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[Primun episode] 窟奥の竜――ゼルベグス――

                †0†


 洞窟の中は寒さが仕切っていた。


 分厚いコートを着た二人の男たちが、対峙するようにお互いを睨んでいる。細身の方の男は十字架を握っている。


 薄暗い洞窟だったが、二人の顔をロウソクが照らしていたので、その表情はよく見えた。コートのポケットに手を突っこんだまま、恰幅のいい男ははぁとため息をついた。


「どういうつもりだ? こんな山奥に連れ込みやがって……」


「いいじゃねぇか。俺たちは親友だろ?」


 細身の男はそう言ったが、その表情は少し強張っていた。男は十字架を握る手を後ろに回し、対峙する男に見えないようにした。恰幅のいい男はそれに気づかないまま、話を続けようとした。


「ダニエーレ、俺たちは確かに親友だ。共に戦ってきた同志だ。だが戦争は終わった。それなのに、なんだこの手紙は?」


 ポケットから四つ折りの手紙を出し、地面に投げ捨てた。手紙の中には『これからのことについて、話がある。一緒に過ごした洞窟のことを覚えているか?』と書いてあった。男はダニエーレが再び戦争を始めるのではないかと怪訝していたのである。


 細身の男は肩を揺らして笑った。狂気の混じった笑い声は洞窟の中を蹂躙し、男の異常さを物語っていた。


 恰幅のいい男は何も言わなかった。目の前の男がどういう人物で、どれだけ周りから嫌悪されていたかを知っていたからだ。それでも親友として一緒にいたのは、彼が人一倍優しかったからである。


「あぁ、お前はそんなことを気にしていたのか……俺は戦争がなくなって苦しい思いで生きてきたというのに……」


「……やっぱり、お前はまた――」


「勘違いしてんじゃねぇよ」


 男はひるんだ。ダニエーレがやはり危険なことを考えていると思ったが、確信を持てなかった。


 ダニエーレは笑った。敗者をあざ笑うように……そして自分を憐れむように……。彼は神に祈りながら十字架を強く握りしめた。十字架が喰いこんで、いつの間にか血が流れていた。


「ダニエーレ……我が友よ! お前は何を考えているのだ!?」


「本当に分からないとは、ははっ! これぞ傑作! お前には一生分からないことだよ。幸せになったお前にはな!」


「な、何を言って――」


 困惑する男に、ダニエーレは顔をゆがませて笑った。


 おもむろに、ダニエーレは男に向かって走り出した。そして、手に持った十字架を彼の脳天目がけて振り下ろしながら叫んだ!!


「永遠の洞窟の中で、苦しみもがけ――っ!!」


 次の瞬間、男の脳天に刺さった十字架が輝き――


「何だ、これは……ぐあああぁぁああぁぁあっっ!!」


 男――窟奥の竜は眠りについた……。


             †1†


 そこは暗くて寒い洞窟だった。


日の当たらない洞窟には、氷のように冷たい空気が支配していた。天井からは数日前の雨が染み込み、地面に穿たれた窪みに水を溜め込んでいた。ごつごつとした岩肌が寒さで凍りつき、相対的に気温を下げているようだ。


外界から断絶したような洞窟の中、少女は身を震わせながら岩の上に座っていた。


 少女は幼い。12~13才にも見える身長で、赤と白の巫女服を纏っている。肩の出た巫女服の袖は手を覆い隠すほど長く、対照的に短い赤のスカートからは艶やかな白磁のおみ足が覗いていた。スカートの後ろの部分は少し捲れ、そこから猫のような細い尻尾が生えている。視線を頭へと上げると、絹繊維のような細い金髪の上にキツネの耳が生えていた。胸の部分はへそが見えるほどは大きく開かれ、乏しい胸に白銀の十字架が輝いていた。


いや、それはもう十字架と呼べなかった。


 劣化し、左側が欠けてト字架となっていた。


洞窟の中は寒いのにも関わらず、少女はそうした服装で肌を多く露出していた。小柄な彼女にとって寒さは敵だったが、その服装を変えようとはしなかった。


彼女には待ち人がいたので、そこから動けなかった。待ち合わせ場所としては最悪の場所だったが、彼女の珍妙な格好を人間にみられるわけにはいかなかったので仕方がなかった。


――普通の人間には。


少女は赤い目を強く瞑って寒さに耐えていた。胸元に輝く十字架を握って祈っていたがそれで寒さがしのげるわけもなく……しかし彼女は決して十字架を放そうとはしなかった。


「……寒い」


息が凍って白くなっていた。はぁと手に息を吐きかけたとき、洞窟の向こうか誰かの足音が聞こえてきた。視線を上げると、ゆっくりと一人の青年が歩いてきているのが見えた。少女は彼を睨みつけた。彼女はその青年を待っていたのだった。


彼も珍妙な格好をしていた。巫女服の少女よりもはるかに背が高いのだが、羽織っている黒いローブは地面をひこずり、端々がボロボロになっていた。顔は右上以外をおおうような狐の面を着けており、唯一見える右目は赤黒い。青年は一言で言えば『不審者』だった。


少女はいかにも妖しい青年を安堵と怒りの念を込めて睨んでいた。威嚇する猫のように尻尾を逆立てると、少女は叫んだ。


「おっせぇんじゃ、このダボ!」


「はいはい。悪かったな、ガキ」


出会って早々面罵する二人だったが、仲が悪いというわけではなかった。むしろ良い。その証拠に、二人は言いたいことを言い終えると、にっと笑った。


正直な気持ちをお互いに話せる仲だった。それだけ二人は信頼関係が厚かった。


「ほら、買ってきてやったぞ」


「ふん。買いに行かせてあげたんじゃろうが。感謝するのはあんたじゃ、ウァレ」


青年……ウァレは腕に抱えていた紙袋を少女に渡すと、頭を撫でた。少女の金糸が風に揺られてキラキラと輝いた。


――天使みたいだ――


ウァレは最初に彼女と出会ったときにそう思った。そして今もその言葉がよみがえり、ウァレはふっと微笑んだ。


少女は不満げに睨み付けてきていたが、尻尾は嬉しそうに揺れていた。尻尾は正直らしい。


頭を撫でるのをやめると、尻尾は下がった。ウァレは苦笑して少女に手を差し出した。握り返された手の冷たい感触に、ウァレは罪悪感を感じた。彼女がこうなるまで待っていてくれたのに、自分は全く急がなかったからだ。


しかし、その感情もすぐに薄れた。元はといえば、彼女に原因があったからである。


少女に渡した紙袋の中には、袋いっぱいにレーズンが入っている。彼女の好物だ。それを買いにいかされたウァレは、洞窟から離れた街までわざわざ歩いて行ったのである。今も疲労で足が痛い。


「……ウァレ?」


「……いや、何でもないよ」


ウァレはその時、自分の笑顔がひきつっているのを感じた。しかしそれは、狐面に隠れてほとんど見えなかった。


少女の差し出した手を握りしめ、腕に彼女の小驅を抱いた。少女は軽かった。ウァレはそのまま少女を抱えて岩の裏側へと回った。その間、彼女の足はピクリとも動かなかった。


岩の裏に隠してあった車イスに座らせると、ウァレはブレーキを外した。少女に目配せをしてから、ウァレは車イスを押して洞窟の奥へと進んでいった。






洞窟の奥はさらに暗い。ウァレは車イスに備え付けていたライトを点灯すると、狭い道を進んでいった。


壁の赤い鉱石がライトの光を反射して輝いた。反射する光がさらに奥の鉱石を反射するので、小さなライトひとつで十分明るかった。その様はまるでプラネタリウムのようだった。


車イスに座った少女は、ずっとレーズンを食べていた。一瞬、その手を止めてふと鉱石を眩しそうに眺めると、彼女は顔をしかめた。


それは眩しいのが嫌だからとか、そういうことではなかった。彼女はその鉱石がどういう意味を持っているかを知っているのだった。この洞窟の奥にいる、目的の者はきっとそれを知らない。その事実を知らないままに今も生きている……かもしれない。


「本当に、嫌なとこ……」


「でもこの先に進まないと、救えないし救われない。頼れるのが俺たちだけだったんだから仕方ないよ」


「分かっとる!」


苛立たしげに、少女はウァレの手を叩いた。座った状態でできる限界の抵抗だった。


「私は頼られた。なら、私は助けるだけじゃ」


胸元に提げられた十字架を握って呟いた。赤い瞳は、たとえ嵐のなかの津波でも決して揺るがない祈りを象徴しているようだった。


 ふと、少女は顔を上げた。正面の暗闇を見つめるとウァレの袖を引き、上目づかいに小さな口を開いた。


「……ウァレ、この奥に何があっても来てくれる?」


「何言っているんだか、このガキは」


「ガキ言うな!! 良いから答えてよ!?」


ウァレは込み上げてくる笑いをこらえた。車イスを壁にぶつけてやると、少女がきゃっと小さく悲鳴を上げた。


「どこ見て歩きょうるんじゃ、このバカはぁ……」


「何だよ、お前のあまりの可愛さに目を奪われちゃった、とか言ってほしいのか?」


ついに声に出して笑ったウァレは、訝しげな視線を向けてくる少女の頭を撫でた。


「一緒にいるに決まってるだろ? 俺はお前の――」


しかし、少女はウァレの話を遮った。


「ありがと。じゃあ、誓ってくれたけん本当のこと話すわ」


「……は?」


疑問符を浮かべたウァレに少女は万円の笑みを見せた。


「危ないの、来るよ」


――瞬間


ゴゴゴゴゴゴッ!


体の芯を揺らすような地響きと共に、そいつは現れた。


「はっしれぇぇっっ!!」


現れたのは、洞窟を埋め尽くすほど大きい――


「斧ッ!?」


斧はウァレたちを真っ二つにせんと迫ってきた。


「先に言えぇぇぇぇぇっ!!」


超古典的な罠に引っ掛かってしまった自分を情けなく思いつつ、ウァレは後ろから迫ってくる斧から必死に逃げた。少女が何でそれに気付いたかは今になっては気にならなかった。


 激しく揺れる車イスの上で少女は、


「まさか、ここまでするとはね」


と呟いた。






罠から逃れた先には、幻想的な空間が広がっていた。


壁の鉱石は、いつしか赤だけでなく緑や青も出てきた。車イスにつけたライトがカラフルな鉱石を反射し、鮮やかな幻想的光景を生み出していた。光の芸術だけでなく、洞窟にできた水たまりに住む魚の、水面の跳ねた音が心地よく鼓膜を震えさせた。


「……なんだったんだ、あの罠」


 後ろを振り返ると、進路を大きく外して横たわる巨大な斧が見えた。その一振りで山一つを屠れそうなほどに大きい。


 斧はまるで侵入者を追い出すかのように、しゃがんでも避けられるほどの隙間を残していた。しかし、車イスに乗った少女の高さでは避けられなかった。この罠の製作者も、まさか車イスに乗る者がここを通るとは思っていなかったのだろう。


 洞窟の奥はまだ続いているようだったが、同じような罠がこれから先もあるかもしれない。


「……これから先は、もっと気、引きしめんといけんで」


「分かってる」


 そう言うと、ウァレは車イスを押し始めた。


 車イスのライトのおかげでいくらか明るくなった洞窟には、生物の気配なかった。それはまるで、何かほかの生物を恐れるあまり、全員が逃げ出したかのようだった。水のあるところに行けば多少魚は住んでいるものの、それ以外の生物はいない。


 ウァレの足音が洞窟の中を反射して、不気味な不安をあおった。ここに少女がいるのが何よりもの救いだったが、彼女がいなければ足がすくんで動けなかっただろう。


 誰かに見られているような錯覚を感じると、天井から水が滴り落ちた。閑散とした洞窟だけあって、ぴちゃんというその音はよく響いた。


 やがて、一本道の脇に何やら白いものが見えた。


「ウァレっ!! あれって……」


 先に気付いていた少女がその白いものに指をさした。罠の可能性もあるので、ウァレは慎重にそれに近づく。それが何なのかを理解すると、ウァレは顔をしかめさせた。少女はそれを凍りそうなほど冷たい視線で見下ろした。


一見すると、棒状の白い物体が落ちているだけに見えた。長年放置されていたのか劣化してボロボロに崩れてしまい、蜘蛛の巣がはっているが、表面が白色だろということだけは分かった。棒状の内部からは茶色く変色した砂のようなものが流れ出ていたが、途中からは地面と混じっていた。


足でそれらを掻き分けてみると、積もったそれの下に今度は丸い形をしたものが出てきた。棒状のものと同じような白色をして、砂ぼこりで汚れていた。生理的に不快を催すそれは、まさしく……


人骨だった。


「何でこんなとこに……」


 不快そうな表情でウァレはそれを見下ろした。


さっきの罠を越えて来たものがいるのか、それとも違う可能性か……判断はできなかったが、どちらにしろこの先に危険があることに違いはなかった。


 少女は人骨を見下ろして、静かに十字を切った。首から下げた十字架を握って「主のお導きを」と呟いた後、再び前を向いた。ウァレはその人骨を調べたかったが、少女が袖を引っ張って先を促すので関わらないようにした。


 ウァレはなぜこんな洞窟に……しかも罠があったにも関わらず、ここまで入ってきていたのだろうかと気になったが、頭を振ると考えるのをやめた。そうして周囲の注意を疎かにするわけはいかなかったからだ。


 少女は人骨から視線をそらしたまま、レーズンを一つ食べた。






 洞窟はまだ続いたが、最初の斧以降、罠らしい罠はなかった。警戒し続けるのもバカバカしくなってきた少女は、ふうと息をついた。


 本当にこの先に誰かいるのか。そんな疑問が沸き起こってきたが、考えている間にも足を進めたほうがいいと考えたウァレは大人しく歩みを進めるのだった。


 奥へ行くほど水の量が増してきたので、頭に落ちてくる水の量も増えていた。数日前に降った雨が染み込んできたものらしい。それらのせいで洞窟内の気温がさらに下がっていた。


 薄着の少女は寒そうに身を震わせて「何でこんなとこに……」とぼやいていた。ウァレも同じ気持ちだった。


 車イスの後ろにつけていたバッグから毛布を取り出すと、少女に渡す。無言で毛布を受け取った少女は、胸の胸の高さまでそれを引き上げた。


 風こそなくなったものの、寒さは相変わらず厳しい。少女よりもいくらか厚着だったウァレも、次第に息を凍らせていた。その時、突如キィィィン……と鎖が切れたような音が鳴り、二人ははっと顔を上げた。音は背中側から聞こえてきた。


 振り返ると、これまで一本道だと思っていた洞窟に死角になるように穴が掘られていたのを発見した。その先からドドドッという音が聞こえてきていたのだ。何かが転がってくるような音の、徐々に大きくなるその音が緊張感を高めた。


 ここは先へ進んで逃げるべきか、それとも引き返すべきか……。


 選択の余地はなかった。ウァレは後ろへ下がるように力を入れ――


「ウァレ、違う……前じゃ!!」


 少女の言葉に止まった。


 ウァレが視線を前へ戻した時、洞窟を覆い尽くすほど大きな岩が落ちてくるのが見えた。音のする方向からは何も転がってきている様子はなく、騙されたのだと気づいた。


 そして、もう避けられなかった。


 走っても逃げられないほどに岩は近くまで迫り、風を切るビュォォォッという音さえ聞こえてきた。


 もうだめだ。そう思った時、少女がウァレの袖を引っ張った。


「ウァレ!! 祈れ!!」


 ウァレは頷くと、右上だけかけた仮面を外し額に手を当てた――



「――至誠(Verbum)なる(Dei)主の(factum)言葉(est:perii)

    我は(Nunc)(sumus)(in)りて(magia)――……」


                †2†


 洞窟の奥で、その生物は静かに寝息を立てていた。


 恐ろしい寝息に、ほかの生物は逃げてしまった。だからこの洞窟には彼のほかに生物はいなかった――水中にいることで、音の伝達を緩和している魚は別だったが――。


 彼は洞窟に響いた音に驚いて、ふいに目を覚ました。ぬっと顔をあげると、その深紅の瞳を正面へ向けた。


 そこには珍妙な恰好をした二人の人間が立っていた。


 その片方の男は顔に右上だけが欠けた仮面をしており、ボロボロのローブを着ている。


 もう片方は車いすに乗る少女で、頭に狐のような耳を付けていた。よく見ると猫のような尻尾も生えている。


 洞窟の奥に住んでいるせいか、彼は人間というものを暫くぶりに見た。少女の格好を見て、彼は人間も進化したのか、と感心した。


 突然の来訪者は彼の姿を見上げて微笑んだ。それはまるで、探していたものをやっと見つけた子どものようにも見えた。


「お……お前らは誰だ……?」


 久々に声を発した彼は、自分の声の低さに驚いた。自分の声ではないかのような声……この声に驚いて生物たちは逃げ出した。きっと来訪者たちも驚いてすぐ逃げるのだろう。


 しかし、彼らは逃げなかった。


 それどころか、車イスの少女はこちらへ近づいてきて両手を広げた。


「初めまして、ゼルベグス。私はあなたを解放しに来たんじゃ」


「解放? 我はここで眠るのみだ。今更何を……?」


 彼は頬を掻こうとして、やめた。そして、自分の手を見て驚いた。その手は化け物のように爪が鋭く、トカゲのような鱗が這っていたのだ。


 その瞬間、彼は思い出した。


 自分の正体を。


「あ……あ……」


「思いだしましたか? ゼルベグス」


 ローブ姿の男が言った。そして、彼――ゼルベグスは、頭をおさえた。今までに体験したことのないほどに頭の奥が疼いた。


「お……お前たちは、誰だ!?」


 ゼルベグスの焦ったような声に、少女は静かに答えた。


「私はエミルカ・トゥバン……『竜と人間を繋ぐ者』……【猫ノ狐】じゃ」


 ゼルベグスは、自分が竜になったことを思い出した。


              †3†


「話がある」


「……まあ、俺たちの前へ来る人や竜はみんな、相談に来るのですが」


 ウァレは目の前の老人を上から下まで見まわした。


 恰幅のいい老人だった。手にルビーの指輪を嵌め、耳に金のピアスをしている様は、まさに成金と言ったところだろう。腰は曲がっていなかったが足に障害があるらしく、杖をついていた。


 黒く濁った目をウァレに向けると、老人はきへへと笑った。歯から抜けて落ちたような、不快な笑い声だった。


「そのぐらい、分かっておる。……まあ、そう言われても仕方はないな。俺はもう167年も生きているのだからな……」


「へぇ、それはまたずいぶんなご長命で」


 ウァレは特別驚かなかった。老人は訝しげな表情を浮かべた後、まぁいいかと杖を握った。その手には黒い刻印が刻まれていた。


――長命で人を苦しませる、竜の【呪い】が……。


「……で、老いぼれた死に遅れじじいが、私たちのとこになんのようじゃ?」


「なあに。ちょっとしたことだぜ、お嬢ちゃん」


「子ども扱いすんな、死に遅れ」


 イスの端っこに座って2人のやりとりを聞いていたエミルカは、威嚇するように言った。


 ウァレたちは街はずれの喫茶店の一角にいた。コーヒーの香りが漂い、落ち着きのあるBGMの流れる店内には、彼ら以外に客はいない。


 エミルカは机の上のブルーベリーのケーキにフォークを突き刺してほお張ると、ウァレの袖を引いた。彼女はウァレに老人の相手を一任するようだった。エミルカはへそを曲げたらしく、老人に目を合わせようとしなかった。ウァレは老人の方に向き直った。


「……ダニエーレ・リラ・オルラルドさん、でしたか」


「ああ」


「あなたはどうやって俺たちのことを知ったのですか?」


 その質問は、客を相手にするにはおかしなものだったが、ダニエーレは一瞬考え込んだあと、ああと納得したように頷いた。


「ま、この商売、そんな多くの人間に知られても困るというわけか。きへへ。俺は……まあ、たまたま情報が流れてきただけだ」


「ふぅん……嘘じゃな」


「うん。嘘だな」


「ああ、もちろん嘘だ。だが、今それを知っても仕方ないだろ? 俺はお前たちのことを知ってここにいる。それは事実なのだから」


「……ま、それもそうですね」


 ウァレはコーヒーを一口飲むと、ダニエーレを見た。


「そろそろ本題と行きましょう、ダニエーレさん」


 ダニエーレがその時、笑っていたのをウァレは覚えている。






「俺はウァレ・フォール・エルタニル。ミカ……エミルカの付き添いできました」


 ウァレはそう言いながら、車いすに乗ったエミルカの頭を撫でてやった。エミルカは不満そうに口を尖らせたが、尻尾はうれしそうだった。


 彼らの姿を見てゼルベグスは疑問に思った。彼らの目的が分からないからだ。


 エミルカは『竜と人間を繋げる者』と言ったが、いまいち想像しにくい。それだけでは何を目的にしているのか分からなかった。


 彼は記憶を完全にとり戻したわけではなく、自分が人間だったことしか思いだせなかった。今は何かしらの理由があって竜になったのだろうが……しかし、それをすべて思い出すには至らなかった。それでも何かを忘れていることだけは覚えている。彼らがそれを知っているのかが、ゼルベグスにとっては気がかりなことだった。


 考え込むゼルベグスだったが、エミルカの声に思考を遮られた。


「私は、あんたを助けに来たんじゃ」


「……何でだ? なぜ我はお前の助けを必要とする?」


「依頼があったけんな」


 依頼?


 ゼルベグスは何の事だかよく分からなかったが、とりあえず頷くことにした。消えてしまった記憶に関係があるかもしれないと考えたからだ。


 彼の考えを読み取ったのか、エミルカはふぅと息を吐いて十字架を握った。


「大丈夫。あんたの記憶にかかわることじゃないけん。ただ……いや、やっぱりこれは知らんでええかもね」


「お前は何か知っているのか?」


「知らない。ぜんぜんまーったくこれっぽちも。私はただ、願いに答えるだけよ」


「まあ、心配しなくてもいいですよ。別に悪いことをしようというわけではありませんから」


 ゼルベグスは喉元まで出かかった、お前が一番怪しいんだよ! という言葉を無理やり飲み込んだ。この二人を利用することで、彼は長年いた洞窟から出られるかもしれないと考えたからだ。


 人間だったという記憶が戻ったことで、洞窟での暮らしの窮屈さを改めて思い知った。自分が根っからの竜だったならば耐えられただろうが、今は違う。記憶が戻ってしまえば、もう竜として生きていられなかった。


 食事すらまともにしていない。腹が減ったわけではなかったが、満腹になる幸福感は知っていた。だから今すぐにでも何かを食べたい。彼は人間だったころ、何よりも食べることが好きだったことを思い出した。


 人間には様々な欲望がある。

 もちろん、元人間の彼にもそれはあった。

 その多くは、竜のままではできなかった。


 この苦しみから解き放れたい!! それを叶える千載一遇のチャンスがいま、彼の目の前に転がっていた。彼は目の前に落ちたお金を拾って自分のものにするタイプの人間だった。


「――ゼルベグス?」


「あ、いや……何でもない」


 ゼルベグスは一つ咳払いをすると、エミルカに向きなおった。身体を動かすたびに全身の鱗が擦れたが、不思議と痛みは感じなかった。ただ、体の奥が異常にぐずぐずになっているような気味の悪さだけはあった。


「……で、お前たちは何をしに来たんだ?」


「はぁ? 助けるためだって、言わなかった?」


「だけど、それじゃあアバウトすぎて――」


「助けるって、言ったよね?」


「確かにそうだが……」


「あと、何でそんなに偉そうなん? 私はあんたのために助けるのよ? 分かってる?」


「え……あ……は、はい……すみません」


 エミルカの剣幕に恐れをなしたゼルベグスはついに敬語になってしまった。エミルカの後ろで、ウァレが笑っていたのが妙に腹が立った。


「あはは。ミカ、もう少し丁寧な接客しろよ」


「ふん。何であの依頼人とつるんでた奴に、丁寧な接客なんかせんといけんのんじゃ。バカみたい。というか、私と縁を持った奴はみんなバカじゃ」


「その中に俺も入ってるな、それ」


「当たり前じゃがん。私が唯一信頼するあんたがバカじゃなきゃ、さっきのとこで逃げとったじゃろ? じゃけんウァレは一生バカでええんじゃ。それで私のそばにいれば、もう百点!」


「そりゃどうも」


 ぽんとエミルカの頭に手を置いたウァレは苦笑した。彼は自分だけは彼女の百点であることを願った。


 二人の茶番を蚊帳の外状態で見守っていたゼルベグスだったが、エミルカの言葉を思い出して呻いた。


 曰く、誰かに依頼された――と。

 曰く、そいつは性格が悪いのだ――と。


 その人物が気になった。誰なのか、そして自分に関係のある人物なのか……自分の家族の名前すら忘れてしまった彼には推測しようにもなかった。だから――


「依頼人って、誰ですか?」


 それを聞いたのはほんの好奇心だった。


 エミルカはゼルベグスの巨体を見上げて言った。


「私たちの依頼者の名前は、ダニエーレ・リラ・オルラルドじゃ」


 ゼルベグスは頭の奥が再び疼くのを感じた。


 その名前に覚えはなかったが、なぜか妙に気にかかった。


「……ま、その話もええじゃろ。とりあえず私たちがそいつに頼まれてここまで来たことに変わりはないんじゃし。それに、ここからでりゃあ、分かることじゃろ」


「は、はぁ……」


 エミルカは咳払いをすると、十字架を握りながら話し始めた。


「私たちはダニエーレに依頼を受けて、あんたをこの洞窟から連れて出るように言われた。曰く、あんたには何か厄介なことがあって、それを解決してほしいとも……あんたがそれを覚えていないなら、私たちもそれを知らないけれど、それはそれでええわ。ただ、あんたの意志に関係なく、私たちはこの洞窟からあんたを連れ出す。それが依頼人の望みだから。願いだから」


 十字架を頭の高さまで掲げ、彼女は眼を瞑った。


「主のお導きにより、私はあんたと出会うことが出来た。そして、私はあんたを助ける。これは運命であり、私とダニエーレとの出会いの延長であり……それが縁というもの。私は私にかかわった者の幸せをいつも願いし主の子ども……というわけで、あんたを連れ出す」


 それは、ゼルベグスを助けるというよりも、依頼主であるダニエーレを助けると言ったほうが妥当かもしれなかった。しかし外へ出ることを願ったゼルベグスは、彼女に助けてもらうことにして、


「はい。ぜひとも助けてください」


 と、頼み込んだ。


 するとエミルカは笑みを浮かべた。その笑顔はまるで、子どもに向けた聖母の微笑みのような温かさがあった。


「よろしい。んじゃ、助けちゃるけん、名前書いて」


「名前?」


 ウァレに車の背中に付けられたバッグからノートを取り出すよう、エミルカは命じた。ウァレが取りだしたノートにはびっしりと付箋が貼ってあった。ムカデのように見えるそれを、ゼルベグスは自分の手と交互に睨んだ。


 ゼルベグスは自分の手――鱗に包まれ、鋭い爪をもった自分の手を見て困惑した。


――この手でどうやって書けと?


「へたくそなのは承知の上。だって竜じゃもんな。それでもええけん、さっさと書いてよ」


「あ、はい……」


 ゼルベグスはエミルカの剣幕に頭が上がらなかった。


 ノートに貼られた付箋の色は、五色――赤、黄、青、黒、緑――に分けられていた。それぞれに意味があるのかもしれないが、ゼルベグスにはどういう仕組みかよく分からなかった。


 ノートの背中から鉛筆を取ると、エミルカはゼルベグスの前に置いた。それに名前を書くことにどんな意味があるかは分からなかったが、ゼルベグスは針金のように小さい鉛筆を折らないように丁寧に掴むと、開けられた無地のページに自分の名前を書いた。人間だったころの名前の記憶は無くなっていたが、『ゼルベグス』という単語だけは覚えていた。なので、とりあえずそれを書くことにした。


 書き終わると、人間だったころよりも汚い字に嘆息した。人間に戻る日が来たならば、習字教室でも通おうとも思うほどだ。


 エミルカはゼルベグスが書いたページを見つめて満足げに頷くと、ウァレに渡された付箋を貼った。色は暗闇でよく見えなかったが、ゼルベグスは気にしなかった。どうせ意味があっても分かりはしないのだから。


 ノートを閉じると、エミルカは十字架を握って「主のご加護を」と呟いた。ウァレは車イスのブレーキを外して歩き始める準備を始めた。彼の表情に多少の疲れが見えた。ここまで来るのにも大変だった様子である。


「……じゃ、行きましょうか」


 ウァレの台詞に、ゼルベグスは頷いた。






 来た道をそのまま帰る……これほど無意義なことはない。


 家に帰るならそれを苦だとは思わない。むしろ家に帰ることで、自分の時間を持つうれしさに心が躍るかもしれない。もちろんその逆の考えを持つ者もいるが、ウァレは家に帰ることを苦だと感じなかった。


 しかし、ウァレがしていることは子ども(エミルカ)のお守りと竜の護衛だ。ここまで来くなかで、かかった罠を思い出すとうんざりした。罠はもうないはずだが、それでも油断はできなかった。疲れてしまう罠はもうごめんだった。


 暗闇の中、車イスのライトが続く道を照らしている。やはり鉱石が光を反射してくれるので案外明るかった。そこだけは感謝するべき点なのかもしれない。


 しかし、問題はすぐに起きたのだった。


「……なんか、道が変わっとる?」


 エミルカの言葉は正しかった。

 さっきまでは一方通行だった道、しかし道の数が増えていた。


「あぁ、くそ……やっぱりか」


 ヘンゼルとグレーテルよろしく、パンでも道に撒きながら来るべきだったか。


 そう思いながらウァレは二度目の罠を思い出していた。


 一方通行に見えた道の死角に、もう一本の道があった。そこから音を流して正面の罠を避けられなくする罠。ウァレとエミルカはそれを突破できたが、普通の人間ならできないだろう。


 問題は、その死角の道だった。


 奥まで来るのに目の前の道のことしか見ておらず、頭が回らなかった。この洞窟は入っても出られない構造になっていたのだ。ウァレは罠にかかる魚の気持ちを知った。確かにこれでは出ようにも出られない。


 ヘンゼルかグレーテルなら……と、今になっては意味のないことも考えてみたが、ウァレにはどうすることもできなかった。


 洞窟の中は風が吹いていないし、道の構造も覚えていない。実質、彼らは迷っていた。


「……とりあえず進んでみればどっかに着くだろ」


 エミルカは進もうとした車イスのブレーキを突然かけて、ウァレが歩くのを阻止した。苛立たしげにエミルカを睨むと、彼女はウァレの袖を引っ張って睨み返してきた。


「ふぅん。そうやってウァレは白骨化するんじゃな」


「縁起でもないこと言うなよ」


 しかし、それは事実だった。道を間違えてもどこから間違えたのか分からない……つまり、後になって戻っても、どこの道から帰ればいいか分からなくなるのだ。出入り口が一つしかないわけでもないだろうが、もしそれで出られたとしてもどこへ出るのか分からないのでは意味がない。


 ウァレは必死に解決策を考えてみたが、答えは出なかった。代わりに口から息が零れるだけだった。


 洞窟の中は寒いので、あまり長くいるわけにはいかない。しかもエミルカは寒さに弱い。早く暖かいところへ連れ出してやりたかたのだが、無理に動いて迷ってしまえば動く意味がない。むしろ事態を悪化させてしまう。


「はぁ……」


「ため息吐くな。私はネガティブ成分たっぷり含んだその息が大嫌いじゃ」


「だったらどうしろと? 今の状況だと、どれだけ考えても解決策なんて見いだせないと思うのだが?」


「それは違う。私だって考えとることがあるんじゃ!」


 ウァレは首を振った。


「ダメだ。どうせお前が考えていることなんて、『洞窟を壊そう!』とか無謀なことだろ。そんなことやってみろ。一か所壊しただけで全部崩れるだろうな。適当に歩いて行ったって道に迷うしかないし、運だけでここから出ようなんて考えないほうがいい。道順を覚えているならともかく、この暗闇の中、同じような景色の中、俺たちは進めねぇだろ?」


「ち、ちが――」


「やるなら洞窟に入る前に策を立てておくべきだったけど、現状じゃどうすることもできない。何か目印でもあればいいけど、そんな目立つものがあるわけでもないし……」


「ウァレェ……」


 ぷくぅと頬を膨らませたエミルカを見て、ウァレは笑いをこらえた。


「はいはい。ミカの考えは?」


 ほっぺたをふくらませながら、エミルカはそっと地面を指さした。

 暗くてよく見えなかったが、そこに黒い塊が落ちているのが見えた。


「おぉ……グレーテル……」


 落ちていたのはレーズンだった。






 よく目を凝らしながら進まなければレーズンを見失ってしまう。だからそれを見つけるのは、三人の中で一番地面を見やすいエミルカに任せた。


 エミルカのおかげで、洞窟の奥から出口までには幾つも分かれていた道も着々と進むことが出来た。エミルカはすっかり気を取り戻しており、地面を食い入るように見ていた。撒いたもののチョイスが微妙だったせいで、存在感がないらしい。


 しかし、たとえ微妙なものでも外へ出る道に続いているのならば、今は何でもよかった。蜘蛛の糸に頼って、地獄から天国へ行こうとする彼らの気持ちがよく分かった。


 蜘蛛の糸……もとい、レーズンは転々と続いていた。エミルカがレーズンを欲しがったのはこのためだったのかと、ウァレは感心した。


 歩けないため、誰かに頼らなければならないエミルカなりに考えてしたことだろう。レーズン好きのエミルカにしては、レーズンを捨てるなんて行動はあり得ないと思ったが、万一のことを考えての行動だったのだろう。落ちているレーズンもかなりまばらだったが、出口に続いているのなら、たまたま落ちていたとしても何でもよかった。


 そして、レーズンを見つめて前ばかり見ていたせいで、彼らは気付かなかった。


「……っ! ウァレ!!」


「何? 落としてたレーズンが急に無くなったか?」


「落としたんじゃないけん! 置いたんじゃ! って、そうじゃなくて何か来る!!」


 エミルカが不自由な体をひねり、後ろを指した。ウァレたちが後ろを振り向くと、そこにブラックホールのような黒い何かが蠢いていた。


「……何だあれ……」


 ゼルベグスが呻くように言った。彼がそう言うのも無理はない。


 次第に人の形に成っていく黒いものには、気味の悪い赤い文字が這っていた。血のように見える文字は床や壁に這っていき、やがて通路を埋め尽くした。


「ミカ……あれって……」


 エミルカは頷く。


「――【呪い】じゃ」


 蠢く【呪い】が手に変形し、三人を捕まえようと飛び出してきた。


「うわっ!?」


 飛んできた手を体を横にすることで避けると、ウァレは一気に走りだした。一歩遅れてゼルベグスも走りだすと【呪い】がゼルベグスを追った。それはまるで、ゼルベグスを外へ出そうとしないかのようにも見えた。


「くっ……さすがにここまでしてくるなんて考えとらんかった!!」


「あれに当たったらまずいよな!」


「当たり前っ! ブラックホールよろしく、吸い込まれるに決まっとるがな!!」


「わ、我のせいか!?」


「「そうだよっ!!」」


 二人に否定されて、ゼルベグスは肩を落とした。


 後ろを振り向けば【呪い】に当たった部分が削れていっていた。【呪い】が通った場所は崩れ落ちて、跡が無くなっている。


「な、なんですか……あれはっ!?」


「あれは、さっきから言ってる通り、【呪い】じゃ。竜が持っとる性質みたいなもんじゃ! でも、あれはあんたを捕まえるために仕組まれたもの!! あんたを、この洞窟の奥に閉じ込めておくためのな!!」


 それを聞いて、ゼルベグスは背筋が冷えるのを感じた。


 ゼルベグスは歯を食いしばると、外へ出るために走り続けるのだった。

       

              †4†


「……竜を解放、ですか」


 ウァレはダニエーレを冷たい目で見た。彼のたるんだ皮膚が酷く目障りに感じて、彼の顔を隠すようにコーヒーを呷った。


「ああ。俺が犯した罪を……どうか晴らしてくれないか?」


「嫌じゃ。あんたが犯した罪なら、それは全部自分で償うべきじゃ。私たちは便利屋なんかじゃない。都合よく自分の罪を人になすりつけるとか……そんなん人間として終わっとるわ」


 冷たく言い放って、やっと彼に目を向けたエミルカは、ケーキの最後の一切れを口に入れた。フォークを皿の上に置くと、イスの上でに横になって眠り始めた。どこまでも自由な奴である。


 ウァレはエミルカの髪を愛おしげに撫でると、微笑んだ。視線をエミルカに向けたまま、彼は言った。


「俺はこの子を危険なことに巻き込みたくない。ミカがやらないって言ったことは絶対にやらないのが俺だ。だからダニエーレさん、あなたの依頼は受けられない」


「しかし、あなたたちは『竜と人を繋げる者』――【猫ノ狐】のはずだ。人と竜が困っているなら、それを叶えるべきではないのか?」 


 ダニエーレがヤニのついた歯を大きく広げて笑った。ウァレは心底嫌そうに頭をおさえた。


「……俺たちはあなたが思っているような便利屋じゃない。それに、エミルカは人の罪をかぶるために存在しているわけじゃない。あんたの罪を、何で俺たちが被らなければいけないのでしょうか?」


「かははっ! いいな、その友情は! しかし、【猫ノ狐】というものは、俺たち(・・・)みたいな可哀想な奴を助けるために存在しているんだろ? だったら俺たちを助けてくれよ」


「違う。あなたは自分が助かりたいだけだ。人に罪をなすりつけてでも、自分だけが助かればいいと思っている」


「それの何が悪い? 自分が助かるために、他人を利用して何が悪い?」


 ダニエーレの台詞一つ一つに腹が立った。今すぐ殴り倒してやりたいという衝動を抑え、ウァレは無表情を通した。仮面に隠されているのでその表情も読めなかったが。


「俺は生きてきた永い人生の中で、一度たりとも自分が悪いと思ったことはない。それは、かつての親友を裏切った時もそうだ。あいつはあのまま呪われ続けていればいい……と思っていたんだがな。どうにも最近、奴の夢ばかりを見る。これは何かの暗示かもしれん。もしかすると、奴が持っていた富を手に入れられるのかもしれない」


「……」


「あいつを呪ったのは俺だ。洞窟の奥に閉じ込め、人間をやめさせ、延命させたのは俺だ。そして……くははっ! あいつは竜になっちまった!! あれはもう傑作だな!! だから金も女も何もいらねぇだろうよ! あいつは優しいからな。俺みたいな恵まれてねぇ奴に、それを与えようとでもしてくれたんじゃねぇのか!?」


「あんた、最低だな」


「ふっ、それで結構だ。俺みたいな老いぼれにはふさわしい称号だよ」


 ダニエーレはひとしきり笑うと、ふいに席を立った。机の上に金貨を置き、ウァレたちを無視して出口へと足を向けて扉を開けた。振り返らないまま、彼は背中越しに呟いた。


「お前たちは助けるべきだ。少なくとも、奴だけでもな……」


 チリン……と、渇いたベルの音を響かせながら扉は閉まった。


 ウァレはエミルカの髪を優しく撫でた。薄眼を開けたエミルカは、哀しげな声で小さく言った。


「結局助けたいんじゃがん……」






 レーズンを見ながら外へ出るわけにもいかなくなった。


 後ろからは今もまだ【呪い】が迫ってきている。そのため、ただでさえ暗い道がさらに暗く感じるのも仕方がなかった。真っ黒の【呪い】が天井や壁を這って移動し、隙あらば攻撃を仕掛けてくる。その攻撃をぎりぎり交わしながら進んでいくのにも限界があった。


 そもそも黒という色は、不吉や恐怖、そして死の象徴だ。それから逃げるのは、リストラから逃げるサラリーマンの如くであろうか。黒が蠢くというのは、一種の昆虫を思い出してしまうが、今は呑気にそんなことを考えている暇はなかった。


 【呪い】は姿を変えて、人の形をしたり、手の形をしたりして、壁を這って移動し続ける。その速さもなかなかのもので、まるで猟銃を構えた猟師のように、狩りを楽しんでいるかのようだった。


 エミルカは走らないので疲れを知らないが、自分だけ何もできないということに多少の罪悪感はあった。車イスが揺れて酔ってしまいそうだったが、必死に逃げるウァレの様子を見ると文句の一つも言えなくなった。彼女は首から提げた十字架に「主のご加護を」と祈ることしかできなかった。


 ウァレとゼルベグスは必死に【呪い】から逃げていた。【呪い】に捕まった時、自分の身に何が起きてしまうのかを想像して、背筋が凍りそうになった。


 振り返るのさえ躊躇われるなかで、道の先に分岐した道が見えてきた。走っているせいで、ウァレにはレーズンが見えなかったが、エミルカがしっかりした声で「右!!」と叫んだ。エミルカが言った通りに、ウァレは右の道へと駆け抜けた。


 ズオンッ!! という鈍い音がして、洞窟の壁が削れた。右へ切り返したので、勢いのついた【呪い】が壁にぶつかったらしい。ガラガラという岩が崩れた音がして、後ろを振り向かなくとも壁が削られたことが分かる。


「ミカ! このまま走ってても意味ないような気がするんだが!?」


「出口まで頑張りぃ! あの【呪い】は、影を触媒にしてできとる!」


「日の当たるとこに行けば、あの【呪い】は消えるってことか!!」


 ウァレはそう理解し、次の分岐点をまっすぐに進んだ。


「……本当に、何でここまでしたんじゃ、ダニエーレ……」


「ダニエーレ……あいつは結局何なんだよ!」


「元兵隊って言っとったじゃろ。ただ、ちょっと変なことに首を突っ込んで変なことを起こした挙句、今の現状を作りだしただけじゃ!!」


「その……ダニエーレって誰ですか?」


 ゼルベグスが弱腰にそう尋ねると、ばつの悪そうに顔をゆがめて口を閉ざしてしまった。彼がこの【呪い】とやらに関わっているのには違いなかったが、ゼルベグスに思い当たる節はなかった。ただ、やはりその言葉が妙に引っかかるのだ。


 少しして、エミルカは小さく呟くように言った。


「……ダニエーレは、知らんほうがええ奴じゃ。でも、これは覚えといて。あんたを助けたがったのは、そのダニエーレってやつ。ま、自分の罪を他人に任せるっていう嫌な奴だったけどね」


「知らないほうがいいって……」


 ゼルベグスは知りたがったが、2人ともそれ以上話してはくれなかった。疑問を持ちながらも、今は自分の命を優先すべきだ、と再び前を向いて走りだした。


 赤や緑、青の鉱石が光を反射しあって幻想的な空間を作り出す中、黒い【呪い】がそれらを埋め尽くしていく様は、星を喰らうブラックホールにしか見えなかった。後ろを振り返られない分、どこまで近づいてきているか分からないので恐怖も倍増した。


 音だけを頼りに【呪い】との距離を測りながら進んでいく。車イスが跳ねて乗っていたエミルカが強く尻を打つが、それすらも気にしていられない。恨めしそうに涙目で睨んできても気にしない。


 しかし、なかなか出口が見えてこない。


 頼りのレーズンも、天井から落ちてくる石と見分けがつかなくなってしまっていた。だから今は感だけを頼りに進んでいる。足を止めてじっくり考えている暇はなかった。そして、一手でも間違ってしまえば、すぐに【呪い】に捕まってしまう。


 いや、もう遅かったかもしれない。


 道がこんなにも長くはなかったと思うし、途中で見た白骨も見当たらなかった。どこかで道を間違ってしまった可能性がある。


「くそっ……でも仕方ないよな!」


「間違ったらいけん!!」


「無茶言うな!」


 その時、目の前の壁が崩れた。

 後ろから伸びた【呪い】が形を手に変化して、天井を穿ったらしい。


 落ちてくる岩を避け、三叉路を右へ行った。やはり白骨はない。


「ミカ! 何とかしろ!」


「むぅ~……どうすれば……」


「早くしてくれないと、我たちは捕まってしまうぞ!? 捕まるのは嫌ぞ!!」


「うっさい! そのでっかい図体は見た目だけなんか! その無駄にでかい図体で、あいつを体張って止めてみたらどうじゃ!!」


「無茶言わんで下さいよ!」


 無茶なことを言っていることは、エミルカ自身にも分かっていた。解決策を見いだせないイライラから、彼女はかなり焦っていた。


「これ以上、結果が最悪になるんなら……最悪な手段も使わんといけんか……」


 しかし、その最悪の手段を使う決心はエミルカにはなかった。


 彼女が何を迷っているのか、ウァレには分かっていた。だから彼はエミルカを守るために走り続けていた。正直、エミルカを置いていったほうが生存率は上がるのだ。彼女はこの場においてあまりにも役に立たない。


 ウァレはそれでも彼女を置いて行こうとはしなかった。彼らにはそれだけの信頼関係があった。


 二人が何を考えているのかを知らないゼルベグスは、自分の記憶について考えていた。彼はいつの間にか竜になっていて、それ以前の記憶がない。彼ら二人が現れるまで、ゼルベグスは自分が人間だったことすら忘れていた。


 彼は洞窟から出ることで何かを思い出せるのではないかと考えていた。人間のころの記憶を取り戻すために、彼は【呪い】に捕まるわけにはいかなかった。


 各々、考えることは別だったが、目的は同じだった。それに、この先で待っていたピンチも同じだった。


「なっ……行き止まり!?」


 ウァレたちの前に立ちはだかったのは、岩の壁だった。その岩に鉱石はなく、ついさっき落ちてきたもののようにも見えた。


「っていうか……これ、ウァレが壊した奴じゃん」


 エミルカが言ったことは正しかった。この岩は二番目の罠で使われた岩だ。どうやら、道を間違えて遠回りにたどり着いたらしい。


 しかし、今から来た道を戻るわけにもいかない。何かできないかと後ろを振り返ったウァレだったが、【呪い】は目前に迫っていた。その姿を人間のように成した時、ウァレは自分の背中に嫌な汗が流れるのを感じた。


 【呪い】はあざ笑うかのようにその身体をくねらせた。来た道はもう崩れ落ちてしまって、何も見えなかった。この【呪い】をどうにかしても、戻れそうになかった。


「クゥワリズヴェラヴァズィ!!」


「何言ってんのか分からねぇけど……どうやら俺たちは笑われているらしいな」


「ほんっまに気持ち悪い! 近づくな!!」


 手を振って追い払おうとするエミルカに、【呪い】は手を伸ばした。間一髪、ウァレがその手を防いだが、彼の手に突き刺さった【呪い】が身体を蝕み始めた。すぐに【呪い】を手から引き抜くと、ウァレは手をおさえて唸った。


「ぐぅ……」


「ウァレ! バカなことすんな!!」


「お前が煽るからだろ!!」


「喧嘩しないで! 今はそれどころじゃないでしょ!?」


 【呪い】がゆっくりとその腕の部分を鎌へと変化させた。首を刈ろうとしているかのように、刃先をゼルベグスに向けた。ゼルベグスは動かず、鎌を見ていた。


 鎌の反対側の手に当たる部分が五本の指を現し、親指で自分の後ろを指した。


 奥へ戻ってじっとしていろ、と……【呪い】はそう言っているのだ。


 ウァレは理解した。ゼルベグスが今まで外へ出られなかったのかを……そして、彼の記憶が消えていたのかを。


 ゼルベグスはじっと暗闇へと目を向けた。その先に戻れば、自分は再び誰にも会えない日が続き、記憶も薄れてしまうだろう……。周りに誰もおらず、動物さえも逃げてしまう、あの寂しい檻へと戻れば。


 しかし、これ以上逃げ出そうとすれば、ウァレもエミルカも殺されてしまう。さらには自分も……。孤独で生きていくしか、ゼルベグスには残されていないのだった。この【呪い】をかけた者は、かなり彼を憎んでいたのだろう。


 ふいに、腹の底から怒りと悲しみが込み上げてきた。


 ここへ閉じ込められた怒り、そして誰にも会うことが許されない悲しみ。

 誰かを巻き込んでしまった怒り、それらは自分が原因であるという悲しみ。


 どうしようもない感情――しかし、彼は赦せなかった。


 赦せないあまり、彼の目から涙が伝っていた。何で自分が泣いているのかも分からず、ゼルベグスは困惑した。


「ああ……くそ……我は自由になりたかっただけなのに……」


 ウァレはその様子を静かに見守っていた。 

 呪われた手は痛かったが、彼の心の悲しみを考えると、その痛みはあまり強くないと思った。


 ゼルベグスはあまりにも哀れだった。彼を見ていられず、ウァレは仮面を撫でた。


 かつての親友に裏切られ、人間を辞めさせられた。記憶が薄れて無くなってしまうほど、彼は洞窟の奥でじっと……孤独に生きていた。食事もできず、空服の苦しみすら忘れてしまった。


 涙を流して【呪い】を見つめるゼルベグスが、足を一歩【呪い】の方へ動かした。


「ゼルベグス……また独りになるつもりか」


「あぁ……でも仕方ないだろ。我一人の犠牲で、ここまで助けに来てくれたあんたたちが救われるなら……我はそれでいい」


「本心じゃないじゃろ!? 救われたいけんここまで来たんじゃろうが!!」


「……」


 ゼルベグスは答えない。彼はもうすでに自分の答えを決めていたのだ。


 この先もずっと独りで生き続ける【呪い】を受けて生きると――彼はそう決めたのだ。


 だから一歩、二歩と……足を進めて【呪い】の腕に抱かれようとしている。


 止めないと、今度こそゼルベグスが独りになってしまう……でも――。


「待ってよ!」


 エミルカが手を前へ出した時、【呪い】が彼女の手に襲いかかった。


「きゃっ!?」


 ガシャン! と、車イスごとエミルカがなぎ倒された。ゼルベグスに向けられた手が、【呪い】で貫通していた。傷口からどくどくと流れ出る血を見つめて、ゼルベグスはさらに悲しくなってしまった。


 それでも彼女は諦めない。


 不自由な足を犠牲にしてでもゼルベグスを助けようと、エミルカは手を突きだし続けた。


 その手に、再び【呪い】が襲いかかった。恐ろしく速いスピードで迫った【呪い】を、ウァレが足でけり飛ばそうとした。しかし、結局足に貫通してしまい、彼は足を抑えて呻いた。


「ぐぁ……」


「ウァレ!!」


「何で……そこまで……」


 振り向いたゼルベグスの視線の先で、ウァレは立ちあがった。肩で息をしているウァレに、【呪い】は容赦なく襲いかかった。鋭くとがった【呪い】が、ウァレの体中を貫く。


 手が動かなくなり、 

 足が動かなくなり、

 腹が穿たれ、

 頬が抉れ、

 肩が無くなっても――


――ウァレは決して膝をつかなかった。


「はぁ……はぁ……」


「なぜですか……我がここからいなくなればいいだけなのに……なんであなたたちはっ!?」


「ウァレ……願って……」


 弱弱しく呟いたエミルカ……倒れた彼女の頬には、ウァレの血がべっとり付いていた。彼女はそれを拭うことをせずに、首から提げた十字架を握るのだった。


「絶対に、助けるんじゃ……依頼者はくそヤローでも……絶対に助けるんじゃ……じゃけぇ――」


 エミルカは叫んだ。


「……ウァレ、祈れ!!」


「……」


 ウァレは何も言わず、静かに仮面を外した。


 ウァレの素顔を見たゼルベグスは、絶句した。


 仮面で隠されていた右上以外の部分が、焼けただれていたのだ。眼球の無くなった左目は窪み、口からは鮮血が流れている。茶黒くくすんだ肌は腐りおち、ウジ虫が湧いていた。


 そして、彼の額には十字架の形をした紋様があった。


 ――否、そういう形に彼は竜に呪われて(・・・・)いた。


 ウァレはその十字架の部分を手でさすり、口から血を流しながらゆっくりと言葉を――呪いの言葉を紡いだ。


 続けてエミルカも左側の欠けた十字架を掴んで言葉を――祝福の言葉を紡いだ。


「――至誠(Verbum )なる(Dei )主の(factum )言葉(est:perii)

    我は(Nunc )(sumus )(in )りて(magia)――」


     「――(In )心なる(corde )(puro )言の(verbo )(Dei )

         |ただ、《Beaedictio 》(,)童≫へ(datum )(est )(ei )(ut )し者(filii)――」



  「「――――【魔童】(Curse)――――ッッ!!」」






一瞬、何が起きたのかわからなかった。

ただ、強い閃光が走ったかと思うと、目の前に異形の姿をなした二人が立っていたのだ。


 車イスの少女……エミルカの尻尾は二つになり、キツネの耳が成長していた。頬からは針金のような黒いヒゲが生え、瞳が強く赤く光った。


 仮面の男……ウァレの顔の中心から黒い刻印が体中に這い、悪魔のように尖った耳と牙が生えていた。エミルカが赤だったのに対し、ウァレは黒い霧のようなものを纏っている。


――明らかに彼らは人間ではなかった。


「ゼルベグス!」


「は、はい!!」


 姿を変えても歩けないエミルカは、倒れた状態のままゼルベグスに怒鳴った。


「お前が願ったこと、叶えちゃる。ただし、その祈りは完全には届かん!!」


「え……」


「祈れば全部が叶うと思うな。でも、誰も傷つけるな(・・・・・・・)


 最後のほうは消え入るように声が小さくなっていた。エミルカは頭を振ると、正面の【呪い】たちを見た。明らかに動揺した風に、黒い物体が蠢いていた。


「グワァァッチザッゲルヴィィナ!!」


「何言ってんのか、全く分からねぇけどよ……」


 ウァレが手を掲げた。その手に身体中の刻印が集まっていった。


「そこにいる竜さんは……これから自由になるとこなんだよ……」


 ウァレが一歩前へ進むと、【呪い】がひるんだように蠢いた。


「友から裏切られ、人間をやめさせられ、記憶が擦り切れるほど長く生かされて……辛い感情を押し殺して今を生きてんだ」


「それを未だ捕え続けるなんか、あんたたちには赦されとらん! 私は……私たちは、ゼルベグスを助けるんじゃ!!」


「何で……我なんかのために……」


 自分が助かることしか考えていなかった自分のために……何でそこまで……。


 ゼルベグスは後悔した。この二人が本気で自分を助けようとしてくれていたのに、自分はそれを利用していた気になっていた。自分が助かるのが当然だと、そう思ってしまっていた。


 何で自分がそう思っていたのかを知らなかった。ただ、人を信じられずにいたことは事実だった。


 それなのに。


「それなのに……我は……」


「嘆くな、助かれぇっ!!」


 ウァレが【呪い】に向かって、自分の腕を這う黒い刻印を放った。


 陽と陰を反転にする呪いを――。


 【呪い】の赤い刻印が脈打つようにドクンっと瞬いたのち、爆発しそうなほどに体積を膨らませた。ウァレの刻印が【呪い】を蝕むほど、それは膨らみ続け……やがて限界を迎える。


「何しとんじゃ、バカ!!」


「あははっ!」


 ゼルベグスを捕える(・・・)【呪い】は、ウァレの【呪い】によって反転し、全てを解放(・・)する【呪い】へと変質した。


 数秒もしないうちに、【呪い】が洞窟を爆破した。


 ドオォォォオオォォオオォッっという轟音とともに、天井が、壁が崩れ落ち、その向こうに広がった世界が見えた。【呪い】の姿は跡形もなく消し飛んでいた。


 ゼルベグスはとっさに自分の身を翼で守った。だからウァレとエミルカのようすは窺えなかった。


 洞窟が無くなるまでには、そう時間はかからなかった。その中でゼルベグスは、一つの事実を思い出して歯を食いしばった。






 その光景は、久々に見た外の世界だった。


 夕日が山に囲まれた街を暖かく照らし、鳥たちが空を横断していた。山の上から街を見下ろす形で、洞窟はあったらしい。しかし、その洞窟も今は土の中だった。


 ゼルベグスは感激に身を震わせた。


「……ゼルベグス、これで私たちの仕事は終わりじゃ。あんたはこれで自由になれたんじゃ」


 ゼルベグスが振り向いた先では、エミルカとウァレがいた。二人とも、元の姿へと戻っている。全身ボロボロになりながらも、洞窟の崩落を何とか凌いだらしい。


 ただ、その表情は少し憂いを帯びていた。


「……ゼルベグス。これで本当によかったのかは私には分からん。……でも、ここで生き残れたんじゃけん、あんたも生き残らないといけんよ。そして、それはほかの人も――」


「あぁ、分かっているさ」


 ゼルベグスは夕日を背に、翼を大きく広げた。その翼は今にも崩れてしまいそうなほどにボロボロだった。


 ふいに、ゼルベグスの視界から右側が消えた。どういうわけか、右目が落ちたらしい。しかし、今の彼はそれを気にしていない。


――気にしているのは、ただ一つの事実のみ。


「思いだしたんだ。ダニエーレという人物が、誰なのか……」


「っ! ダメだ……ゼルベグス!!」


 ウァレが彼の腕を引っ張った。直後、ズルッと音を立てて服を脱いだように、皮が剥がれた。痛みは感じなかった。それどころか、心臓の鼓動すらも感じない。それでもゼルベグスはただ一つの事実と……その仇にしか興味がなかった。


「ダニエーレ……ああ、かつての親友よ……」


 ゼルベグスが、朽ちかけの翼を大きく羽ばたかせた。


「――今すぐ殺してやるわっ!!」


「行くなっ! ゼルベグスゥゥッ!!」


 ウァレの制止を振り切り、ゼルベグスは空へ飛び上がった。


 そうして、ゼルベグス……ドラゴンゾンビは二人の前から姿を消した。


        †5†


 ある日の公園に、人だかりが出来ていた。


 そこでこの街初めての殺人事件が起きたそうだ。


 曰く、公園で二人の男の遺体が発見されたのだと。


 片や恰幅のいい、如何にも成金そうな老人。

 片や腐った皮膚をし、ウジの湧いた男。


 二人に共通して言えることは、「数百年長く生きたかのように、体組織が死んでいた」ということだった。鑑定してみると、約167年分もの体組織が死んでいたそうだ。ただ、老人のほうは腐っていなかったため、妙な遺体だった。


 さらに、片方の男からは血が流れていたのにもかかわらず、もう片方の男は傷すらなかったという。ただ、腐った皮膚の下には骨すらなかったらしい。まるで、どこかの洞窟に忘れてきたかのように。


 老人の男の胸には刺傷があったが、凶器は見つからなかった。


 こののち、この事件は老人がかつて殺した人物をどこかへ運んでいる間に、自分が殺されてしまった――ということにされた。


 その公園へたまたま通りかかった車イスの少女は、冷たく呟いた。


「自業自得じゃ、二人とも……」


 少女の手には一冊のノートが握られていた。


 新しくできたページには、憎しみ合った二人の男の名前と――


 まるでその最期を示したかのような黒い付箋が貼ってあった――。



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