素直な彼とひねくれ者
今日は朝から頭痛がした。
思い返してみれば、ここ何週間か体調が悪かった気もする。
手にしている妊娠検査薬は、陽性の結果を示していた。
どうしようかな。
佐々木美由希、今年で27になる。
付き合ってもう6年になる彼氏がいる。彼は私の1つ上で、大学のサークルで出会った。
今さら彼氏にときめく事もほとんど無ければ、これと言って別れるような理由も無い。
一言で言ってしまえばマンネリだ。これだけ長く付き合っていると情も出てくる。
以前結婚の話が出たこともあったが、2人して「まぁ、まだいいか」という結論になった。
そのままだらだらと、気づいたら付き合って6年になっていた。
お互い働いているので、会うのは週末がほとんどだ。
出版社で働いている私は、去年からようやく自分のページを担当させてもらえるようになり、
平日は忙しくて会う暇が無い。
貿易会社に勤めている彼の方も、仕事が楽しいらしい。
頻繁に会えないことへの不満は、お互いに今のところ無く続いている。
彼に何て言おうか。
電話か。いや、直接の方がいいかな。
家を出る前に電話をすることにした。
―もしもし、美由希?
―宏人?あの、さ
話したいことあるんだけど、今日会えないかな?
―え、なに急に。何か怖いなあ。
俺、定時には終わるから美由希の家行こうか?
―私が行くから大丈夫。多分私の方が終わるの遅いし。
9時くらいには着けると思うから。
じゃあ、また後でね。
―うん。また後で。
20時前には仕事に切りがついたので、思ったより早く会社を出ることができた。
宏人の家は、品川から電車で20分ほど。駅からは歩いて15分程だ。それほど遠くない。
確か去年結婚した友人も、子どもができたからだと言っていた気がする。
きっかけなんてこんなものなのかもしれない。
初夏の生暖かい風に吹かれながらそんなことを思う。
私はこの時期の気候が好きだ。気温も匂いも。
この時期の風はやたらと強い気がする。
湿気を含んだ生温い風に吹かれていると、そのまま何所かに飛んで行きたくなる。
きちんと立っていないと飛ばされてしまいそうな切なさが好きなのだ。
病院にはまだ行っていないので、確実にいるとはまだ言えないが、
自分の体内に子どもがいることへの実感が湧かなかった。
お腹だってまだ全然膨らんでいないし。体調も少し不調とはいえ、普段と何も変わっていないのだ。
病院へ行き、確証を得る前に考える時間が必要だと思う。お互いに。
色々考えていたら本当にすぐに着いてしまった。
「ただいま。」
「おかえり。思ったより早かったじゃん。」
「うん。締め切りはまだだいぶ先だからね。今日は取材も無かったし。」
「そっか。先にご飯食べる?」
「そうだね、そうする。お腹空いた。」
私の家なら私がご飯を作るし、宏人の家では宏人が作る。
いつからかそれが通例になっていた。
今日はアボカドを使った丼物だった。私の好物だ。
彼なりに機嫌を取っているのかもしれない。
可愛いと思った。
食事中は何となく気まずい感じがした。
宏人は話が始まるタイミングを伺っているようで、私も私で他の話題が見当たらない。
「あのさ。私、赤ちゃんができたよ。」
突然すぎるとは思ったけれど、これ以上黙っていられなかった。
アボカド丼を見つめながら、宏人の言葉を待った。
返答がなかなか無いので顔を上げた。
宏人は泣いていた。
「どうして泣いているの?」
思わず笑ってしまった。可愛いと思った。
「わからない。あまり見ないで。」
何だかほっとした。
宏人は私と違って素直だから。どうしたって分かってしまう。
彼は多分嬉しいのだ。ものすごく。
「あのね。
赤ちゃん、作ろうと思ってできた訳ではないでしょう。お互いに。
下ろす下ろさないは私が決めます。
私はきっと産むと思う。
だけど、父親になるかならないかは、宏人が決めるべきだよ。
私には宏人を縛る権利はないから。」
アボカド丼を見ながら伝えた。
私はひねくれていると思う。
「何言っているの?
俺、嬉しいよ。俺と美由希の子どもでしょ。」
「わかってる。でも、結婚して親になる事って本当に決意がいることだと思うの。
結婚したらこの先何十年も一緒に生活して、お互いの死も共有することになるでしょう。
今だけ良くても駄目なんだよ。きちんと考えてから決めないと。」
彼には答えが出ているようだった。
彼は素直で、私はひねくれているから。
「私ね、まだ病院には行っていないの。検査薬の結果だけ。
今週末に病院に行こうと思ってる。だから、それまできちんと考えてみて。」
その日は泊まらずに自分の家に帰ることにした。
宏人は心配だから送ると言って聞かなかったが、
今日はお互い距離を置くべきだと思った。
私たちは情で繋がっているから。
これは情だけで決めて良い問題ではないから。
宏人は私が帰る間際まで喜んでいるようだった。
本当は私も嬉しい。
以前から子どもは欲しかったし、宏人とはこの先も一緒にいるのだろうと思っていたから。
でも、こんなに突然に
こんなに呆気なくそれが訪れるとは思っていなかった。
結婚だって
子育てだって
人生だってそんなに甘くないのだ。
そんなに簡単に決めていい訳がない。
彼の家を出てすぐメールが来た。
《俺さ、前から決めている名前があるんだけど。》
可愛いと思った。
気づいたら笑顔になっていた。
本当は私も嬉しくて、
本当は彼が大好きなのだ、ものすごく。
すぐに返信していた。
きっと明日にでも病院に行くだろうと思う。
《私もあるよ。決めている名前。》
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