[Secundo episode] 見失の竜――ルトス――
†0†
少女の部屋には、ガソリンの臭いが充満していた。
彼女が過ごす空間以外の場所にはガソリンの入ったポリタンクや様々な機械部品などが置かれ、もともと物置き小屋だったことがうかがえる。彼女が過ごすのは錆びた戦闘機の羽の下だった。そこへ無理やりくまのぬいぐるみを押し込んでいるので、それは油まみれになってしまっていた。
小屋は家から離れた場所に建っていた。真っ暗なその部屋は人が生活するには狭かったものの、父親と離れて暮らしたかった彼女には都合がよかった。彼女は暴力をふるわれていたからだ。暴力のない時間は、彼女にとっての幸せのひと時だった。
ガソリンが揮発しているので、ロウソクを使えなかった。窓もないので明かりすらもない。暇つぶしをしようにも、少しでも音を出してしまえば父親に殴られてしまう。彼女は孤独だった。
彼女は外へ出ようとしなかった。薄汚れた姿を隣人に見られてしまうと、父親が「ふざけるな」と言って殴ってくるからだ。小屋から出られない彼女は、風呂にすら入れなかった。彼女は孤独でいるしかなかった。
彼女の食事はいつも質素だった。料理の作れない父親はいつも外食をしてくるので、まともな食事をしなかった。食事はいつも庭の雑草か、よくてもカビの生えたパンだった。油まみれの手でそれを食べるのが彼女の食事だった。
そんなある日である。
彼女はふいに走った背中の冷たさに悲鳴を上げた。
「ひゃぁっ!?」
「うけけっ! やっと反応してくれたのですよ~!」
声の高い、少女のような声だった。その声を探るように、彼女は首をめぐらした。が、暗闇で全く見えなかった。
「違うですよ~、こっちこっち!」
「ど、どこなの……? ……誰なの……?」
「お~、お前も私と同じみたいだから話をしてやるのですよ~」
そして、少女の前に姿を現したのは、赤い竜だった。
「初めまして……といっても、ずっと前からきみのこと見てたですけど~」
少女は、その手の平に乗りそうなほど小さな竜を見て、
「……ほんとうに?」
と、笑った。
†1†
車イスで移動するには少々めんどうだった。だから少女は大声で探し人の名前を呼んでいた。
「ウァレ――っ!! どこにおるんじゃ、あのボケはっ!!」
少女は苛立たしげに車イスの肘置きを叩いた。
少女の姿は妙なものだった。
へそが見えるほど大きく開かれた巫女服に、短い赤のスカート。スカートの後ろの部分は少しめくれ、猫のような白い尻尾が生えている。視線を上へ持ち上げると、絹繊維のような金髪の頭から狐の耳が生えている。乏しい胸には白銀の十字架を提げていた。
否。それは劣化して片側が欠け、十字架とは呼べなかった。
いうなれば、ト字架といったところだろうか。
少女がいるのは教会だった。長椅子が五列並べられ、その正面の祭壇に忘れられた神の銅像が手を組んで立っている。高い天井や壁の高い位置には色鮮やかなステンドグラスが飾られていたが、劣化し、ところどころ割れていた。壁の低い位置には宗教画が飾られ、異様な雰囲気を醸し出していた。
神聖なはずの教会だったが、人々から忘れられたように、中には少女以外は誰もいなかった。風雨にさらされて朽ちた壁が、今にも崩れそうだ。
少女はハンドリムに手をかけた。狭い教会内では車イスでの移動はしにくそうだったが、少女はそれをものともしない。まるで教会に何年も住んでいるかのような身のこなしだ。
少女は探し人――ウァレの名前を叫びながら奥の部屋へとはいって行った。教会の奥には給湯室と仮眠室があった。少女は給湯室のほうへ入っていった。
給湯室では仮面をつけた妖しい青年がお湯を沸かしていた。青年の姿を見るなり、少女は拳を握った。少女は彼を探していたのだった。
青年の恰好も妙だった。右上以外を狐面で覆い、唯一見える目は赤黒い。少女よりも背丈ははるかに高かったのだが、羽織った黒いローブは床をひこずり、端々がボロボロに傷んでいた。青年は一言でいえば『不審者』だった。
少女は車イスを青年――ウァレの隣へとつけると、その手をはたいた。ウァレは少女に目を合わせることもせずに薬缶の取っ手に手をかけた。
「痛いよ、ミカ」
「ふんっ。痛くしとんじゃろうが。呼んでも返事すら出来んのんか、この狐は」
「狐って……この面はここの教会にあった奴で、お前が選んだんだろ?」
そう言って、ウァレは面を撫でた。愛おしそうに。
ミカと呼ばれた少女は、車イスを動かしてウァレの足を踏んだ。彼女の足の代わりを成している部分だ。
「文句ある?」
「ないよ。これはミカが選んだものだからね」
ウァレは微笑み、車イスの少女を見下ろした。
「で、何か用? ……もしかして、一人で寂しかった?」
「そんなわけないじゃろが!! 私は子どもかっ!!」
車イスをガツンとぶつけられて、ウァレは痛みに蹲った。しかし、仮面のせいで苦痛の表情が見て取れない。狐面自体が笑っているように見えるので、少女はさらに苛立った。
「何笑っとんじゃ」
「いや……これは面だから」
脛をぶつけられて痛かったものの、なんとか復帰したウァレは少女に視線を合わせた。金色の頭に手を乗せると、頬笑みを浮かべた。
「で、結局なんだよ」
少女は尻尾を弾ませながらキツネ耳をピコピコ動かして、小さな口を開いた。
「おやつまだ?」
「子どもか」
つっこんだウァレの脛を、再び車イスが襲撃した。
忘れられた神の銅像の前で、ウァレたちは並んで焼き菓子を食べていた。
正面では神、横では宗教画、上ではステンドグラス……方々に見つめられていては、非常に居心地が悪い。ウァレは早く退散しようと、口に入れた焼き菓子を紅茶で流し込んだ。
彼の隣ではキツネ耳の少女が鼻をヒクヒクさせて紅茶の香りを楽しんでいる。彼女の様子を愛おしく見つめて、彼はその頭を撫でた。少女は嫌そうな顔をしたが、尻尾は正直に左右へと揺れ動いた。
教会の中には二人しかおらず、閑散としていた。それもそのはず。この教会は今は使われていない上に、街から離れた山奥に作られていた。
ここへ訪れる者は限られていた。
そして、ここへやってきた者は例外なく問題を抱えている。
――竜と人間の問題を。
「……でも、最近は誰も来てないな」
独り言のように呟くと、少女が焼き菓子を飲みこんで頷いた。
「毎日来られても嫌じゃがん。竜なんかおらんって思うとる人間が多いのに、その少ない人間が毎日来たら困るじゃろうが。もちろん、竜だって数が少ないのに、こんなとこに来るなんか嫌じゃ」
「……優しいんだな」
「…………なにが?」
首をかしげて訊いて来る少女に、ウァレは微笑みかけた。
「そう言って、本当は誰にも問題なんて起きてほしくないんだろ? だからここに来た奴にはいつも――」
「そんなわけなかろうが。私は誰よりも冷たい奴じゃ」
自虐的に呟いた少女の顔から、表情が消えていった。
「……もし、そうだとしても、罪滅ぼしにもならんけんな」
少女は紅茶を飲む。
ウァレは彼女の頭を撫で続けていた。それは、どこか慰めるようにも見えた。
教会の扉が開いたのは、その時である。
扉の向こうには誰もいなかった。それどころか何もなかった。
風はさして強くないので、扉が開くことすら怪しい。しかし、こんなところへ強盗が入ってくることも考えられない。ウァレは開いた扉を閉めに行こうと立ち上がった。
「ま、待ってウァレ!!」
「ぬぐっ」
しかし、少女が服を引っ張ったことで遮られてしまう。必死に引きとめようとするあまり、引っ張られた服が首を絞めた。ウァレはとりあえずかがんで絞束から抜け出すと、少女のほうへ顔を向けた。
「何だよ……」
「い、いっちゃいけん! 私を置いていくなっ!!」
「なんだ、怖いのか?」
「そ、そんなわけないじゃろうが!!」
「へぇ。でも身体は正直みたいだな」
「あぅ……」
ウァレの視線の先では、狐の耳が垂れさがっていた。少女は恥ずかしさのあまり、顔を赤く染めて耳をおさえた。エミルカが服を放したのを確認すると、ウァレは彼女の隣に座った。少女は上目に睨んでいる。
ウァレははぁとため息をつくと、教会内を見まわした。相変わらずの奇妙さである。
「……そろそろ寒いんだが」
「むぅぅ……わ、分かった。けど、すぐにカムバック!!」
「それは、どこの国の言葉かな」
呆れたように言いながら、ウァレはゆっくり立ち上がった。彼の後ろでは、あぁ、と哀しげな少女の声が聞こえた。
扉を閉めると、振り返り、少女の下へ歩いて行った。そのとき、突如少女が背中をのけ反らした。
「ひょぅわっ!!」
「今度はなんだよ」
「つ、冷たいっ!! 背中がぁぁぁぁぁ……」
魚のようにもがく少女を見て、ウァレは小走りに近づいていった。少女の背中に手を突っ込むと、指先に冷たい感触があった。
「ぬわっ! どこさわりょんじゃ!!」
「緊急事態だ」
「私の体に緊急事態なんて場所は……きゃぁっ! つめっ!!」
少女の背中に入っていた冷たいもの……それは氷だった。
ウァレはそれを床に捨てると、殴りかかってきた少女の拳を受け止めた。
「このっ! 痴漢! 変態! 私の体に何しとんじゃ!!」
「俺じゃねぇよ」
「あんた以外に誰がおるんじゃ!!」
「くけけけけけけっ」
その笑い声は、天井から聞こえてきた。
少女は拳を止めて、ひぃっと悲鳴を上げながらウァレに飛びかかってきた。ウァレは彼女の背中をさすって宥めながら、声の主を見た。
声の主は、赤く硬い皮膚をしていた。皮膚の表面からは細い棘が幾つも生え、全身を守っているように見える。尻尾は三つに分かれ、先端が膨らんでいる。そこにも棘が生えていた。
「おやおやこれは……」
「面白い反応見れたですよ~!!」
そいつは竜だった。
手の平に乗るほどの小さな竜が、宙を飛んでいた。しかし、本当に手に乗せてしまえば怪我をしてしまいそうなほどに体中が棘だらけである。
「ふぅむ……ここであってるですか~? えぇと……名前は確か……」
「……俺はウァレ・フォール・エルタニル。それでこっちのキツネ耳は――」
「――【猫ノ狐】……エミルカ・トゥバンですね~!」
エミルカは耳をピンと立たせて、赤い竜を睨みつけた。赤い竜は面白そうに体を宙転させた。
「……私に何か用? この棘トカゲ!」
「えぇ~、酷いですよ~。その呼び名は~。私にはちゃんとした名前があってですね~」
「聞きとうない。今すぐ帰れ!!」
しかし、竜はエミルカの言葉を聞かず、
「私は、ルトスというですよ~。初めまして、エミルカさん。それに、ウァレさん」
出会いは最悪だったものの、礼儀は正しいらしい。
いたずら好きの、棘トカゲ……もとい、ルトスはエミルカの正面の長椅子の背に着地した。翼を折りたたみ、頭を垂れる姿は人間のようだった。
「……で、何か用?」
ルトスは頭を上げると、エミルカを見た。小さな手を組むと、祈るように目を閉じた。
「ここに来れば、私が持っている問題を解決できると思ったですよ。だから来たまでです~」
「ふうん。解決できないって言うたら帰ってくれるんじゃろうか」
「そんな、殺生な~」
ルトスは軽い口調で言った。エミルカはその態度に腹が立ち、拳を握りしめた。しかし、相手が小さいうえに身体中が棘だらけのせいで殴れなかった。
エミルカは隣に立つウァレを見上げた。その視線に、疲れたという意志を込めて。
ウァレは視線を受け止めると、小さくため息をつき、エミルカの隣に座った。ルトスと視線を同じにした彼は、仮面の下で笑いながら言葉を発した。
「じゃあ、依頼ってことでいいのかな」
「うん。そーそー、依頼依頼~。どうしても【猫ノ狐】さんに助けてもらいたいですよ~」
「その【猫ノ狐】って言葉、どこで聞きましたか?」
「ええとね、そこの路地裏の怪しい店で!!」
「真面目に答えられないなら、依頼は断ります」
えぇぇっと落胆するような声を発したルトス。しかし、ウァレたちにとってはこの質問は大切だった。
ルトスはその重大さを理解していないのか、口を尖らせながらも質問に答えた。
「……昔、とある人間と読んだ本に書いてあったですよ。そして、この依頼はその人間とのことですよ」
「……そう」
答えたのはエミルカだった。
「……分かった。依頼受けちゃる。でも、これ以上私たちのことは話さんで。それと、その本はすぐに捨てて」
「え……あー、うん。分かったですよ~」
ルトスには理解し難がたそうだったが、哀しそうな表情を浮かべたエミルカを見ると、静かに頷いた。
エミルカのことを知っているウァレは、彼女を一瞥した後、ルトスに話しかけた。
「じゃあ、本題といこうか」
ルトスは小さな頭をウァレに向けて、鋭い視線を向けた。
「私と彼女を……仲直りさせてほしい」
†2†
ウァレは給湯室で紅茶を淹れた。
淹れた紅茶を両手に持ち礼拝所へ移動すると、長椅子の上でぼーっとするエミルカに紅茶を手渡した。そこにルトスの姿はない。
「……何を悩んでるんだ?」
「……いや、別に悩みょうるわけじゃないけど」
エミルカは紅茶を飲んで一旦言葉を切った。
「……変じゃな。この依頼……」
「変? どこが?」
エミルカの隣に腰かけたウァレは、紅茶を飲みながら彼女に訊いた。エミルカは中空を眺め、
「もともと、竜は人間と一緒に暮らせんもんじゃ。ウァレなら分かるじゃろ?」
「そっか……【呪い】か」
ウァレはそう呟いて、仮面に触れた。エミルカは頷いた。
「そう。竜には【呪い】があって、それが無意識のうちに人間に作用するんじゃ。人間はそれに反応する……じゃけん、竜と人間は仲良くはなれん。それなのに、あの棘トカゲは――」
眉間にしわを寄せた彼女を横目に見ながら、ウァレは依頼を思い出した。
「人間と竜の仲直り?」
「そうです、そうです~!」
「でも、何でまた……」
話を聞いてもらえるのがうれしいのか、ルトスは翼をばたつかせた。
鬱陶しそうに、エミルカはルトスを睨みつけた。しかし、ルトスはその様子に気づかないまま、話を続ける。
「私と彼女……あ、アルト・レ・ラルアーゼっていいますぅ~。彼女とは、もともと一緒に過ごしてたですよ~。ま、彼女の部屋に私が居候していただけですけどね。それでも彼女が大人になるまでは一緒の部屋で過ごしたですよ~」
エミルカは怪訝そうに視線を向けたが、何も言わなかった。
「ですがですが~、彼女が大人になると同時に……私はお払い箱ですよ~」
「それは嫌われ……いや、何でもないよ」
中途半端に口をはさんだウァレを、ルトスは首をかしげて見た。
「まー、そうですね……理由は全くこれっぽっちも分からんですよ~。でもですね、でもですね、おかしいでしょ? アルト、大人になった途端に私を置いて出ていくですよ!! もう意味分からんですよ……でも、私に何か問題があったかもです。なら、私から謝るべきだと思うですけど……」
「なにか問題でも?」
ルトスは苦虫をつぶしたような表情をして、弱弱しく言った。
「……置いていくならまだしも、避けられてるですよ」
「へぇ。それ完全に嫌われ――むぎゅ」
慌ててウァレがエミルカの口をおさえた。エミルカは不機嫌そうな表情でウァレを見上げると、彼の手を噛んだ。
「痛て」
ウァレが手を離すと、エミルカはこほんと咳ばらいをし、
「――つまり、そのアルトとかいう人間と、棘トカゲを仲直りさせればええんじゃな」
「はい~! 最初からそう言っているのに、やっと理解してくれましたか~?」
「はいはい。やっちゃるけん、今日のとこは帰って。疲れたけん。主にあんたのせいで」
「ありがとうございますですよ~。それでは、また明日、改めて参りますね~」
そう言い残して、ルトスは教会から出て行った。
「竜と人間が一緒に暮らせるわけないんじゃ。なのに……あんな疲れる奴と一緒にすごすなんか、ありえんじゃろ?」
「……まあ、疲れるってとこは同意するけど、一緒にいられないってことはないんじゃないか?」
エミルカは頭を振って否定を示した。
「無理じゃ。それに、人間と竜が一緒に暮せたなら、今頃、この世界には竜が人間並みにおるじゃろうな。なのにそうじゃない理由……」
「結局、問題は【呪い】か……」
ウァレは呟いて、紅茶を飲んだ。
竜の持つ【呪い】は様々なものがある。その中で共通しているのは、自分の呪いは自分にもかけられることだ。誰か対象を呪うのが一般的な中で、竜だけは自分を呪うことができる。
ルトスも呪いを持っているはずだ。しかし、その呪いが何なのかが分からない。
「……面倒だな」
「うん。でも私は頼られた。願われた。……なら、私は助けるのみじゃ」
エミルカは胸を張って言った。
「……でも、それが本当ならいいもんだな。本来は仲良くなれないはずの者が、仲がいいって……」
「いいや。別に仲が良くないわけじゃない。ただ、一緒にはなれないっていうだけじゃ」
エミルカは飲み干したティーカップをイスの上に置いた。
「【呪い】のせいで、人間も竜も苦しんどる。それをどうにかできるのは、私たちだけじゃ」
「きみは【猫ノ狐】だからね」
「そうじゃ。私は【猫ノ狐】――竜と人間を繋ぐ者。私に選ばれたあんたも、もちろんやらせるんじゃけどな」
「従うよ。俺はきみに救われたから……」
二人は互いの顔を見て、いたずらっぽく笑いあった。
紅茶を飲みほしたウァレは、そういえば、と呟いた。
「ルトスが言っていた……アルトさん? って、どんな人なんだろうね」
「なんじゃ? 興味でもあるんか、この色魔」
「色魔って……」
呆れたように呟くウァレを上目に睨み、エミルカは手を突き出した。車イスに乗せろと、エミルカは示している。
ウァレはエミルカの軽い体を持ち上げ、長椅子の隣にある車イスに乗せた。ブレーキを外すと、エミルカはハンドリムに手をやって動き始めた。
「……ま、全部明日になれば分かるじゃろ。あとのことは明日考えればええんじゃ」
「気楽だな」
まあね、といたずらっぽく笑んだエミルカは、忘れられた神の銅像の前で止まった。首から下げた十字架を握り、祈るように目を閉じた。
ウァレは長椅子に座って、小さな巫女シスターの後ろ姿を眺めていた。
ふと、彼は仮面に触れた。
その下が酷く疼いていた――。
†3†
――次の日になれば分かるじゃろう。
彼女の言葉を思い出して、ウァレははぁとため息をついた。
次の日……確かに次の日だとは言ったが、まさか――
「へいへい! 次の日がきたですよ~!!」
日付が変わった瞬間だとは、誰が予測できただろうか。
眠っていたウァレは、どこからか入ってきた赤い竜を見てあくびをした。
眠り始めたのはつい一時間ほど前だった。給湯室の隣の仮眠室では、ウァレとエミルカが同じ布団で眠っていた。エミルカはうぅと唸っただけでぐっすり眠っている。
彼らの姿をみると、ルトスは嫌な笑顔を浮かべた。
「おぅ……仲いいですねぇ、お二人さん!! いいですよ、いいですよ~! 恋愛に歳は関係ないですからね~!!」
「……少し、誤解しているようだけど、俺たちは別にそんな関係じゃないよ。ただの同居人だ」
「同居人がこんなに仲良かったら、問題バリバリですよ!! 雷の如く、ピッカーッですよ!!」
「……」
「……ごめんなさい。ちょっとテンション上がりすぎましたね、はい」
頭を垂れて謝るルトスだったが、その表情には反省の色はなく、むしろ笑っていた。
ウァレは突然の来訪者に疲れを隠そうとせずに睨みつけていた。やはり、ルトスはその様子に気づいていない。ルトスは宙転して、喜びを体現していた。薄暗い仮眠室では、彼女の赤色は目立って見えた。
教会から入ってきたときには気付かなかったが、彼女は酷く存在感が薄い。こうして対峙してみて、やっと彼女の存在を把握できる、といった風だ。
どこからか入ってきたのか分からなかったが、もしかすると、日付が変わるまでどこかに潜んでいたのかもしれない。竜は人間よりも睡眠をとらなくていいので、そういった芸当も可能なのだろう。
ウァレはエミルカの頭を撫でると、半身を起こした。
「……ちょっと向こうで話そうか」
礼拝堂は、夜になると実に奇妙な雰囲気を醸し出していた。昼間でも奇妙だったのだが、それを何倍にも濃くしたかのような奇妙さだった。
なので、普段は夜中にここに来ることはなかった。宗教画の中の人たちに見つめられているような気がして全然落ち着かないが、ルトスと話すにはいい場所だろう。彼女は宗教画の中の人たちすらうんざりしてしまうような魅力があった。
「おぉ~、夜は夜でなっかなかですね~!!」
「まあ、普段は夜中に来るようなとこじゃないけどね。あと、夜中だという自覚があるなら、起こさないでほしかったな」
ルトスは気にしたそぶりもなく、周囲を見てパタパタと翼をはばたかせた。彼女なりにテンションが上がっているらしい。どこまでも上がるそれに、ウァレはうんざりした風に呻いた。
「まあまあ、夜に来たには理由があるですよ~」
「理由……?」
ウァレは長椅子に腰かけながら、ルトスに訝しげな視線を向けた。正面の忘れられた神の銅像が、こちらを睥睨しているようだった。
ルトスはウァレの正面のイスの背もたれに降り立ち、翼をたたんだ。優雅な立ち姿に、ウァレは目を奪われた。ルトスは扉の方向を見つめていた。
「……アルトには、夜にしか会えないですよ」
そう呟いた彼女は、どこか哀しげだった。
ウァレは続く言葉を待った。彼にはどう声をかけていいのか分からなかった。
「……アルトの職業は聖騎士なのですよ。だから、昼間は公務に出かけてるです。終わった後は部屋にこもって、ほかの人には決して会わないです。たとえ、誰かに誘われたとしてもです……私は、彼女の過去を知ってるですから、今の彼女のことが心配で心配で……」
「聖騎士、か……」
ウァレには会いたくない職業の人物だった。
聖騎士は、国を守る精練された騎士だ。彼らは極端に竜を嫌う傾向があり、一部の者はエミルカのことを……【猫ノ狐】を知っており、それすら嫌う者もいるらしい。
ルトスは変わらない口調で続けた。
「アルトが私を避ける理由も、なんとなくは分かるですよ。でも……それにしてはおかしいことが多いですよ~」
「おかしいこと?」
はい、とルトスは頷いた。
「アルトは、竜全員を避けるというよりも、私個人を避けているような気がするのです。それは彼女に会ってみれば分かるですが……」
「……ま、何にせよ、彼女に会ってみないと分からないね。でも今から会いに行くつもり?」
「はい~。でないと、彼女はすぐに寝てしまうですよ」
友だちと呼べる人物がいないせいか、彼女は夜更かしをする習慣はないらしい。この時間まで公務をしていたとしては少々長いような気もするが、それが聖騎士なのだろう。国を守る者たちの義務というべきか。
ウァレは少し考え、
「……分かった。これからアルトさんに会ってみよう。このまま出ていったらミカに怒られるかもしれないから、彼女を起こさないように。静かにね」
音を立てないように立ち上がったウァレとともに、ルトスは飛び上がった。
二人は教会の扉まで行き、一度振り返った後、
「……」
教会を出て行った。
教会は街はずれの山の中にある。そのため、街へ出るにしてもしばらく歩かなければならなかった。
夜の真っ暗な道を歩くウァレの傍らでは、ルトスが飛んでいた。肩や頭に乗せて行こうにも、体中が棘だらけのせいでそうすることはできなかったのだ。
街までは数十分歩かなければならない。アルトが眠っていなければいいのだが、もし眠ってしまったら、また明日、同じ道を真夜中に来なければならない。
ウァレは逸る気持ちを抑え、足を前へ進ませた。
やがて着いた街には、まだ明りがあった。明りを見ると自然と安心するものだ。
街にはレンガ造りの建物が多い。地面も石畳で、歩くたびコツコツと音がなる。周囲の店では客寄せの声が飛び交い、まだ夜がこれからなのだと思い知らされた。
ウァレたちは人目につかない路地裏を行っていた。一般人にルトスの姿を見られるわけにはいかなかったからだ。
しかし、路地裏を歩いていても不審者扱いされることだろう。ウァレは人目を特に注意しながら、ルトス先導の下、気持ちはやめに歩いていった。
しばらく歩きつづけた路地裏で、ルトスは一軒の聖騎士の宿舎を見上げて停止した。ルトスが見上げる先の部屋には、今も明りが灯っていた。
「……あの部屋か?」
ルトスは静かに首肯した。
「はい。あれがアルトの部屋なのですよ」
「……でも、何だよ。この厳重すぎる警戒は」
まるで、目の前の宿舎に要人がいるかのような厳重ぶりだった。辺りは策で覆われ、その上に有刺鉄線が幾重にも重ねられている。警備員が巡回し、宿舎はライトアップされている。
ここまでくると、彼女に会うことも困難だろう。街ですれ違っても目を合わせることすら許されないような……そんな厳重さだ。
「……で、お前はここをどう突破しろと?」
ウァレはルトスを睨みつけた。ルトスはすいすいと飛びながら、何でもない風に笑み、
「普通に玄関から入ってノックこんこんなのですよ~!!」
「それが出来たらな。でも、ここまで厳重だと……それはできないね」
ウァレはそう言って、近くの建物の陰に身を潜めた。近くに警備員が来たからだ。
「……ルトスなら、ここもなんなく突破できそうだけどね」
「そりゃもう、私、竜ですから~」
えへんと胸を張ったルトスを見上げて、ウァレはため息をついた。
彼女一人なら、空を飛んででも行けるだろう。警備員の目を盗むことも容易い。しかし、ウァレならどうだろうか。
ウァレは一目見ただけでも不審者扱いされるだろう魅力がある。その上、彼は空を飛べるわけもない。有刺鉄線を掴んででも突破するとなると、相当な勇気が必要である。彼には自虐するための勇気は持ち合わせていなかった。
「まあまあ、聖騎士は夜にしか会えないですからね~。出入り口で待ち伏せすれば、きっとそのうち――」
「彼女が起きるまで待てと? その前にこっちが凍えてしまうわ!!」
叫んだ彼の隣で、ルトスは盛大に笑った。
「まあ、まあ。冗談ですよ~。それに、大丈夫です。聖騎士は夜に公務が終わることがあるので、夜に面会をさせてもらえるのですよ~」
「ふぅん。それで、その許可は取っているのか?」
「え? 私、竜ですよ? 取れるわけないじゃないですか~」
「イラッ!!」
「まあ、それは冗談ではないので否定しませんねぇ~。多分玄関行ってノックこんこんですぐに出てきてくれるですよ~。アルト、友だちいなくて暇なのですよ~」
ルトスは友だちとは思えないことを言いながら、宿舎の入り口へと飛んで行った。彼女のあとを追いながら、ウァレは呆れたように息を吐いた。
宿舎の玄関まで案内すると、ルトスは路地裏で潜むことにした。たとえかつての親友であったとしても、アルトに会うわけにもいかなかった。
ウァレは宿舎の管理人に話を通すと、聖騎士――アルトとの面会を許された。ただし、時間は十分と限られている。それも、玄関の扉が開かれて十分である。
玄関の扉が開かれた瞬間、飛びだすように走ったウァレは、32階建の宿舎の25階部分に3分でたどり着いた。普段から体を鍛えるために、ここにはエレベータがついていないことを教えられた。
25階の8号室が彼女の部屋だった。廊下を右往左往しながら見つけた部屋の扉は、他のものとは違って古びた木製のものだった。
扉をノックすると、返事の代わりに扉が開いた。中からは黒髪を流した女性が立っていた。
すらりとした長身にはレースのワンピースが着飾られ、大人の女性を醸し出していた。指は長く、腰には1メートルほどの剣が提げられている。
「……すまない。こんな恰好で。とりあえず入るか?」
「あー……いえ、このままで結構です。アルト・レ・ラルアーゼ嬢」
アルトは怪訝そうな表情を浮かべた後、扉を開いたまま壁にもたれかかった。一つの仕草全てが洗練された動きに見えた。
「……で、私に何のようだ。私の下へ来る人物は皆、私と剣を交えたいと言ってくるのだが、貴様は違うようだな」
「へえ、何でそんなことが分かるのか、うかがってもよろしいですか?」
「剣を携えていないやつが、私に勝てるわけないだろ?」
アルトは鼻で笑った。まるで自分以外の剣士全てを見下しているような、そんな様子だった。
「いや、でもそうとは限らないんじゃないかな? きみよりも強い相手がいて、そいつが剣を持たずともきみに勝てるかもしれない」
「そのウジの湧いたバカが、貴様とでも?」
ウァレは微笑んだまま、俺は剣士じゃないですよ、と言った。
アルトはさらに怪訝そうな視線を彼に送っていた。ウァレはそろそろ本題を話そうと、咳払いをした。
「アルト嬢。実はあなたと話をしたくてですね。今日は参上したまでです」
「ほう。で、その話とやらは早く終わるのだろうな。私はこれから眠るとこなのだが」
「時間は取らせませんよ。ただ、少し……お話をしたいだけです」
会釈をして告げる彼を、冷やかな目でアルトは見下した。
「何が目的だ? 私にそう言って話しかけて奴は一人としていなかったぞ」
ウァレは必死に笑いをかみ殺した。しかし、仮面の奥の表情は分からず、外面はキツネが笑っているように見えるだけだった。
「目的だなんて、まさか。ただ、一つ確認ですよ」
「確認?」
「ええ」
ウァレは頷くと、アルトの目を見た。橙色の澄んだ眼を。
「アルト嬢。あなたはルトス、という竜をご存知ですか?」
ルトスの名前を出した瞬間、ウァレの目の前を何かが通り過ぎた。
数秒遅れて、仮面に亀裂が走った。
通り過ぎたのは剣だった。
アルトは苦しさで呻くように、肩で息をしながら彼に告げた。
「その名前を……出すな!!」
†4†
朝起きてみると、いつも隣で眠っていた彼の姿がなかった。
エミルカは慌てて飛び起きた。しかし、彼女の視線が届く範囲に彼の姿はなかった。
足が動かないので、彼女の行動範囲はとても小さい。いつもウァレの手助けを必要としていたのだが、肝心の彼がいない。彼女は息を大きく吸い、彼の名前を叫んだ。
「ウァレ――ッッ!! どこおるんじゃ!!」
しかし、返ってきたのは静寂だった。誰もいない孤独感に、彼女は不安になった。
「ウァレ……私のおらん間に何かあったんじゃ……」
エミルカは匍匐前進で移動を始めた。ベッドの隣にあった車イスに手を伸ばしたが、彼女の身長では届かなかった。手がかすり、その度に床に落ちてしまいそうになる。悔しさに、彼女は舌打ちをした。
「とど……け……っ!」
車イスのハンドリムに手が届きそうになった時、
「何やってるですか~? 全く、仕方のないやつなのですね~」
頭上から、気楽な竜の声が落ちてきた。エミルカは彼女の姿を見つけると、
「ルトス!! あんたどうやって……じゃのうて、ウァレがどこに行ったか知らん!?」
「えぇ~、私? 私があなたの彼氏のことなんて知ってるわけないですですよ~!」
「彼氏じゃないし! ただの同居人だし!! 居候だし!! って、それよりも、何で知らんのんじゃ!!」
彼女の慌てた様子に、ルトスは面白そうに笑った。
「くけけ~。本当に恋人じゃないのが不思議ですね~。なんで同じ答えなのだろうか、だろうか~」
「ええけん。ウァレを探してきてよ!! あんた、飛べるんだし」
「ウァレさん、ですか……」
急にどこか遠くを見つめ始めたルトス。エミルカは不安そうに彼女を見つめた。
「まさか……ウァレに何かあったんじゃ……」
「……はい。実は昨日、外へ出てしまいまして……」
「え……」
「そのとき、ちょっと手違いで……」
エミルカは顔を真っ青にして、届かない車イスに手を伸ばし続けた。
「ウァレ……あと、ちょっとじゃ……あとちょっとなのに……」
その時。
「ミカ!? 何やってんだよ! このバカ!!」
慌てた様子で、彼はベッドから落ちそうになったエミルカを引き起こした。エミルカは車イスに視線を向けたまま、手を伸ばし続ける。
「邪魔すんな!! ウァレが……ウァレが……っ!!」
「落ちつけ! なんだ、俺がどうかしたのか?」
「ウァレが……襲われて――っえ?」
エミルカは呆けたように、彼の顔を見た。目の前には右目以外を覆った狐面があった。
その真ん中に、横向きに穿たれた傷があったがそれ以外に傷はなさそうだ。
「ウァレ……大丈夫、なの……って、ルトス!?」
「くけけけっ!! 慌てる姿も面白いよ!!」
「この……棘トカゲめっ!!」
ぎゃーぎゃー騒ぐエミルカをあざ笑うかのように、ルトスは仮眠室中を飛び回った。エミルカは手を伸ばしたが、彼女に届くことはなかった。
ウァレは2人の様子を見て、呆れたように肩をすくませた。
「ふぅん……私を置いて、2人で?」
不機嫌そうに頬を膨らませたエミルカはウァレの仮面に付いた傷を撫でた。
「おまけに、こんな傷つけて帰ってきて……ほんまに何がしたいん」
「ごめん。ミカ起こすの悪いかなって……」
「言い訳するなっ」
エミルカが車イスをウァレの脛にぶつけた。苦痛に悶えながら、彼はその場に蹲った。
教会の礼拝堂は夜ほどの奇妙さはなかった。しかし、宗教画の中の人たちが今にも飛び出してきそうな気味の悪さだけはあった。慣れているエミルカはともかく、ウァレは慣れない空気に身震いした。
長椅子に座ったエミルカとウァレ。彼らは朝食のハムエッグを食べながら、日付が変わった直後のことを話しあっていた。
「……でもま、会ったには会ったけど……」
「どうせ、追い返されたんじゃろ。ウァレ、あんたよくその仮面付けて行ったのぉ。怪しさ倍増じゃ」
「ぐっ……」
「まーまー、お二人さん、落ち着いて話し合いですよ~!!」
「や、やめっ……近づくな!!」
楽しそうな表情を浮かべながら、ルトスがエミルカに迫る。己の棘を使って、エミルカと遊んでいるようだった。ウァレは傍観者として、ほほえましいそれを見守りながら紅茶を一口含んだ。
「くけけっ。まぁ、冗談はこれくらいにして……どうするですか~? ウァレさんの顔は覚えられちゃったとですよぉ~!!」
ルトスのことを知っている、それだけでウァレは追い出されてしまった。そうなると、ルトスだって近づけないだろう。
エミルカだけは彼女との面識がないので、面会が許されるだろう。しかし、彼女一人では何もできない。
よって、アルトとの面会は不可能に近い。面会できても、まともに話すことすら出来ないかもしれない。彼女は聖騎士なのだから。
「……ルトス、アルトさんが今、どこにいるか分からないか?」
「ええと……そーですねぇ……多分大使館辺りで警護していると思うですですけど~」
「……とりあえず、会えるかどうか、話せるかどうか分からないけど、そこに行ってみるか」
昼間の街は夜とさして変わらなかった。ただ、夜ほどの物々しさはない。明るいだけあって、街中の人も陽気な印象があった。
それでも、彼らは人に見つからないように移動をしなければならなかった。特にルトスは聖騎士の敵だ。エミルカも一部の人間からすると敵になる。
そのため、エミルカは頭のキツネ耳を隠すようにベレー帽をかぶっている。尻尾はとりあえずスカートの中に隠すことにした。
問題はルトスである。
「……昼になるとさすがに人が増えるな」
「そりゃ、街ですから~! 暇な人種ばかりがうろうろしているわけではないのですら~」
陽気に言いながら、ルトスは宙転した。
「で、あんたはどうやってその目立つ赤を隠すつもりなん? まさか、このまま突破するとか無謀なことするつもり?」
愚痴るように言いながら、エミルカはさっき買ったブルーベリーのジャムパンを頬張っている。
エミルカはそれだけでなく、屋台で売っていたテディベアのぬいぐるみを子どものように見つめていた。欲しいのかと尋ねたが、
「こ、こんな子どもみたいなの、いるわけないがな!!」
と激昂して、ウァレの足を車イスで踏みしめた。たしかに、そこに並べられたものはどれも子ども向きのよう――ハート柄のピンクのテディベアが多かったが、正直幼稚すぎてダサい――だった。大人の人口の方が多いこの街では、一つだけしか売れていなかった。
ジャムパンは、エミルカに対して失礼なことを言った罰なのだそうだ。
エミルカの口の横に付いたジャムをふき取りながら、ウァレは飛んでいるルトスを見上げた。
「そんな棘だらけじゃ服で隠すこともこともできないしね……」
「心配ご無用ですよ~! 私、こう見えて結構影薄いですから~!!」
「……その割に、周囲からの視線が痛いのは何でかな?」
自分たちの周りを見回すと、通り過ぎていく人がみんなこちらを見ていた。しかし、妙なことに赤い竜のことが見えないかのように、視線はウァレに向いているのだった。
「……どういうことだ?」
「ほら~、言ったでしょう? 私は影が薄いのですよ~!!」
「影が薄いとか……そのレベルじゃないと思うんだけど……」
「確かに、まるで棘トカゲが見えんみたい……。まあ、ウァレの格好もあれだからしょうがないか……」
「……」
自分の格好がおかしいことは、ウァレにも分かっていることなので否定しなかった。
右上部分がない狐面をかぶった青年が、巫女服(露出度高い)をき着た12~13歳ほどの少女を車イスで押しているというのは、端から見れば奇妙なものだろう。
しかし、それにしてはルトスに視線が集まらなさすぎる。
「本当に影が薄いだけなのか……?」
「むい~、しょうがないですねぇ~。ネタばれしちゃうですよ~」
ルトスはそう言って、翼をはばたかせた――瞬間。
「――え?」
「消えた……?」
ルトスの姿が消えた。
いや、よく見ると一部分がうっすらと歪んで見える。それは手の平に乗りそうなほどに小さなものだった。
「くけけ~。これですよ。私の【呪い】は~」
「……そうか、ルトスは自分を消す【呪い】の竜なのか……」
しかし、二人だけの前に姿を現した彼女は首を振った。
「いえいえ~。私はそんな便利な方たちではないですよ~」
「じゃあ、どんな【呪い】なんだ……?」
ウァレが訊くと、ルトスは小さな指を立てて、口に添えた。
「くけけ。それを他人に話す阿呆はいないのですよ~。それが竜の常識ですし~、プライバシーですし~、それを訊いちゃう方はデリカシーがないのですよ~!!」
「ほんまじゃ。何でそんなこと知ろうとするん。デリカシーのない奴」
「急に仲良くなってんじゃねぇよ。……あ」
「あ?」
ウァレの視線の先に、彼女はいた。
漆黒の髪をなびかせ、同色の甲冑を着こんで剣を携えている女性……
「発見ですですよ~」
アルト・レ・ラルアーゼは剣頭をおさえて歩いていた。
「大発見! 世界、ふっしぎだいはっけーん!!」
「狭いな、お前の世界」
とっさに隠れた並木の陰で、彼らはアルトを目で追いながら話していた。彼女にはこちらの声が届いていないらしい。
それどころか、誰も彼女に目を合わせようとしなかった。仲間の聖騎士も、彼女に近づかずに離れて行動している。彼女は仕事でも孤独だった。まるで、何かに憑かれているかのように。
ウァレは彼女の姿を見つめて、顔をしかめた。仮面の下なので、その表情はほかの二人にはばれなかった。
「にしても、どうするですか~? このままじゃ、アルトに近づけないですよ~」
「……ルトス一人なら近づけるだろうけど……それじゃあ意味ないしな」
「あー、私一人じゃ無理ですよ~」
「え?」
ルトスは二人から顔をそむけた。
「言ったじゃありませんか。私、避けられているって……」
「……でも、姿を消せるなら、彼女だって避けようがないだろ?」
「いや、そうなんですけど……」
珍しく言い淀むルトスだったが、やがて小さく言った。
「……私はニンニクが嫌いですよ……」
「お前は吸血鬼か」
「それに今関係ないじゃろうが。あの女に近づかん限りはどうすることもできんし……」
「違うです~、私は吸血鬼じゃないですよ~!!」
否定を口にしながら翼をはばたかせた。周りから見えていないにしても、彼女の声のせいでウァレたちが目立った。
「ああ、もう五月蠅い。……さて、どうやって近づくかな」
エミルカ一人で行かせるには気が引けた。彼女が行くくらいなら自分が行くところだが、彼は顔を覚えられている。だからといってルトスが会いに行くのは本末転倒……といった始末。
考え込むウァレの隣で、ルトスは翼をはばたかせながら言った。
「あ~、あ~!! 私にいい策があるですよ~!!」
「……嫌な予感しかしないけど、一応聞いておこう」
すると、ルトスは得意げに胸を張り、指を立てた。
「ふふん。私の策は完璧なのですよ~! これを聞けばかの水戸の黄門さまも頭を地面に伏すことですよ~!!」
「いいから、そういうの」
えー、と不満を零したルトスだったが、諦めた様子で肩を落とした。が、次の瞬間には元のテンションに戻っていた。
「ま~、いいですよ! いいですよ~!! 私の策はですね、つまりナンパですよ~!!」
「……は?」
「だから、ナンパですよ」
聞き間違えだと思ったが、ウァレの耳は正常だった。
ウァレはため息をついて顔をおさえた。
「……誰が、誰に?」
「そりゃあ、もちろん。ウァレさんがアルトに――って、そんなに睨まなくてもいいじゃないですか~! それに、エミルカさんも目が怖いですぅ。そんな嫉妬しなくても……」
「嫉妬じゃないわっ!!」
声を荒げた瞬間、周囲から視線を感じた。ウァレたちの周りには、いつの間にか人だかりが出来ていた。
それもそのはず。端から見れば不審者にしか見えないウァレが虚空に向かって一人、誰かに話しているように見えることだろう。それを見て、車イスに乗った見た目12~13歳の女の子が叫んでいるとなると、周りも心配になることだろう。
「なんだ? これはなんの集まりだ?」
やがて聞こえてきた声に、ウァレは身を強張らせた。
人波をかき分け、姿を現した聖騎士はウァレを見るなり顔をしかめさせた。エミルカは彼女に顔を見られないように顔をそむけた。
「……お前は……」
「ええと……このあと、お茶とかどうですか?」
次の瞬間、ウァレは剣の腹で殴られた。床に倒れる瞬間、彼はアルトの首を見ていた。
「あ、ニンニク……」
彼女の首にはニンニクが提げられていた。
――その下には、黒い刻印が覗いていた。
夜になると、礼拝堂には行きにくい。
しかし、朝と夜の礼拝は、エミルカの日課だった。それに慣れていないウァレは、夜にいることは少ない。
エミルカは夜の礼拝を終えると、すぐに仮眠室に入っていった。ベッドの上にはウァレとルトスがいた。ウァレの狐面には痛痛しい傷跡が出来ていた。
「くそ……酷い目に遭った……」
「まあ、見た目からして不審者じゃけんな」
エミルカが言うと、ウァレが彼女のほうを向いて終わった? と訊いた。エミルカは頷くと、ベッドの隣まで車イスを進ませた。
「お帰りですよ~。はぁ、今日はダメでしたね~」
「ダメって、まだ一日目だろ。まだまだこれから」
「ですね。ですけど……私、やっぱり避けられていたですね」
ルトスは無理やり笑顔を作った。彼女の笑顔を見て、ウァレは悲しくなった。
「アルトさん、確かにルトスを避けてるみたいだな。首にニンニク提げてたし……」
「何じゃ、そのバカみたいな恰好は。それじゃけん、周りから避けられとるんじゃろうが」
しかし、どれだけバカらしい格好でも、ルトス相手には効果はあった。ルトスはニンニクが苦手なのだ。
「いえいえ。アルトが周りから避けられている理由は、もっと違うですよ~」
ルトスはそう否定し、翼を広げた。
「昔から彼女と一緒に暮していれば分かるんですけどね。アルトは人と話すことがとても苦手なのですよ。だから周りから堅苦しいだとか、愛想がないだとか言われているですよ。本当は、人一倍不器用なだけなんですけどね~」
「その誤解があって、彼女は人から避けられている……と?」
ルトスは首肯し、
「はい。だから彼女と友だちになれたのは、私だけだったのですよ~」
「ルトスだけ?」
もう一度ルトスは首肯して、飛び上がった。
「……今日のとこは帰るです。大丈夫ですよ。また日付変更直後になんて来ませんから」
「当たり前だ」
くけけ、と笑いながら、ルトスは仮眠室の扉の前まで飛んで行った。
「――ま、私以外、彼女に会えませんでしたしね……」
「ルトス?」
「何でもないですよ~! では、おやすみなさいなのですです~!!」
ルトスは笑顔になって、体全体を使って扉を開き、外へと出て行った。
彼女のいなくなった仮眠室で、2人は顔を見合わせた。
「ルトス、何か隠してるよな」
「うん。でも、私たちがどうこうできるもんじゃないじゃろ。問題があるのはあの二人じゃ」
「相変わらず、冷たいな」
「ふん。前は優しいとか言っとったくせに」
嘘じゃないよ、と言いながら、ウァレはエミルカを車イスから下ろした。ベッドに寝かせると、彼女はウァレの袖を引いた。
ウァレはエミルカの頭側のベッドに腰を下ろした。
「……何であそこまで誰かを……友だちを避けれるんじゃろうな……」
「でも、きっと本心じゃないよ。本心なら、今頃ルトスは殺されてる。聖騎士は、市民の安全と国の治安の維持を守るものだから」
「……もしかしてじゃけど、それが原因なんじゃないん?」
「え……?」
エミルカはウァレの袖を引っ張ったまま、言った。
「ルトスが言っとったじゃろ。アルトは大人になってからルトスを避けるようになったって……それって、自分が聖騎士なんかになったから避けるようになったんじゃないかなって……」
「……だとしたら、何でそこまでして聖騎士になったんだよ、彼女。それだと、ルトスを避けるために聖騎士になったようなもんじゃねえか」
「……そうじゃな。私の考えすぎかも」
エミルカはそう言って、目を閉じた。
ウァレは彼女の頭を撫でて、隣に並んで横になった。
暗い教会の廊下で彼女が、唇をかみしめていたことに気づかず――。
†5†
「さーさー、二日目ですよ~!! 張り切って行きましょ~!!」
「「……」」
「あ、あれぇ~?」
府抜けたルトスの声が、ウァレとエルミカのやる気を削いでいった。
昼時をすこし過ぎたころだった。相変わらずの雑踏を避けるように、昼間でも薄暗い路地裏を進んでいた。湿気を含んだ空気が肌にへばりついて、不快感をもよおした。そのせいか、路地裏には人はいない。
路地裏から建物の隙間を縫うように表通りを見ているが、なかなか目的の聖騎士さんは見えてこない。
ルトスによると、アルトはしばらくの間大使館の周辺の警備をしているらしい。何でも、近々外交があるらしく、そのため大使館には要人が出入りするらしい。
アルトの居場所が分かれば、後はどうやって彼女と面会するかという問題になる。
「……やっぱり、直接訊くのが早いよな」
「でもですね~、アルトは答えてくれないですよ~。それに、それが訊けたら苦労しませんよ~」
ルトスは翼をはばたかせながら、疲れた口調で言った。
「アルトは頑固なんですよ。だから誰かが心配しても正直に受け止めなかったりしますしぃ、私でも彼女の言うことを曲げることなんてできないのですよ~。多分、上司が相手でも変わらないでしょうね……」
「じゃあ、どうするの? 頑固でも口を割らせんと理由なんか分からんし……」
車イスの上で渋面を作るエミルカ。車イスを押しながら、ウァレは彼女を見下ろした。
「理由は分からないけど、まあ、原因は分かるかな」
「えぇ~! なんですか、それ!?」
教えてくださいよぉ~、と近づいてきたルトスから逃れるように、ウァレは一歩下がった。
「そのぐらい分かるんじゃないかな?」
「うんうん。私にだって分かっとるんじゃけん、分かるじゃろ。原因が誰にあるのか。鏡でも見てみりゃええんじゃ」
「それってもしかして、私に原因があるって言いたいですかぁっ~っ!?」
真っ赤な体を激しく揺らしながら、ルトスは怒りを表現した。しかし、その表情はどこか楽しそうに見えた。
やがて、ルトスは前を向くと、先のほうへ飛んで行った。ウァレは彼女を追うように車イスを押した。
「まあ、万が一私に原因があったとしてもですよ~。その時は素直に謝るです。そのために依頼したのですよ~。だから……」
振り返ったルトスは、いつもの軽い調子ではなく、真面目くさった表情をしていた。
「最後まで、お願いします。私を助けてください、ウァレさん、エミルカさん」
「……当たり前じゃ」
エミルカは迷わずそう言って、首から下げた十字架を握った。
「私は願われた。請われた。なら、それが誰のものでも助けちゃるし、叶えちゃる。それが私じゃけん。この出会いが主のお導きによるものなら、私はそれを祝福する……その祝福を、いま救いを求めし迷える子羊へ」
やがて瞑目したエミルカは、さらに続ける。
「私とルトスの出会いは、運命線上の決まった出来事。でも、この出会いは数億、数兆分の一の確率のうちの奇跡の出会い。主が作りし『縁』が招いた偶然の産物。そして、私は願われて今ここにいる。それはもちろん、あんたのためじゃ、ルトス」
ルトスは、頭を垂れた。
「はい。主の遣いにして竜と人間を繋ぎし者――【猫ノ狐】。あなたに出会えたことは奇跡であり、私は願った者。どうか、私と彼女を救ってください」
目を開けたエミルカは、微笑んで彼女を見つめた。
そして、自分の手を見つめた。まるで、彼女を触れないことが残念であるかのように。
「……さ、行こう。さっさとこの依頼、終わらせちゃる」
「えぇ~、それじゃあまるで、私と会いたくないみたいじゃないですかぁ~」
「否定はせん」
「ええ~!?」
前を向いたエミルカは、ウァレの袖を引っ張って前に進むように合図する。馬のようにあしらわれた気持ちになりながらも彼は歩を進めた。
少し進むと、表通りに大使館があるのが見えた。目的の人物の姿はないが、この近くにいることは確かだった。ウァレは表通りへ向けて進路を変えた。
表通りには人が少なかった。大使館付近が物々しい雰囲気に包まれているせいだ。
飛ぶカラスをも撃ち落としそうなほどの物々しさに、ウァレは身震いした。
「……で、どうする?」
「アルトは……あ、いた!」
ルトスが小さな指を指した先に、彼女はいた。大使館から数メートル離れたところだ。しかし、そこはウァレたちのいるところから反対側だった。そこへ行くには大きく迂回しなければならない。
「でも、近づいても彼女と接触しないと意味ないな……」
ウァレはそう言って、迂回する進路をとった。歩きながらアルトと接触する方法を考えることにしたのだ。
「じゃけど、ついに私も顔を覚えられたしな……こうなったら、今度こそ強行突破しかないような気が……」
「それならそれで、会った後のことを考えないとな。ただ会っても意味なさそうだし……」
ウァレは顎に手をやりながら考えた。
「話し合いは無理だろうから、その前に彼女の興味のある物で釣るとか、逆に興味を起こさせるか、だな。ルトス、アルトさんの趣味とかは知らないのか?」
ルトスはウァレの前を後ろ向きで飛びながら、腕を組んだ。やがて何かを思いついたかのように手を打つと、宙転した。
「ぬいぐるみっ!!」
「……ぬ、ぬいぐるみ?」
ルトスは大仰に頷き、
「アルトは、くまのぬいぐるみが好きなのですよ~っ!!」
ルトスの言葉は完全には信用できなかったが、今は蜘蛛の糸でも何でもすがりたい気分だった。
厳格な聖騎士としては意外な趣味を持っていたアルトに向けて、ウァレは表通りにあったホビー店でくまのぬいぐるみを買った。青のチェック柄のぬいぐるみだった。
店員の痛い視線をかいくぐりながら、ウァレは再び路地裏へと戻っていった。その間、街を歩く人たちから奇異の視線を浴び続け、仮面の下で赤面していた。
路地裏へと戻ると、車イスに乗った少女が腹をおさえて笑っているのが見えた。
「に、似合っとる、よ……うん……あははははっ」
「くけけっ! 似合ってます、似合ってますよ~!!」
「心にもないお世辞をどうも!!」
手に持ったくまのぬいぐるみを叩きつけたい衝動を必死に抑えながら、ウァレはエミルカの背後に回った。車イスのブレーキを外し、再び歩き始めた。
人通りのない路地裏は歩くだけで陰気じみてくるが、教会の中よりは宗教画による監視がない分、楽だった。人どおりに慣れていないエミルカも、路地裏のほうが落ち着くらしい。
上から偵察をしながら前へ進んでいたルトスは、アルトの後ろ姿を見つけ、息を呑んだ。ウァレは彼女の姿を確認すると、手に持ったくまのぬいぐるみをルトスにつきだした。
「え……あの、これは……」
「ルトス、きみが行くんだ」
「でも、私はアルトに避けられていて……」
「その原因を作ったのは、自分かもしれないって言ってただろ。なら、これを使って話を始めればいいんだ。そのあとは、きみ自身がなんとかしろ」
ルトスは棘だらけの体でくまのぬいぐるみを受け取った。彼女の身長の何倍もあったが、なんとか飛んでいる。ルトスは戸惑うように虚空に視線をさまよわせた後、よし、と自分を叱咤した。
「……やってみるです。確かに、ニンニクは嫌いですが……我慢するですっ!!」
勢いづいて、ルトスは翼をはばたかさせた。
「それに……私だって、彼女と話をしたいですから……彼女の声を、聞いていたいですから……」
そう言って、ルトスは表通りへと消えていった。その姿はもうウァレたちには見えない。
「……ルトスが本気なら、彼女に話しかけるじゃろ。でも、向こうがその気じゃなかったときは……」
エミルカが心配そうに見つめた通りの先で、突如、アルトが虚空に向かって話を始めた。きっとそこにはルトスの姿があるのだろう。くまのぬいぐるみも見事に消えていた。
まるで虚空に話しかけているかのような違和感は、周りの聖騎士たちにも伝播していったらしく、徐々に彼女の下へ視線が集まっていた。しかし、誰一人として彼女に近づこうとする者はいない。
ウァレは眉を顰めさせ、彼女の動向を見つめていた。明らかに、様子がおかしい。
彼女が叫びをあげたのはその時だった。
叫びとともに、剣を抜き、目の前の虚空へと振り上げている。
「っ! ルトス……失敗したか!?」
「ウァレ! 行くんじゃ!!」
エミルカがそう叫ぶ前に、ウァレは車イスをおして飛びだしていた。突如現れた珍妙な二人に、周囲はあっけにとられた視線を向けてきた。
ウァレは車イスを飛び越え、アルトの首目がけて手刀をはなった。しかし、それは受け止められてしまう。数瞬遅れてウァレの後ろで剣を抜きはなった聖騎士に、アルトは手を出して納刀するよう合図した。
「……なんだ、貴様か」
「そうですが、一体、どういうつもりですか? ルトスを追い払って……あなたは何がしたい?」
アルトが一歩後ろへ下がったのを、ウァレは見逃さなかった。
「……それよりも、貴様たちは一体何者だ?」
「初めまして、アルト・レ・ラルアーゼ。私はエミルカ・トゥバンよ。そして、私はあんたが赦せない!!」
「俺はウァレ・フォール・エルタニル。さあ、話を聞かせてくれませんか?」
「待て、お前たち。こんなところで騒ぎを起こしたくないだろう?」
ウァレは辺りの様子に耳を傾けた。今まで建物の中にこもっていた人が出てきていた。それだけならまだしも、聖騎士や警備員までもが近づいてきていた。
ウァレは舌打ちして一歩下がった。アルトに握られた手首が酷く痛んだ。
「はぁ……できれば騒ぎは起こしたくないのだがな」
「騒ぎを起こさせた原因はあんたじゃ! あんたはルトスと友だちだったんじゃろうが!!」
アルトはルトスという言葉に反応し、剣頭をおさえた。
「その名前を、出すな……っ!」
そう言って、アルトは激昂するエミルカを無視して身をひるがえした。その時、黒甲冑から何かが落ちた。
ウァレはそれを拾い、首をかしげた。
「……ああ、なるほど」
ウァレは頷くと、それを……その領収書をくしゃくしゃに握りつぶしてポケットに入れた。
「だから彼女は……」
しかし、アルトの姿は遠くに行っていた。
そして、彼女との仲直りを望んでいた小さな竜の姿も――。
†6†
何で嫌われたのかが分からなかった。
ただ、私は相手をしてほしかっただけなのに……。
大人になった瞬間、彼女は変わってしまったのだ。
まるで、自分と過ごした日々が嘘だったかのように、彼女は変わってしまった。
寂しかった。
彼女と出会う前に戻ったようで、スゴく寂しかった。
彼女も同じ思いを抱いていたはずなのに、まるで忘れてしまったかのようだった。
昔、一緒に眠ったことを覚えていないのかな。
昔、一緒の暗闇で泣いたことを覚えていないのかな。
昔、一緒に遊んだことを覚えていないのかな。
昔……昔……昔……――――
私はいまも覚えているのに、何で覚えていないの?
なんで人間は、すぐに忘れてしまうのかな?
分からない……分からないよ……。
だって、私は……
私は――
「ほんまに腹立つっ!!」
車イスの少女は苛立たしげに机を叩いた。彼女の隣に座ったウァレは、彼女を宥めることを諦めて外を眺めていた。
場所は街はずれの喫茶店だ。ここへ来る者はほとんどいなかったが、不思議なことに、その僅かな者には共通点があった。
その全員が竜に関わった人物だという、共通点が。
アルトと出会った後、ウァレはルトスを探したのだが、彼女は見つからなかった。消えてしまえる【呪い】をもつ彼女を見つけることはほぼ不可能だった。
ウァレは運ばれてきたコーヒーを飲みながら、少し考えていた。
「……ウァレ? なんじゃ、また難しい顔して……」
エミルカはウァレのコーヒーと同じように運ばれてきたブルーベリーパフェにスプーンを突っ込みながら言った。
「……なあ、ミカ。大人になることで、変わることって何だろうな」
「はぁ?」
呆れたように息をつきながら、エミルカは頭を掻いた。
「大人になって変わるものなんか、私に分かるわけないじゃろうが」
「まあ、それもそうなんだけど……きっと、彼女は変わったんだ。大人になって、聖騎士になることで、変わった思いが……いや、変えないといけない思いがあったんだ」
「? ウァレは何を言って――」
「さて、もうそろそろかな」
ウァレがそう言った直後、チリンと乾いた音を鳴らして扉が開いた。
扉を開けたのは、黒髪の女性だった。しかし、その格好は普段着にしては奇妙なものだった。まるで、昼間に出会った聖騎士のような黒甲冑姿だったのだ。
「――っ! なんで、貴様たちがここにいる?」
「あはは。偶然ですね、アルト嬢」
訝しげな視線を向けた女性――アルトに、ウァレは微笑んで見せた。しかし、それは仮面に隠れてしまっていた。狐面は相変わらずの笑みを浮かべている。
「まあ、こちらに座ってください。ゆっくり話し合いましょう」
アルトは嫌そうな表情を隠そうともせずに、ゆっくりウァレの正面に座った。少ししてやってきた店員にコーヒーを頼むと、改めて姿勢を正した。
「……で、貴様たちの目的はなんだ?」
「目的、ですか……それはうすうす気づいているんではないでしょうか?」
「……さあ、私には分からないな。ただ、私を聖騎士の座から蹴落としたいのかとも思えるようなことばかりをする。全く、貴様たちは何がしたい?」
「……私たちは頼られただけじゃ。依頼人の話もせんし、その依頼内容も秘密にする」
「だが、その依頼とやらのためには、人様に迷惑をかけてもいいと?」
「違いますよ」
否定しながら、ウァレは目を細めた。
「迷惑をかけるのはあなただけです。あなたには本当のことを彼女に話してもらわなければ」
「なんの話だ?」
「ルトスのことですよ」
その言葉を発した瞬間、ウァレの首筋に剣が添えられていた。
「その名前を、出すなと言わなかったか?」
「そうやって、嘘をつきつづけるのも疲れませんか?」
「嘘? フフフ。私が何に嘘をついているというのだ!?」
「自分にですよ」
ウァレは冷静に続けた。
「あなたはルトスの名前を出すたびにそうやって剣を向けてきましたが、その剣術があれば、あの棘トカゲ如き、殺すのも容易いでしょう。でもそうしない。それは友だちだからでしょう?
その上、あなたはわざわざ首にニンニクを提げてまでして彼女を避けようとしていた。そんな面倒なことしなくても、あなたなら彼女を殺せるだけの技量はあるはずですよ?
もちろん、俺たちを殺すのにも。ルトスの名前を聞きたくないのであれば、俺たちみたいな、身元も知れない不審者なんて殺してしまえばいいのです。適当な言いがかりをつけることくらい、聖騎士ならば容易いでしょう」
「……」
反論をしてこないアルトを笑いながら、ウァレはさらに続ける。
「その上、あなたはまるでルトスを避けるために聖騎士になったようだ。彼女を殺す、正当な理由が欲しかったから聖騎士になった? でも、それは本心ではありませんね。むしろ逆……つまり、彼女が自分に近づかないようにするために聖騎士になった。聖騎士は竜を殺す正当な理由を持っていますから」
「そっか……国家防衛じゃな」
エミルカに笑いかける。
「そうそう。人間たちが思っている竜は、退治するべきドラゴンとしての印象が大きい。聖騎士は彼らを殺す正当な理由だ。まあ、竜の数なんてたかが知れてるから、退治することもないでしょうけど。それでも、竜からすると脅威に違いはない。ルトスだって、それを分かっているはず。だからあなたは聖騎士になった」
「……貴様は何が言いたい?」
アルトは呆れたようにため息をついた。
「私が聖騎士になったことはどうでもいいだろ? そんなの、たまたま父親が聖騎士だったから、ということだってあり得るのだからね。まあ、私にはちゃんとした理由があるのだが……それは話さないでおこう。それよりも、なぜたかが一匹の竜のために、私は聖騎士にならなければいけなかったのだ? 竜と一緒にいることで、私に何か不都合でもあるのか?」
「ありますよ。第一に、あなたのポリシーに反するからです」
そう言って、ウァレは机の上に一枚の紙を出した。それを見た瞬間、アルトは羞恥に顔を赤く染めた。
「なっ! そ、そそそそそれを!! どどどどどこでっ!?」
ウァレは仮面の下でにやりと笑いながら、エミルカに紙を見せた。
その紙は領収書だった。昼間、アルトが落としたものだ。
エミルカはその紙を見た瞬間、声に出して笑った。
「あははははっ!! 聖騎士って厳格でめんどい印象あったけど……可愛いとこあるんじゃな」
「か、返せっ!!」
エミルカから奪い取った領収書には、テディベアの屋台の名前が入っていた。
その名前は、エミルカが数日前に欲しいといったものと同じ店だった。おそらく、あの時一つだけ売れていたのは、アルトが買ったものなのだろう。ハート柄のピンクのダサいテディベアを。
ウァレは仮面の下でニヤニヤしながらエミルカの頭を撫でた。少女は自分が買えなかった悔しさに、涙を滲ませていた。
「ってまあ、つまりはあなたは聖騎士でありながら可愛いものが好きだという――」
「うわああああぁぁぁぁ!! 分かった! 分かったからぁぁぁあぁっ!!」
「――自分の嗜好が許せなかったんでしょ?」
「そうだよ!! 私は、聖騎士というかっこいい職業に就いているくせに、可愛いものがとんでもなく好きなんだよぉぉぉ!! 悪いかぁぁぁあぁっ!?」
「いや……悪くはないけど……え、まさか聖騎士に就いたのって……」
「そうだよっ!! かっこいいからだよぉぉぉ!!」
ウァレは呆れて声すら出せなかった。自分の推理は間違っていたが、その事実はあまりにもくだらなさすぎた。
「うぐっ……だって、かっこいいじゃん……父親が聖騎士だったんだよ……でも、あのボンクラじじいはいっつもいっつも酒をかっくらって私を殴って……挙句の果てに自分の家の倉庫に娘を閉じ込めたんだよ!? 油まみれでいっつも不味い飯を食わされてきたこの気持ち、分かるかっ!?」
「あ、いや……」
「だからあのボンクラじじいにこれが聖騎士だ! って姿を見せつけてやったんだ。そしたらあいつ、すぐに引退しやがって、あとの人生は私の給料からかっぴいて暮らすって言いだしたんだっ!? そんな親父があるかっ!! だから不正を正してやった。あいつの過去を洗いざらい晒してやって、泣いてこびてきたあいつの顔面を殴ってやって、それでも立ちやがるから、次は立てないほど精神を崩壊させてやったんだっ!! フフフッ。あいつの泣き顔が今も脳裏から離れないね」
楽しそうに悪代官を務めるアルトを呆れた表情で見つめると、ウァレはコーヒーを飲んだ。
「精神を崩壊させたあいつは今、牢獄の中で私に怯える日々!! まぁ、それが正しい暮らしなのだろうな、あの豚には。豚には豚箱がお似合いなんだよ! これで私に逆らえられない日々の幕開けだ! あとは解体を待つだけなんだ、あの豚は。酒におぼれた豚の肉は、あまり美味しくなさそうだけどな。あと、その肉には私というストレスが溜まりにたまって……」
「いや、もういいですから」
飲み終わったコーヒーを置くと、ウァレは言った。アルトは昼間と同じ人物とは思えないほどのことをまくしたてると、ふぅと息を吐いた。その時、彼女の下へコーヒーが運ばれてきたので、ウァレももう一杯頂くことにした。
「はふぅ……ここまで正直なことを話したのは久々だ。感謝する」
「勝手に話したのはそっちじゃろうが……」
エミルカは小さく呟きながら、ブルーベリーパフェを一口食べた。幸せそうな顔をするたび、ウァレの頬が緩んだ。
「……で、ウァレ。第一にってことは、もう一つあるんじゃろ?」
「うん。もちろん」
ウァレは正面のアルトを見つめながら、落ち着いた口調で言った。
「第二に、ルトスの【呪い】を知ったから――」
「それって……姿が消えるってやつじゃ……」
ウァレは首を振った。正面ではアルトが訝しげな視線を彼に向けていた。
「……ルトスが話したのか?」
「まさか。それを訊くのは、彼女に対して失礼だと教わっただけだよ」
アルトはコーヒーを一口含んだ。
「……ルトスの【呪い】は姿を消すことじゃない。それは、本来の【呪い】に対して付随してくるものだ」
「付随?」
眉を顰めさせて、エミルカはよく分かってない風に首を傾げた。
「じゃあ、どんな【呪い】があって、それが……姿を消すということが付随するんじゃ」
「ミカ、気付かなかったか? アルトさんの周囲に人がいなかったことに。そして、彼女はまるでそれが当たり前だと思っているような違和感に」
「……違和感はなかったような気はするけど……じゃけど、確かに周りに誰もおらんかったな。誰も目を合わそうとせんかったし……同じ聖騎士でも、まるで仲間じゃないみたいだった」
「それがルトスの【呪い】だよ」
エミルカは分かっていない様子だった。しかし、正面に座ったアルトはもう理解しているらしく、肩をすくませた。
ウァレはもったいぶることもせず、淡々と告げた。
「ルトスの【呪い】は――孤独を感じさせなくする呪い、だよ」
「孤独を感じさせなくするって……じゃあ、姿を消したのは……」
ウァレは首肯して言った。
「孤独を感じさせなくする……用は、呪った者に誰も近づけさせなくするんだ。その延長として、姿を消して誰にも気づかせなくする。それが彼女の【呪い】だよ」
今度はアルトを見ながら、
「そして、彼女はルトスに呪われている。周囲から遠ざかられているにもかかわらず、彼女は孤独を感じない。それに、周囲だって積極的に彼女に関わろうとしない。
そして、そのことにルトスは気付いていない。
気づいていないルトスは彼女に近づこうとした。けれど、それは却って彼女のためにならない。彼女を呪うだけなんだ。
ルトスがその事実に気付くまで、アルトさん。あなたは逃げ続けるつもりですか? そうやって、彼女に事実を話さないまま、彼女を苦しめるつもりですか?」
「違うっ……私はそんなことがしたいわけじゃないッッ!!」
バンッと、机を強く叩いてアルトは立ちあがった。
「私は、あいつが……ルトスが自分のせいだと気負うのを見ていられないだけなんだ!! 彼女を苦しめているのは分かる……でも、もう私は呪われてしまったんだ。それを今更変えることはできない。この呪いは、彼女を避けてきた3年間、ずっと憑いてきた。だからもう無理だ。なら、彼女を自分から遠ざけるしかないじゃないか!!」
「……」
「見ろ。ここに呪われた証拠がある。これが、あいつの呪いだ!!」
アルトは叫びながら首元を見せた。そこには黒い刻印が――竜の【呪い】が刻まれていた。
「ルトスは親友だっ!! だがな……大人になると色々見えてくるものがあるんだよ……。いつまでも他人のせいにするわけにはいかないんだ、この世界はっ!! 私は、この呪いのせいで友だちができなかったわけじゃないことを証明しなければならないんだ!!」
「だからルトスと離れた? でも、あなたには無理ですよ。あなたには一生、友だちなんて出来やしない」
「何でだ!? 私の何が悪い!? どうすれば私は……私は、彼女と友だちを続けられるんだ……。彼女のせいで友だちが出来ないわけじゃないって、どう証明すればいいんだ……?」
力なく座ったアルトの頬に、うっすら涙が滲んでいた。
「どうすれば、ルトスのせいじゃないと証明できる? どうすれば、私は彼女と友だちであり続けられるんだ。どうすれば彼女の声を聞きつづけられる……?」
「じゃあ、まずはルトスと友だちになることじゃろ」
「……あなたは何を言っているんだ……? 私は、彼女が悲しむのを見たくないと言っているんだ!! 彼女のせいで友だちが出来なかったわけじゃないことを証明しないといけないんだ……」
エミルカはパフェをつついていた手を止め、スプーンをアルトの頭めがけて投げつけた。
「痛っ……」
「何言うとるんじゃ。それで友だち作ったら、それこそルトスのせいで友だちが出来なかったって証明されるじゃろうが。落ち着いて考えてみい、バーカ」
「え……あれ……ん……?」
「本気で分かっとらんのんか、このバカは……」
エミルカは腕を組んだ。
「じゃけん、ルトスがおらん時に友だちなんか作ったら、彼女がおらんかったせいで友だちが作れんかったってことになるじゃろうが。ちゃんと考えろ」
「でも……私は呪われて……」
「その呪いも、ルトスがおろうがおらまいが関係ない。呪われたのはあんたじゃしな、タルト」
「アルトです」
「ずいぶんうまそうな名前だな」
そう突っ込んだウァレの頭を、エミルカははたいた。
「う、うっさい! わざとじゃ、わざと!!」
「……エミルカさんの言っていることは分かりました。ですが、私は結局、ルトスがいなくても友だちが出来なかった……」
「だから、それは呪われとるけん――」
「違うんですよ、気分です」
アルトは弱弱しく笑って、コーヒーをかき混ぜた。
「私は、結局、ルトスの力なしでは友だちなんてできないんです。いや、違う……ルトスがいなかったとしても、私には友だちが作れなかった。だって、私は誰かに話しかけることすらできなかったから」
「……あんたは友だちが欲しいのか?」
アルトは首を傾げて、
「……どうでしょう。やはり、私には孤独というものが分からないみたいです。でも――」
コーヒーに砂糖を落としながら、
「ルトスと話したい。昔みたいに、夜遅くまでずっと。彼女の声を聞いていたい。それに、今は邪魔をしてくる父親もいませんしね。今なら眠ってしまうまで、何日何週何年でも、話し続けられると思います」
「……そ」
「それに友だちがいたら、彼女に紹介できるのでしょうか。そうすれば、彼女が自分の【呪い】について知った時、自分を責めなくて済むのでしょうか」
「……それなら簡単よ」
エミルカは短く言って、ウァレの袖を引っ張った。彼女を隣で眺めていたウァレは、懐から一冊のノートを手渡した。ノートには五色――黒、赤、青、黄、緑の五色――の付箋が貼られていた。彼女は、付箋の貼られていない無地の部分を開き、アルトに手渡した。
「……これは?」
「これは縁帳。まあ、私が個人的につけてる対客日誌みたいなものかな?」
そのノート……縁帳には、幾つもの名前が書かれていた。そして、全てのページに五色の付箋が貼られていた。その意味は分からないが、アルトにしてみればどうでもいい話だった。
「……ここに名前を書いて。そうすれば、あんたはここに書いた奴、みんなと友だちじゃ」
「友だち……」
アルトはその言葉に導かれるように、エミルカから渡された鉛筆を持った。
縁帳に名前を書こうと、アルトが鉛筆を押し付けた――その時。
――グオオオオォォオオォォォォオォッッ!!!
「な、何だ!?」
地鳴りがするほどの大きな声が聞こえ、ウァレはとっさにエミルカを見た。エミルカは耳をピンと立てて辺りの様子を窺っている。
「……不味いことが起きた」
エミルカは冷や汗を流しながら、ウァレを見上げた。
「――【呪い】の暴走じゃ」
グオオオォォオオォォ……っという咆哮が、もう一度聞こえた。
†7†
私と彼女は似た者同士だった。
だから、私は彼女と一緒にいた。
友だちになった。
一緒に眠った。
一緒に怒られた。
一緒に泣いた。
暗い世界しか知らなかった私たちは、お互いの光を知ることが出来た。
彼女のおかげだった。
彼女の笑顔を見るだけで、私はひどく励まされた。
彼女といるだけで、私は幸せだった。
彼女といることで、私は孤独を紛らわせた。
なのに……。
彼女は……。
大人になって、どうして――。
ウァレたちは変わり果てた街の姿を見て、ため息をついた。
建物が壊れたわけではない。
しかし、その中にいる人々が変わったのだ。
彼らは何かを求めるようにさ迷っていた。それはまるで、孤独を埋めようとしているかのようだった。
「ルトス……何で暴走したんじゃっ!!」
エミルカが怒りを露わにし、肘かけを叩いた。彼女には怒っているというよりも、落胆のほうが大きかった。
「まあ、理由の大半は分かるけどね」
ウァレたちが進む先には大使館がある。そこを中心にして、暴走したルトスはその【呪い】の勢力を拡大していっている。
暴走したルトスの【呪い】は今や変化を遂げていた。さらに強力に、さらに広範囲に、【呪い】は変化を続ける。
今のところルトスの【呪い】は、孤独を感じないあまり、他人のことを考えられなくなる、というものになっていた。つまり彼らは今、誰に何をしてもいいと思っている。
「大変だ! 今、大使館には世界中の要人がいるんだ」
「なぜ今、その情報を!?」
「ちなみに、明日外交が開かれる予定だった。だから、大使館の周りの聖騎士、警備員たちはみんなある程度以上の武装をしている!!」
「だから、なんで今その情報なの!? 遅いよ!!」
武装した聖騎士、警備員がいるならば、彼らは人を殺してもおかしくない。しかも、それを止めるすべをウァレたちは持っていないのだった。
いや、一つだけある。しかし、それは最悪の方法――。
ウァレは下唇を噛んだ。
ルトスが暴走することは想定外だった。彼女のあの元気さなら、アルトに相手にされるまでずっと追い続けると思ったからだ。だが――
「もっと早く気付くべきだったな……」
「なにを?」
「ルトスは、一日目にダメだったからって嘆いてただろ? 彼女にとっては、あの日がミリットだったんだ!!」
「メンタル弱すぎ!! まったく……ほんまに迷惑掛けやがって!!」
「そうでもないだろ。彼女はアルトに避けられてから三年間、ずっと寄り添おうとした。でも、無理だった。今日何を言われたかは分からないが、それでもう……」
「私のせいだ。彼女に酷いことを言った……」
「……ま、訊かないでおくよ」
その時、正面にいた人が壁を成した。まるで、その先へ進ませないようにしているかのようだった。
「っち……一旦裏に回るぞ!」
ウァレは人壁を避けるように、路地裏へ回った。幸い、人の姿はなかった。しかし、その静かな光景すら罠に見えてきてしまう。
「……ミカ、人の気配はあるか?」
「ない。でも……おかしい、この【呪い】」
「ああ。まるで、俺たちを追っているみたいだ」
しかし、それすら違うことを、ウァレは悟っていた。
「……やはり、私か……」
ウァレは肯定も否定もせず、無言に走っていた。
昼間に路地裏を歩いていたおかげで、大使館までの道は覚えていた。迷うことなく走り続ける彼らの前に人壁が現れたのは、大使館が見えるほど近くなった時だった。道を塞ぐように、彼らはこちらへ向かって歩いて来る。彼らの中には鉈や銃などの武器を持っている者もいる。
心配していたことが、目の前で起きていた。
重武装のした聖騎士の波が、彼らの前で抜刀して立っていた。近づけば攻撃されることは間違いない。
「どうすれば……」
「彼らを傷つけることはできない。彼らは味方だからな」
「今は敵になってるけどね」
目の前の人壁は時間が経つごとに増え、そして近づいてきている。ウァレたちはその向こうにある大使館に行かなければならないので、彼らをどうにかしなければならなかった。
制圧することはほぼ不可能だった。事実上ツんでいた。
「……ミカ」
「……」
エルミカは首から提げた十字架を握りしめ、瞑目している。耳をピンと立て、尻尾をゆらゆらと動かしている。
ふいに、背後から足音がした。振り返ると、そこにも人の壁が出来ていた。
「っ……囲まれたっ!」
「……しょうがない。ウァレ、祈れ!」
「……」
ウァレは静かに仮面を外した。
その中から現れた姿に、アルトは身を強張らせた。
ウァレの仮面に隠された右上以外の部分が、焼けただれていたのだ。無くなった左目は窪み落ち、口からは血が流れている。額には、十字架のような模様さえあった。
否。それは十字架を掘るようにしてただれていたのだ。
ウァレはその額の十字架に触れながら、呪いの言葉を発した。
同じように、エミルカは首から提げた十字架を握りながら、祝福の言葉を発した。
「――至誠なる主の言葉
我は≪魔≫なりて――」
「――純心なるは言の葉
ただ、≪童≫へと還りし者――」
「「――――【魔童】――――ッッ!!」」
次の瞬間、彼らは人ではなくなった。
仮面の青年――ウァレのの耳は鋭くなり、悪魔のような牙を生やした。全身には黒い刻印を這わせ、それが脈打つたび、黒い霧のようなものを纏わせた彼の姿がかすんだ。
車イスの少女――エミルカは尻尾が二つになり、耳が成長していた。頬からは針金のようなヒゲが生え、目は赤く光っている。
エミルカは赤く光る目でアルトを睨み、威圧感のある声で言った。
「アルトっ!! お前の願いを叶えちゃる。だけど……その願い、全ては叶わない」
「え……」
アルトが呆けたような声を発した瞬間だった。
ウァレの右腕に刻印が集まり、目の前で立ちはだかる人波へと向かって走って行った。人にまとわりついたウァレの刻印は、黒く脈動し、彼らに付いたルトスの【呪い】を呑みこんだ。
そして、彼らにかかった呪いは0へと還った。
目の前にあった人壁は崩れ、呪いから解放された人間たちはその場に倒れていった。
「……じゃ、行こう。寂しがりやの下へ」
そして、エミルカはハンドリムを回して大使館へと向かって進んでいった。
独りなんだと、理解したときには遅かった。
みんなにかけた【呪い】が体を蝕んだ。
周りには誰もいなかった。
この苦しみを分け合うことすらできなかった。
それは、私が悪かったのだろうか。
忘れられてしまった、私が悪いのだろうか。
友だちとしてあり続けられなかったことが悪かったのだろうか。
違う。
違う! 違う!!
「私は……忘れられてなんかないですよ!! だって……私が嫌いなもの覚えててくれてたじゃん……だから、私は……忘れられてなんかないですよ……」
「そうだよ。きみは忘れられてなんかいない」
その声がどこから聞こえてきたのか分からなかった。
「だから、何でもかんでも呪うのはやめろ! 俺が変えてやる。俺がお前の【呪い】を変えてやる!!」
ただ、その声はどこか懐かしくて……優しかった。
「だったら、変えて見せてよ……私の哀しい哀しい【呪い】を……あなたが変えて見せてよっ!!」
私は何を言えばいいのか分からなかった。でも、自分の望むものは分かっていた。
「こんな呪い……いらないよ……なんで私は竜なの? なんであなたは人間なの……なんで私たちは相入れられないの?」
ただただ、私は自分が嫌いだった。自分の【呪い】が……。
「ルトス……私はきみと話したかったんだ。でも、できなかった……私が弱かったせいで、きみと話すことが出来なかった。きみを避けてきた。でも、本当は話したかったんだ!!」
嘘。 嘘嘘嘘嘘嘘嘘ッ!!
「私は独りだよ……今までも、これからも……こんな【呪い】を持つ私なんて……」
その時、私は懐かしい温もりを感じて――目を覚ました。
大使館の一室のことである。
大理石を使った、高級そうな柱には、血がついていた。高級そうな絨毯にも、そして白磁の壁にも。
彼女は友を抱いて、血を流していた。痛みに顔をゆがませながらも、彼女は決して友を放そうとはしなかった。
「大丈夫、だから……私が……いる……から……」
「……え?」
目を覚ましたルトスは、温かみから逃げるように身をよじらせた。しかし、そうすることでさらにアルトの傷が深くなると気づき、大人しくなった。
「……もう。何やってるのよ、バカ」
「バカなんて言わないで……必死だったんだから。ルトスが……自分を追い詰めるんじゃないかって、ずっと悩んでたんだから……」
「そんなわけないじゃん。だって、私は竜だもん。自分がどんな【呪い】を持ってるかなんて分かってたもん……それでも、アルトと友だちになりたかったの……たとえそれで、あんたがどれほど傷ついても」
「酷いね。我慢してきた私がバカみたいじゃない。そんなことなら聖騎士なんてなるんじゃなかったわ」
「でも、あの嫌な奴は追いだせたでしょ」
「そうね。あなたのおかげかもしれないね。あなたがいてくれたおかげで、私は今もこうして生きてるから……だから……」
「……ッ」
「あなたがいてくれないと……ぐすっ……寂しいよぉ……!!」
アルトは、親友を強く抱きしめた。棘が体中に刺さっても、気にならなかった。ルトスがその痛みにずっと耐えていたように、自分だってその痛みに耐えられるはずなんだ。
ルトスは顔を上げて、アルトを見つめた。血に汚れた彼女の目から、涙があふれていた。
「ごめんなさい……避けてきて……あなたが嫌いになったわけじゃないのに……ずっと、あなたの気持ちを考えてあげられなかった……ごめんなさい……」
「やめて……謝らないで! 私があなたを呪って、傷つけたのっ!! だから……」
「それでもいいの。私は、あなたと一緒に……このままずっと友だちでいたいから――」
「私で……いいの? 竜だよ? 呪われるよ……?」
「それでもいいから! だから……だから……」
彼女の嗚咽が聞こえ、ルトスの目にも涙があふれてきた。
「いいの……いいん、だよね……」
「これからも一緒だよ。友だちだから……とも、だ……ちだ…………」
声が聞こえなくなった。
でも、もう声は必要なかった。
「ただいま……ただ……い……」
――声なんて、いらなかった。
†8†
「……」
ウァレはそれを見下ろして、車イスを押した。彼の顔にはお面がつけられている。
大使館を出ると、いつか見た夜の風景が広がっていた。屋台がたちならび、雑踏に喧騒が漂っている。あちこちで売り文句が飛び交い、酒に酔ったおっさんが女に手を出して殴られている。
彼らに見られないように、ウァレたちはやはり路地裏を歩いていた。やはりそこに人の気配はない。
しばらく歩いていると、やがて山道が見えてくる。その山の中腹に、その教会はあった。しかし、街からだと木で隠されて見えない。その存在を知る者も、ほとんどいなかった。
山道を登り、狭く暗い小道を行き、やっとのことで教会にたどり着いた。
教会に入ると、彼らは仮眠室に直行した。ウァレは車イスの少女をベッドに寝かし、自分もその横に並んだ。
そして、彼らは同じ言葉を発した。
「「っつっかれたぁぁぁ」」
ウァレはエミルカの頭を撫でた。尻尾がうれしそうに跳ねるのが視界の端に見えた。
エミルカはウァレの頬を撫でた。仮面の奥では、ウァレが笑みを浮かべていた。
「……ねえ、ウァレ」
「ん?」
「……一緒に、いてよ? 私、あんたの【呪い】なんて怖くないから」
エミルカは心配そうにウァレの手を握った。小さな彼女の手が、小さく震えていた。
ウァレは彼女を元気づけるように、強く手を握り返した。
「当たり前だ。俺はお前に助けられたからな――って痛い痛い! 指をつねるな!!」
「ふんっ。知らんわ、もう!!」
エミルカはウァレから顔を背けて眠り始めた。目を閉じたエミルカの頭を撫でながら、ウァレは一生この小さな女の子と一緒にいよう、と心で思うのだった。
少女の手には一冊のノートが握られていた。新しく作られたページには、二人の親友の名前と、赤色の付箋が貼ってあった。
その赤はまるで、もう会いたくないレッドネームのように――。
少し離れた街では、その日もにぎやかだった。
外交の開かれるはずの一室で、彼女たちは幸せそうに寄り添って月を見上げていた。
互いの声は聞こえなくとも、心だけはともにあると信じて――。