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童話:十歳の切符

掲載日:2026/01/21


それは、まだ切符に夢があったころのお話です。


太郎、十歳。

その手の中には、お父さまに託された、硬い厚紙の小さな切符があった。

遠くへ行くというだけで、胸がチクリと痛んだ。


「本当に、一人で行けるのかな……」

太郎は小さな声でつぶやいた。


列車のホームに立つと、煙が立ちこめ、石炭の匂いが鼻をくすぐった。

「ブオーン」

力強い汽笛が響き、列車がゆっくりと動き出した。

町はみるみる遠ざかり、窓いっぱいに黄金色の夕日が広がる。

太郎はぎゅっと切符を握りしめ、心の奥でそっと自分に言い聞かせた。

「きっと、大丈夫……」

―――――――――――――――――――――――――――――

車内でスケッチブックを広げていたスカーフの女性が、太郎に声をかけた。

「坊や、一人旅かい?」

やさしいまなざしが太郎を包んだ。


鉛筆がさらさらと紙を走る、心地よい音。

「おばあさんの絵、すてきだね」

太郎は絵を覗き込みながら言った。


「まぁ、うれしいわ。私は絵を描くことが大好きなの。

この作品ひとつひとつに、思い入れがあるのよ」

そう言って、おばあさんは持っていたキャンバスを広げてみせた。

作品を売るために隣町へ向かうという。

彼女のまなざしには、窓の夕焼けを映したような、静かで深い慈しみが宿っていた。

―――――――――――――――――――――――――――――

次の停車駅で、一人の少女が乗り込んできた。

彼女は座席に置かれた紳士の鞄から、懐中時計を抜き取った。

それは紳士が、亡き父から受け継いだ唯一の形見だった。


「その懐中時計を返して。それは紳士のものだよ!」

太郎は咄嗟に少女の手をつかみ、強く言った。


少女は小さく「ごめんなさい」とつぶやき、うつむいた。


紳士は静かに立ち上がり、時計をひと目見つめてから、少女に視線を向けた。

「驚かせてしまってすまない。この時計はね……実はお嬢さんにあげたものなんだ。

よければ、私の席で一緒に食事をしようじゃないか?」


彩り豊かな料理がテーブルに並び、紳士の笑みには深い思慮と優しさがにじんでいた。

―――――――――――――――――――――――――――――

少女はよほど空腹だったのだろう。

震える手で食べ物をつまみ、夢中で口に運んだ。


「あなたは、どうしてこの列車に乗ってきたの?」

おばあさんが尋ねた。


「お母さまに会いに行くの」

少女はそう答えた。


おばあさんは筆を取り、流れるような筆致でキャンバスに絵を描き、手渡した。

少女の瞳には、かすかな涙がにじみ、しばらく絵をじっと見つめていた。


食事が終わると、紳士は分厚い本を手に取った。

ページをゆっくりとめくる。その横顔はどこか憂いを帯びていた。

列車内は静かに、時が流れていた。


やがて列車が止まった。少女はここで降りるという。


「少ないけれど、持っていきなさい」

紳士は彼女にお金を差しだした。


少女は軽く頷き、闇の中へ消えていった。


列車のドアが閉まる。

残された席に、少女の体温だけがほのかに残っていた。

―――――――――――――――――――――――――――――

少女が去ったあと、太郎は心の中でつぶやいた。


おばあさんは大切な絵を、紳士は父の形見の時計とお金まで渡した。

でも、あの子は泥棒だ。

僕は確かに盗もうとするのを見た。

きっとまた、盗みを働くに違いない。


太郎はむずむずと落ち着かなくなった。

だって、あの子は盗もうとしたんだ。そんな子を信じていいはずはない……。


思わず二人に尋ねた。

「本当に、あの子はお母さまに会いに行ったのでしょうか」


紳士は静かに答えた。

「もし嘘だとしても、やむにやまれぬ事情があるに違いない」


おばあさんも深く頷いた。


太郎は車窓を眺め、先ほどの出来事を思い返した。

やがて胸の奥で、小さな灯りがほのかにともったように感じた。

―――――――――――――――――――――――――――――

翌日、車窓から明るい光が差し込んだ。

終着駅だ。


列車を降りると、おばあさんは太郎に小さな絵をくれた。

夕日が、誰かを許すように列車を包んでいる、温かな絵だった。


紳士は分厚い本を太郎にくれた。

それは医学書だった。

もちろん十歳の太郎には難しく、ただ眺めるだけだった。

けれどその中に、紳士の魂が宿っているように思えた。


「さようなら。お元気で」

太郎は二人に別れを告げた。

―――――――――――――――――――――――――――――

数十年後。


医師となった太郎は、隣町の患者を診るために、ある列車に乗っていた。

向かいには、美しい婦人が座っている。

彼女は著名な画家らしく、サインを求める乗客が集まっていた。


ふと、その瞳に、かつて出会った少女の面影を見た。

あの少女は無事、お母さまに会えたのだろうか。


太郎は鞄から年季の入った医学書を取り出し、

ページに挟まれた古い切符を外した。

そしてゆっくりとページをめくる。


ページをめくると、太郎の胸に、あの紳士の言葉がよみがえった。


――もし、嘘だとしても。


人は、信じてもらったとき、初めて変われるのかもしれない。


あの切符は、十歳の私が初めて“信じる”という旅に出た証だった。

そしてその列車は、今も静かに、私の心の中を走り続けている。


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