1)
私は今、森の中にいる。今の今までは大講堂で有機化学の講義を受けていたのに。呆然とする私を笑うように風が頬を撫でた。これは夢だ、と主張するには無理があるように思った。頬を撫でる風も、鼻をつく緑の臭いも、何もかもがリアルなのだ。
しかし、一瞬のうちに森に移動したという体験は、私にとってあまりにも非現実的すぎた。今森の中にいるということが現実だとしても、それはやはり私にとっては非現実以外の何物でもないのだ。
そんなことを考えながら―実際には何も考えていない時間の方が多かったが―、私はどのくらい立ち尽くしていただろうか。少なくとも1時間くらいはそうしていたように思う。いつのまにか大学に戻っていた、という状況を心のどこかで期待していたのかもしれない。いや、信じていたのだと思う。
しかし、そろそろ突っ立っていても埒が明かないことを認めなければならないかもしれない。何か行動をしなければならないだろう。特に何か出来ることもないこともないので、とりあえず森の中を歩いてみることにした。緑がとてもまぶしいから季節は初夏かもしれない。何気なく大きく息を吸ってみると、ひどく懐かしいような気持ちがした。このような気持ちは久しぶりだと思う。その時、ふと気付いた。
「あっ、どうしよう。私、結構まずいことになっているかも。」
口にすると、身体の奥から不安が湧き上がってきた。どうしよう、どうしよう、と一人頭を抱えて森の中を走った。自分一人でどうにかしなければどうにもならないという現実を前に、私はパニックに陥ることしかできなかった。何もない自分だけの時間がこんなに恐ろしいものだとは思わなかった。考えることを放棄できない世界があるなんて思ってもみなかった。
しかし、知らない場所に一人でいることに対しての混乱はそう長く続かなかった。森の中を走っているうちに私は見つけてしまったのだ。血まみれで、倒れている人間を。
何、これ――――
最初に思い浮かんだのはそんな酷い言葉だった。他の言葉など出て来なかったし、もちろん何をするべきかも思いつかなかった。今思えば考えようともしていなかったのかもしれない。ああ、血まみれだ、と。まるでテレビを見ているかのように、目の前にあるその血まみれ人間をただ見つめているだけだった。
「………誰だ…?」
人の声がすることなど思ってもいなかったため、いきなりの声にひどく驚かされた。見れば、血まみれのその人は起き上がろうとしていた。
「お前は誰だ?」
生きていることにさえ動揺していた私に咄嗟の言葉が出てくるはずもなく、私はただ黙ってその人を見つめていることしか出来なかった。
「…答えろ。お前は何者だ?…やつらの仲間か?」
結局、彼は立ち上がることができず、木の幹にもたれて座った。そして、真っ直ぐに私を見据えて言った。
「今の俺は、お前のような小娘にも歯が立たない。……殺すなら殺せ。」
この人はひどく弱気なことを言っているはずなのに、私は彼に圧倒されてしまっていた。生きてきた21年間でこんなに人を怖いと感じたことはなかった。それはもちろん血まみれの人間に出会うのが初めてだったからだと思うが、彼からひしひしと感じる強い意志がその恐怖を倍増させていたのかもしれない。
元より私は彼を殺すつもりなんて全くない。だから助けなければならないと強く、強く思った。いや、思わされたのだった。