[Deodecimo episode] 轟閃の竜――アセトス――
✝0✝
――轟音、そして閃光。
人間たちは、悲鳴を上げながら飛び起きた。
時刻は深夜12時。誰もが眠っているこの時間に、空が一際明るくなった。
昼さながらに、いや、それ以上に明るくなった空を見上げた人間たちは、次に聞こえてきた轟音に耳をふさいだ。
鼓膜を破る勢いで聞こえてきた轟音は、金切り音に似た響きをしていた。本能的に嫌な音で、人間たちの身の毛がよだった。
轟音、そして閃光は、一晩中続いた。
迷惑なその閃光の中心には、いつも何かの生物がいたらしい。
彼らは、その閃光と轟音の正体を神として崇め始めた。
その様子を、狐耳の少女がいらだたしげに見ていた。
✝1✝
人間どもを睥睨して、彼は笑う。
安らかに眠っている人間たちが、彼のせいで起き上がってくる……その光景がたまらず面白い。
毎夜毎夜同じことを繰り返しているのに、人間たちは変わらず眠ろうとする。学習しない生物だ。
今日も彼は真夜中に轟音と閃光をまき散らした。朝日が昇る前には人間たちの前から消えるのだが、自分の住処である洞窟に帰る前に、水を飲もうとした。
人間たちのバカ面を頭に思い浮べながら、彼は上空から見えた湖に着地する。森の中に、ぽっかりと開いたくぼみにできただけの湖だ。
そこは彼の住む洞窟からも近い。だからいつもそこで喉を潤していた。人間もよほどのことがない限りは、その湖には来なかった。
彼は巨体を地面に着けると、コウモリのような羽を思いっきり伸ばした。長時間飛んでいたせいで、肩が凝っていた。
疲れたな、と呟くと彼は身を屈めた。身体が大きなせいで、水を飲むのも一苦労だった。
その時、ザァァっと木の葉が揺れた。
嫌な予感を感じた彼は、頭を持ち上げた。周りは森に囲まれているので視界は悪いが、森に住む彼にとって、それは大した問題ではない。
すると、森の小道の先に、人間の少女の姿が見えた。
藍色の、ボロボロの外套を羽織った少女だ。髪もぼさぼさに跳ね上がり、貧乏そうな雰囲気を漂わせていた。幼顔で身長が低い――巨体の彼からしても、低めだと思った――割に、胸は大きい。
少女は目を見開いて、5メートルはあるだろう金色の竜を見上げた。
まずい、と彼は思い、翼を大きく広げた。
「……怖く、ない」
「あぁ?」
立ち去ろうとした彼を、少女の間延びした声が引き止めた。
彼が振り返ると、少女はにっこりとほほ笑んでいた。彼はその笑顔に釘付けになって、動けなくなる。
少女は両手を前へ持ち上げると、胸の前に組んだ。瞳を閉じると、優しい声が聞こえてきた。
「私はセルロース・ナン・ストリン。この近くの村に住んでいますぅ。あなたはぁ?」
「……俺に名前はない。人間とは違って、誰かに名を呼ばれることもないからな。だから、俺は帰る。貴様はさっさと村へ帰れ」
「ふふ。嫌なら、わたしと話なんてしなければいいのにぃ。私を放っておいて、帰ればよかったのにぃ。でも、わたし、あなたと話がしたいんですぅ……」
彼はたじろいだ。
瞳を潤ませて、今にも泣きそうな表情を浮かべたストリンを、放って帰ることが出来なかった。彼の胸の奥が疼いていた。
それでも、彼は人間と会いたくなかった。こうして話をすることさえしたくなかった。
もう一度、翼を大きく広げると、彼女の微笑みを最後に、彼は大空へ飛び上がった。その時、目をつぶっていなければ、彼の決意も揺らいだだろう。
大空に、黄金の竜が往く。
日が昇り始めたはずの空には、雨が降っていた。
✝2✝
彼は洞窟の中で目を覚ます。
外は雨が降っていた。今は梅雨の時期なので、そう晴れる日はない。こんな日に外に出かけるのは億劫だった。
彼は目を覚ましたばかりだったが、もう一度眠るために目を閉じた。
しかし、あの少女のことが頭から離れず、寝付けなかった。会いたいとすら思っている。
妙だった。人間に会いたくなかったはずの彼は一人の少女に限っては会いたいなどと、矛盾した感情がぶつかり合っていた。
「……もう一度、会えばわかるのだろうか……」
そして彼は、重く巨大な身体を緩慢に持ち上げて、雨の降りしきる外へ出ていった。
まだ夜になっていないため、空を飛ぶのは止めた人間に見つかれば面倒なことになる。
彼は山の中を歩いた。幸い、ストリンと出会った湖は近くにある。今日もそこにいるとは限らないが、可能性は低くないと思った。
彼女はその湖の近くの村に住んでいると言っていた。だから、そこでなら再び逢うことが出来るのでは、と彼は考えていたのだ。
とはいえ、雨の降る山道を歩くのは、どうにも歩きづらい。雨露に濡れた葉やツタが体にまとわりつき、不快な冷たい感触を残す。
彼は歩く速度を速めた。早くあの少女――ストリンに出会い、そして住処へ戻ろうと考えていた。
しかし、彼の前に二人の人間……に見える者が立ちはだかった。なぜ曖昧な言い方になったかというと、彼らが珍妙な恰好をしていたからだ。
巫女服を着た少女は、短いスカートから猫の尻尾を生やし、絹繊維のような金色の髪をした頭には狐の耳をぴこぴこ動かしていた。胸元はへそが見えるほど大きく開かれ、首から白銀の十字架を提げていた。
いや、それは十字架と呼べないほどに劣化していた。
片側が欠けてしまい、いうなればト字架と言ったところだろうか。
そして、彼女は車イスに乗っていた。足が悪いのだろう。その車イスを押しているのは、これまた奇妙な青年だった。
右上以外を覆った狐面で素顔を隠し、人間としては背の高い彼だが、ローブをひこずってしまって端々がボロボロになっていた。唯一見える右目は赤黒く、一言で言うなら、彼は不審者だった。
彼ら(主に少女)は目の前の竜を睨み上げていた。人間に会いたくないと思っていた彼だったが、またも動けなくなった。
今度は、少女のまとう狂気から逃げられなかった。
彼女なら、彼のことを知っているかもしれない。もしかすると、全てを見通されてしまっているかもしれない。
人間なら竜を見た途端、驚いて逃げるか興味深げに見つめるかの二通りだと思っていた。しかし、彼女たちはまるで彼を咎めているかのように見えたのだ。
彼女たちなら、もしかすると毎夜の轟音と閃光の正体を知っているのかもしれない。いや、絶対に知っていた。
その時、車イスの少女がふうと息を吐いて言った。
「手間、省けてよかったわ」
「手間……?」
「私たちはあんたを探しょうた。あんたに用がある。と、言うよりはお願いかもしれんけど、そこら辺はどうでもええわ。とにかく、あんたは迷惑なことは変わらんのんじゃし」
迷惑……少女の言った言葉に、彼は心当たりがあった。きっと、毎夜毎夜の轟音、閃光のことだ。
なぜ彼女がそれを知っているのかは分からない。人間どもは彼を神として崇めていたのだし、はっきりと姿を見られた覚えもない。
訝しげに少女を見る彼に、青年が話しかけた。
「そんなに警戒しなくてもいいですよ。今日のところは忠告だけですから」
「忠告……?」
青年は頷き、そして。
「あなたは乱暴に【呪い】を使い過ぎだ。だから、あまり乱暴に使わないほうがいい。もしものことがあれば、また会いに来ますよ」
青年と少女は、それだけを言い残して彼の前から立ち去った。
二人のことを疑問に思っていた彼だったが、気にしても仕方ない。とりあえず今は、昨日会った少女を探すことにした。
昨日の湖に着くと、辺りを見回した。湖はそこまで広くないので、彼の身長からだと、首を巡らせるだけで一望できた。
すると、湖に作られた桟橋の上に人間の姿を見つけた。雨は降っていたが、その人物は傘をさしていない。
彼は緩慢に近づいた。傘をさしていないその人間は、湖に釣り糸を垂らして釣りをしていた。
近づいてきた巨大な竜に気づいたのか、その人間は振り返り、驚いたように立ち上がった。
彼の姿を確認した人物――ストリンは、目を大きく開いて固まっていた。昨日逃げるように去った竜が自分の前にいるのだ。驚いてもおかしくない。
彼はその驚きざまに驚いて、つい身を引いた。彼女の前に再び現れたのは間違いだったかもしれない。
背後を振り返り、また立ち去ろうとした彼を、ストリンは引き止めた。
「ま、待ってくださいぃ……お、お話、しませんか……?」
「……あ、ああ」
彼はストリンに対面した。それだけなのに、彼女は笑った。その笑顔に釘付けになった彼は、我に返ると翼を広げた。それを彼女の上に掲げると、雨を防いだ。
「風邪、ひくぞ。人間は弱いからな」
「あ、ありがとうございますぅ!」
顔を赤くして、ストリンは頭を下げた。どういうわけか、彼女を直視することが出来なかった。
顔をそむけた彼から少し距離をとって、ストリンは彼を見上げた。身長差が四メートルは違うので、見上げるだけでも一苦労だ。
「えっとぉ……じゃ、じゃあ、あなたの名前は何というのですかぁ……?」
「昨日も言ったはずだぞ。俺には名はない。誰かに呼ばれることもないしな」
「じゃあ、あなたはアセトスでいいですぅ? この名前、私たちの村にある、竜の銅像の名前なんですよぉ?」
「だから、俺は誰かに名を呼ばれることはない。だから名前など必要ない」
「ええ? ……名前がないと不便ですよぉ……私が呼びますしぃ……」
ストリンは、視線を横にずらしながら言った。彼は困ったような顔になって、はぁとため息を吐いた。
「……分かった。好きに呼べ」
そう、彼――アセトスが言うと、ストリンは笑顔になった。彼女の嬉しそうなそれを見ると、アセトスは何も言えなくなる。
「……卑怯だ」
「え? ひ、卑怯……?」
「何でもない。こっちの話だ。それより人間、ここで何をしている?」
「ストリンと呼んでくださいぃ。……ここで釣りをしていたのですよぉ」
「こんな雨なのにか?」
ストリンは、長い髪をかき上げながら、頷いた。
「はいぃ。雨の日のほうが、魚がよく釣れるのだと聞いたんですぅ。食料を調達しないとぉ、みんな困っちゃいますしねぇ。だから、雨でも来なければいけないんですぅ」
「村に男手はないのか? こういうとき、人間は男が働くと聞いたのだが?」
「いますよぉ。でもぉ、男の皆さんは村を守ってくれますからぁ。女の私たちにはぁ、そんな力ありませんからぁ」
ストリンは困ったような表情を浮かべて言った。
アセトスは、彼女は不憫だ、と思った。こんな雨の日に、傘も差さずに釣りをしている彼女のことを、村の連中は知っているのだろうか。
アセトスは、広げた翼を少し下げた。彼女を包み込むように、雨から守ってやる。
「……じゃあ、明日も来るとしよう。こうして、雨からお前を守ってやる」
「え? い、いいんですかぁ?」
「ああ。だから、俺のことは気にせず、釣りを続ければいい」
こうして翼を広げているだけで、彼女を見ていられるなら、彼女のためになるなら、自分は傘でもいい。
アセトスはその思いを表に出さないように、顔をそらした。彼の前で、ストリンがふっと微笑んでいた。
次の日も、その次の日も、アセトスは傘であり続けた。梅雨の時期なので、梅雨が終わるまでは傘になれた。しかし、梅雨が終わった後、彼女と会えないのではないかと不安になった。
そんな感情を抱いていたが、彼らは仲良くなっていった。毎日飽きもせずに釣りを続ける彼女の隣に、寄り添い続けた。
彼女と出会ってから、轟音と閃光をまき散らすことは少なくなった。彼女と会うのが楽しくなって、夜中遅くまで起きている暇などなかった。
たまに、ストリンが湖に来ない日があった。村にはシフトのようなものがあり、彼女は週の最後は来なかった。
その日だけは前やっていた通り、人々に迷惑をかけた。やはり、それはそれで楽しかったのだ。
それと同時に、不安になった。
もし、そのことを彼女が知ったら、何と言うだろうか。人に迷惑をかけることを生きがいにしてきた彼のことを、何と呼ぶだろうか。
不安で不安で、アセトスは次第に人間に迷惑をかけるようなことをしなくなった。湖に行けば、ほとんど毎日彼女に会える。
それだけで、彼は満たされていたのだった。
ストリンと出会ってから一週間ほど経った頃、彼女は湖に来なかった。今日は来ないという話を聞いていなかったため、変だと思った。
アセトスは彼女のことが心配になった。湖から村までは、近くにある。彼の身長からすると、すぐに見つかってしまいそうだったが、心配するあまり、彼は村へ向かった。
身を屈めながら、森の中を歩く。相変わらず雨が降っていて、滴が体に触れて冷たかった。それを不快に思いつつ、森を抜けた。
村が見える距離になると、彼は草葉を身体にまとった。ただでさえ目立ちやすい体色なのだ。せめて、これくらいはしておかなければ、すぐに見つかってしまう。
雨の日に外出する人間は少ない。そのため、彼は見つからなかった。
アセトスはストリンの姿を探した。村にちらほら建てられた家の外には、やはり誰もいない。彼女は家の中にいるのだろうか。
村にストリンの姿がないことを確認した彼は、地面に鼻をつけた。彼女の匂いを追い、家を特定しようと思ったのだ。しかし、雨のせいではっきりとは分からなかった。
アセトスはそれ以上そこにいると見つかってしまいそうな気がした。だからいったん帰ることにした。
アセトスは村に背を向け、住処へと帰った。
次の日になれば、きっと彼女は来るだろう。その時、どうして来られなかったのかを聞いてみよう。
彼は住処に帰って、そう思いながら瞼を下した。
✝3✝
翌朝。
やはり雨は降っていた。
彼はいつもより早めに湖へ向かった。別に、いつも決まった時間に行っているというわけではないが、それを抜きにしても今日は早めだった。
湖に着くと、いったん身を隠してストリンの姿を探した。
すると、今日はいた。
しかし、今日はもう一人人間がいるようだったので、アセトスは彼女たちの動向をうかがうことにした。ふと、会話が漏れ聞こえてくる。
「……本当でしょうね?」
ストリンと対峙した少女が言う。ストリンは微笑みながら答える。
「はいぃ。私は、別に悪いことなんてしてませんよぉ。みんながぁ、過敏になっているだけだと思うんですぅ」
「……ならいいけど。あまり大人たちを怒らせないほうがいいよ? あんた、疑われているんだから」
疑われる?
アセトスは首を傾げた。あの優しいストリンが、何か悪いことをしたとは思えない。きっと、何かの間違いだろう。
アセトスはそう思いながらも、彼女たちの会話に耳を傾けていた。盗み聞きなどではない。隠れている間に会話が聞こえているだけだ、と誰にでもなく言い訳した。
「それに、あまりここに来ないほうがいいと思うよ。この近くにいるらしいから。大人たちも言ってたでしょう?」
「うん。でもぉ、ここじゃないと魚が食べられないよぉ。みんな健康にいるためには、やっぱり魚が必要だと思うんだぁ」
「あっそ。ま、いいわ。とにかく、大人たちを怒らせないようにしなさいよ。……本当に心配しているんだからね」
ストリンと話していた少女が、彼女の肩に手を置いて言う。
「――あんたが竜に会っているんじゃないかって」
「ッ!?」
アセトスは、叫びそうになったのを必死に我慢した。
彼女が疑われていたのは、決して悪いことではない。しかし、彼女は竜――つまりアセトスに会っていないかと疑われていたのだ。
毎夜毎夜の轟音、閃光をまき散らしていた、危険な竜と関わっているのではないか、と疑われているのだろう。
しかし、人間はアセトスを神の存在と認識しているようだった。だから、少し違うのかもしれない。
が、ストリンに会うのはあまりよくない。
彼女に会うことで、彼女に迷惑をかけるのなら、今日は会わないでおこう。
アセトスは湖に背を向けて、歩き始めた。
背後で、ストリンが怒鳴っていた。彼女にしては珍しい。しかし、その声は大きかったにも関わらず、アセトスの耳には入ってこなかった。
それからというものの、湖に行く気にはなれなかった。
彼は以前のように、住処である洞窟に引きこもる毎日を送っていた。ただ一つ、違うのは毎夜毎夜の轟音と閃光だ。あれ以降は一切止めた。
彼が少し我慢することで、ストリンは竜との関わりを疑われることはなくなるだろう。彼女は平穏に生きていくべきなのだ。
住処の中、誰もいない、ただ雨音だけが聞こえる、孤独の空間。アセトスは地面に顎をつけて、つまらなさそうに外を眺めていた。
彼女と会わないことが、これほど暇になるとは思わなかった。以前のようにしていればこの寂しさも紛らわせられただろうが、それをすると本末転倒だ。
アセトスはじっと動かず、ひたすら我慢した。雨が止めば、どちらにせよ彼は用無しだった。そのことに気づいて、彼は悲しみを覚えた。
やがて、どれくらいの間そうしてじっとしていたか分からなくなった。
数日経っているかもしれない。数年経っているかもしれない。ただ、外では今でも雨が降り続いている。
アセトスはついに我慢しきれなくなり、湖へ赴いた。彼女に会うことが問題なら、彼女を遠巻きに見ればいいと考えたのだ。
湖の近くまで来たアセトスは、ストリンの姿を探した。今日も魚を釣っているとは限らなかったが、可能性はゼロではない。もし今日いなかったとしても、明日来ればいるかもしれない。
そう思い、ひたすら待った。
金色に光る体色を草木で無理やり隠し、息をひそめて彼女の姿を探した。いないと分かれば、彼女が現れるまでじっと待っていた。
待つことには慣れた。ただじっとしていればいいだけなのだ。今は人に見つからないようにさえすれば、あとは問題ないだろう。
でも、彼女に会いたいという気持ちは、いつまで経っても慣れるようなものではなかった。
彼女の姿だけでも見たい。話はできなくとも、元気でいる姿だけは見ておきたい。
しかし、ストリンはついに現れなかった。
次の日も、その次の日も……彼女はいつまで経っても湖に現れなかった。
アセトスは疑問に思った。村のために魚を釣っていると言った彼女が、こう何日もの間湖に来ないのは、明らかにおかしい、と。
アセトスはあと一日だけ、と湖の近くで身を潜めて待った。
そして、彼女は現れなかった。
嫌な雰囲気をまとった風が、執拗に彼の身体に雨を運んでいた。
「……村だ」
アセトスは呟くと、焦燥に駆られながら村へ向かった。
予想だったが、確信はなかったが、ただ……可能性はある。
彼女に何かあったのだ。それも、湖に来られないような事態が起きている。
彼女が病気になったのかもしれない。村から出られないようなことが起きているのかもしれない。
不安だった。
人間は嫌いだったはずなのに、なぜかストリンのことだけは……彼女のことを考えると、胸が苦しくなる。早く彼女に会いたい。そう思えて仕方なかった。
やがて、木々の生い茂る山の先に、小さな村が見えた。家がまばらに建てられただけの、小さな村だった。
雨は降っていたが、人が集まっているようだった。何かしているのかもしれないが、そんなことに興味はない。今は、何よりストリンのことだった。
アセトスは、彼女の姿を探すために、村の周りを隠れながら進もうとした。が、不意に聞こえた声に立ち止まる。
「――では、これよりセルロース・ナン・ストリンの処刑を始める」
「ッ!?」
アセトスは人が集まった、その中心を見た。そこに、一人のボロボロの少女が両手を後ろで縛られて倒れているのが見えた。ストリンだ。
よく見てみると、周りの人間は、自分の手に石を持っていた。その石をどう使うかを、アセトスは気づいて焦った。このままでは、彼女が殺されてしまう。
焦るアセトスを置いて、しわがれた老人の声が響いてきた。
「ストリン。貴様は竜と会っていたな。神聖なる竜――『アセトス』に、会っていたな。
そして、貴様のせいでアセトスはいなくなった。我らの空にいた、神のごとき竜が、貴様のせいでいなくなった。これは、罪だ」
「私は……悪いことなんてしてないッ! アセトスだってぇ……まだいるもん……」
「では、なぜ毎夜の轟音、そして閃光がなくなった? アセトスからの恩恵が、なぜなくなった? それは、貴様がアセトスを謀ったからだろう!?」
アセトスはたじろいだ。彼女のために思って、毎夜の轟音と閃光を止めたのに、それが返って彼女を傷つけていた。
人間の考えはよく分からない。神からの恩恵……しかし、アセトスがやっていたのは、ただの迷惑行為だ。それをなぜ、恩恵として崇めている?
神と崇められていたことは知っていたが、それがなぜ彼女を傷つけている? ストリンは、ただ彼と会っていただけなのに……なぜそれを咎められなければならないッ!?
「――人間って、本当に意味わかんねぇよ……なんで俺が、神になるんだよ。ただ、あいつらを困らせて楽しんでいただけなのに、なぜそれが別の……関係のないやつが傷つくことになるんだよ!」
怒りがこみあげてきて、彼は拳を握りしめた。
今まで、調子に乗ってやっていたことを後悔した。人に迷惑をかける行為が、誰かを……それも、友だちと呼んでもいいくらいの人間が傷つく原因になるなど、考えてもみなかった。
このままではいけない。
罪を償うべきは、アセトスなのだ。
その時、少女が慟哭した。
「アセトスはぁ、神様じゃないっ! 普通の……ただの竜だよぉ……みんなと仲良くしたいだけのぉ、ただの竜だよぉ……」
周りの大人たちは驚き、彼女に攻撃的な視線を向けた。
「なんと!? 神を愚弄するか!? やはり貴様は、悪魔に取りつかれている! さあ、皆の衆、その手に持った石を、悪魔の子に投げるのだ!!」
「悪魔を……殺せ」「悪魔を贖わせろ」「罪子に贖罪を!」人間は口々に言いながら、石をストリンに投げつけはじめた。
「痛い……痛い痛い! やめっ……きゃっ……や……」
「すぐに楽になれると思うな、悪魔! 神を愚弄する、背徳者がッ!!」
その老人の声に、人間たちは鼓舞されたように、さらに石を投げつけた。雨と変わらない石の報復に、彼女は意識が薄れていくのを感じた。
このままでは死んでしまう。しかし、壁に追い込まれ、両手足を縛られた彼女に逃げ場はなかった。
アセトスはどうするべきかを悩んだ。彼女を助けるために、彼女の前に出たとしても、今度は自分が狙われるかもしれないと思っていた。
異常なほどの神教者を相手に、どうすればいいのか分からなかった。彼らとの話し合いなど、無駄に等しい。もし彼が助けに入ったとしても、彼がアセトスだと信じる者はいないだろう。
これだから人間というものは嫌なのだ。自分の信じる者だけを信じ、簡単に争いを起こす。人間は、ほかの生物より、一層争いが好きなのだ。
こんなことになるなら、彼女に会わなければよかった。アセトスは改めてそう思った。
しかし、後悔が先には来ないことは知っている。彼は緩慢に立ち上がった。
五メートルを超す彼の身長は、立ち上がっただけで人目についた。
ストリンに石を投げようとしていた人間が、彼を見上げておどろき、中には地面に額をつける者もいた。その時には、ストリンの意識はなかった。
彼は黄金の翼を広げた。人間たちは畏怖し、彼を見上げていた。
「あ、アセトス様!」
その時、しわがれた声が聞こえ、アセトスはその老人を見下ろした。老人は笑いながら頭を下げていた。
「我らは、御身が敵、悪魔を贖罪しておりました。罪深い彼女をこうして生かしていた我らに、どうかご慈悲を……そして、最も重い罰を、忌々しい彼女にお与えください。殺せと申しますならば、我らは殺しましょうぞ」
慈悲?
アセトスは冷酷な視線で、老人を見下ろした。彼が言っているのは、ストリンはどうでもいいから自分たちによりよい楽な暮らしを、ということだ。
彼女を苦しめている元凶に、これ以上楽がいるものか? 自分のことしか考えない、腐った脳みそを持ったこの人間どもに、そんな慈悲が必要か?
殺せと命じれば、殺す……なら、死ぬべきはお前たちだ、とアセトスは唇をかみしめた。
自分のことしか考えることのできない、腐った小さな脳みそを持った彼らが、これ以上生きている価値はあるのか?
彼女を贖罪することで、自分たちが楽になろうとした彼らは、きっと彼女のやってきたことを知らないのだろう。いや、見ていない、見てなかったことにしようとしているのだ。
ストリンは、みんなのためにと雨の日でも釣りをしていた。それは、きっとこの村が貧しいからだ。男どもが働かず、女だけが働かなければならないのがこの村だ。
男どもはさらに楽を求めている。そして、女たちもそんな男どもにあきれ、自分たちだって楽をしようとしている。
彼女が今まで、何をしていたのかを知らないのか? 彼女が、どれだけ苦労して村のためにやってきていたかを知らないのか?
見ていないとは言わせない。知らないとは信じない。
赦さない。
贖罪なら、人間を。
ストリンが傷つく謂れはないのだから、傷つくべきは人間だッ!
アセトスは大きく広げた翼の周囲に、黒い霧のようなものをまとわせた。彼の全身には、黒い刻印が這い、そこからその黒い霧が発生しているようだった。
そして彼は、慈しみとは逆の言葉を詠った。
「――我、怒気はらみ
尊の≪轟≫を喝破す――」
「――我、永遠なりて
至誠なる≪閃≫をもたらし存在――」
「――――【轟閃】(Curse)――――」
その瞬間、彼の両翼から目を焼く閃光が迸った。
何を思ったのか人間たちは狂喜し、地面に額をつけ……そして、動けなくなった。
彼らは気味の悪い感触に、背筋が寒くなるのを感じていた。いや、それすらも感じられなくなった。
人間たちが目を見開いている中、アセトスは彼らに近づいた。アセトスに恐怖した彼らは、地面を這いつくばりながら、散っていった。
「うわぁぁぁぁっっ! く、来るなっ! あああぁぁああぁぁっっ!!」
「――うるさい。黙れ」
威圧的に、低い声で言うと、人間たちは黙り込んだ。やがて、彼に指をさして、一人の男が言った。
「――悪魔だ」
「いや、俺は竜だ」
アセトスはそう言い返しながら、ストリンを抱えて翼を広げた。大空に飛び上がると、背後から聞こえてきた人間どもの怒声を無視して住処へと帰っていった。
人間たちは、苛立たしげに頭を掻きむしっていた。
頭から血が流れているのは、頭が裂けたからだろう。頭を掻きむしっていた人間は、それに気づかないまま、頭を裂けさせて倒れていった。
彼らの痛覚が、消えていたのだった。
✝4✝
「えっと……その……すまない。俺のせいで、あんなことになって……」
アセトスはその時初めて、誰かに対して頭を下げた。意識を取り戻したストリンは、首を振って違うよ、と言った。
「アセトスはぁ、何も悪いことしてないよぉ。私が迂闊だっただけぇ……」
「でも……」
ストリンが、アセトスに向けて両手を掲げた。頭を下げた彼の顎に、優しい手が添えられた。
「あなたはぁ、悪くないのぉ。悪いのはぁ、いつも人間……竜は、ただ生きているだけなのにねぇ。大人たちはぁ、それを分かってくれないのぉ」
困ったように、彼女は笑った。たとえ彼女を傷つけた原因がアセトスにあったとしても、彼女は一切それを咎めなかった。
アセトスは目じりにたまったものを我慢した。彼女の優しさが、今は心に深く突き刺さった。
「それでも……俺はお前を傷つける原因を作った。人間どもが言っていた神は、俺のことだ……俺が身勝手にやっていたことが、結果としてお前を傷つけた……謝っても許されるようなことじゃないかもしれない。俺は、飛んでもないことをしたのかもしれない……」
「ううん。大丈夫。だってぇ、後悔って先には来ないものだものぉ。ならぁ、失敗は許されていいんだよぉ。次に同じことをしなきゃいいだけだしぃ」
アセトスは、それで自分が許されていいものなのか、と思った。後悔が先に来ないものだとしても、ストリンを巻き込んでしまったことに変わりはない。そのせいで、あと少しで彼女は殺されるところだったのだ。
許されていいはずがない。でも、ストリンは優しすぎる。
「……本当に、お人よしだぞ。俺のせいだっていうのに……」
「うん。あなたのせいだよぉ。でもぉ、人間のせいでもあるのぉ」
「人間のせい……?」
アセトスの顎を撫でながら、ストリンは頷く。
「あなたを勝手に崇めてぇ、あなたを追い詰めたぁ……だからぁ、きっと人間のせいでもあるのぉ。人間の勝手な思い込みがぁ、あなたを追い詰めてぇ、そして巻き込んだのぉ。あなたは悪いけれどぉ、人間だってぇ、同じくらい悪いぃ……だからおあいこさまなのぉ」
「……お前は人がいいのか、それとも俺を気遣っているのか……よく分からない」
困ったように言って、アセトスは嘆息した。なんだか彼女と話していると、悩んでいることがバカバカしくなってきた。
と、言うよりイタチごっこだった。同じことを繰り返しているだけだ。
だから、同じことを繰り返さないように失敗というものがあるのだ。アセトスは失敗した。ならば、次はそうならないようにすればいい。結局、ストリンが言っていることが正しいのだと思った。
アセトスは視線をストリンに向けた。ちょうどストリンもアセトスに目を向けていて、二人は視線を合わせた。
ストリンの赤い瞳が潤んでいた。彼女は、アセトスを『許す』と言ったが、裏切られたことはやはり悲しいのだろう。
今まで村のために働いてきた彼女は、恩を仇で返された。今まで信用してきた仲間に、悪魔だ、と罵られた。いや、それ自体は問題ではないのかもしれない。彼女はただ、かつての仲間に会えないかもしれないことを悲しんでいるのだ。
気づいたときには、アセトスは彼女の華奢な身体を抱きしめていた。身長差が四メートルもあるので、彼女の身体はより一層小さく見えた。
「え……あ……ちょ、ちょっと……」
困ったように、ストリンは喘いだ。アセトスは彼女を優しく抱きしめて言った。
「俺がお前を守る」
「ま、守る……?」
「ああ。お前を殺そうとする人間から、絶対に守る。俺なんかがやっても、頼りないかもしれない。でも、これがお前を巻き込んでしまった贖罪になるなら、俺はお前のそばにいる」
ストリンは困ったような視線をアセトスに向けた。
「頼りないことなんてないよぉ。でもぉ……あなたは許されていいんだよぉ?」
「それだと、俺の気が済まない。お前を傷つけた。お前を失いかけた。何より大切だった、唯一の親友を、俺は失いかけたんだ。それも、俺のせいで……俺が悦楽に浸るためにやってきたことで、お前を……だから……いや、少し違うかもしれない。俺はただ――」
一呼吸置いて、アセトスは言う。
「――俺は、お前のことが好きだったんだ」
「え……?」
ストリンは彼の言葉に茫然とした。が、アセトスは彼女の様子を気にすることなく続ける。
「人間は嫌いだった。でも、お前だけは違う。お前のそばに、ずっといたいと願っていた。だから、お前を巻き込んだことが悲しい。俺はなんてことをしてしまったんだって、思う……だからこそ、俺は俺を許せないんだ! これも俺の勝手だが、お前のそばにいることでその気持ちが和らぐなら、俺はお前のそばで、お前を守っていきたい。……ダメか?」
「……ううん。私もぉ、あなたが好きだよぉ」
ストリンは、アセトスの首に腕を伸ばした。丸太ほどのサイズのある彼の首は、鉄板のように硬かった。
「だからぁ、私のそばにいていいんだよぉ。あなたがそれで満足ならぁ……いえ、わたしも誰かいないと寂しいからぁ。あなたがそばにいてくれるだけでぇ、私はとっても嬉しいぃ」
「……すまない。俺のせいで……俺のせいでぇ……」
アセトスはこらえきれず、涙を流した。彼をなだめるように、ストリンは抱いた首をなでていた。彼女の優しさが、アセトスの心に沁みた。
罪を犯した竜は人間と出会ったことで、自分を見直した。自分のやっていたことが、どれほどの罪に当たるのかを、後になって気づいて後悔した。
しかし、後悔というものは後にしかないもの。だから、これからをどうすればいいのかを考えていけばいい。
後悔はしたくないものだが、自分を見直すには、後悔や失敗は必要なのだ。アセトスが自分の罪に気づけたように、後になってやり直せないことだったとしても、きっといつかまたやり直せるようになれる。
アセトスは、何があってもストリンを守ると誓った。
空にはいまだに鉛色の雲が重なっている。
車イスの少女は天を見上げて、「これでやっと眠れる」と呟いた。