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家族に捧げられた私、なぜか教祖様に気に入られて囲われました

作者: 絹ごし春雨
掲載日:2026/04/24

 その教えが流行り始めたのは、半年ほど前のことだった。


「救われたい者は、すべてを捧げよ」


 たったそれだけの言葉が、貴族たちの間で静かに広がった。


 最初はただの噂だったはずなのに。

 気づけば、父も、妹も――深く傾倒していた。


「セシリア。あなたには分からないでしょうけれど」


 ルミナが微笑む。


「“選ばれる”というのは、とても尊いことなの」


 その目は、どこか熱を帯びていた。


(……変わってしまった)


 そう思ったのは、一度や二度じゃない。


 けれど私は、何も言えなかった。


 元々、この家での私の価値は低い。

 魔力も少なく、社交も不得手。


 “いないもの”として扱われることに、慣れてしまっていた。




 だから。


「――今夜、お前を捧げる」


 そう告げられた時も。


 驚きはあっても、反論はできなかった。


「……私を、ですか」


「光栄に思え」


 父は当然のように言う。


「教祖様に直接差し出せるなど、名誉なことだ」


 隣でルミナが、羨ましそうにこちらを見る。


「いいなあ、お姉様。私もいつか……」


(……羨ましい?)


 その感覚が、理解できない。


 でも。


 ここで拒めば、どうなるかは分かっている。


「……承知、いたしました」


 そう答えるしかなかった。




 連れて行かれたのは、街外れの静かな屋敷だった。


 豪奢ではない。

 けれど妙に整っていて、息が詰まる。


「ここでお待ちください」


 使用人にそう言われ、一人になる。


 逃げようと思えば、逃げられるかもしれない。


 でも。


(どこに行っても、同じか)


 そう思ってしまった時点で、足は動かなかった。


 しばらくして。


 静かに、扉が開く。


「お待たせいたしました」


 その声を聞いた瞬間。


 なぜか、背筋が震えた。


 振り返る。


 そこにいたのは――


 整いすぎた、黒の男。


 初めて見るはずなのに。


(……知ってる)


 そう感じてしまう。


 ずっと前から、“どこかで見られていた”ような感覚。


「初めまして、セシリア様」


 名前を呼ばれて、息が止まる。


「イシュヴァルと申します」


 丁寧な一礼。


 完璧な所作。


 でも。


 何かが決定的におかしい。


「……私を」


 かろうじて声を出す。


「どうするつもりですか」


 震えないようにするだけで精一杯だった。


 イシュヴァルは、わずかに目を細める。


「そうですね」


 ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。


 コツ、コツ、と靴音が響く。


 逃げなきゃ、と頭では分かっているのに。


 動けない。


 目の前で、彼は足を止めた。


 そして。


 そっと、顎に指をかける。


「……っ」


 強引ではない。


 でも、抗えない力。


「やはり」


 至近距離で、囁かれる。


「美しい方だ」


 ぞくり、とする。


 見た目の話じゃないと、直感で分かる。


「随分と、丁寧に“削られて”きましたね」


 その言葉に。


 胸の奥を掴まれた気がした。


「……なにを」


「ご自分の価値を、です」


 言い当てられる。


 何もかも。


「本来なら、もっと早く手に入れるべきでしたが」


 さらりと、とんでもないことを言う。


「少々、周囲の観察に時間を要しまして」


(……観察?)


 誰を。


 何のために。


 理解が追いつかない。


「ですが、もう十分です」


 指先が、ほんの少しだけ強くなる。


「貴女は、あの家には過ぎた存在だ」


 断言。


 迷いのない声。


「ですので」


 一拍。


 間を置いて。


「本日より、貴女は私のものです」


 逃げ道を、完全に塞ぐ言葉。


 怖いはずなのに。


 なぜか。


 胸の奥が、じんわりと熱い。


「……拒否権は」


 かすれた声で問う。


 すると彼は、柔らかく微笑んだ。


「ございますよ」


 意外な答え。


 けれど続く言葉は――


「ただし、戻られる場合に限り」


 現実を突きつける。


 父と、ルミナの顔がよぎる。


 あの目。


 あの熱。


(……戻りたくない)


 初めて、はっきりと思った。


「ここにいれば」


 イシュヴァルが、静かに言う。


「貴女を否定する者はいません」


 その一言が。


 何よりも、深く刺さる。


「大切に扱います」


 優しく。


 でも、確実に囲い込む声音で。


「選んでください、セシリア様」


 差し出された手。


 白く、綺麗で。


 逃げれば二度と触れられない気がして。


 触れれば、もう戻れない気がした。


(……でも)


 ゆっくりと、手を伸ばす。


 触れた瞬間。


 指が絡め取られる。


 逃がさないように。


 でも、壊さないように。


「……はい」


 小さく、答える。


 その瞬間。


 イシュヴァルは満足そうに微笑んだ。


「良い選択です」


 耳元で、囁かれる。


「ようこそ」


 甘く、低い声で。


「――こちら側へ」


 目が覚めたとき、最初に感じたのは静けさだった。


 誰かの足音も、叱責もない。

 ただ、穏やかな空気だけが満ちている。


(……ここは)


 ゆっくりと起き上がる。


 整えられた寝具。見慣れない天井。

 ――そうだ。ここは、あの人の屋敷。


「……イシュヴァル様」


 名前を口にしただけで、少しだけ心が落ち着く。


 不思議だった。


 昨日まで、あんなにも怖かったのに。


 支度を整えて部屋を出ると、すぐに使用人が現れた。


「おはようございます、セシリア様」


 柔らかな笑み。


 その一言に、わずかに足が止まる。


(……“様”?)


 呼ばれ慣れない敬称。


 戸惑っていると、


「朝食のご用意ができております」


 自然に案内される。


 拒む理由が、見つからない。




 食堂には、すでにイシュヴァルがいた。


「おはようございます」


 穏やかな声。


 まるで、ずっと前からそうしてきたかのような自然さで。


「……おはよう、ございます」


 少し遅れて返すと、彼は満足そうに微笑んだ。


「よくお休みになれましたか?」


「はい……」


 本当に、よく眠れた。


 あの家では、いつもどこか緊張していたのに。


「それは何よりです」


 席を勧められ、向かいに座る。


 用意された料理は、どれも丁寧で温かい。


(こんな食事……初めてかもしれない)


 自然と手が伸びる。


 その様子を、イシュヴァルは静かに見ていた。


「……あまり、見ないでください」


 思わず言うと、


「失礼しました」


 すぐに視線を外す。


 でも。


「嬉しかったものですから」


 そう付け加えられて、言葉に詰まる。


(嬉しい……?)


 私が食べているだけで?


 理解できない。


 けれど、嫌ではなかった。




 食後。


「少し、お時間よろしいですか」


 そう言われ、頷く。


 案内されたのは、小さな書斎だった。


「こちらに」


 椅子を引かれる。


 その仕草ひとつが、やけに丁寧で。


(どうして、ここまで)


 疑問が消えない。


「セシリア様」


 名前を呼ばれる。


 視線を上げると、すぐ近くに彼がいた。


「一つ、確認を」


 低い声。


 逃げ場を塞ぐ距離。


「この屋敷での生活に、不満はございますか」


 問われて、少し考える。


 不満。


 そんなもの、あるはずがない。


 むしろ――


「……怖い、です」


 気づけば、そう答えていた。


 イシュヴァルの目が、わずかに細まる。


「ほう」


「優しすぎて」


 言葉を探しながら続ける。


「どうしていいか、分からなくて……」


 沈黙。


 否定されると思った。


 けれど。


「正直で、よろしい」


 彼は、静かに頷いた。


「では、その“分からなさ”は私が引き受けましょう」


「え……?」


「貴女は、考えなくていい」


 さらりと、恐ろしいことを言う。


「ここでは、すべて私が決めます」


 やさしい声。


 なのに、完全な支配。


「その代わり」


 指先が、そっと手に触れる。


「貴女は安心していればいい」


 絡め取るように、指が重なる。


「それが、私の望みです」


 逃げようと思えば、逃げられる。


 でも。


 逃げたいとは、思わなかった。


(……楽、だ)


 決めなくていい。


 否定されない。


 ただ、ここにいればいい。


 それがどれだけ甘いことか、分かっているのに。


「……はい」


 小さく頷く。


 その瞬間。


 彼の指が、わずかに強くなる。


「良い子ですね」


 その言葉に。


 胸の奥が、ほどけていく。




 その日から。


 私は少しずつ、“囲われること”に慣れていった。


 選ぶ必要はない。


 迷う必要もない。


 すべては、イシュヴァルが整えてくれる。


 そして――


「セシリア様に、こちらを」


 与えられるものは、どれも“私のために選ばれたもの”だった。


(……どうして、ここまで)


 疑問は消えない。


 けれど。


 その答えを、深く考えないようになっていく。


 考えなくても、満たされるから。




 夜。


「本日は、いかがでしたか」


 隣に座る彼が問う。


「……穏やかでした」


 素直に答えると、満足そうに頷く。


「それは何よりです」


 そのまま、自然に距離が縮まる。


 肩が触れるか、触れないか。


 逃げ場は、もうない。


「セシリア様」


 名前を呼ばれる。


 それだけで、心が揺れる。


「あなたは、それでよろしい」


 確認のようで、決定の言葉。


「はい……」


 迷いは、もうほとんどなかった。


 その様子を見て、彼は微笑む。


 静かに。


 満足そうに。


 まるで。


 最初から、こうなると分かっていたかのように。




 ――囲われるというのは。


 閉じ込められることじゃない。


 気づけば、外に出る理由がなくなっていることだ。


その日は、昼下がりだった。


「こちらへ」


 イシュヴァルに呼ばれて向かったのは、屋敷の奥にある小さな温室だった。


 柔らかな光と、静かな緑。

 人の気配がほとんどない場所。


(……落ち着く)


 そう思った瞬間。


「気に入っていただけましたか」


 すぐ後ろから声がした。


「……はい」


 振り返ると、いつもより距離が近い。


 思わず一歩下がろうとして――止まる。


 もう、この距離に慣れてしまっていることに気づいた。


「それは良かった」


 彼は静かに微笑む。


「ここは、貴女のために整えた場所ですから」


「……私の?」


 聞き返すと、当然のように頷かれる。


「ええ」


 その言葉が、胸の奥に落ちる。


(また、“私のため”……)


 どうしてそこまでされるのか。


 分からないまま。


 でも、嬉しいと思ってしまう。




 ふと、花に触れようとして手を伸ばしたとき。


「お怪我をなさらないように」


 後ろから、そっと手を取られた。


「……っ」


 指先が重なる。


 逃がさないように、でも優しく。


「この種類は、少し棘がありますので」


 説明は穏やかだった。


 けれど。


 そのまま、手は離されない。


(……近い)


 背後に、彼の気配。


 腕の中に閉じ込められているような距離。


 鼓動が、少しずつ早くなる。


「セシリア様」


 耳元で、名前を呼ばれる。


「はい……」


 声が、思ったより近くで落ちた。


「最近、よく笑うようになられましたね」


「え……」


 そんなこと、自分では分からない。


「最初にお会いしたときは」


 指先が、ゆっくりと手をなぞる。


「今にも消えてしまいそうでした」


 その言葉に、胸が締めつけられる。


「……今は、違いますか」


 小さく問うと、


「ええ」


 即答だった。


「とても、良い変化です」


 少しだけ、手に力がこもる。


「――手放したくないほどに」


 その一言で。


 空気が変わる。


(……今の)


 優しいだけじゃない。


 確かに、“囲い込む”響きがあった。


 なのに。


 怖くない。


 むしろ――


「……あの」


 言葉がうまく出てこない。


「どうされました?」


 すぐに返ってくる声。


 逃げ道は、やっぱりない。


「他の人にも……」


 自分でも驚くくらい小さな声で、


「同じように、されているんですか」


 聞いてしまった。


 一瞬。


 沈黙が落ちる。


 しまった、と思ったときには遅かった。


 けれど。


「いいえ」


 返ってきたのは、迷いのない否定だった。


 ゆっくりと、手を引かれる。


 振り返らされる形で、向き合う。


 近い。


 視線が、完全に重なる距離。


「貴女だけです」


 静かに、告げられる。


「このように触れるのも」


 指先が、頬にかかる。


「このように、時間を割くのも」


 逃げ場がない。


 でも。


 目を逸らしたくない。


「すべて、貴女だけに」


 その言葉に。


 胸の奥が、強く熱を持つ。


(……私だけ)


 そんなこと、今まで一度もなかった。


 誰かにとっての“特別”なんて。


「……どうして」


 かすれた声で、問う。


 すると彼は、ほんの少しだけ微笑んだ。


「簡単なことです」


 顔が、さらに近づく。


 息が触れそうな距離。


「貴女が、そういう存在だからですよ」


 答えになっていない。


 でも。


 それ以上聞けなくなる。


 距離が、近すぎて。


「……逃げませんね」


 ぽつりと、落ちる声。


 試すような響き。


「逃げたほうが、よろしいですか」


 返される問い。


 本当なら。


 逃げるべきなのに。


「……いいえ」


 否定してしまう。


 その瞬間。


 彼の目が、わずかに細まった。


「では」


 指先が、顎に触れる。


 最初の日と同じ仕草。


 でも、意味はまったく違う。


「もう少しだけ、このままで」


 囁かれる。


 距離は、あと少しで触れる。


 でも。


 触れない。


 そのまま、止まる。


 ――寸前で。


(……ずるい)


 そう思うのに。


 離れてほしいとは、思わなかった。




 その日の夜。


 一人になってからも、落ち着かなかった。


(私……)


 頬に、まだ感触が残っている気がする。


 手も。


 視線も。


 全部。


(……期待、してる?)


 そこまで考えて、顔が熱くなる。


 ありえない。


 でも。


 否定しきれない。




 一方で。


「……順調ですね」


 イシュヴァルは、静かに呟いた。


 手の中に残る温もりを、確かめるように。


「もう、十分でしょう」


 微笑みは穏やかで。


 けれど。


「逃げる理由が、なくなってきた」


 その目は、どこまでも深い。


「良い傾向です」


 優しく。


 確実に。


 彼女を囲い込みながら。





 広間は、熱に満ちていた。


「救いを……」

「どうか、私にも……」


 縋る声が、あちこちから上がる。


 壇上に立つ男は、それを静かに見下ろしていた。


 黒い衣。穏やかな微笑。

 すべてを受け入れるような、優しい眼差し。


「ご安心ください」


 その一言で、場が静まる。


「願いは、必ず届きます」


 救われる、と誰もが思った。


 ――ルミナも、その一人だった。


(やっと……)


 胸の奥が、熱を帯びる。


 隣で父が、小さく頷いた。


「行きなさい、ルミナ」


「はい……お父様」


 震える足で、前へ出る。


 視線が集まる。


 でも怖くない。


 むしろ、心地いい。


(見られてる……)


 ずっと欲しかったもの。


 それが、ここにある。


 壇の前に立つと、男――教祖が、ゆっくりと視線を落とした。


「お名前を」


 優しい声。


「ルミナ、と申します」


「ルミナ様」


 名前を呼ばれる。


 それだけで、胸が満たされる。


「どのような救いをお望みですか」


 問われる。


 迷いはなかった。


「……美しく、なりたいのです」


 ざわめきが起きる。


 けれど、止められない。


「誰よりも、美しく」


 言葉が止まらない。


「誰からも愛されて」


「羨まれて」


「選ばれる存在に――」


 そこで、息を吸う。


 そして。


「なりたいのです」


 言い切った。


 沈黙。


 ほんの一瞬だけ、空気が止まる。


 やがて。


「……素晴らしい願いです」


 教祖は、静かに微笑んだ。


 否定されない。


 それだけで、全てが肯定された気がした。


「では」


 ゆっくりと、手が差し出される。


「こちらへ」


 誘われるまま、一歩近づく。


 距離が、消える。


「少しだけ、触れます」


 断りを入れる声音。


 けれど拒否など考えられなかった。


 指先が、頬に触れる。


 ひやりとした感触。


「……あ」


 息が漏れる。


 何かが、流れ込んでくる。


「貴女の願い」


 耳元で、囁かれる。


「確かに受け取りました」


 その瞬間。


 体の奥で、何かが弾けた。


 熱が、巡る。


 満たされていく。


(これ……)


 分かる。


 変わっている。


 自分が、自分じゃなくなっていく。


 でも。


(気持ちいい……)


 抗う理由が、どこにもない。


「どうか」


 最後に、静かな声が落ちる。


「その美しさを、大切に」


 意味を考える余裕はなかった。


 ただ。


 すべてが満たされた気がして。




 その日から。


 ルミナは、変わった。


「……綺麗」


 鏡に映る自分に、思わず見惚れる。


 肌は透き通るようで、瞳は輝き、仕草ひとつで視線を集める。


「お嬢様……まるで別人のようでございます」


 使用人が、息を呑む。


 その反応が、心地いい。


「そうでしょう?」


 微笑むだけで、相手の頬が赤くなる。


(これよ)


 これが欲しかった。


 視線。羨望。愛。


 すべてが、こちらに向く。




「素晴らしい……!」


 父もまた、満足そうに頷いた。


「さすがは教祖様だ」


 その目には、完全な信仰が宿っている。


「次は、私の番だな……」


 ぽつりと漏れたその言葉に、


 ルミナはふと、違和感を覚える。


(……次?)


 一瞬だけ。


 ほんのわずかに。


 胸の奥が、ざわついた。


 けれど。


「お姉様なんて、もう必要ないわね」


 そう口にした瞬間、


 その違和感は、消えた。


 代わりに広がるのは、満足感。


 自分が“上に立った”という確信。









 誰も気づかない。


 その美しさが、


 どのような形で完成されているのかを。




 遠く。


 それを見ている影がひとつ。


「……ええ、順調です」


 イシュヴァルは、静かに微笑む。


 まるで。


 最初から結末を知っているかのように。


「とても、美しい」


 その言葉は。


 賞賛であり――


 終わりの予告でもあった。





ルミナが“美しさ”を得てから、数日。


 伯爵家の空気は、一変していた。


「お嬢様……本当にお美しい」


「先日の夜会でも、皆様が見惚れておりました」


 使用人たちは口々に称賛する。


 その視線は、かつてとはまるで違う。


(当然よね)


 ルミナは鏡の前で、ゆっくりと微笑む。


 角度も、表情も、すべてが完璧だった。


 視線を集めることが、こんなにも心地いいなんて。


「……でも」


 ふと、指先で頬に触れる。


 ほんの一瞬だけ。


 違和感のようなものがよぎった気がした。


(……気のせい、よね)


 すぐに消える。


 代わりに残るのは、満たされた感覚だけ。




「ルミナ」


 父の声がする。


「今日も、教祖様のもとへ行く」


 振り返ると、そこには以前よりも明らかに“焦り”を帯びた父がいた。


「お父様も、願われるのですか?」


「ああ」


 迷いはない。


 むしろ、確信に満ちている。


「この機を逃すわけにはいかん」


 その目は、ルミナと同じ光を宿していた。


 ――欲望に満ちた光。




 再び訪れた、あの広間。


 熱気は、以前よりも増している。


「救いを……」

「どうか、私にも……」


 変わらない光景。


 ただ一つ違うのは、


 その中心にいる存在への“信仰”が、より深くなっていること。


「ようこそ」


 壇上の男が、静かに微笑む。


「本日も、多くの願いが集まっております」


 その声だけで、人々は安堵する。


 絶対的な存在。


 疑う余地すら、与えられない。




「前へ」


 父が呼ばれる。


 堂々とした足取りで進み出る。


「お名前を」


「――グラント伯爵」


 誇らしげに名乗る。


 その肩書きが、すでに物足りないもののように感じながら。


「どのような救いをお望みですか」


 問われる。


 父は、一瞬も迷わなかった。


「更なる地位を」


 ざわめきが広がる。


「我が家を、より高みへ」


 声に、熱がこもる。


「伯爵では足りぬ」


「私は――選ばれる側でありたい」


 言葉が、次々と溢れる。


「誰もが従う地位を」


「揺るがぬ権力を」


「すべてを手に入れたい」


 最後に、強く言い切る。


「それが、私の望みだ」




 沈黙。


 そして。


「……素晴らしい」


 教祖は、ゆっくりと頷いた。


「非常に、純粋な願いです」


 その言葉に、父の顔が歪むほどの喜びが浮かぶ。


「では」


 手が差し出される。


「お受け取りください」


 父は迷わず、その手を取った。




 瞬間。


 空気が変わる。


 何かが、流れ込む。


「……っ」


 父の目が見開かれる。


 理解している。


 “与えられている”と。


「これで……!」


 震える声。


 歓喜に満ちた表情。




 数日後。


 その願いは、現実となった。


「――グラント侯爵」


 その名が、正式に告げられる。


 異例の昇格。


 誰もが驚き、誰もが恐れた。


「素晴らしいですわ、お父様!」


 ルミナが駆け寄る。


 その笑顔は、以前よりもさらに眩しい。


「当然だ」


 父は満足げに頷く。


「我々は“選ばれた”のだ」


 その言葉に、疑いはない。




 ――だが。


「……ねえ、お父様」


 ルミナが、ふと呟く。


「最近、私を見る人……減っていません?」


 一瞬。


 空気が、わずかに揺れる。


「何を言っている」


 父は即座に否定する。


「お前は美しい。誰もが見ている」


「……そう、よね」


 笑う。


 でも。


 どこか、引っかかる。


 以前ほどの“熱”を感じない瞬間がある。


 ほんの、わずかだけ。




 一方で。


 父の周囲では。


「……急な昇格だな」


「裏で何が……」


 囁きが広がり始めていた。


 羨望と、疑念。


 そして――


 敵意。




 それでも。


 父は気づかない。


 いや、気づこうとしない。


 すでに。


 手に入れたものを、疑えなくなっているから。




 遠くで。


「ええ、順調です」


 イシュヴァルは静かに呟く。


 穏やかな微笑のまま。


「願いは、すべて叶えられている」


 その通りだ。


 何一つ、嘘はない。


「だからこそ」


 目を細める。


「美しいのです」


 崩れていく過程すら。


 最初から含まれていたかのように。


 最初に気づいたのは、些細な違和感だった。


「……あれ?」


 ルミナは鏡の前で、ふと手を止める。


 今日も美しい。

 それは間違いない。


 肌も、髪も、仕草も――完璧だ。


 でも。


(……何かが、違う)


 角度を変える。


 光を当てる。


 微笑む。


 どれも、完璧なはずなのに。


「……気のせいよね」


 呟いて、唇を上げる。


 その瞬間。


 背筋が、ぞくりとした。


 ――“見られている”感覚が、薄い。


 以前は、ただ歩くだけで視線が集まった。


 息を呑まれ、囁かれ、羨望される。


 それが当然だったのに。


(どうして……?)


 ほんの一瞬。


 空白がある。


 次の瞬間にはまた、視線は戻る。


 でも、その“間”が――怖い。




「ルミナ様、本日のご予定ですが」


 使用人が声をかける。


 振り返る。


 その目に映る自分は、やはり美しい。


 けれど。


(……前より、弱い?)


 そんなはずはない。


 むしろ、磨かれているはずなのに。


「ねえ」


 思わず問いかける。


「私、変わったと思う?」


 使用人は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 その“間”。


 それが、すべてだった。


「い、いえ……とてもお美しく……」


 取り繕う声。


 以前なら、即答だったはずなのに。


(……なんで)


 胸の奥が、ざわつく。




 一方で。


「侯爵閣下、お話が」


 父――グラント侯爵のもとには、連日のように人が訪れていた。


 表向きは、祝福。


 だが。


「今回の昇格、随分と急でいらっしゃる」


「ええ、まあ……」


 言葉の端に、棘が混じる。


 羨望と、疑念。


 そして。


「……裏で何があったのか、ぜひお聞かせ願いたい」


 探るような視線。


 以前にはなかった圧力。


「……問題はない」


 父は短く言い切る。


 だが。


 その声に、わずかな硬さが混じる。


(なぜだ)


 すべては手に入れたはずだ。


 地位も、権力も。


 なのに。


 周囲の“温度”が違う。


 従っているようで、従っていない。


 笑っているようで、笑っていない。


(……気のせいだ)


 そう思い込もうとする。


 だが。


 確実に、何かが変わっている。




 同じ頃。


「セシリア様」


 穏やかな声が響く。


 振り返ると、イシュヴァルがいた。


「今日は、何も困りませんでしたか」


「……ええ、とても、穏やかな気持ちです」


 自然に答える。


 本心だった。


 ここには、不安がない。


 比べられることも、否定されることもない。


「それは何よりです」


 彼は静かに頷く。


 そして。


「少し、こちらへ」


 手を差し出す。


 迷いなく、その手を取る。


 もう、それが当たり前になっていた。




 庭の奥。


 誰もいない場所。


 柔らかな光と、静かな風。


「……ここ、好きです」


 ぽつりと呟くと、


「ええ」


 すぐ隣で声がする。


「貴女が落ち着けるように、整えましたので」


 その言葉に、胸が温かくなる。


(また、“私のため”……)


 理由は分からない。


 でも。


 疑う気持ちは、もうほとんどない。


「セシリア様」


 名前を呼ばれる。


 振り返る。


 距離が近い。


 でも、自然に受け入れている自分がいる。


「最近、外のことを考えなくなりましたね」


 穏やかな指摘。


 図星だった。


「……はい」


 少しだけ考えて、頷く。


「ここで、満たされていますから」


 言ってから、少し驚く。


 そんなこと、自然に言えるようになっている。


 イシュヴァルは、わずかに目を細めた。


「そうですか」


 満足そうに。


「それは、とても良いことです」


 指先が、そっと頬に触れる。


 もう、驚かない。


 むしろ――


(安心する)


 そう感じてしまう。


「貴女は、そのままでよろしい」


 優しく、肯定される。


「何も変わる必要はありません」


 その言葉が。


 深く、染み込む。




 一方で。


 ルミナは、鏡の前で何度も微笑んでいた。


 角度を変え、表情を作り直し、


 “最も美しく見える瞬間”を探し続ける。


(まだ足りない)


 そう思ってしまう。


(もっと、見られたい)


 その願いが、少しずつ強くなる。


 気づかないまま。


 その“強さ”が、


 何を削っているのかを。




 遠くで。


「……始まりましたね」


 イシュヴァルは静かに呟く。


 穏やかな微笑のまま。


「欲は、形になるほど歪む」


 その視線は、


 セシリアではなく――


 別の場所を見ていた。


「ですが」


 ふっと、柔らかくなる。


「貴女は違う」


 手の中の温もりを、確かめるように。


「だから、壊れない」


 囲われたその存在だけが、


 唯一、歪みから外れていることを知りながら。


 ――足りない。


 その感覚は、日に日に強くなっていた。


「……どうして」


 ルミナは鏡の前で、何度目か分からない問いを零す。


 美しい。


 それは間違いない。


 夜会でも、街でも、誰もが振り返る。


 けれど。


(前より、弱い)


 最初に得たあの“熱”が、持続しない。


 視線は集まる。

 でも、すぐに離れる。


 囁きはある。

 でも、長くは続かない。


 まるで。


 “もっと求めなければ保てない”みたいに。


「……違う」


 首を振る。


 そんなはずはない。


 私は、選ばれたのだから。




「ルミナ様、本日のご予定は――」


「いいわ」


 遮る。


「外出するわ。あそこへ」


 使用人が、息を呑む。


「……教団へ、でございますか」


「ええ」


 迷いはなかった。


(もう一度、確かめる)


 あの人なら。


 あの教祖なら。


 きっと。




 広間は、以前よりもさらに熱を帯びていた。


「救いを……」

「選ばれたい……」


 縋る声。


 渇いた欲望。


 すべてが混ざり合っている。


 その中心に。


 変わらず、彼はいた。


「ようこそ」


 穏やかな微笑。


 すべてを受け入れるような声音。


 ルミナの胸が、高鳴る。


(この人は、分かってくれる)


 自分がどれほど“特別”かを。




「ルミナ様」


 名前を呼ばれる。


 それだけで、満たされる。


 けれど同時に――


(もっと)


 足りない。


「本日は、どのようなご用件で」


 問われる。


 ルミナは、一瞬だけ躊躇して――


 すぐに、飲み込んだ。


「……私」


 声が震える。


 でも止まらない。


「まだ、足りないのです」


 ざわめきが広がる。


「美しいはずなのに」


「愛されているはずなのに」


「でも――」


 言葉が溢れる。


「もっと欲しい」


 その瞬間。


 空気が、わずかに変わった。


 けれどルミナは気づかない。


「誰よりも」


「ずっと」


「ずっと愛され続けたいのです」


 言い切る。


 もう、止められない。




 沈黙。


 そして。


「……なるほど」


 教祖は、静かに頷いた。


 否定はしない。


 拒絶もしない。


 それが、何よりも心地いい。


「愛されることは、尊いことです」


 優しく、肯定される。


 それだけで救われる。


「ですが」


 一拍。


 ほんのわずかな間。


「それを“維持する”には、相応の形が必要になります」


「……形?」


「ええ」


 微笑みは変わらない。


 けれど。


 どこか、深い。


「与えられたものを、どう扱うか」


「それが、そのまま結果となる」


 意味は、よく分からない。


 でも。


「……構いません」


 ルミナは即答する。


「どんな形でも」


 その言葉に。


 教祖の目が、わずかに細まった。




「承知いたしました」


 静かに、手が伸びる。


 逃げる理由は、どこにもない。


 むしろ――


(欲しい)


 もっと。


 もっと。


 満たされたい。


 指先が、再び頬に触れる。


「貴女の願い」


 低く、甘い声。


「確かに、受け取りました」


 その瞬間。


 熱が、さらに深く流れ込む。


「……っ」


 体の奥が震える。


 最初の時より、強い。


 濃い。


 満たされる。


(これ……これよ)


 求めていたもの。


 もっと、もっと。




「どうか」


 最後に、囁かれる。


「その愛を、大切に」


 意味を考えない。


 考えたくない。


 ただ、満たされる感覚に身を委ねる。




 その頃。


「……次は、私だ」


 父もまた、動き出していた。


 すでに一度、願いは叶っている。


 だが。


(まだ足りん)


 地位は得た。


 だが、完全ではない。


 疑念が残る。


 従わない者がいる。


 ならば。


(すべてを掌握すればいい)


 欲は、さらに膨らむ。




 一方で。


「セシリア様」


 穏やかな声。


 振り返ると、イシュヴァルがいた。


「本日は、少しお疲れのように見えます」


「……そう、でしょうか」


 首を傾げる。


 自覚はなかった。


「少しだけ」


 手を取られる。


 自然に。


 当たり前のように。


「こちらへ」


 導かれるまま、歩く。


 静かな部屋。


 柔らかな光。


「ここで、少し休まれてください」


 椅子に座らされる。


 距離が近い。


 でも、落ち着く。


「……どうして、こんなに」


 ぽつりと零れる。


「優しくしてくださるのですか」


 ずっと、疑問だったこと。


 イシュヴァルは、わずかに微笑む。


「簡単なことです」


 指先が、そっと髪に触れる。


「貴女が、何も求めないからです」


「……え」


「欲がない方は、歪まない」


 静かな声。


「ですから、そのままでいていただきたい」


 その言葉に。


 胸が、静かに満たされる。


 ルミナとは違う。


 求めなくても、与えられる。


 その意味を、まだ完全には理解していないまま。




 遠くで。


「……これで、揃いました」


 イシュヴァルは静かに呟く。


 ルミナの“加速した欲”。


 父の“拡張された支配欲”。


 すべてが、予定通り。


「さて」


 わずかに、笑みが深くなる。


「どこまで美しく崩れるか」


 その視線は、冷たくも優しい。


 すべてを見届ける者のものだった。


 最初の異変は、ほんの一筋だった。


「……え」


 ルミナは鏡の前で、息を止める。


 髪。


 完璧だったはずの金糸の中に、一本だけ――


 白が混じっていた。


「……違う」


 すぐに引き抜く。


 指先が震える。


(光の加減よ)


 そう思い込もうとする。


 だって。


 私は、あの方に“選ばれた”のだから。




「ルミナ様、本日のご支度を――」


「いいわ!」


 強く遮る。


 使用人がびくりと肩を揺らす。


 その反応に、一瞬だけ満足しかけて――


(……弱い)


 胸の奥がざらつく。


 以前なら、ただ視線を向けるだけでよかった。


 何も言わなくても、相手は崩れた。


 でも今は。


「ちゃんと見なさい」


 思わず、言ってしまう。


「私を」


 使用人は慌てて顔を上げる。


「は、はい……とてもお美しく……」


 その声は、震えていた。


 恐怖からか。


 それとも――


(違う)


 何かが違う。


 “見惚れている”のではない。


 ただ、“怯えている”。


 その差が。


 どうしようもなく、不快だった。




 その日の夜会。


 ルミナは、完璧な装いで現れた。


 視線が集まる。


 囁きが起きる。


(ほら)


 間違っていない。


 私は美しい。


 私は選ばれている。


 そう思った、次の瞬間。


「……あれが、例の」


「確かに美しいが……」


 耳に入る声。


 以前と違う。


 熱がない。


 距離がある。


「少し、印象が変わったな」


 その一言が、突き刺さる。


(……何が?)


 笑みを崩さないまま、歩く。


 完璧に。


 誰よりも美しく。


 なのに。


 視線が、続かない。


 すぐに逸れる。


 次へ流れる。


(どうして)


 胸が、ざわつく。


(もっと……)


 足りない。


 まだ足りない。




 一方で。


「侯爵閣下、こちらの件ですが」


 父のもとには、書類が山のように積まれていた。


 地位は上がった。


 責任も、権限も。


 だが。


「……これはどういうことだ」


 眉をひそめる。


 署名されたはずの契約が、覆されている。


「相手方が、急に態度を変えまして……」


「理由は?」


「それが……明確には」


 歯切れの悪い返答。


 苛立ちが募る。


(なぜだ)


 以前なら、こんなことはなかった。


 誰もが従った。


 逆らう者など、いなかった。


 なのに今は。


「……裏で何か動いているのか」


 疑念が浮かぶ。


 そして同時に。


 誰も信じられなくなる。




 同じ頃。


「……少し、風が冷たいですね」


 セシリアは庭で、小さく呟いた。


 隣には、イシュヴァル。


「では、こちらへ」


 すぐに、肩に羽織がかけられる。


 自然な仕草。


 迷いのない距離。


「ありがとうございます」


 受け取ると、ほんの少しだけ指が触れる。


 それだけで、落ち着く。


「本日は、外が騒がしいようです」


 イシュヴァルが言う。


「え?」


「夜会があるのでしょう」


 ああ、と頷く。


 かつては自分もいた場所。


 でも。


「……あまり、気になりません」


 素直に言う。


 驚くほど、執着がなかった。


「そうですか」


 彼は静かに微笑む。


「良いことです」


 そのまま、手を取られる。


 当たり前のように。


 拒む理由が、もうない。


「セシリア様」


 名前を呼ばれる。


 視線が重なる。


「貴女は、変わりませんね」


「……?」


「求めない」


 指先が、そっと頬に触れる。


「だから、失わない」


 その言葉の意味を、


 セシリアはまだ完全には知らない。


 ただ。


 その声が、心地よいと感じるだけで。




 夜会の終わり。


 ルミナは、鏡の前に立っていた。


 笑みを貼り付けたまま。


 ゆっくりと、顔に触れる。


(……大丈夫)


 美しい。


 まだ、美しい。


 でも。


 光の加減で。


 一瞬だけ。


 頬に、影が落ちる。


 それが。


 “線”のように見えた。


「……違う」


 首を振る。


「違う、違う……」


 でも。


 もう気づいている。


 ほんの少しずつ。


 確実に。



 何かが削れていることに。




 遠くで。


「……ええ、順調です」


 イシュヴァルは静かに呟く。


 穏やかなまま。


 何一つ変わらず。


「愛されるほど、形が変わる」


 その視線は、冷静だった。


「実に、理にかなっている」


 否定はしない。


 止めもしない。


「願いは、正しく叶えられている」


 それがすべて。


 最初から。


 何一つ、間違っていない。




その噂を聞いたのは、偶然だった。


「……最近、侯爵家が妙でな」


 廊下の向こう。


 使用人たちの、ひそやかな声。


「娘の方も……以前のような評判では」


「顔色も優れぬとか……」


 そこで、言葉が途切れる。


 気配に気づいたのか、静かになる。


(……侯爵家)


 胸が、わずかに揺れる。


 もう関係のないはずの場所。


 なのに。


「セシリア様」


 背後から声がする。


 振り返ると、イシュヴァル。


「どうかなさいましたか」


「……いえ」


 すぐに否定する。


 でも。


 完全には消えない。


 ほんの少しだけ残る、引っかかり。




「外の様子を、ご覧になりますか」


 不意に、そう言われる。


「……え?」


「気になっておられるようでしたので」


 穏やかな提案。


 断る理由が、見つからない。


「……少しだけ」


 頷くと、彼は満足そうに微笑んだ。




 連れて行かれたのは、街の外れ。


 人目につかない場所から、広場を見下ろす。


 そこに――


「……ルミナ?」


 思わず、息を呑む。


 いた。


 間違いなく、妹だった。


 でも。


(……誰?)


 一瞬、そう思ってしまう。


 美しい。


 それは変わらない。


 けれど。


 何かが、崩れている。


 視線が集まっているのに。


 どこか、長く続かない。


 笑っているのに。


 無理に作っているのが分かる。


「見てください……私を」


 ルミナの声が、風に乗る。


 必死な響き。


 かつての余裕は、どこにもない。


「私は、こんなに――」


 言葉が、途中で詰まる。


 周囲の反応が、薄い。


 誰もが見ているのに、誰も“残らない”。


(……どうして)


 セシリアの胸が、ざわつく。


 知っている顔。


 知っている声。


 なのに。


 まるで別の存在みたいに見える。




「愛は、難しいものです」


 隣で、イシュヴァルが静かに言う。


「……え」


「求めるほど、形が変わる」


 穏やかな声。


 説明のようで。


 どこか、距離がある。


「……あれは」


 言葉が、うまく出ない。


「あれは……」


 妹。


 そう言いたいのに。


 なぜか、遠い。


「望まれた結果です」


 あっさりと、返される。


「……結果?」


「ええ」


 微笑みは変わらない。


「願いは、正しく叶えられている」


 その言葉に。


 胸の奥が、ひやりとする。


(……正しく?)


 あれが?


 あれが、“正しい”?




 その時。


 ルミナが、こちらを見た。


 目が合う。


 一瞬。


 時間が止まる。


「……お姉様?」


 かすれた声。


 そして。


 次の瞬間。


「どうして、あなたが……!」


 表情が歪む。


 嫉妬と、焦燥と、何かが混ざった顔。


「どうして、そんな顔をしているのよ!」


 叫びに近い声。


「あなたは……何も持っていなかったのに!」


 胸に、刺さる。


 でも。


 それ以上に。


 違和感が強い。


(……私)


 何も持っていなかった。


 それは、事実。


 なのに。


(今は……?)


 視線が、自然と隣へ向く。


 イシュヴァル。


 穏やかなまま。


 何も変わらない。


 でも。


(……どうして)


 ここだけが、違う。


 外は、崩れているのに。


 ここだけ、何も変わらない。




「……イシュヴァル様」


 初めて。


 ほんの少しだけ。


 問いの温度が変わる。


「これは……」


 何なのか。


 聞こうとした、その瞬間。


 指先が、そっと触れる。


 頬に。


「セシリア様」


 名前を呼ばれる。


 いつもと同じ声。


 でも。


 どこか、深い。


「ご不安ですか」


「……はい」


 正直に、頷く。


 初めての感覚だった。


 ここにいて、揺らぐ。


「そうですか」


 彼は、わずかに目を細める。


 そして。


「それでは」


 静かに、続ける。


「離れますか?」


 その一言で。


 すべてが、止まる。




 離れる。


 ここから。


 この場所から。


 この人から。


 考える。


 ほんの、一瞬。


 ルミナの姿。


 父の顔。


 あの家。


 そして。


 今の自分。


(……戻りたくない)


 はっきりと、思う。


 怖い。


 おかしい。


 でも。


 それでも。


「……いいえ」


 答えてしまう。


 その瞬間。


 イシュヴァルの指が、わずかに強くなる。


「よろしい」


 低く、満足した声。


「それでこそ」


 逃げ道は、もうない。


 でも。


 自分で選んだ。




「貴女は、正しい」


 優しく、肯定される。


 そして。


「だから、守られる」


 その言葉に。


 胸の奥が、静かに落ち着いていく。


 違和感は消えない。


 でも。


 それ以上に――


 ここにいたいと思ってしまう。




 遠くで。


 ルミナは、崩れかけた笑みで立ち尽くしていた。


 誰も、見ていない。


 もう。


 “愛される側”ではない。




 そして。


「……収穫ですね」


 イシュヴァルは、静かに呟く。


 手の中の温もりを、確かめるように。


「ようやく」


 その声は、穏やかで。


 どこまでも優しかった。




 雨が、静かに降っていた。


 広間に集まる人々は、以前よりも少ない。


 それでも。


 残っている者たちの熱は、むしろ濃くなっていた。


「どうか……もう一度……」

「救いを……!」


 縋る声。


 焦りを帯びた祈り。


 その中心に。


 変わらず、彼はいた。


「ようこそ」


 イシュヴァルは、穏やかに微笑む。


 何も変わらない。


 何一つ。




「教祖様……!」


 その声は、かすれていた。


 前へ進み出たのは――ルミナ。


 かつて、誰よりも視線を集めていた少女。


 今は。


 美しい。


 それでも、確かに。


 崩れている。


 頬はこけ、瞳の輝きは濁り、肌には隠しきれない“時間”が浮かんでいる。


「どうして……どうしてなの……!」


 叫びが、広間に響く。


「私は願った!」


「誰よりも愛されたいと!」


「なのに……!」


 息が乱れる。


 震える手で、自分の顔を押さえる。


「見てくれないの……誰も……!」


 その声に。


 誰も近づかない。


 視線はある。


 でも――


 “留まらない”。




「教祖様……!」


 もう一人、前へ出る。


 グラント侯爵。


 かつての威厳は、影を潜めていた。


「私もだ……!」


 声に、焦燥が滲む。


「地位は得た!」


「だが、誰も従わぬ……!」


「裏切りばかりだ……!」


 拳を握りしめる。


「なぜだ……なぜ、こうなる……!」




 沈黙。


 そして。


「……なぜ、と」


 イシュヴァルは、静かに繰り返した。


 ゆっくりと、二人を見下ろす。


 変わらない微笑。


「不思議に思われますか」


 その声音に。


 わずかに、温度が混じる。


 ――ほんの少しだけ、冷たい。




「貴女は、“愛されたい”と願われた」


 ルミナへ。


「はい……!」


 涙に濡れた顔で、縋る。


「だから、与えました」


 淡々と。


「誰もが目を奪われる美しさを」


「……なら、どうして!」


「――“愛される形”を」


 一言、重ねる。


 ルミナの言葉が止まる。


「貴女は、“愛され続けたい”と仰った」


 静かに。


 確実に。


「ですから」


 わずかに、目を細める。


「愛されるほど、形が変わるようにいたしました」


 沈黙。


 一瞬、意味が理解できない。


 そして。


「……え?」


 ルミナの声が、震える。


「それは……」


 指先が、自分の頬に触れる。


 崩れた感触。


「まさか……」


 後ずさる。


「違う……そんなの……!」


「望まれた通りですよ」


 否定はしない。


 ただ、事実を告げる。


「“ずっと愛されるために”」


 その言葉で。


 すべてが繋がる。


 愛されることは、消費されること。

 崩れることは、もっと求めること。


 終わらない。


 止まらない。


「いや……いやああああ!!」


 叫びが、崩れる。


 初めて。


 完全に。


 “自分の願いの形”を理解して。




「そして、貴方」


 今度は父へ。


「……私は……!」


 すがるように言う。


「私は地位を望んだ!」


「その通りです」


 頷く。


「ですから、与えました」


 侯爵という地位。


 権力。


 名声。


「だが……!」


 父の声が震える。


「誰も信じられぬ……!」


「当然でしょう」


 あっさりと、言い切る。


「“すべてを掌握したい”と仰った」


 その一言で。


 父の顔が、凍りつく。


「他者を支配するということは」


 静かに、続ける。


「他者を信じないということと同義です」


「……」


「ですから」


 穏やかに。


「誰も、貴方を信じなくなった」


 因果は、完璧だった。




「……そんな……」


 膝が、崩れる。


 すべてを手に入れたはずなのに。


 何も残っていない。




「では」


 イシュヴァルは、静かに言う。


「ご質問への回答ですが」


 わずかに、微笑む。


「すべて、すでに叶っております」


 その一言で。


 二人は、完全に崩れた。




 その光景を。


 少し離れた場所から、見ている者がいた。


「……セシリア様」


 静かに、名前を呼ばれる。


 振り返る。


 イシュヴァルが、すぐ隣にいる。


 いつの間にか。


 まるで最初からそこにいたかのように。


「……あれが」


 言葉が、うまく出ない。


「願いの、結果……?」


「ええ」


 穏やかに頷く。


「美しいでしょう」


 その感想に。


 わずかに、震える。


 でも。


 否定できない。


 あまりにも、整いすぎているから。




「セシリア様」


 指先が、そっと顎に触れる。


 最初と同じ仕草。


 でも、意味は完全に違う。


「貴女は、何も求めなかった」


 視線が、重なる。


「ですから」


 静かに。


「何も失わない」


 その言葉が。


 すべてを確定させる。




「……はい」


 もう、迷いはない。


 違和感も、恐れも。


 すべて含めて。


 ここにいると決めた。




 イシュヴァルは、満足そうに微笑む。


「良い子ですね」


 指先が、わずかに強くなる。


「これで、完全です」


 囁き。


 逃げ道は、もう存在しない。


 でも。


 それでいいと、思っている。




 背後で。


 ルミナの泣き声と、父の崩れた呼吸が響く。


 もう。


 誰も救われない。




 ただ一人を除いて。




 悪魔は、最後まで優しく微笑んでいた。


夜は、静かだった。


 屋敷の庭に出ると、空気がひんやりとしている。


 遠くの喧騒も、もう届かない。


(……終わった)


 何が、とは言えない。


 でも確かに。


 何かが、終わって。


 そして。


 何かが、始まっている。




「お一人で、どうなさいましたか」


 背後から、いつもの声。


 振り返らなくても分かる。


「……少し、考え事を」


 答えると、足音が近づく。


 隣に立つ気配。


 距離は、もう当たり前のように近い。


「本日は、いかがでしたか」


「……見てしまいました」


 正直に言う。


 隠す意味が、もうない。


「すべて」


 あの光景。


 崩れていく願い。


 止まらない欲。


 そして。


 それを、ただ“叶えた”存在。



「……怖い、と思いましたか」


 穏やかな問い。


 少しだけ、考える。


「はい」


 頷く。


 嘘はつかない。


「でも」


 続ける。


「それだけじゃ、ありません」


 沈黙。


 彼は、何も言わない。


 ただ、待っている。


「……分かってしまったんです」


 ゆっくりと、言葉を選ぶ。


「ここが、どういう場所か」


 優しさだけじゃない。


 救いだけでもない。


 選ばれた者だけが、残る場所。


 そして。


(……私は)


 選ばれたんじゃない。


 ――選んだ。




 振り返る。


 イシュヴァルの目が、すぐそこにある。


 変わらない。


 でも。


 少しだけ、“待っている”ように見えた。


「……それでも」


 声が、静かに落ちる。


「ここにいたいと、思いました」


 はっきりと。


 逃げずに言う。




 ほんの一瞬。


 彼の目が、わずかに細まる。


「そうですか」


 それだけ。


 たったそれだけなのに。


 何かが、決まる音がした。




 手が、伸びる。


 顎に触れる。


 最初と同じ。


 でも。


 もう意味は違う。


「では」


 低く、囁く。


「改めて――」


 その先を。


 言わせない。




「……待ってください」


 そっと、手に触れる。


 止める。


 イシュヴァルが、わずかに目を見開く。


 初めて見る、ほんの小さな隙。




「それは」


 息を整える。


 近い。


 でも、逃げない。


「私が、選びたい」


 そう言って。


 一歩、踏み込む。




 距離が、消える。


 触れる寸前。


 彼は、何も言わない。


 ただ。


 受け入れるように、わずかに視線を落とした。




 その仕草が。


 許された合図のように思えて。




 そっと。


 唇を、重ねた。




 ほんの一瞬。


 触れるだけの、静かなキス。


 でも。


 それだけで、十分だった。




 離れる。


 心臓が、少しだけ早い。


 でも。


 怖くはない。




「……これが」


 小さく、息を吐く。


「私の答えです」


 逃げない。


 委ねるだけでもない。


 選んだ。


 自分で。




 沈黙。


 そして。


 イシュヴァルが、ゆっくりと微笑む。


 今までで一番。


 はっきりとした、満足の色で。




「――ええ」


 低く、優しく。


「ようこそ」


 指先が、頬に触れる。


 今度は、彼から。


 でも。


 もう、意味は同じ。




「私のセシリア」




 逃げ道は、もうない。


 でも。


 そのすべてを受け入れて。


 彼女は、そこにいた。




 それは救いではない。


 けれど。


 確かに、幸福だった。

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