家族に捧げられた私、なぜか教祖様に気に入られて囲われました
その教えが流行り始めたのは、半年ほど前のことだった。
「救われたい者は、すべてを捧げよ」
たったそれだけの言葉が、貴族たちの間で静かに広がった。
最初はただの噂だったはずなのに。
気づけば、父も、妹も――深く傾倒していた。
「セシリア。あなたには分からないでしょうけれど」
ルミナが微笑む。
「“選ばれる”というのは、とても尊いことなの」
その目は、どこか熱を帯びていた。
(……変わってしまった)
そう思ったのは、一度や二度じゃない。
けれど私は、何も言えなかった。
元々、この家での私の価値は低い。
魔力も少なく、社交も不得手。
“いないもの”として扱われることに、慣れてしまっていた。
だから。
「――今夜、お前を捧げる」
そう告げられた時も。
驚きはあっても、反論はできなかった。
「……私を、ですか」
「光栄に思え」
父は当然のように言う。
「教祖様に直接差し出せるなど、名誉なことだ」
隣でルミナが、羨ましそうにこちらを見る。
「いいなあ、お姉様。私もいつか……」
(……羨ましい?)
その感覚が、理解できない。
でも。
ここで拒めば、どうなるかは分かっている。
「……承知、いたしました」
そう答えるしかなかった。
連れて行かれたのは、街外れの静かな屋敷だった。
豪奢ではない。
けれど妙に整っていて、息が詰まる。
「ここでお待ちください」
使用人にそう言われ、一人になる。
逃げようと思えば、逃げられるかもしれない。
でも。
(どこに行っても、同じか)
そう思ってしまった時点で、足は動かなかった。
しばらくして。
静かに、扉が開く。
「お待たせいたしました」
その声を聞いた瞬間。
なぜか、背筋が震えた。
振り返る。
そこにいたのは――
整いすぎた、黒の男。
初めて見るはずなのに。
(……知ってる)
そう感じてしまう。
ずっと前から、“どこかで見られていた”ような感覚。
「初めまして、セシリア様」
名前を呼ばれて、息が止まる。
「イシュヴァルと申します」
丁寧な一礼。
完璧な所作。
でも。
何かが決定的におかしい。
「……私を」
かろうじて声を出す。
「どうするつもりですか」
震えないようにするだけで精一杯だった。
イシュヴァルは、わずかに目を細める。
「そうですね」
ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
コツ、コツ、と靴音が響く。
逃げなきゃ、と頭では分かっているのに。
動けない。
目の前で、彼は足を止めた。
そして。
そっと、顎に指をかける。
「……っ」
強引ではない。
でも、抗えない力。
「やはり」
至近距離で、囁かれる。
「美しい方だ」
ぞくり、とする。
見た目の話じゃないと、直感で分かる。
「随分と、丁寧に“削られて”きましたね」
その言葉に。
胸の奥を掴まれた気がした。
「……なにを」
「ご自分の価値を、です」
言い当てられる。
何もかも。
「本来なら、もっと早く手に入れるべきでしたが」
さらりと、とんでもないことを言う。
「少々、周囲の観察に時間を要しまして」
(……観察?)
誰を。
何のために。
理解が追いつかない。
「ですが、もう十分です」
指先が、ほんの少しだけ強くなる。
「貴女は、あの家には過ぎた存在だ」
断言。
迷いのない声。
「ですので」
一拍。
間を置いて。
「本日より、貴女は私のものです」
逃げ道を、完全に塞ぐ言葉。
怖いはずなのに。
なぜか。
胸の奥が、じんわりと熱い。
「……拒否権は」
かすれた声で問う。
すると彼は、柔らかく微笑んだ。
「ございますよ」
意外な答え。
けれど続く言葉は――
「ただし、戻られる場合に限り」
現実を突きつける。
父と、ルミナの顔がよぎる。
あの目。
あの熱。
(……戻りたくない)
初めて、はっきりと思った。
「ここにいれば」
イシュヴァルが、静かに言う。
「貴女を否定する者はいません」
その一言が。
何よりも、深く刺さる。
「大切に扱います」
優しく。
でも、確実に囲い込む声音で。
「選んでください、セシリア様」
差し出された手。
白く、綺麗で。
逃げれば二度と触れられない気がして。
触れれば、もう戻れない気がした。
(……でも)
ゆっくりと、手を伸ばす。
触れた瞬間。
指が絡め取られる。
逃がさないように。
でも、壊さないように。
「……はい」
小さく、答える。
その瞬間。
イシュヴァルは満足そうに微笑んだ。
「良い選択です」
耳元で、囁かれる。
「ようこそ」
甘く、低い声で。
「――こちら側へ」
目が覚めたとき、最初に感じたのは静けさだった。
誰かの足音も、叱責もない。
ただ、穏やかな空気だけが満ちている。
(……ここは)
ゆっくりと起き上がる。
整えられた寝具。見慣れない天井。
――そうだ。ここは、あの人の屋敷。
「……イシュヴァル様」
名前を口にしただけで、少しだけ心が落ち着く。
不思議だった。
昨日まで、あんなにも怖かったのに。
支度を整えて部屋を出ると、すぐに使用人が現れた。
「おはようございます、セシリア様」
柔らかな笑み。
その一言に、わずかに足が止まる。
(……“様”?)
呼ばれ慣れない敬称。
戸惑っていると、
「朝食のご用意ができております」
自然に案内される。
拒む理由が、見つからない。
食堂には、すでにイシュヴァルがいた。
「おはようございます」
穏やかな声。
まるで、ずっと前からそうしてきたかのような自然さで。
「……おはよう、ございます」
少し遅れて返すと、彼は満足そうに微笑んだ。
「よくお休みになれましたか?」
「はい……」
本当に、よく眠れた。
あの家では、いつもどこか緊張していたのに。
「それは何よりです」
席を勧められ、向かいに座る。
用意された料理は、どれも丁寧で温かい。
(こんな食事……初めてかもしれない)
自然と手が伸びる。
その様子を、イシュヴァルは静かに見ていた。
「……あまり、見ないでください」
思わず言うと、
「失礼しました」
すぐに視線を外す。
でも。
「嬉しかったものですから」
そう付け加えられて、言葉に詰まる。
(嬉しい……?)
私が食べているだけで?
理解できない。
けれど、嫌ではなかった。
食後。
「少し、お時間よろしいですか」
そう言われ、頷く。
案内されたのは、小さな書斎だった。
「こちらに」
椅子を引かれる。
その仕草ひとつが、やけに丁寧で。
(どうして、ここまで)
疑問が消えない。
「セシリア様」
名前を呼ばれる。
視線を上げると、すぐ近くに彼がいた。
「一つ、確認を」
低い声。
逃げ場を塞ぐ距離。
「この屋敷での生活に、不満はございますか」
問われて、少し考える。
不満。
そんなもの、あるはずがない。
むしろ――
「……怖い、です」
気づけば、そう答えていた。
イシュヴァルの目が、わずかに細まる。
「ほう」
「優しすぎて」
言葉を探しながら続ける。
「どうしていいか、分からなくて……」
沈黙。
否定されると思った。
けれど。
「正直で、よろしい」
彼は、静かに頷いた。
「では、その“分からなさ”は私が引き受けましょう」
「え……?」
「貴女は、考えなくていい」
さらりと、恐ろしいことを言う。
「ここでは、すべて私が決めます」
やさしい声。
なのに、完全な支配。
「その代わり」
指先が、そっと手に触れる。
「貴女は安心していればいい」
絡め取るように、指が重なる。
「それが、私の望みです」
逃げようと思えば、逃げられる。
でも。
逃げたいとは、思わなかった。
(……楽、だ)
決めなくていい。
否定されない。
ただ、ここにいればいい。
それがどれだけ甘いことか、分かっているのに。
「……はい」
小さく頷く。
その瞬間。
彼の指が、わずかに強くなる。
「良い子ですね」
その言葉に。
胸の奥が、ほどけていく。
その日から。
私は少しずつ、“囲われること”に慣れていった。
選ぶ必要はない。
迷う必要もない。
すべては、イシュヴァルが整えてくれる。
そして――
「セシリア様に、こちらを」
与えられるものは、どれも“私のために選ばれたもの”だった。
(……どうして、ここまで)
疑問は消えない。
けれど。
その答えを、深く考えないようになっていく。
考えなくても、満たされるから。
夜。
「本日は、いかがでしたか」
隣に座る彼が問う。
「……穏やかでした」
素直に答えると、満足そうに頷く。
「それは何よりです」
そのまま、自然に距離が縮まる。
肩が触れるか、触れないか。
逃げ場は、もうない。
「セシリア様」
名前を呼ばれる。
それだけで、心が揺れる。
「あなたは、それでよろしい」
確認のようで、決定の言葉。
「はい……」
迷いは、もうほとんどなかった。
その様子を見て、彼は微笑む。
静かに。
満足そうに。
まるで。
最初から、こうなると分かっていたかのように。
――囲われるというのは。
閉じ込められることじゃない。
気づけば、外に出る理由がなくなっていることだ。
その日は、昼下がりだった。
「こちらへ」
イシュヴァルに呼ばれて向かったのは、屋敷の奥にある小さな温室だった。
柔らかな光と、静かな緑。
人の気配がほとんどない場所。
(……落ち着く)
そう思った瞬間。
「気に入っていただけましたか」
すぐ後ろから声がした。
「……はい」
振り返ると、いつもより距離が近い。
思わず一歩下がろうとして――止まる。
もう、この距離に慣れてしまっていることに気づいた。
「それは良かった」
彼は静かに微笑む。
「ここは、貴女のために整えた場所ですから」
「……私の?」
聞き返すと、当然のように頷かれる。
「ええ」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
(また、“私のため”……)
どうしてそこまでされるのか。
分からないまま。
でも、嬉しいと思ってしまう。
ふと、花に触れようとして手を伸ばしたとき。
「お怪我をなさらないように」
後ろから、そっと手を取られた。
「……っ」
指先が重なる。
逃がさないように、でも優しく。
「この種類は、少し棘がありますので」
説明は穏やかだった。
けれど。
そのまま、手は離されない。
(……近い)
背後に、彼の気配。
腕の中に閉じ込められているような距離。
鼓動が、少しずつ早くなる。
「セシリア様」
耳元で、名前を呼ばれる。
「はい……」
声が、思ったより近くで落ちた。
「最近、よく笑うようになられましたね」
「え……」
そんなこと、自分では分からない。
「最初にお会いしたときは」
指先が、ゆっくりと手をなぞる。
「今にも消えてしまいそうでした」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「……今は、違いますか」
小さく問うと、
「ええ」
即答だった。
「とても、良い変化です」
少しだけ、手に力がこもる。
「――手放したくないほどに」
その一言で。
空気が変わる。
(……今の)
優しいだけじゃない。
確かに、“囲い込む”響きがあった。
なのに。
怖くない。
むしろ――
「……あの」
言葉がうまく出てこない。
「どうされました?」
すぐに返ってくる声。
逃げ道は、やっぱりない。
「他の人にも……」
自分でも驚くくらい小さな声で、
「同じように、されているんですか」
聞いてしまった。
一瞬。
沈黙が落ちる。
しまった、と思ったときには遅かった。
けれど。
「いいえ」
返ってきたのは、迷いのない否定だった。
ゆっくりと、手を引かれる。
振り返らされる形で、向き合う。
近い。
視線が、完全に重なる距離。
「貴女だけです」
静かに、告げられる。
「このように触れるのも」
指先が、頬にかかる。
「このように、時間を割くのも」
逃げ場がない。
でも。
目を逸らしたくない。
「すべて、貴女だけに」
その言葉に。
胸の奥が、強く熱を持つ。
(……私だけ)
そんなこと、今まで一度もなかった。
誰かにとっての“特別”なんて。
「……どうして」
かすれた声で、問う。
すると彼は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「簡単なことです」
顔が、さらに近づく。
息が触れそうな距離。
「貴女が、そういう存在だからですよ」
答えになっていない。
でも。
それ以上聞けなくなる。
距離が、近すぎて。
「……逃げませんね」
ぽつりと、落ちる声。
試すような響き。
「逃げたほうが、よろしいですか」
返される問い。
本当なら。
逃げるべきなのに。
「……いいえ」
否定してしまう。
その瞬間。
彼の目が、わずかに細まった。
「では」
指先が、顎に触れる。
最初の日と同じ仕草。
でも、意味はまったく違う。
「もう少しだけ、このままで」
囁かれる。
距離は、あと少しで触れる。
でも。
触れない。
そのまま、止まる。
――寸前で。
(……ずるい)
そう思うのに。
離れてほしいとは、思わなかった。
その日の夜。
一人になってからも、落ち着かなかった。
(私……)
頬に、まだ感触が残っている気がする。
手も。
視線も。
全部。
(……期待、してる?)
そこまで考えて、顔が熱くなる。
ありえない。
でも。
否定しきれない。
一方で。
「……順調ですね」
イシュヴァルは、静かに呟いた。
手の中に残る温もりを、確かめるように。
「もう、十分でしょう」
微笑みは穏やかで。
けれど。
「逃げる理由が、なくなってきた」
その目は、どこまでも深い。
「良い傾向です」
優しく。
確実に。
彼女を囲い込みながら。
広間は、熱に満ちていた。
「救いを……」
「どうか、私にも……」
縋る声が、あちこちから上がる。
壇上に立つ男は、それを静かに見下ろしていた。
黒い衣。穏やかな微笑。
すべてを受け入れるような、優しい眼差し。
「ご安心ください」
その一言で、場が静まる。
「願いは、必ず届きます」
救われる、と誰もが思った。
――ルミナも、その一人だった。
(やっと……)
胸の奥が、熱を帯びる。
隣で父が、小さく頷いた。
「行きなさい、ルミナ」
「はい……お父様」
震える足で、前へ出る。
視線が集まる。
でも怖くない。
むしろ、心地いい。
(見られてる……)
ずっと欲しかったもの。
それが、ここにある。
壇の前に立つと、男――教祖が、ゆっくりと視線を落とした。
「お名前を」
優しい声。
「ルミナ、と申します」
「ルミナ様」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸が満たされる。
「どのような救いをお望みですか」
問われる。
迷いはなかった。
「……美しく、なりたいのです」
ざわめきが起きる。
けれど、止められない。
「誰よりも、美しく」
言葉が止まらない。
「誰からも愛されて」
「羨まれて」
「選ばれる存在に――」
そこで、息を吸う。
そして。
「なりたいのです」
言い切った。
沈黙。
ほんの一瞬だけ、空気が止まる。
やがて。
「……素晴らしい願いです」
教祖は、静かに微笑んだ。
否定されない。
それだけで、全てが肯定された気がした。
「では」
ゆっくりと、手が差し出される。
「こちらへ」
誘われるまま、一歩近づく。
距離が、消える。
「少しだけ、触れます」
断りを入れる声音。
けれど拒否など考えられなかった。
指先が、頬に触れる。
ひやりとした感触。
「……あ」
息が漏れる。
何かが、流れ込んでくる。
「貴女の願い」
耳元で、囁かれる。
「確かに受け取りました」
その瞬間。
体の奥で、何かが弾けた。
熱が、巡る。
満たされていく。
(これ……)
分かる。
変わっている。
自分が、自分じゃなくなっていく。
でも。
(気持ちいい……)
抗う理由が、どこにもない。
「どうか」
最後に、静かな声が落ちる。
「その美しさを、大切に」
意味を考える余裕はなかった。
ただ。
すべてが満たされた気がして。
その日から。
ルミナは、変わった。
「……綺麗」
鏡に映る自分に、思わず見惚れる。
肌は透き通るようで、瞳は輝き、仕草ひとつで視線を集める。
「お嬢様……まるで別人のようでございます」
使用人が、息を呑む。
その反応が、心地いい。
「そうでしょう?」
微笑むだけで、相手の頬が赤くなる。
(これよ)
これが欲しかった。
視線。羨望。愛。
すべてが、こちらに向く。
「素晴らしい……!」
父もまた、満足そうに頷いた。
「さすがは教祖様だ」
その目には、完全な信仰が宿っている。
「次は、私の番だな……」
ぽつりと漏れたその言葉に、
ルミナはふと、違和感を覚える。
(……次?)
一瞬だけ。
ほんのわずかに。
胸の奥が、ざわついた。
けれど。
「お姉様なんて、もう必要ないわね」
そう口にした瞬間、
その違和感は、消えた。
代わりに広がるのは、満足感。
自分が“上に立った”という確信。
誰も気づかない。
その美しさが、
どのような形で完成されているのかを。
遠く。
それを見ている影がひとつ。
「……ええ、順調です」
イシュヴァルは、静かに微笑む。
まるで。
最初から結末を知っているかのように。
「とても、美しい」
その言葉は。
賞賛であり――
終わりの予告でもあった。
ルミナが“美しさ”を得てから、数日。
伯爵家の空気は、一変していた。
「お嬢様……本当にお美しい」
「先日の夜会でも、皆様が見惚れておりました」
使用人たちは口々に称賛する。
その視線は、かつてとはまるで違う。
(当然よね)
ルミナは鏡の前で、ゆっくりと微笑む。
角度も、表情も、すべてが完璧だった。
視線を集めることが、こんなにも心地いいなんて。
「……でも」
ふと、指先で頬に触れる。
ほんの一瞬だけ。
違和感のようなものがよぎった気がした。
(……気のせい、よね)
すぐに消える。
代わりに残るのは、満たされた感覚だけ。
「ルミナ」
父の声がする。
「今日も、教祖様のもとへ行く」
振り返ると、そこには以前よりも明らかに“焦り”を帯びた父がいた。
「お父様も、願われるのですか?」
「ああ」
迷いはない。
むしろ、確信に満ちている。
「この機を逃すわけにはいかん」
その目は、ルミナと同じ光を宿していた。
――欲望に満ちた光。
再び訪れた、あの広間。
熱気は、以前よりも増している。
「救いを……」
「どうか、私にも……」
変わらない光景。
ただ一つ違うのは、
その中心にいる存在への“信仰”が、より深くなっていること。
「ようこそ」
壇上の男が、静かに微笑む。
「本日も、多くの願いが集まっております」
その声だけで、人々は安堵する。
絶対的な存在。
疑う余地すら、与えられない。
「前へ」
父が呼ばれる。
堂々とした足取りで進み出る。
「お名前を」
「――グラント伯爵」
誇らしげに名乗る。
その肩書きが、すでに物足りないもののように感じながら。
「どのような救いをお望みですか」
問われる。
父は、一瞬も迷わなかった。
「更なる地位を」
ざわめきが広がる。
「我が家を、より高みへ」
声に、熱がこもる。
「伯爵では足りぬ」
「私は――選ばれる側でありたい」
言葉が、次々と溢れる。
「誰もが従う地位を」
「揺るがぬ権力を」
「すべてを手に入れたい」
最後に、強く言い切る。
「それが、私の望みだ」
沈黙。
そして。
「……素晴らしい」
教祖は、ゆっくりと頷いた。
「非常に、純粋な願いです」
その言葉に、父の顔が歪むほどの喜びが浮かぶ。
「では」
手が差し出される。
「お受け取りください」
父は迷わず、その手を取った。
瞬間。
空気が変わる。
何かが、流れ込む。
「……っ」
父の目が見開かれる。
理解している。
“与えられている”と。
「これで……!」
震える声。
歓喜に満ちた表情。
数日後。
その願いは、現実となった。
「――グラント侯爵」
その名が、正式に告げられる。
異例の昇格。
誰もが驚き、誰もが恐れた。
「素晴らしいですわ、お父様!」
ルミナが駆け寄る。
その笑顔は、以前よりもさらに眩しい。
「当然だ」
父は満足げに頷く。
「我々は“選ばれた”のだ」
その言葉に、疑いはない。
――だが。
「……ねえ、お父様」
ルミナが、ふと呟く。
「最近、私を見る人……減っていません?」
一瞬。
空気が、わずかに揺れる。
「何を言っている」
父は即座に否定する。
「お前は美しい。誰もが見ている」
「……そう、よね」
笑う。
でも。
どこか、引っかかる。
以前ほどの“熱”を感じない瞬間がある。
ほんの、わずかだけ。
一方で。
父の周囲では。
「……急な昇格だな」
「裏で何が……」
囁きが広がり始めていた。
羨望と、疑念。
そして――
敵意。
それでも。
父は気づかない。
いや、気づこうとしない。
すでに。
手に入れたものを、疑えなくなっているから。
遠くで。
「ええ、順調です」
イシュヴァルは静かに呟く。
穏やかな微笑のまま。
「願いは、すべて叶えられている」
その通りだ。
何一つ、嘘はない。
「だからこそ」
目を細める。
「美しいのです」
崩れていく過程すら。
最初から含まれていたかのように。
最初に気づいたのは、些細な違和感だった。
「……あれ?」
ルミナは鏡の前で、ふと手を止める。
今日も美しい。
それは間違いない。
肌も、髪も、仕草も――完璧だ。
でも。
(……何かが、違う)
角度を変える。
光を当てる。
微笑む。
どれも、完璧なはずなのに。
「……気のせいよね」
呟いて、唇を上げる。
その瞬間。
背筋が、ぞくりとした。
――“見られている”感覚が、薄い。
以前は、ただ歩くだけで視線が集まった。
息を呑まれ、囁かれ、羨望される。
それが当然だったのに。
(どうして……?)
ほんの一瞬。
空白がある。
次の瞬間にはまた、視線は戻る。
でも、その“間”が――怖い。
「ルミナ様、本日のご予定ですが」
使用人が声をかける。
振り返る。
その目に映る自分は、やはり美しい。
けれど。
(……前より、弱い?)
そんなはずはない。
むしろ、磨かれているはずなのに。
「ねえ」
思わず問いかける。
「私、変わったと思う?」
使用人は、一瞬だけ言葉に詰まった。
その“間”。
それが、すべてだった。
「い、いえ……とてもお美しく……」
取り繕う声。
以前なら、即答だったはずなのに。
(……なんで)
胸の奥が、ざわつく。
一方で。
「侯爵閣下、お話が」
父――グラント侯爵のもとには、連日のように人が訪れていた。
表向きは、祝福。
だが。
「今回の昇格、随分と急でいらっしゃる」
「ええ、まあ……」
言葉の端に、棘が混じる。
羨望と、疑念。
そして。
「……裏で何があったのか、ぜひお聞かせ願いたい」
探るような視線。
以前にはなかった圧力。
「……問題はない」
父は短く言い切る。
だが。
その声に、わずかな硬さが混じる。
(なぜだ)
すべては手に入れたはずだ。
地位も、権力も。
なのに。
周囲の“温度”が違う。
従っているようで、従っていない。
笑っているようで、笑っていない。
(……気のせいだ)
そう思い込もうとする。
だが。
確実に、何かが変わっている。
同じ頃。
「セシリア様」
穏やかな声が響く。
振り返ると、イシュヴァルがいた。
「今日は、何も困りませんでしたか」
「……ええ、とても、穏やかな気持ちです」
自然に答える。
本心だった。
ここには、不安がない。
比べられることも、否定されることもない。
「それは何よりです」
彼は静かに頷く。
そして。
「少し、こちらへ」
手を差し出す。
迷いなく、その手を取る。
もう、それが当たり前になっていた。
庭の奥。
誰もいない場所。
柔らかな光と、静かな風。
「……ここ、好きです」
ぽつりと呟くと、
「ええ」
すぐ隣で声がする。
「貴女が落ち着けるように、整えましたので」
その言葉に、胸が温かくなる。
(また、“私のため”……)
理由は分からない。
でも。
疑う気持ちは、もうほとんどない。
「セシリア様」
名前を呼ばれる。
振り返る。
距離が近い。
でも、自然に受け入れている自分がいる。
「最近、外のことを考えなくなりましたね」
穏やかな指摘。
図星だった。
「……はい」
少しだけ考えて、頷く。
「ここで、満たされていますから」
言ってから、少し驚く。
そんなこと、自然に言えるようになっている。
イシュヴァルは、わずかに目を細めた。
「そうですか」
満足そうに。
「それは、とても良いことです」
指先が、そっと頬に触れる。
もう、驚かない。
むしろ――
(安心する)
そう感じてしまう。
「貴女は、そのままでよろしい」
優しく、肯定される。
「何も変わる必要はありません」
その言葉が。
深く、染み込む。
一方で。
ルミナは、鏡の前で何度も微笑んでいた。
角度を変え、表情を作り直し、
“最も美しく見える瞬間”を探し続ける。
(まだ足りない)
そう思ってしまう。
(もっと、見られたい)
その願いが、少しずつ強くなる。
気づかないまま。
その“強さ”が、
何を削っているのかを。
遠くで。
「……始まりましたね」
イシュヴァルは静かに呟く。
穏やかな微笑のまま。
「欲は、形になるほど歪む」
その視線は、
セシリアではなく――
別の場所を見ていた。
「ですが」
ふっと、柔らかくなる。
「貴女は違う」
手の中の温もりを、確かめるように。
「だから、壊れない」
囲われたその存在だけが、
唯一、歪みから外れていることを知りながら。
――足りない。
その感覚は、日に日に強くなっていた。
「……どうして」
ルミナは鏡の前で、何度目か分からない問いを零す。
美しい。
それは間違いない。
夜会でも、街でも、誰もが振り返る。
けれど。
(前より、弱い)
最初に得たあの“熱”が、持続しない。
視線は集まる。
でも、すぐに離れる。
囁きはある。
でも、長くは続かない。
まるで。
“もっと求めなければ保てない”みたいに。
「……違う」
首を振る。
そんなはずはない。
私は、選ばれたのだから。
「ルミナ様、本日のご予定は――」
「いいわ」
遮る。
「外出するわ。あそこへ」
使用人が、息を呑む。
「……教団へ、でございますか」
「ええ」
迷いはなかった。
(もう一度、確かめる)
あの人なら。
あの教祖なら。
きっと。
広間は、以前よりもさらに熱を帯びていた。
「救いを……」
「選ばれたい……」
縋る声。
渇いた欲望。
すべてが混ざり合っている。
その中心に。
変わらず、彼はいた。
「ようこそ」
穏やかな微笑。
すべてを受け入れるような声音。
ルミナの胸が、高鳴る。
(この人は、分かってくれる)
自分がどれほど“特別”かを。
「ルミナ様」
名前を呼ばれる。
それだけで、満たされる。
けれど同時に――
(もっと)
足りない。
「本日は、どのようなご用件で」
問われる。
ルミナは、一瞬だけ躊躇して――
すぐに、飲み込んだ。
「……私」
声が震える。
でも止まらない。
「まだ、足りないのです」
ざわめきが広がる。
「美しいはずなのに」
「愛されているはずなのに」
「でも――」
言葉が溢れる。
「もっと欲しい」
その瞬間。
空気が、わずかに変わった。
けれどルミナは気づかない。
「誰よりも」
「ずっと」
「ずっと愛され続けたいのです」
言い切る。
もう、止められない。
沈黙。
そして。
「……なるほど」
教祖は、静かに頷いた。
否定はしない。
拒絶もしない。
それが、何よりも心地いい。
「愛されることは、尊いことです」
優しく、肯定される。
それだけで救われる。
「ですが」
一拍。
ほんのわずかな間。
「それを“維持する”には、相応の形が必要になります」
「……形?」
「ええ」
微笑みは変わらない。
けれど。
どこか、深い。
「与えられたものを、どう扱うか」
「それが、そのまま結果となる」
意味は、よく分からない。
でも。
「……構いません」
ルミナは即答する。
「どんな形でも」
その言葉に。
教祖の目が、わずかに細まった。
「承知いたしました」
静かに、手が伸びる。
逃げる理由は、どこにもない。
むしろ――
(欲しい)
もっと。
もっと。
満たされたい。
指先が、再び頬に触れる。
「貴女の願い」
低く、甘い声。
「確かに、受け取りました」
その瞬間。
熱が、さらに深く流れ込む。
「……っ」
体の奥が震える。
最初の時より、強い。
濃い。
満たされる。
(これ……これよ)
求めていたもの。
もっと、もっと。
「どうか」
最後に、囁かれる。
「その愛を、大切に」
意味を考えない。
考えたくない。
ただ、満たされる感覚に身を委ねる。
その頃。
「……次は、私だ」
父もまた、動き出していた。
すでに一度、願いは叶っている。
だが。
(まだ足りん)
地位は得た。
だが、完全ではない。
疑念が残る。
従わない者がいる。
ならば。
(すべてを掌握すればいい)
欲は、さらに膨らむ。
一方で。
「セシリア様」
穏やかな声。
振り返ると、イシュヴァルがいた。
「本日は、少しお疲れのように見えます」
「……そう、でしょうか」
首を傾げる。
自覚はなかった。
「少しだけ」
手を取られる。
自然に。
当たり前のように。
「こちらへ」
導かれるまま、歩く。
静かな部屋。
柔らかな光。
「ここで、少し休まれてください」
椅子に座らされる。
距離が近い。
でも、落ち着く。
「……どうして、こんなに」
ぽつりと零れる。
「優しくしてくださるのですか」
ずっと、疑問だったこと。
イシュヴァルは、わずかに微笑む。
「簡単なことです」
指先が、そっと髪に触れる。
「貴女が、何も求めないからです」
「……え」
「欲がない方は、歪まない」
静かな声。
「ですから、そのままでいていただきたい」
その言葉に。
胸が、静かに満たされる。
ルミナとは違う。
求めなくても、与えられる。
その意味を、まだ完全には理解していないまま。
遠くで。
「……これで、揃いました」
イシュヴァルは静かに呟く。
ルミナの“加速した欲”。
父の“拡張された支配欲”。
すべてが、予定通り。
「さて」
わずかに、笑みが深くなる。
「どこまで美しく崩れるか」
その視線は、冷たくも優しい。
すべてを見届ける者のものだった。
最初の異変は、ほんの一筋だった。
「……え」
ルミナは鏡の前で、息を止める。
髪。
完璧だったはずの金糸の中に、一本だけ――
白が混じっていた。
「……違う」
すぐに引き抜く。
指先が震える。
(光の加減よ)
そう思い込もうとする。
だって。
私は、あの方に“選ばれた”のだから。
「ルミナ様、本日のご支度を――」
「いいわ!」
強く遮る。
使用人がびくりと肩を揺らす。
その反応に、一瞬だけ満足しかけて――
(……弱い)
胸の奥がざらつく。
以前なら、ただ視線を向けるだけでよかった。
何も言わなくても、相手は崩れた。
でも今は。
「ちゃんと見なさい」
思わず、言ってしまう。
「私を」
使用人は慌てて顔を上げる。
「は、はい……とてもお美しく……」
その声は、震えていた。
恐怖からか。
それとも――
(違う)
何かが違う。
“見惚れている”のではない。
ただ、“怯えている”。
その差が。
どうしようもなく、不快だった。
その日の夜会。
ルミナは、完璧な装いで現れた。
視線が集まる。
囁きが起きる。
(ほら)
間違っていない。
私は美しい。
私は選ばれている。
そう思った、次の瞬間。
「……あれが、例の」
「確かに美しいが……」
耳に入る声。
以前と違う。
熱がない。
距離がある。
「少し、印象が変わったな」
その一言が、突き刺さる。
(……何が?)
笑みを崩さないまま、歩く。
完璧に。
誰よりも美しく。
なのに。
視線が、続かない。
すぐに逸れる。
次へ流れる。
(どうして)
胸が、ざわつく。
(もっと……)
足りない。
まだ足りない。
一方で。
「侯爵閣下、こちらの件ですが」
父のもとには、書類が山のように積まれていた。
地位は上がった。
責任も、権限も。
だが。
「……これはどういうことだ」
眉をひそめる。
署名されたはずの契約が、覆されている。
「相手方が、急に態度を変えまして……」
「理由は?」
「それが……明確には」
歯切れの悪い返答。
苛立ちが募る。
(なぜだ)
以前なら、こんなことはなかった。
誰もが従った。
逆らう者など、いなかった。
なのに今は。
「……裏で何か動いているのか」
疑念が浮かぶ。
そして同時に。
誰も信じられなくなる。
同じ頃。
「……少し、風が冷たいですね」
セシリアは庭で、小さく呟いた。
隣には、イシュヴァル。
「では、こちらへ」
すぐに、肩に羽織がかけられる。
自然な仕草。
迷いのない距離。
「ありがとうございます」
受け取ると、ほんの少しだけ指が触れる。
それだけで、落ち着く。
「本日は、外が騒がしいようです」
イシュヴァルが言う。
「え?」
「夜会があるのでしょう」
ああ、と頷く。
かつては自分もいた場所。
でも。
「……あまり、気になりません」
素直に言う。
驚くほど、執着がなかった。
「そうですか」
彼は静かに微笑む。
「良いことです」
そのまま、手を取られる。
当たり前のように。
拒む理由が、もうない。
「セシリア様」
名前を呼ばれる。
視線が重なる。
「貴女は、変わりませんね」
「……?」
「求めない」
指先が、そっと頬に触れる。
「だから、失わない」
その言葉の意味を、
セシリアはまだ完全には知らない。
ただ。
その声が、心地よいと感じるだけで。
夜会の終わり。
ルミナは、鏡の前に立っていた。
笑みを貼り付けたまま。
ゆっくりと、顔に触れる。
(……大丈夫)
美しい。
まだ、美しい。
でも。
光の加減で。
一瞬だけ。
頬に、影が落ちる。
それが。
“線”のように見えた。
「……違う」
首を振る。
「違う、違う……」
でも。
もう気づいている。
ほんの少しずつ。
確実に。
何かが削れていることに。
遠くで。
「……ええ、順調です」
イシュヴァルは静かに呟く。
穏やかなまま。
何一つ変わらず。
「愛されるほど、形が変わる」
その視線は、冷静だった。
「実に、理にかなっている」
否定はしない。
止めもしない。
「願いは、正しく叶えられている」
それがすべて。
最初から。
何一つ、間違っていない。
その噂を聞いたのは、偶然だった。
「……最近、侯爵家が妙でな」
廊下の向こう。
使用人たちの、ひそやかな声。
「娘の方も……以前のような評判では」
「顔色も優れぬとか……」
そこで、言葉が途切れる。
気配に気づいたのか、静かになる。
(……侯爵家)
胸が、わずかに揺れる。
もう関係のないはずの場所。
なのに。
「セシリア様」
背後から声がする。
振り返ると、イシュヴァル。
「どうかなさいましたか」
「……いえ」
すぐに否定する。
でも。
完全には消えない。
ほんの少しだけ残る、引っかかり。
「外の様子を、ご覧になりますか」
不意に、そう言われる。
「……え?」
「気になっておられるようでしたので」
穏やかな提案。
断る理由が、見つからない。
「……少しだけ」
頷くと、彼は満足そうに微笑んだ。
連れて行かれたのは、街の外れ。
人目につかない場所から、広場を見下ろす。
そこに――
「……ルミナ?」
思わず、息を呑む。
いた。
間違いなく、妹だった。
でも。
(……誰?)
一瞬、そう思ってしまう。
美しい。
それは変わらない。
けれど。
何かが、崩れている。
視線が集まっているのに。
どこか、長く続かない。
笑っているのに。
無理に作っているのが分かる。
「見てください……私を」
ルミナの声が、風に乗る。
必死な響き。
かつての余裕は、どこにもない。
「私は、こんなに――」
言葉が、途中で詰まる。
周囲の反応が、薄い。
誰もが見ているのに、誰も“残らない”。
(……どうして)
セシリアの胸が、ざわつく。
知っている顔。
知っている声。
なのに。
まるで別の存在みたいに見える。
「愛は、難しいものです」
隣で、イシュヴァルが静かに言う。
「……え」
「求めるほど、形が変わる」
穏やかな声。
説明のようで。
どこか、距離がある。
「……あれは」
言葉が、うまく出ない。
「あれは……」
妹。
そう言いたいのに。
なぜか、遠い。
「望まれた結果です」
あっさりと、返される。
「……結果?」
「ええ」
微笑みは変わらない。
「願いは、正しく叶えられている」
その言葉に。
胸の奥が、ひやりとする。
(……正しく?)
あれが?
あれが、“正しい”?
その時。
ルミナが、こちらを見た。
目が合う。
一瞬。
時間が止まる。
「……お姉様?」
かすれた声。
そして。
次の瞬間。
「どうして、あなたが……!」
表情が歪む。
嫉妬と、焦燥と、何かが混ざった顔。
「どうして、そんな顔をしているのよ!」
叫びに近い声。
「あなたは……何も持っていなかったのに!」
胸に、刺さる。
でも。
それ以上に。
違和感が強い。
(……私)
何も持っていなかった。
それは、事実。
なのに。
(今は……?)
視線が、自然と隣へ向く。
イシュヴァル。
穏やかなまま。
何も変わらない。
でも。
(……どうして)
ここだけが、違う。
外は、崩れているのに。
ここだけ、何も変わらない。
「……イシュヴァル様」
初めて。
ほんの少しだけ。
問いの温度が変わる。
「これは……」
何なのか。
聞こうとした、その瞬間。
指先が、そっと触れる。
頬に。
「セシリア様」
名前を呼ばれる。
いつもと同じ声。
でも。
どこか、深い。
「ご不安ですか」
「……はい」
正直に、頷く。
初めての感覚だった。
ここにいて、揺らぐ。
「そうですか」
彼は、わずかに目を細める。
そして。
「それでは」
静かに、続ける。
「離れますか?」
その一言で。
すべてが、止まる。
離れる。
ここから。
この場所から。
この人から。
考える。
ほんの、一瞬。
ルミナの姿。
父の顔。
あの家。
そして。
今の自分。
(……戻りたくない)
はっきりと、思う。
怖い。
おかしい。
でも。
それでも。
「……いいえ」
答えてしまう。
その瞬間。
イシュヴァルの指が、わずかに強くなる。
「よろしい」
低く、満足した声。
「それでこそ」
逃げ道は、もうない。
でも。
自分で選んだ。
「貴女は、正しい」
優しく、肯定される。
そして。
「だから、守られる」
その言葉に。
胸の奥が、静かに落ち着いていく。
違和感は消えない。
でも。
それ以上に――
ここにいたいと思ってしまう。
遠くで。
ルミナは、崩れかけた笑みで立ち尽くしていた。
誰も、見ていない。
もう。
“愛される側”ではない。
そして。
「……収穫ですね」
イシュヴァルは、静かに呟く。
手の中の温もりを、確かめるように。
「ようやく」
その声は、穏やかで。
どこまでも優しかった。
雨が、静かに降っていた。
広間に集まる人々は、以前よりも少ない。
それでも。
残っている者たちの熱は、むしろ濃くなっていた。
「どうか……もう一度……」
「救いを……!」
縋る声。
焦りを帯びた祈り。
その中心に。
変わらず、彼はいた。
「ようこそ」
イシュヴァルは、穏やかに微笑む。
何も変わらない。
何一つ。
「教祖様……!」
その声は、かすれていた。
前へ進み出たのは――ルミナ。
かつて、誰よりも視線を集めていた少女。
今は。
美しい。
それでも、確かに。
崩れている。
頬はこけ、瞳の輝きは濁り、肌には隠しきれない“時間”が浮かんでいる。
「どうして……どうしてなの……!」
叫びが、広間に響く。
「私は願った!」
「誰よりも愛されたいと!」
「なのに……!」
息が乱れる。
震える手で、自分の顔を押さえる。
「見てくれないの……誰も……!」
その声に。
誰も近づかない。
視線はある。
でも――
“留まらない”。
「教祖様……!」
もう一人、前へ出る。
グラント侯爵。
かつての威厳は、影を潜めていた。
「私もだ……!」
声に、焦燥が滲む。
「地位は得た!」
「だが、誰も従わぬ……!」
「裏切りばかりだ……!」
拳を握りしめる。
「なぜだ……なぜ、こうなる……!」
沈黙。
そして。
「……なぜ、と」
イシュヴァルは、静かに繰り返した。
ゆっくりと、二人を見下ろす。
変わらない微笑。
「不思議に思われますか」
その声音に。
わずかに、温度が混じる。
――ほんの少しだけ、冷たい。
「貴女は、“愛されたい”と願われた」
ルミナへ。
「はい……!」
涙に濡れた顔で、縋る。
「だから、与えました」
淡々と。
「誰もが目を奪われる美しさを」
「……なら、どうして!」
「――“愛される形”を」
一言、重ねる。
ルミナの言葉が止まる。
「貴女は、“愛され続けたい”と仰った」
静かに。
確実に。
「ですから」
わずかに、目を細める。
「愛されるほど、形が変わるようにいたしました」
沈黙。
一瞬、意味が理解できない。
そして。
「……え?」
ルミナの声が、震える。
「それは……」
指先が、自分の頬に触れる。
崩れた感触。
「まさか……」
後ずさる。
「違う……そんなの……!」
「望まれた通りですよ」
否定はしない。
ただ、事実を告げる。
「“ずっと愛されるために”」
その言葉で。
すべてが繋がる。
愛されることは、消費されること。
崩れることは、もっと求めること。
終わらない。
止まらない。
「いや……いやああああ!!」
叫びが、崩れる。
初めて。
完全に。
“自分の願いの形”を理解して。
「そして、貴方」
今度は父へ。
「……私は……!」
すがるように言う。
「私は地位を望んだ!」
「その通りです」
頷く。
「ですから、与えました」
侯爵という地位。
権力。
名声。
「だが……!」
父の声が震える。
「誰も信じられぬ……!」
「当然でしょう」
あっさりと、言い切る。
「“すべてを掌握したい”と仰った」
その一言で。
父の顔が、凍りつく。
「他者を支配するということは」
静かに、続ける。
「他者を信じないということと同義です」
「……」
「ですから」
穏やかに。
「誰も、貴方を信じなくなった」
因果は、完璧だった。
「……そんな……」
膝が、崩れる。
すべてを手に入れたはずなのに。
何も残っていない。
「では」
イシュヴァルは、静かに言う。
「ご質問への回答ですが」
わずかに、微笑む。
「すべて、すでに叶っております」
その一言で。
二人は、完全に崩れた。
その光景を。
少し離れた場所から、見ている者がいた。
「……セシリア様」
静かに、名前を呼ばれる。
振り返る。
イシュヴァルが、すぐ隣にいる。
いつの間にか。
まるで最初からそこにいたかのように。
「……あれが」
言葉が、うまく出ない。
「願いの、結果……?」
「ええ」
穏やかに頷く。
「美しいでしょう」
その感想に。
わずかに、震える。
でも。
否定できない。
あまりにも、整いすぎているから。
「セシリア様」
指先が、そっと顎に触れる。
最初と同じ仕草。
でも、意味は完全に違う。
「貴女は、何も求めなかった」
視線が、重なる。
「ですから」
静かに。
「何も失わない」
その言葉が。
すべてを確定させる。
「……はい」
もう、迷いはない。
違和感も、恐れも。
すべて含めて。
ここにいると決めた。
イシュヴァルは、満足そうに微笑む。
「良い子ですね」
指先が、わずかに強くなる。
「これで、完全です」
囁き。
逃げ道は、もう存在しない。
でも。
それでいいと、思っている。
背後で。
ルミナの泣き声と、父の崩れた呼吸が響く。
もう。
誰も救われない。
ただ一人を除いて。
悪魔は、最後まで優しく微笑んでいた。
夜は、静かだった。
屋敷の庭に出ると、空気がひんやりとしている。
遠くの喧騒も、もう届かない。
(……終わった)
何が、とは言えない。
でも確かに。
何かが、終わって。
そして。
何かが、始まっている。
「お一人で、どうなさいましたか」
背後から、いつもの声。
振り返らなくても分かる。
「……少し、考え事を」
答えると、足音が近づく。
隣に立つ気配。
距離は、もう当たり前のように近い。
「本日は、いかがでしたか」
「……見てしまいました」
正直に言う。
隠す意味が、もうない。
「すべて」
あの光景。
崩れていく願い。
止まらない欲。
そして。
それを、ただ“叶えた”存在。
「……怖い、と思いましたか」
穏やかな問い。
少しだけ、考える。
「はい」
頷く。
嘘はつかない。
「でも」
続ける。
「それだけじゃ、ありません」
沈黙。
彼は、何も言わない。
ただ、待っている。
「……分かってしまったんです」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「ここが、どういう場所か」
優しさだけじゃない。
救いだけでもない。
選ばれた者だけが、残る場所。
そして。
(……私は)
選ばれたんじゃない。
――選んだ。
振り返る。
イシュヴァルの目が、すぐそこにある。
変わらない。
でも。
少しだけ、“待っている”ように見えた。
「……それでも」
声が、静かに落ちる。
「ここにいたいと、思いました」
はっきりと。
逃げずに言う。
ほんの一瞬。
彼の目が、わずかに細まる。
「そうですか」
それだけ。
たったそれだけなのに。
何かが、決まる音がした。
手が、伸びる。
顎に触れる。
最初と同じ。
でも。
もう意味は違う。
「では」
低く、囁く。
「改めて――」
その先を。
言わせない。
「……待ってください」
そっと、手に触れる。
止める。
イシュヴァルが、わずかに目を見開く。
初めて見る、ほんの小さな隙。
「それは」
息を整える。
近い。
でも、逃げない。
「私が、選びたい」
そう言って。
一歩、踏み込む。
距離が、消える。
触れる寸前。
彼は、何も言わない。
ただ。
受け入れるように、わずかに視線を落とした。
その仕草が。
許された合図のように思えて。
そっと。
唇を、重ねた。
ほんの一瞬。
触れるだけの、静かなキス。
でも。
それだけで、十分だった。
離れる。
心臓が、少しだけ早い。
でも。
怖くはない。
「……これが」
小さく、息を吐く。
「私の答えです」
逃げない。
委ねるだけでもない。
選んだ。
自分で。
沈黙。
そして。
イシュヴァルが、ゆっくりと微笑む。
今までで一番。
はっきりとした、満足の色で。
「――ええ」
低く、優しく。
「ようこそ」
指先が、頬に触れる。
今度は、彼から。
でも。
もう、意味は同じ。
「私のセシリア」
逃げ道は、もうない。
でも。
そのすべてを受け入れて。
彼女は、そこにいた。
それは救いではない。
けれど。
確かに、幸福だった。




