閑話 女獅子、目覚める
【《獅子姫》視点】
「はっ…」
静かな吐息だ。
その静かな声と同時に、彼女の目の前の落ち葉が十字に分断される。
自然の現象ではない。
目に見えない鋭利な“何か”に瞬時に切断されたのであろう。
「…お見事でございます《獅子姫》様」
そのとき、その女戦士の背後からパチパチと乾いた拍手が鳴る。
音も無く人の気配が現れる。先ほどまでは誰もいなかったはずの空間だ。
外見は黒ずくめで軽武装の男。
だが怪しい者ではない。自分が幼い頃から、この城に仕えている歴戦の護衛の戦士である。
「父上なら六つに…いや、八つの欠片に分け斬ることが出来るであろう」
《獅子姫》は自分の腰に差す剣を見つめながら、そう呟く。むしろ父上なら、こんな“葉切り”など稚技に過ぎんと笑い捨てるかもしれん。
「それにあの男…《魔獣喰い》なら、この蚊虫の目玉さえも矢で射ぬくかもしれんな…」
そう言葉を吐きながら、《獅子姫》は呟き抜刀する。点ほどに見える舞う蚊を向かって。
「ほう…これまた、お見事…腕を上げましたな」
黒ずくめの男が感嘆したように、両羽を中心に小虫は一刀両断される。だが剣先に微かな迷いがあった。“目玉”を切り裂くには至らなかった。
「姫様…失礼ですが、あの小僧…《魔獣喰い》とやらに執着し過ぎかと」
黒ずくめの男は無礼を承知で、我が主に進言する。
つい先日の幻獣狩りで一緒に同行し、その目で実際に観察してみた。だが彼の男は弓矢に多少優れるものの、それ以外の剣技や隠密などは凡庸な男であった。あの程度の訓練生などこれまで吐き捨てるほど目にしてきた。
「お前はあの幻獣“猿王”を仕留めたときの、奴の…《魔獣喰い》の矢筋を見ておらぬからそんな事を言えるのだ…」
自分で説明をしながら《獅子姫》は右手が震える。“猿王”の後ろ脚で蹴り飛ばされながらも、自分が目にした光景を思い出しただけでもぞっとする。
「あれほど他人を恐ろしいと思ったのは、《獅子王》以来じゃ…」
「《獅子王》様と同等とは…」
いつもの姫の冗談かと思いきや、彼女の顔は真剣そのものだ。いつも自信と才気に満ちあふれていた主のこんな顔を見るのを、男は初めてであった。
《獅子姫》は思う。
客観的にみてもあの男に自分が劣るところは何もないだろう。弓技の差も気にする程度ではない。
だが、実際に彼の男、《魔獣喰い》と一対一で命を賭けた勝負をしたなら、自分が勝てる想像の絵が浮かばない。それは戦士にとっては、致命的な迷いとなるだろう。それ程までに《魔獣喰い》という男は底が見えない。
「ふう…我の相手をするのじゃ…」
その言葉を同時に、黒ずくめの男の目の前に鋭い切っ先が向けられる。《獅子姫》の剣先である
稽古をつけろというには少し強引な挑発だ。
「剣の稽古でございますか」
「いや、命の取り合いじゃ…」
凶暴な獣のような殺気が、《獅子姫》から放たれる。
「お言葉ですが、姫はまだ若い。あと数年もすれば、この私など軽々と越えられる逸材でありましょう…ですが…」
男は腰に差した剣の柄にそっと手を置く。
「私は姫の護衛の任の者…それが主より弱くて何と言えましょうか」
男はやや短めの剣を音も無く抜き取る。見る者がぞっとする動きだ。
殺気は一切無い。
だがこの男の剣が自分の知る誰よりも、多くの血を吸ってきたことを、その警告を《獅子姫》は父から聞いていた。
“この黒装束の男だけは敵に回すな”と。
大森林最強の戦士が…いやこの大陸最凶と恐れられた父が言ったのだ。
「ふふふ…さすがはこの大森林でも数少ない、《獅子王》と数刻も打ち合ったと言われる、強者の放つ殺気じゃ…」
「あの時は若気の至りです…今ならどうでしょうか…」
謙遜しながらも、この黒ずくめの男の実力は底が知れない。
何しろまだ自分が産まれる前から《獅子王》の側に仕え、その背中を守ってきた歴戦の隠者で戦士であるのだ。対峙するだけで嫌な汗が背中を流れる。
「我のことも、先日までの阿呆な《獅子姫》だと思うなよ…今は目標に向かい健気に努力する乙女なのじゃ」
「なるほどですね…これは…“森獅子三日合わずんば、括目して見ろ”ですな」
先ほど殺気剥き出しの《獅子姫》の剣気の“質”が、大きく変わる。
荒々しいが凪の水面のように静かだ。
それでいて寸分の迷いがない、朱色の剣気である。
「では、《獅子姫》…参るぞ!」
そう叫びながら《獅子姫》は効き足で踏み込み、剣を振るう。今の自分が繰り出せる渾身の一撃だ。
恐らくは、この歴戦の戦士には敵わないだろう。
だが、一太刀でも当てることが出来たなら、自分は更なる高みへと辿り着く。戦士として、そして女として。
自分より遥かその先を進む、《魔獣喰い》という漢の背中を掴むために。
《獅子王》「ん、お主、その傷はどうした?」
黒装束の男「これですか…成長の証でございます」
《獅子王》「お前ほどの男に一太刀浴びせる者がおるとはな…面白いのう」
黒装束の男「御冗談を…獅子の子はまた獅子でありましたよ…女子の身であっても」
《獅子王》「そうか、任せてばかりで悪いな…」
黒装束の男「いや、これもまた任ゆえ。酒の一献でもあれはこの傷もすぐに治りましょうぞ」
《獅子王》「そうか…なら昔みたいに、酌み交わすか」
黒装束の男「今宵ばかりは、そう甘えさせていただきます…」




