開かれていく。

 叫びを聞かれないように、布で口をおさえられる。

 手足を荒縄で縛られる。


「~~~~~~~っ!」


 そしてイルは髪を引っ張られてひきずられた。


 向かう先は館の地下だった。


 大聖堂の壁の下に隠された隠し通路から、階段で下りる。当然、立てないイルは段差に全身を打ちつけられながら階段を下りていった。


「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっ!!」


 下りた先には狭い部屋があった。


 その部屋は石で造られた壁で覆われ、悲鳴が外に漏れないように作られている。中央には鉄の机が置かれ、そこに血だまりが出来ていた。壁には世界中の拷問具が揃えられており、まだ使っていないものから使用済みのものまである。


 イルは机の上に横にさせられた。荒縄を解かれたと思うと、今度は手錠を掛けられて机に縛り付けられた。動けない彼女が見たのは、父親の憎たらしい笑みだった。


「ぃいやああああああぁぁぁぁあああぁあぁぁっっ!!??」


              †2†


「感染者は、この屋敷に関わりのある人物ですか……」


 ふいに、そんな声が外から聞こえた。


 イルは起き上がると、自分の手足を見ないように顔を上げた。それでも伝う涙は堪えられなかった。


 昨日のことはほとんど覚えていない。ただ、いつものように皮を剥がれ、爪を剥がれ、髪を毟られ、凌辱され、辱められ……内容は覚えていなくとも、考えるだけで寒気がした。吐き気がした。


 こんなところからは早く解放されたかった。でも、そうはさせてくれない存在がいた。


「もう、嫌だよ……」


 イルは思い切って自分の体を見た。


 全身包帯を巻いているが、その下はどうなっているかを考えるだけでもおぞましい。だからせめて、記憶を涙に変えて流すことだけは許されたい――。


「泣いとるんか?」


「だって、嫌なんだもん…………って、なんで入ってきてるの!?」


 イルが叫ぶと、エミルカは五月蠅そうに耳をおさえた。彼女はいつの間にか自分の部屋に入ってきていた。そのことに気付かずに涙を流してしまった。


 イルは自分の弱さを見せたことを恥じて顔を手で覆った。しかし、エミルカは笑ったり、蔑んだりしなかった。


 それどころか、エミルカの口調はどこか優しかった。


「……()わんかったか? 私はローリアスにあんたを救うように頼まれたって」


「ローリアスが……」


 エミルカは頷いて、ドアのほうを向いた。その向こうからは今もウァレの声が聞こえる。どうやらメイドと話をしているらしい。


「……ま、あんたを救うのはついでじゃ。私たちがここに来たのは、伝染病を調べることじゃけんな」


 そう言うと、エミルカはドアのほうへ車イスを走らせた。ドアの目前まで来ると、一度立ち止まり、


「そうじゃ。あんた、ちょっと手伝ってくれんか?」


「手伝う、ですか?」


 頷き、


「街の案内。ウァレは信用できん」






 星桜祭まで残り二日。


 祭りが近付いて来ると、次第に働き手も増えてきた。店との設営はまだ半分ほどしかできておらず、怒声が飛び交っていた。昨日までは遊び回っていた子どもたちも、今日は大人たちに混じってテントを張っている。それでも彼らは楽しそうに笑っていた。


 その中で、ウァレたちは目立っていた。祭りの準備を手伝わないのは、どれも街の部外者だ。しかし、その部外者の姿がほとんどないのだ。ほとんどの者が祭りの準備へと駆りだされている中、呑気に歩いているのは三人だけだった。


「……星桜祭って、そんなに大事な祭りなのか?」


 ウァレが訊くと、彼の後ろを歩いていたイルは説明した。


「はい。この祭りは別名サクラメントともいいます。神様に洗礼、聖食、聖体、痛悔、叙階、婚配、搏膏を祈る祭りなんです。その最後には素晴らしい恵みがあるのですよ」


「ふぅん。それで、この祭りが中止になったら困る、と。でも、そこまで伝染病が流行っている様子じゃないような気がするんだけど……」


 ウァレの言うとおり、男手は十分足りているし、女も彼らの食事を作ったり経費を計算していたりして忙しそうだ。誰も伝染病なんて気にしていない風だった。それどころか、まるで知らないようでもあった。


 イルは辺りを見回して、低く言った。まるで、父親の雇った尾行者に声が聞こえないようにするかのように。


「父が言ったら、それは全て伝染病なんですよ。父が流行ったっと言えば、たとえ一、二人罹っているだけでも流行ったことになるんです」


「……つまり、伝染病が領主の関係者だけっていうのも本当のことなんだな」


 イルは頷いた。


「……最初は、父の世話をしていたメイドでした。その次は兵士の数人。そして、まるで水面に映った波紋のように、あの館を中心にして伝染していったのですよ。お医者様を呼んだのですが、父が裏でお金を渡していたみたいで、伝染病だ、と。しかし、そのお医者様も今は病床でうなされてます」


「全ての中心は、あの領主、か……」


「でも、それなら何で街の人間は知らんのん? 領主が感染病だ、って言ったら感染病なら、あいつは早めから感染病の情報をばらまくじゃろ」


「そうですね。でも、それだと確実性がありませんから」


「確実性……?」


 訝しげな視線をしたエミルカを無視して、イルは十字路で彼らと違う道へ行こうとした。


「わたしが案内するのはここまでです。あとは、エミルカさんとウァレさんでデートしてください」


「な、何をバカなことを言っとるんじゃ! で、デートも何も、わわわ私たちはそんな関係じゃない!!」


 踵を返すと、イルはエミルカの慟哭を無視してまっすぐ歩いて行った。階段を下りて行った先に、彼女の目的とする家がある。


 そこへ行くには、家の狭い道を通らなければならなかった。領主の館は一番高い所にあるが、目的とする家は下のほうに、それも街の一番端っこにあるのだ。


 狭い路地には、祭りの華やかさとは正反対の、怪しげな商人たちが多くいた。怪しい文様の入った糸ノコギリや鉈などの刃物を売っていたり、薬で人をたぶらかしている者もいる。


 イルは彼らに目を合わせないように前へ進んだ。奥へ進んでいくほど、怪しさは倍増していった。ふと地面を見てみると、そこで猫の骸がカラスにつつかれていた。イルは冷たい目でそれを見下ろして、またいだ。


 怪しい人もいなくなると、谷が見えてくる。この街は谷に囲まれてできているのだ。谷の向こう側に木があり、春には桜が咲く。領主の館では見られない光景だった。


 今年も桜が咲いていた。


 イルはそれらを横目に、目的の家へと向かった。谷に沿って作られた低い壁を右側へ進んだところに、その家はあった。


 白い建物だ。しかし、それは色だけで、立派なものではない。今すぐにでも崩れ落ちてしまいそうな、劣化した石の家なのだ。その家からの景色は風光明媚たるものだったが、今にも崩れてしまいそうで、初めて訪れた時は緊張であまり景色を堪能できなかった。


 しかし、ここ数日来てみて、イルは慣れていた。自分の家では体験できないことを体験しているような、そんなわくわくがあったのだ。


 家には扉すらない。イルは一応壁をノックしてから中に入ると、すぐそばに男がいた。イルの目的の人物だった。


「……やっぱり、まだ治ってない」


 イルは男の髪をかき上げた。汗の噴き出す額を布で拭ってやると、苦しそうに歪む顔から目をそむけた。彼は数日、目を覚ましていなかった。


 男の手を優しく握って、イルは「ごめんなさい」と呟いた。


 彼の手には、黒班があった――。






 イルが自室へ戻った時にはすでに日は傾いていた。


 夕焼けの日の光が部屋を満たす中、イルは


「……あの、何でいるんですか?」


 と、尋ねた。


 彼女の部屋には、先客が二人いた。ウァレとエミルカである。


 この街で起きている伝染病のことを調べるために来たのだが、なぜかイルの部屋にいるのだった。部屋の異音に気付いてとっさに糸ノコギリを構えた自分がバカらしく思えてくる。


 糸ノコギリを壁に立てかけておくと、イルは部屋を見回した。


 壁につけられた本棚は荒らされていないが、机やベッドがかなり荒らされていた。机の中にしまっていた医学書や紙はほとんど床に投げられ、机の上に置いていたはずのペン立てはどこにあるかさえ分からない。ウァレはベッドの上で本棚から出した本を読んでいる始末。


「あの……エミルカさんは女性だからともかく、ウァレさんは男性ですよね? その……正直言って、不快です」


「わお! 正直なこと言われると、本当なら傷つくとこなんだろうけど、別に俺は気にしないよ。だって、俺にはミカがいるから――」


「くんな変態」


 その直後、ウァレは落ち込んで立ち直れなくなった。


 イルは複雑な気分になりつつ、


「……で、あなたたちは何をしていたんです?」


「何言っとるんじゃ。私たちがここへ来た理由、もう忘れとんのか」


「いや、忘れるも何も……関係ないですよね? この部屋と伝染病は」


「……そうでもないんじゃけどな」


 エミルカは手に持っていた本を閉じた。その本も本棚から出したものらしい。どうやら机とベッドの捜索が終わったので、本棚を調べていたらしい。


「あんたは分かっとるんか。伝染病は、この屋敷の人間を狙っとる。次に狙われるのが誰か……それはあんたかもしれん」


「え……だって伝染病ですよ? そんなの、作らない限りは――」


「だから、作ったやるがおるって言っとんじゃ」


「え――」


 エミルカは本棚から一冊取り出すと、中をぱらぱらめくった。


「あんたの部屋には医学書が多い。じゃけど、それはチェルも一緒じゃ。あいつの部屋にも医学書……それも薬学に関する者が多かった。メイドの中にも、薬学に精通しとるもんがおるかもしれん。つまり、あんたが犯人じゃない限りは、だれが犯人になっても仕方ない――」


「違いますよ! だって……なら……なら……」


 イルは言い淀んだ。


 自分の住んでいる屋敷の中に、そんなことをする人間がいるとは考えたくなかった。それに、イルが知っている中では、薬学を学んでいると知っているのは一人だ。しかし、その可能性は極めて低い。


――私以外に、薬学に精通してる人なんて……。


 イルは結局何も言えず、そして反論もできず、黙った。


「……ミカ、そろそろ行こう。大体のことは分かったし」


「……うん。でもその前に」


 エミルカはウァレに目配せした。ウァレは腰に手を当てると、エミルカに近づいて行った。車イスの後ろから一冊のノートを取り出したウァレはそれを彼女に渡した。


「イル。お前が願うなら、私が助けちゃる」


「願う……何を?」


「お前が望み、願い、求め、抗い、対するものを」


 エミルカはそう言いながらノートを開いた。そのノートには色とりどりの付箋が貼ってあった。黒、緑、青、赤、黄の付箋だ。エミルカは白紙のページを開くと、イルに向けた。


「お前は何を望む? お前は何を願う? お前は何に抗い、お前は何を求め、お前は何と対する? イル・ミール・テイ!」


 突然フルネームを呼ばれ、イルは飛び上がるほどに驚いた。彼らに自分の名前を晒したつもりはない。


 そう思うと、自然と怒りが沸き起こってきた。自分の名前を知っているだけで、全てを知っているような口ぶりに、腹が立った。


「だから……なんでわたしの名前を知っているのよ。一体、あなたたちは何なの? 人の部屋に勝手に入ってきて、勝手なこと言って、勝手に、勝手に……わたしが何を望むか? わたしは何を願うか? わたしだってそんなの、分かんないよ……。わたしのことを知らないくせして……勝手なこと言わないでよっ!!」


「ちょっと待って、イル。あんたは何を怒っとるんじゃ?」


「……ごめんなさい。少し、一人にさせて。今は落ち着きたいの……」


 イルは重い足取りでベッドへと向かった。


 エミルカが哀しげな表情をしてこっちを見ているのが、布団の中から見えた。


「……何やってるんだろ……エミルカさんたちには関係ないのに……」


 イルはただ、涙を流して――。


「ああ、早く……解放されたい」


 と、呟いた。







 イルの部屋の外で、ウァレは言った。


「――ミカ、この伝染病の正体って」


「うん。やっぱり……【呪い】じゃな」


 と言った。


「被害者にできた黒班……それは竜の【呪い】でできるものじゃ。そう考えると、この伝染病は確実に【呪い】じゃな」


 ウァレは頷きかけ、首をかしげた。


「【呪い】……だったら、イルの部屋にあったあの薬って……?」


 答えを出せないまま、ウァレはエミルカの車イスを押した。


 エミルカは悲しそうな表情をした。彼女は全てを理解していた。


              †3†


 あまりの痒さに、腕を掻きむしった。


 チェルは一人部屋にこもり、札束を数えていた。それが彼の趣味だった。そして、それを邪魔する者はいない。ただ一人、娘を除いては。


 コンコンと、扉がノックされ、彼は顔を上げた。入ってきたのは愛娘だった。いつも彼の前でしてくれるように顔を微笑ませて、彼女は小さく言った。


「パパ。ちょっと話があるんだけど……いい?」






 チェルが連れてこられたのは大聖堂だった。


 竜の銅像の前でイルは立ち止まった。チェルは何かと訝しげな視線を向けていたが、


「パパ。ちょっと待ってて」


「あ、ああ……だけどなんなんだ? こんな夜更けに。俺はお前と違って忙しいんだ」


「ごめんなさい。でも少しだけ……ちょっと待ってて」


 イルはそう言って、大聖堂の奥にある自室へと向かっていった。少しして、彼女はグラスを持ってやってきた。その中には、チェルの好きなワインが入っていた。


「……ちょっと人生相談。これ、飲みながらでいいから」


「あ、ああ……」


 戸惑いながらも、チェルはイルからワインを受け取った。ワインは一つしかなかったが、チェルはそれを気にするほど、他人に興味がなかった。


 チェルがワインに口をつける直前、イルが話し始めた。そのまま飲もうとしたが、イルはチェルの腕を引っ張って止めた。


「ねえ、パパ。わたし、パパにいろいろとしてもらったね。厳しいこともあったけど、全部私のためなんだよね。わたしが外に出歩いたり、騒がしくしたりして怒ったのも……全部わたしのためなんだよね」


「そうだ」


 即答で答えた。


 イルはけたけた笑い、


「ママがいなくなってからも、パパは頑張ってくれたよね。わたしのために……そして街のために。ねえ、覚えてる? この前、わたしパパに彼氏が出来たって言ったの」


 忘れるわけがなかった。


 しかし、その彼氏はチェルの信仰していた宗教とは別だった。異教徒は赦せない。関わりを持つことすら赦せなかった。だからつい昨日、イルに思い知らせてやった。


 彼女を・・し、涙が涸れるまで泣かせてやった。血が自分の腕に染み込むまで、彼女の血を浴び続けた。そのせいで腕が痒かったのかもしれないが、愛する娘に悪い虫がついたならその痒さも我慢できた。


 チェルにとって、我慢するのはそれが初めてのことだったのかもしれない。そして、我慢して・・したチェルに、イルは尊敬の眼差しで見てくるのだ。だからもっともっと……自分は彼女を・・し続け、血を浴びる。


 チェルが頷くと、イルはけたけた笑った。


「彼とは別れたの。パパが言うなら、わたしだって我慢しなきゃね。ダメな人と関わりなんて持っちゃいけないもんね。私だって分かってるよ。だから別れたの……」


 そして、イルはけたけた笑いながらチェルの腕を放した。


「パパと人生相談したくて、このワイン、買ってきたんだよ? ちゃんと、飲んでね」


「ああ。当たり前だ」


 そして、ワインに口をつける。


「そうそう。わたし、パパに言いたいことがあるんだ」


 ワインに舌を慣らせていると、イルが言った。


「あのね、パパ――」


 そして、二口目を入れた――。


「――シんじゃえ」


 直後。


「ぐああぁぁぁぁあぁああぁあぁぁあっっ!?」


「あはははははあははははあははあぁははは!!??!?」


 断末魔が、大聖堂に響いた。


「がふっ! ごふっ……ぅぅう……」


「あははははは! パパって駄目だよね、本当に。パパのせいで、わたしの人生滅茶苦茶。わたしの腕は剥がされるし、目玉は取られるし、髪は抜けるし……さて、パパ。大丈夫、そんな怖い顔しないで。その毒、致死性はないから」


「……ぅぁぅ……ぅぅ……ぁぉぅ……」


「だ~いじょうぶ。ゆっくり、苦しませてあげるよ。あ、シなないでね? シんじゃえって言ったけど、死なないでね? 今までの十倍、いやそれだけじゃあ足りないなぁ……もっともっと! 倍にして返してあげるよ、わたしからの心からのお・ん・が・え・し」


 そして、イルは右手に糸ノコギリを持った。左手でチェルの襟首を持ち、自分がされたように引きずって行った先は地下室へ続く隠し通路だった。隠し通路を開くだけで、血の臭いがした。イルの血の臭いが。


「あはぁ。いい香り……いい香りよぉ。パパ、この臭いが好きなんでしょ? わたしの血の臭い。なら、パパの臭いも嗅がせてよ。ねえ、パパの血の臭いって、いい臭い?」


「とんだ奇人じゃな、イル」


 大聖堂に、響いた訛り気のある声。イルは振り向いて彼女を見た。


 車イスの少女の後ろには、狐面の青年の姿もあった。彼らを見て、イルは笑みを強くした。


「あはは~。ねえ見て、パパ。観客だよ? パパの処刑を見に来てくれたんだよ、やったね」


「ぁぁ……ぁぅぅぁ……」


「――ま、何をしたいのかも、あんたが傷つけられた分、やりたいことも分かるんじゃけどな。ローリアスに頼まれとんじゃ、あんたを助けてって」


「エミルカさん。これで私は救われるんだよ? いいことじゃん。このブタさえいなければ、わたしは自由なんだよ? もう、何も怯えなくて済むんだよ!!」


「ふん。私はあんたの自由とか、そんなのはどうでもええんじゃけどな」


 エミルカはそう言って、目を閉じた。首から提げた十字架を握ると、手を組んだ。


「――でも、あんたが今からしようとすることで、あんたは今度こそ自由になれなくなる。殺したいほど憎い? 殺しちゃって、それであんたは自由になれる? 自由になれたら何をしたい? そのすべては、誰のおかげで成り立ってきた? この街の人間が今も笑顔でいられるのは誰のおかげ? ……あんたは、そいつを殺して、その責任を取れるんかっっ!?」


「うるさいですよ~。わたしはとりあえずこいつから解放されればいいだけなんですから~! だって、こいつのせいで、明日の星桜祭で結婚できないんですよ!?」


「結婚……やっぱり、あの家にいた男性は――」


「わたしの婚約者です。こいつがいなければ、結婚していたはずの、婚約者!!」


 イルはチェルの襟を放し、顔面を蹴った。


「こいつが、わたしの婚約者に伝染病をうつさせたんですよ!? それも、この屋敷の人間を実験台にして、彼だけを狙って!! 

 街の様子見たでしょ!? だれも彼のことなんて気にしていなかった。それに、だれも伝染病のことなんて気にしてない風だった!! それもそうでしょうよ。彼は特別すごい人間でも何でもないんですから。ただ、信仰心が強かっただけんです! それだけで狙われたんです!!

 彼は今年20歳なんです。この年齢は、彼の宗教では結婚する最後の年なんです。しかも、この街では星桜祭以外では結婚は許されない……そして、こいつはわたしと彼の結婚をさせないために、彼を伝染病にかけて、星桜祭に参加できなくさせたんですよ!! 今年が最後なのに……」


 弱弱しく言って、イルはもう一度チェルの顔面を蹴り潰した。


「……っ!!」


「おかげで彼は今でも昏睡状態。目を覚ますことすらしません。今年が最後だったのに……今年が最後だったのにぃィィィッッ!!」


 何度も何度も、イルはチェルの顔面を蹴った。


「このっ! このっ!! よくも……よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもォォオオォォオッッ!!」


 恨みを込めた一撃一撃……やがて、肩で息をするようになると、イルは糸ノコギリを掲げた。糸ノコギリには黒い刻印が這っており、イルが強く握ると霧状になって彼女に纏わりついた。


「まずい……あれは竜の【呪い】に侵されとる!」


「竜の【呪い】って……何でそんなもの持ってんだよ!」


「忘れたんか? イルを尾行しとる途中で見たじゃろ。路地裏におった、怪しい商人を」


「あの中に竜の【呪い】に侵されたものがあったってわけか……。くっ、あのノコギリ、使わせるわけにはいかねぇか……っ!」


「あはははっはぁはははっははは!!? 大丈夫ですよ? ウァレさん、エミルカさん。あなたたちは別に殺しはしませんからぁ」


 イルは顔をゆがめて笑いながら、チェルの腕に糸ノコギリの鋸歯を当てた。その瞬間、ジュッと音を立てて煙が立った。チェルは薬のせいでろれつが回らないのか、悲鳴すら上げられない。


 斬り裂いた腕が、一瞬後には紫色に壊死していた。エミルカはそれを見て、うっと呻いた。


「あれは対象を腐らせる【呪い】じゃな。触ったらいけんで」


「分かって――」


「とーっめないでくださいよっ!! この犯罪者を斬首するまで、邪魔しないで!! 止めるなら殺します。いえ、わたしの自由は誰にも邪魔させないっ!!」


 飛びかかってきたイルの一閃を飛んで避けると、ウァレは仮面を外そうと手をかけた。しかし、続く第二波がそれを許さない。横薙ぎの剣戟を避けると、しゃがんでイルの足を払う。地面に転がったイルを飛び越え、ウァレはエミルカのもとに戻った。


「ウァレ! 祈れ!!」


「――……」


 ウァレはもう一度狐面を外そうと手をかけた――が、


「それが鍵なんですか!? その仮面さえ外させなければ、いいんですねっ!!」


「くっ」


 エミルカに向かって振り下ろされた鋸歯を避けるように、ウァレは車イスを回転させた。鋸歯は取っ手に当たり、ジュゥと音を立てて腐り落ちた。


「ミカ!」


 ウァレはエミルカの小驅を抱きかかえると、車イスを蹴り飛ばした。イルの体に向かっていった車イスは、彼女が纏った黒い霧のようなものに辺り、腐って真っ二つになった。


 ウァレはエミルカをお姫様だっこし、イルから距離を取った。イルは糸ノコギリを提げ、焦点を失った瞳でウァレたちを見ていた。


「なんで……何でみんな、わたしを自由にしてくれないんですかっ!! なんで、邪魔ばっかりするんですかっ!? わたしが何かしましたか? 人を殺そうとすることが、悪いことですか? 意味が分からないです……わたしがわたしの自由を主張して、何が悪いんですかっ!!」


「自由になりたいんなら、願え!!」


「はぁ!?」


 エミルカは、慟哭するように言った。


「邪魔なもんがあるなら乗り越えろ! 親が邪魔なら、それを乗り越えられるほどの思いを持つんじゃ!! あんたの人生はあんたのもん。そんなことは誰でも分かっとる。でも、それすら分からんようなバカがおるんなら、そいつに教えちゃれ。私の人生は、私の思いは、私の気持ちは、私だけのものだ! って、大声で叫んでみい!!」


「っはは! それが出来たらいいんだけどね!! 正直な気持ちすら、言ったら罪だって、こいつが言ったんだよ!? こいつに逆らったら、わたしは一生詰られるんだ!! 生きていても、死んでいるのと同じ……いや、それならまだいいほうですね。わたしなんて、皮を剥がれて眼球を抜き取られて、女として凌辱だって辱めだって……なんでもやらされてきたんだよっ!! わたしの気持ち、分かる……? この悔しさが、このもどかしさが!! この辛さが……この悲しさが……この寂しさが……この……この……」


「――分かるわけないじゃろうが」


 エミルカはぴしゃりと言い、


「だって、その思いはあんただけのもんじゃけん。私には分からん」


「そう、ですか……」


「そんなあんたは、私の気持ち、分かるんか?」


「――え?」


「分からんじゃろうが」


 ふいをついた質問に、イルは答えられなかった。


 人の気持ちなんて分かるわけがない。自分の過去にあったことは、その辛さを思い出すことが出来るけれど、他人の過去のことなんて、知っているわけがなかった。


「仲間に裏切られ、信じていたものに貶され、一人廃屋で生きてきたこの気持ち、この侘しさ、誰かに分かってもらおうなんて思っとらん。でも、悲しさを誰かに話すことはできたはずじゃ。あんただって、もっと早く、チェルのことを周りに話しとけばなんとかなったんかもな」


「……そうじゃないよ。そうやって、誰にも話すことなんてできなかった。だって、話したら……わたしはもっと酷いことをされるかもしれない。だから誰にも話すことなんてできなかった! だからわたしは――」


「――最初から諦めとる奴が、他人のせいにすんな」


 他人のせい――。


 イルは逃げていた。憎い相手のせいにして、自分は被害者だ、と誰にも話さないでおきながら。そして、いざ自分の身になにかが起きればそれを他人のせいにして――。


 ふいに、エミルカは頭に着けていた白のベレー帽を外した。そこに隠されていたものを見て、イルは驚きのあまり一歩下がった。


 エミルカの頭には、狐の耳があったのだ。それは着けられたものではなく、生きている。彼女は人間ではなかった。


「……だから、あなたたちは一体、誰ですか?」


「……私はエミルカ・トゥバン。竜と人間を繋げる者――【猫ノ狐】じゃ」


 エミルカは首から提げた十字架を握った。


「もう一度問う。あんたの祈りは、何じゃ――?」


「わたしは……」


 イルは糸ノコギリを持ったまま、こちらを見て怯え続けているチェルのほうへ顔を向けた。醜い顔が血やよだれでさらに醜くなっていた。その顔をもう見たくなかった。


 イルは一つの決心をし、エミルカに祈った。


「わたしは、強さが欲しい。誰にも左右されることのない、父親にでさえ刃向かえるほどに強い力が……欲しいぃ……」


「……それなら、もうあるじゃろ」


「――え?」


「大丈夫。そんなことして手を汚さんでも自由になれる。信じるんじゃ、自分を……」


 優しい声だった。


 かつて、父親に・・されて生きていくことも嫌になってきたときに出会った、桜色の竜のように優しい声。


 優しい笑顔だった。


 かつて、外に出ることすら赦されなかった自分と一緒にいてくれた、大きな竜のように優しい笑顔。


 イルの手から、糸ノコギリが滑り落ちた。からんと音を立てて転がった糸ノコギリに、イルの周囲にまとわりついていた黒い霧が集まっていった。


 イルは少し考え、やがて決心したように顔を上げた。その瞳は、さっきまでの狂ったようなものではない。


 彼女は、越えられないと思っていた父親の壁を、今越えようとしていた。それを阻む者はいない。


 イルは踵を返し、怯えるチェルへと近づいた。


「パパ。私はあなたに育てられたことを恨みたくはありません。感謝しています。ママがいなくなってから、あなたがどれほど落ちぶれていたかを……私は知っていますから。――でも、私はもうすぐ親不孝をしなければなりません」


 イルはチェルを見下ろす。


「私はあなたに運命を決められて生きてきました。でも、それはもう違う。私の運命に、あなたはいない。私の人生に、あなたはいない。この先の道を歩むのは、私一人で十分です」


「……な、にを……俺が……育てた、ん……だぞ……俺の、言うこと……聞くべきだろうが……」


「なぜです?」


 イルは首をかしげて、床に転がる父を見た。チェルは初めて反論をしてきた娘を、信じられないとばかりに見上げている。イルは彼を嘲笑した。


「あなたはわたしを育ててくれました。母がいなくても、育ててくれました。

 あなたはわたしを強くしてくれました。忙しくても、教育してくれました。

 

 ですが、わたしは傷つけられました。あなたの欲情の向くままに。

 ですが、わたしは侵されました。あなたの理想の限りを尽くして。


 それは、罪じゃないのですか?

 それは、愛の教育なのですか?


 ――――……そんなわけ、ないでしょうッッ!?」


 イルの握った手から、血が滴り落ちた。彼女は怒りに肩を震わせていた。


 今まで、自分が何をされてきたのかを思い出して、怒りを感じた。

 今まで、父の所業を自由に赦してしまったことに、憤りを感じた。


「わたしは、あなたの人形じゃないっ! わたしには意思がある! 思いがある! わたしが生きているっている証拠が、この胸にある! あなたが触れても侵されない部分が、私の気持ちが、私の感情が、私の願いが、私の強さが、この胸にあるっ!! だから、わたしはあなたに刃向かいます。なぜなら、わたしはあなたという欺瞞な人間が、あなたという自分勝手な人間が、赦せないから!!」


 悔しかった。


 何で、こんな父親に何も言わなかったのだろうか。

 何で、わたしは一度として刃向かわなかったのか。


 憎かった。


 わたしはただ、自分の幸せを願っただけなのに。

 わたしはただ、彼に身を尽くしたかっただけなのに。


 わたしはいつもいつも、誰かの命令に逆らわず、何にも逆らわず、それで幸せになろうとしていた。


 それで幸せになんてなれるわけないのに、何で自分は逆らわなかった?


 答えは一つ。


「――わたしは弱かった。あなたに逆らえるような力なんて、持っていなかった。それでも逆らったのは、わたしがわたしであり続けるためです。あなたという操縦者に、いつまでも操られる人形ではなくなるためです。ただひとつだけ……この胸にある気持ちを、貫き通したかっただけなんです」


 胸を抑えて、彼女は言う。


「――わたしは、彼と結婚します」


 そして、彼女の瞳に父の姿は映っていなかった。


 踵を返すと疲れたような笑顔を浮かべて、エミルカたちにお辞儀をして屋敷から出て行った。


 彼女は今、父親という壁を乗り越えることが出来た。これが初めて彼女が逆らったことならば、彼女はもう誰の言うことをも聞く人形ではなくなった。


 しかし、それを赦さない者は、低く唸りながら言った。


「ぅぅ……た……助けろぉ……あのがき……教育のしなおしだ……おい、お前たち!!」


 薬が抜けてきたのか、話せるようになったチェルは悪態をつく。しかし、彼に目を向ける者はいなかった。


「助けろって……言ってんだろうが!! あいつは……教育のしなおしだ……ごほっ……ふざけやがって、あのガキ!! 俺がわざわざ……育ててやった恩を……よくもぉっ!!」


「だまれ、ウスノロ」


 縛られて動けないチェルの顔面を、ウァレは踏みつぶした。彼の眼はいつも以上に冷たい。


「彼女はあんたを乗り越えたんだ。それを称賛できもしねぇやつが、彼女の人生を侵していいと思うな」


「ぐぅぅ……何だ貴様……生意気だぞ!!」


「はん。誰が生意気じゃ。自分勝手なクズ領主が」


 ウァレがチェルの腹を蹴ると、体をくの字に折って悶え始めた。


「彼女の辛さはこれで終わりじゃない。彼女はあんたにどれほどのことをしてきたんだろうな。爪を剥ぐ? 皮を剥ぐ? その上、彼女を辱めて凌辱し、彼女の威厳を奪った? ……お前には当然の報いだ」


 もう一度、腹を蹴り、


「ああ、あと一つ。あなたが持っているその伝染病の【呪い】、反転させますよ」


 そしてウァレは狐面を外した。その顔を見たチェルは驚きに目を見開いた。


 狐面の下は、酷く焼けただれていた。唇からは常に鮮血が流れ、無くなった左目はくぼんでいる。そして、額には十字架のような模様さえある。


――否。そういう風に焼けただれているのだ。


「ひぃっ!? ば、化け物!!」


 怪物のようにも見える顔を見て、チェルは悲鳴を上げた。イルを・・していたときとは違う。皮を剥いでも目玉をくりぬいても、凌辱しても辱めても、チェルはこんな感情を持ったことはなかった。目の前の怪物が、酷く恐ろしかった。


「あはは。化け物は酷いですね。今はまだ、人間ですよ?」


 そして、ウァレは額の十字架に触れ、呪いの言葉を口にした。

 

 同じように、エミルカが首から提げた十字架を握り、祝福の言葉を口にした。


「――至誠(Verbum )なる(Dei )主の(factum )言葉(est:perii)

    我は(Nunc )(sumus )(in )りて(magia )――」


     「――(In )心なる(corde )(puro )言の(verbo )(Dei )

         ただ、(Beaedictio)(,)童≫へ(datum )(est )(ei )(ut )し者(filii)――」



  「「――――【魔童】(Curse)――――」」


 次の瞬間には、彼らは人間ではなくなった。


 ウァレの耳と歯は鋭くとがり、赤黒い目は妖しく光っている。ウァレの全身には額の十字架を中心にして黒の刻印が這いそこから刻印が揮発し、彼に黒い霧のようなものをまとわせている。


 それは、竜の【呪い】だった。


 エミルカは耳が大きくなり、服で隠していた猫のような細い尻尾が二本生えている。頬からは針金のようなヒゲが生え、目は赤く光っている。


 彼らは人間ではない――そう理解すると、チェルは恐怖に全身を震わせた。上から見下ろす二つの影は、人を食おうとする怪物にも見えた。


「……さあ、あなたを呪いましょう」


 そして、ウァレが手を出した。そこから刻印が流れ、チェルの顔面をとらえた。顔面に大量のうじ虫が這うような不快感が広がった。


「うわあぁぁぁああぁああぁあ!? た、助けてくれぇぇぇえぇええぇぇ!!」


「うるさいですよ。それに、誰も助けてくれませんよ」


 ウァレは不気味に笑い、


「――みんな、あなたのせいで病気になりましたから」


「うあああああぁぁぁぁあああぁぁあぁっっ!?」


 ウァレの不気味な哄笑を最後に、チェルは意識を失った。


              †4†


「ウァレ! このクレープもう一つ買ってきて!!」


 星桜祭当日、車イスに乗った少女が頬にクリームをつけたまま、青年に怒鳴り散らしている。周りの大人たちは彼女を笑顔で見ていたが、青年は迷惑そうに口をひきつらせた。しかし、彼の表情は狐面に隠れて見えなかった。


 夕刻を過ぎ、街中が赤く染まるころのことだった。


「一体、何個食べるつもりだよ。しかも全部ブルーベリー味で飽きないのか?」


「ふん。これじゃけん田舎もんは……」


 田舎関係ないだろ、それにお前だって一緒に住んでるだろ、といったつっこみは入れなかった。


「ブルーベリーをなめんな。このベリーの酸味、そして優しい甘さ……美しい色と可愛いふぉるむ。色々な料理に使われてもなお、その甘酸っぱさを忘れないままに変化を遂げる強さ。料理を美しくひきたてて、自分が主役だと主張しすぎず、かといって全くしないわけでもない顕著な食材……ああ、この世界にブルーベリーがあってよかったぁ!!」


「そこまでか」


「仕方ないじゃろ。しばらく食べれんかったんじゃけん」


 ウァレが屋台の一つでクレープを買って渡すと、エミルカはそれを頬張りながら話した。


「領主も、あれじゃあしばらく……というか、全く家から出れんじゃろうな」


 ウァレの持つ、竜の【呪い】……陰を陽に、陽を陰する【呪い】によって、領主は持っていた伝染病の【呪い】を自分が受ける羽目になった。伝染病の【呪い】は、そもそも外へ向けて発信され、自分は影響を受けないはずだった。しかし、ウァレが呪うことで効果が反転し、対象が外から自分へ向かった。


 そして、前から伝染病を患っていたメイドや兵士、そしてイルの婚約者は一日経っただけですぐに治った。この街に広がっていた伝染病……いや、【呪い】の被害者はあと一人になった。が、だれもそのことを知らない。


「……にしても、ローリアス。結局会えなかったな」


「うん。でも、あいつも今日の準備があるんじゃろう。星桜祭に降る星桜……その準備を」






 同刻、領主の屋敷にて。


「くそぉ……絶対に、星桜祭なんか……中止させてやる……ッ!!」


 館にはメイドたちが戻ってきた。伝染病の【呪い】が解かれ、治ったのだ。


 そして、その中で治っていないのはチェルだけだった。彼はウァレに呪われ、伝染病を自分限定のものにされた。苦しみ悶えながら、発汗や発熱で意識が朦朧とする日々。チェルはそれに耐えられなかった。


 自分以外の人間がそうなるならどうでもいい。しかし、自分が苦しむなどあり得ないことだ。彼は街の領主で、一番崇められなければならないのだから。


 チェルは唇を噛みながら、自室から抜け出し、大聖堂へと向かった。


 大聖堂の隠し扉は幾つもあり、その中の一つに、国と戦うための爆弾が部屋一面に置かれているのだ。それを街に向けて爆発させれば、星桜祭は必ず中止される。いや、してくれなければ困る。


「……絶対……結婚、なんか……させて、た……まるか……唯一の……娘、なん……だぞ……」


 大聖堂に着くなり、チェルは足をもつれさせて倒れた。近くにメイドはいないので、誰も助けてはくれない。チェルは後で役立たずなメイド共を解雇してやると心に誓いながらゆっくりと立ち上がった。


 そして、ふと竜の銅像へ顔を向けると。


「……は?」


 竜の銅像はなく、代わりに桜色の竜が鎮座していた。動かなかったが、息遣いだけで気圧された。


 目を閉じた桜色の竜は、おもむろに翼を広げた。大聖堂が埋まるほどに大きな翼だった。やがてゆっくり目を開けると、鋭い瞳でチェルを見た。


「わたくしはローリアス。この館の観察者。そして、イルの友です」


「な、なんだ……なんのイタズラだ!? こんな機械で……俺を騙せると――」


「機械などではありません、現領主。わたくしは列記とした竜です。由緒正しき、領主に伝わる竜……さて、あなたの願いは何でしょうか?」


 ローリアスは翼を折りたたんだ。悠然とした姿に見とれていたチェルは我に返り、首を振った。


「願い? それが叶うなら。今すぐに星桜祭を中止させて見せろ!! 今の時代、誰が神を信じるっていうんだ!! 俺は頭がいいからな、そんな幻惑、嘘だと赤子のころには気づいとったわ!! なのに、この街の阿呆共は……いつまで信じているつもりなんだ!? ふざけ――」


「ふざけているのはあなたでしょう?」


 俄然、ローリアスの声色が低くなる。軽蔑したように、そして侮蔑するように。


「あなたは残念な人間です。(かみ)を信じず、竜を崇めない……あなたには領主になる資格など、とっくになかったのです。両親を、そして兄弟を殺してまで領主になれてうれしいですか?」


「っ!? なんでそれを知っている!?」


「言ったでしょう? わたくしはこの館の観察者だ、と。わたくしはずっとあなたの動向を見てきましたよ。酷いですね。街の民に過剰な税を敷き、気に入らないからと館の人間を解雇し、イルを・・し、凌辱し、辱め、陥れ……そして、彼女の婚約者までも奪おうとした。あなたは領主の自覚が、いえ……資格がないのですよ。他人をここまで見下す者が、誰かの上に立てると思ったら大間違いですよ。あなたはこれから正しき道へ導かれることでしょう。しかし、それはあなたを苦しめるのです」


「お前は、何を言っているんだ!? 俺は領主だぞ!? そんな舐めた口きいて、あとで後悔させて――」


「後悔するのはあなたです、このウスノロ」


 ローリアスは瞳を淡く輝かせ、全身に黒い刻印を這わせた。


「あなたはこの館から出るべきではない。あなたは領主になる資格なんてない。あなたは誰かの上に立つべきではない。あなたは幸福になるべきではない。あなたは他人を犯す権利を持つべきではない。あなたはしゃべるべきではない。あなたはわたくしの友を傷つけるべきではない。あなたはわたくしを崇めるべき。あなたは主のお導きの下で生きるべき。あなたは【猫ノ狐】を崇めるべき。あなたは地獄に落ちるべき……。

  以上、12の項目を総して、あなたはわたくしの【呪い】の下で生きるべきです」


 そして、ローリアスの【呪い】がチェルに襲いかかった。


「――わたくしの友を傷つけるなッ! このクズ領主がぁぁああぁっっ!!」」


「ああぁぁ――――あぁぁぁっ――――ぁっぁ――――ぁ――――――……」


 その日を境に、館には四六時中豪雨が襲い、領主の姿を見る者は誰もいなくなった。






 時は少し進み。


「……もうそろそろじゃな」


 夜になると、屋台から明りが消えた。少し前までは館に見えた厚い雲が心配されていたのだが、杞憂だったようだ。雨は降らず、祭りは――いや、祭りという儀式は順調に進んでいた。


 屋台から明かりが消えると、人々は街の中心を向いて手を組んだ。彼らの口からは聖歌が流れ、それをエミルカたちは街で一番高い丘から見ていた。


 と、突如エミルカたちの下へ突風が吹いた。後ろを振り向くと、そこには桜色の竜が立っていた。


「あ、ローリアス。あんた、何で今の今まで姿見せんかったんじゃ!」


「ごめんなさいね、エミルカ。これでも忙しいのよ?」


「ふぅん。あの領主を呪うのに、そんなに忙しいのか?」


 ローリアスは自分が何をしていたのかを気付かれていたことに目を見開いた。エミルカは車イスに背を預けると、クレープを食べた。


「……さっきから館の上の雲、おかしいじゃろ。一極点のみ悪天候にする【呪い】……ローリアスの【呪い】以外にはありえんのんじゃ」

 

「あはは。ばれてましたか。でも、不都合はないでしょう?」


 エミルカは微笑んでそうじゃな、と呟いた。


「……さて、それではわたくしはもう行かなくては」


「そっか。じゃあ、またあとで」


 ローリアスは頷いて、空を飛んだ。優雅に飛ぶ姿は、暗くなった街では見えなくなった。


――そして、それは数瞬後に起こった。


「――きた。ローリアスの『星桜』じゃ」


 エミルカが指をさした先で、きらきらと光るものが落ちていった。桜色に光るそれは、暗くなった街を優しく照らしてくれた。


 それは桜だった。


 星桜と呼ばれる現象……桜が星のように輝きながら降りしきっていた。


 ウァレとエミルカは優しい光を遠くから見ていた。その下では、街の人々が笑顔で星桜を眺めていた。光り輝いて美しいそれを捕まえようと、子どもたちは走り回り、大人たちはそんな子どもを眺めて笑う。


 星桜は捕まえようとしても、手に触れた瞬間、まるで雪のように溶けてなくなった。


「……星桜、か。確かに桜に見えるんだけどね」


「――でもええんじゃ。綺麗じゃし、それに……大切な人と見ることが出来たならば――」


 エミルカが見つめた先では結婚式が行われていた。領主の娘と、街の端に住む青年の結婚式が。


 その夜、桜は街中に降り続いた。


 その下で結婚をした二人は、永遠の愛を誓って――。


             †5†


「にゅわぁぁぁ!? 帰りも寒いがなぁぁ!」


 悲鳴を上げるエミルカを、ウァレはローブの中から抱いた。少しでも温かくしようとするのだが、成長(・・)したローリアスはスピードも上げていた。


「我慢してください。まだ星桜を降らせたばかりで、力の制御がしにくいのです……」


「星桜って……ただの脱皮じゃろうが!!」


 星桜の正体は、ローリアスの脱皮した皮だった。それが空気中で分解され、街に降ったように桜色に光るのだ。それがあまりにも美しく、あの街では星桜の降る日に結婚式をするようになったのだという。


 ローリアスは脱皮をして成長を繰り返す。それも毎年、同じ時刻に。星桜祭はそれに合わせて開かれていたが、星桜の正体を知る者はいなかった。


「でも、結構幻想的で綺麗だったよ」


 ウァレが言うと、ローリアスは笑った。


「うふふ。ありがとう。でも、少し恥ずかしくもありますね」


「何をいまさらは恥ずかしがっとんじゃ。何年もやっといて……」


「それもそうですね。そろそろ慣れる頃だと思いますよ。さて、もうすぐ着きます。しっかり掴まっていてくださいね」


 ローリアスは旋回をしながらゆっくりと下降し始めた。向かっているのは森の中にある教会だ。


 風を起こしながら着地すると、ローリアスは体を低くした。ウァレが先に降り、エミルカを抱えると、ローリアスが持っていた車イスをそっと置いた。車イスは一度壊れてしまったので、街で買い直したものだった。


「……では、わたくしは行きますね。また来年も、よろしかったら星桜祭に来てくださいね」


「うん。暇だったら行くよ」


 ウァレが言うと、ローリアスはお辞儀をして飛び立った。一瞬で彼女の姿は雲の向こうに消えてしまった。ウァレたちはいつまでもそれを見ていた。


 やがて小さく呟く。


「……領主、あれで本当によかったのかな」


「何が?」


「伝染病と、ローリアスの【呪い】で外に出られなくなったけど、あいつも、ただ娘が大好きだったから、ああやって不器用な愛をぶつけてただけなのに……」


 ウァレは複雑そうにエミルカの瞳を見た。


「ええんじゃ。何があっても、誰かを傷つけるなんか最低のすることじゃ。自分が嫌でも、それがイルの幸せになるって考えんかったあいつが悪い。それに……イルも幸せになったんじゃけん、なんでもええわ」


 エミルカは一冊のノートを抱いた。そこには緑の付箋と、星桜に包まれながら結婚をした二人の名前が書いてあった。


 その緑は、彼らを見守る木々の優しさように――。



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