月が嗤っている
ドライブ
「ありがとうございました〜」
気のない学生バイトの挨拶を聞きながら、私はコンビニを出る。午前三時。
「さむっ」
車までわずか5メートル。でも、ひび割れるような冷気が肌を突き刺す。
呆れるくらい美しい満月があたりを照らしていた。
洋服店店員。31歳。独身。恋人なし。それなりの収入とそれなりの生活。不幸ではないけれど、決して幸福でもない日々。
それが今の、私のすべて。
小走りで車に逃げ込む。買うつもりのなかったピザまんを片手に、紙コップのコーヒーをすする。
ガラス越しに、清掃に戻っていたバイトと目が合う。
気づかないふりをした途端、当然のように向こうも視線を外した。
なんとなく気まずくなって、エンジンをかける。
さっきまで暖房を入れていたのに、窓の端が少しずつ凍ってきている。
小さなため息は、白くふわりと漂った。
車を出すと、当てもなく走り始める。
ドーナツが食べたかっただけなのだ。チョコレートのかかったオールドファッション。
コンビニでも買えるザクザクの食感が欲しくて。ただそれだけだったのに。
二つ目の信号が黄色に変わる。
ゆっくりと止まりながら、横目に中学生の頃好きだった男の子の家が見える。
とっくに地元を離れて、どこにいるかも分からない彼を思い出す。
無音だったことに気づき、音楽をかける。若いふりをして集めているうちにボカロ曲ばかりになってしまったことに、今更ながら苦笑する。
いつも少し、方向が間違ってるんだよな。
後ろから来た車が、信号が変わる一瞬だけ横に並ぶ。
私よりずっと若い女の子が、助手席の彼氏らしき男の子と楽しそうに笑ってる。
私は真っ直ぐ前を向き直してアクセルを踏む。
親友の麻奈美は去年の夏に結婚した。
『一生負け犬宣言』なんて言ってた割にはあっけないほどさらっと。
旦那は羨ましいほどの人ではなかったけれど、お気の毒にと思うほどでもなかった。
「お互いずっと独り身だったら、老後は一緒に住もうね」とかいう話は無くなった。
別に裏切りだ、とは思わない。
いつかはこんな日が来るような気がしていたし。だって私と違って麻奈美には、恋愛に適正があったもの。
CMでもあんなにやっているのに、夜中のコンビニではドーナツは売っていない。
午前三時にドーナツを並べたって、買うやつなんて私くらいなんだろう。
都会ならともかくこんな地方都市では。
でもそれならそうだって、ちゃんと知らせてほしい。
コンビニのドーナツは昼間の人間のためのものだって。
ティッシュを取り出そうとカバンに手を入れる。たまたま触れた携帯が、控えめに灯りを灯す。確かめてみなくても、どうせ誰からの連絡も無い。「連絡します」というから連絡先を交換した人は、半月経った今でも音沙汰がない。
まあいいけどね。たぶん来ないと思っていたし。嫌なのは、わかっていながら少しだけでも期待してしまったこと。
いいんだけどね、連絡くれなくても。
でも、する気がないなら番号なんて聞かなきゃいいのに。
いつの間にか24時間営業じゃなくなったバーガーショップが見える。
いつの間にか更地になったドラッグストアが見える。
私は通り過ぎる。コーヒーはとっくにぬるくなっている。
また赤信号にブレーキを踏む。
道路沿いのマンションに車が止まっている。『赤ちゃんが乗っています』というステッカーが見える。
ちょっと先にコンビニの看板が見えてきた。
本日4件目のコンビニ。もはやドーナツが食べたいのかどうかすらわからない。
ピザまんも食べちゃったし。でももう意地だ。今夜はドーナツが買えるまで家には戻らない。
横着して車越しに店内の、レジ付近を凝視する。からっぽのドーナツケースが見える。
また一つ、ふわりと白いものが漂って、私は車を出す。ハンドルを握る指先が冷え切っていた。
いつもそういうわけじゃ無い。
ときどきそういう日が来るだけだ。
たとえば夜中にどうしてもドーナツが必要になる夜が。
それが無いと、何かが埋まらない夜が。
ちゃんと知らせて欲しい。
『愛される』っていう事は適正のある人のためのものだって。
フロントガラスの向こうで、欠けることのない月が白く光っていた。




