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童話:十歳の切符


それは、まだ切符に夢があったころのお話です。


太郎、十歳。

その手の中には、お父さまに託された、硬い厚紙の小さな切符があった。

遠くへ行くというだけで、胸がチクリと痛んだ。


「本当に、一人で行けるのかな……」

太郎は小さな声でつぶやいた。


列車のホームに立つと、煙が立ちこめ、石炭の匂いが鼻をくすぐった。

「ブオーン」

力強い汽笛が響き、列車がゆっくりと動き出した。

町はみるみる遠ざかり、窓いっぱいに黄金色の夕日が広がる。

太郎はぎゅっと切符を握りしめ、心の奥でそっと自分に言い聞かせた。

「きっと、大丈夫……」

―――――――――――――――――――――――――――――

車内でスケッチブックを広げていたスカーフの女性が、太郎に声をかけた。

「坊や、一人旅かい?」

やさしいまなざしが太郎を包んだ。


鉛筆がさらさらと紙を走る、心地よい音。

「おばあさんの絵、すてきだね」

太郎は絵を覗き込みながら言った。


「まぁ、うれしいわ。私は絵を描くことが大好きなの。

この作品ひとつひとつに、思い入れがあるのよ」

そう言って、おばあさんは持っていたキャンバスを広げてみせた。

作品を売るために隣町へ向かうという。

彼女のまなざしには、窓の夕焼けを映したような、静かで深い慈しみが宿っていた。

―――――――――――――――――――――――――――――

次の停車駅で、一人の少女が乗り込んできた。

彼女は座席に置かれた紳士の鞄から、懐中時計を抜き取った。

それは紳士が、亡き父から受け継いだ唯一の形見だった。


「その懐中時計を返して。それは紳士のものだよ!」

太郎は咄嗟に少女の手をつかみ、強く言った。


少女は小さく「ごめんなさい」とつぶやき、うつむいた。


紳士は静かに立ち上がり、時計をひと目見つめてから、少女に視線を向けた。

「驚かせてしまってすまない。この時計はね……実はお嬢さんにあげたものなんだ。

よければ、私の席で一緒に食事をしようじゃないか?」


彩り豊かな料理がテーブルに並び、紳士の笑みには深い思慮と優しさがにじんでいた。

―――――――――――――――――――――――――――――

少女はよほど空腹だったのだろう。

震える手で食べ物をつまみ、夢中で口に運んだ。


「あなたは、どうしてこの列車に乗ってきたの?」

おばあさんが尋ねた。


「お母さまに会いに行くの」

少女はそう答えた。


おばあさんは筆を取り、流れるような筆致でキャンバスに絵を描き、手渡した。

少女の瞳には、かすかな涙がにじみ、しばらく絵をじっと見つめていた。


食事が終わると、紳士は分厚い本を手に取った。

ページをゆっくりとめくる。その横顔はどこか憂いを帯びていた。

列車内は静かに、時が流れていた。


やがて列車が止まった。少女はここで降りるという。


「少ないけれど、持っていきなさい」

紳士は彼女にお金を差しだした。


少女は軽く頷き、闇の中へ消えていった。


列車のドアが閉まる。

残された席に、少女の体温だけがほのかに残っていた。

―――――――――――――――――――――――――――――

少女が去ったあと、太郎は心の中でつぶやいた。


おばあさんは大切な絵を、紳士は父の形見の時計とお金まで渡した。

でも、あの子は泥棒だ。

僕は確かに盗もうとするのを見た。

きっとまた、盗みを働くに違いない。


太郎はむずむずと落ち着かなくなった。

だって、あの子は盗もうとしたんだ。そんな子を信じていいはずはない……。


思わず二人に尋ねた。

「本当に、あの子はお母さまに会いに行ったのでしょうか」


紳士は静かに答えた。

「もし嘘だとしても、やむにやまれぬ事情があるに違いない」


おばあさんも深く頷いた。


太郎は車窓を眺め、先ほどの出来事を思い返した。

やがて胸の奥で、小さな灯りがほのかにともったように感じた。

―――――――――――――――――――――――――――――

翌日、車窓から明るい光が差し込んだ。

終着駅だ。


列車を降りると、おばあさんは太郎に小さな絵をくれた。

夕日が、誰かを許すように列車を包んでいる、温かな絵だった。


紳士は分厚い本を太郎にくれた。

それは医学書だった。

もちろん十歳の太郎には難しく、ただ眺めるだけだった。

けれどその中に、紳士の魂が宿っているように思えた。


「さようなら。お元気で」

太郎は二人に別れを告げた。

―――――――――――――――――――――――――――――

数十年後。


医師となった太郎は、隣町の患者を診るために、ある列車に乗っていた。

向かいには、美しい婦人が座っている。

彼女は著名な画家らしく、サインを求める乗客が集まっていた。


ふと、その瞳に、かつて出会った少女の面影を見た。

あの少女は無事、お母さまに会えたのだろうか。


太郎は鞄から年季の入った医学書を取り出し、

ページに挟まれた古い切符を外した。

そしてゆっくりとページをめくる。


ページをめくると、太郎の胸に、あの紳士の言葉がよみがえった。


――もし、嘘だとしても。


人は、信じてもらったとき、初めて変われるのかもしれない。


あの切符は、十歳の私が初めて“信じる”という旅に出た証だった。

そしてその列車は、今も静かに、私の心の中を走り続けている。


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