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第3話 結界

 レティシア・フォン・クレストールが王都ヴァルドリックから追放されて数週間が過ぎていた。

かつては悪役令嬢として恐れられ、その高慢な態度と鋭い舌で貴族社会を騒がせた彼女だったが、今やその名は嘲笑の種でしかなかった。


 絢爛豪華な王都の中心、ヴァルドリック宮殿の大広間では、夜ごとに舞踏会が催され、貴族たちが華やかなドレスと燕尾服に身を包んで集う。

 シャンデリアの光が水晶のようにきらめき、床の大理石には磨き上げられた輝きが映る。弦楽四重奏の調べが流れる中、貴族たちはワイングラスを傾け、笑い声を響かせていた。


 広間の隅、ベルベットのカーテンが揺れる窓辺に、数人の貴族が集まっていた。

扇子を優雅に振る侯爵夫人と、宝石がちりばめられた杖を持つ老伯爵、そして新進気鋭の男爵令嬢だ。

彼らの会話は、軽やかな音楽とは裏腹に、どこか刺のある響きを帯びていた。


「ねえ、聞いた? あのレティシア・フォン・クレストール、とうとう森の奥に消えたんですって」


侯爵夫人が扇子で口元を隠しながら囁いた。彼女の声には、隠し切れない嘲りが滲んでいる。


「魔女の森だなんて、ぴったりの場所よね。あの女、最初からまともじゃなかったもの」


男爵令嬢がクスクスと笑い、ふわっとした金髪を揺らした。


「本当に! いつもあの高慢な態度で、まるで自分が女王様だと思ってるみたいだったわ。魔法が使えるなんて自慢してたくせに、それが魔女の証拠だったなんて、笑えるわよね」


老伯爵が杖を軽く叩きながら、しわがれた声で相づちを打つ。


「ふむ、クレストール家の恥だよ、あの娘は。わしが若い頃なら、魔女などとっとと火あぶりにしておったわ。エルヴィン殿下が婚約破棄を決めたのは賢明な判断だった」

「そうそう、エルヴィン様ったら、今度の婚約者のリリアンヌ嬢にはもう夢中なのよ」と侯爵夫人が目を細め、扇子をパタパタと振った。「あの可憐な子爵令嬢に比べたら、レティシアなんてただの粗野な魔女。銀髪だの魔法だの、気味が悪かっただけだわ」


男爵令嬢がグラスを傾け、赤いワインを一口飲んでから続ける。「ねえ、でも本当かしら? レティシアが森で何か企んでるって噂、聞いたことある? 魔女の呪いとか、復讐とかさ」


「はっ! 復讐?」老伯爵が鼻で笑い、杖で床をコツンと叩いた。「あの娘にそんな度胸があると思うかね? 所詮、泣きながら森に逃げ込んだ臆病者さ。クレストール家の名も地に落ちたものだ」


 侯爵夫人が扇子を閉じ、意地悪く微笑んだ。「まあ、いいじゃないの。もう彼女のことは忘れましょうよ。今夜はエルヴィン様とリリアンヌ嬢の婚約祝いなんだから。レティシアなんてもう過去の話だわ」


 三人の笑い声が重なり合い、広間に響く音楽にかき消される。他の貴族たちも、似たような会話を交わしていた。


 レティシアの名は、まるで悪ふざけの材料のように口から口へと渡り、そのたびに嘲笑が尾を引いた。

 彼女がかつてこの広間で堂々と振る舞い、貴族たちを一瞥で黙らせた姿は、誰もが忘れ去ったかのようだった。


◾︎◾︎


 ヴァルドリックの夜は、いつも静謐に包まれていた。高い石壁に囲まれた王都は、星明かりが淡く降り注ぐ中、穏やかに眠りにつく。

 石畳の通りにはランプの柔らかな光が揺らめ、窓辺から漏れる暖かな灯りが家族の団らんを物語ってい。


城壁の外では、夜風が草原を撫で、遠くの森から虫の声がかすかに響く。


 だがその夜、突如として静寂が引き裂かれた。地を這うような低く唸る咆哮が響き、闇が蠢く気配が城壁の向こうから忍び寄った。


 見張り台に立つ若い守衛、トムは、松明の炎を掲げながら目を凝らしていた。冷たい風が頬を刺し、甲冑の隙間から寒気が忍び込む。彼の隣では、年かさの守衛ハリスが欠伸を噛み殺していた。


「トム、こんな静かな夜に何をビクビクしてるんだ? 魔物なんぞ、ここ何年も出やしねえよ


 とハリスがぶっきらぼうに言った。松明の光が彼の皺だらけの顔を照らし、気だるげな笑みを浮かべる。


「でもよ、ハリス、最近なんか変じゃねえか? 森の獣が静かすぎるし、風の匂いが…なんつうか、焦げ臭えんだ」


トムが不安げに答えた。手に持つ槍の柄を握り直し、暗闇の彼方をじっと見つめる。


「はっ、気のせいだろ。レティシアって魔女が追放されてから、王都は平和そのものだ。エルヴィン殿下も新しい婚約者とイチャついてるってのに、お前は――」


 ハリスが言い終わる前に、地面が揺れた。ドスン、という重い音が城壁の外から響き、トムの松明が一瞬大きく揺らぐ。


 二人が顔を見合わせた瞬間、闇の中から燃えるような赤い目が浮かび上がった。

漆黒の鱗に覆われた巨大な魔物が、蛇のようにうねる胴体をくねらせて姿を現した。

無数の牙が並ぶ口から滴る唾液が地面でジュウと音を立て、毒々しい煙を上げた。


「な、なんだあれ!?」トムが叫び、槍を構えたが、手が震えてまともに狙えない。

「魔物だ! 角笛を吹け、トム! 早く!」ハリスが声を張り上げ、自身の槍を握りしめた。だが、その言葉が届く前に、魔物の尾が一閃。分厚い城壁に亀裂が走り、石の破片が雨のように降り注いだ。トムが悲鳴を上げて尻もちをつき、ハリスが彼を引っ張り上げる。


「立て、トム! 死にたくなければ走れ!」


 城壁の上はたちまち混乱に包まれた。守衛たちが角笛を吹き鳴らし、けたたましい音が夜空に響き渡る。城の司令塔では、隊長が叫び声を上げていた。


「魔物だ! 防衛隊を城壁に集めろ! 民衆は避難させろ!」


 下の街では、眠っていた民衆が異変に気付き、窓から顔を覗かせた。石畳の通りでランプが倒れ、炎が小さな家を舐める。母親が子を抱きかかえ、夫が扉に閂をかける中、魔物の咆哮が再び響いた。まるで地獄の門が開いたかのような、背筋を凍らせる音だった。


「神よ、助けてくれ…こんなの、見たことねえ!」と、ある商人が窓辺で呟き、妻の手をぎゅっと握った。

「パパ、あの音なに!? 怖いよ!」と、隣の家から幼い少女の泣き声が漏れる。


 貴族たちの屋敷でも、パニックが広がっていた。絹のカーテンを閉ざし、召使に命じて家具を積み上げる者、地下室に逃げ込む者。侯爵夫人は扇子を握り潰し、震える声で叫んだ。


「なぜ魔物が!? レティシアが追放されたから安全だと、エルヴィン様は仰ったのに!」

「黙れ、夫人! 今は逃げるんだ!」と、夫の侯爵が彼女を引っ張り、階段を駆け下りる。


 城壁の外では、魔物が炎を吐き出した。赤黒い炎が石畳を焦がし、守衛の持つ盾を溶かす。騎士たちが駆けつけ、剣と槍を構えたが、魔物の鱗には刃が弾かれ、爪の一振りで甲冑が砕けた。血と叫び声が夜に混ざり、星明かりすら霞むほどの煙が立ち上る。


 エルヴィン王子は城壁の上に立ち、剣を握りしめていた。金色の髪が汗で額に張り付き、青い瞳には焦りと怒りが渦巻く。彼の側にいる副官が、掠れた声で進言した。


「殿下、魔物の力は予想以上です! 民を守るため、一旦退却を――」

「退却だと!? この王都を放棄しろというのか!」エルヴィンが叫び返し、剣を振り上げる。「我々が守らねば、誰が民を救う! 続け、騎士たち!」


 だが、魔物の尾が再び城壁を叩き、大きな石塊が崩れ落ちた。騎士の一人が下敷きになり、叫び声が途切れる。エルヴィンの頬に、仲間の血が飛び散った。


「なぜだ…こんな魔物、今まで現れたことなどなかった!」


 彼の声は、風にかき消された。王都を守ってきた見えない力――レティシアの結界が失われた今、ヴァルドリックは無防備な獲物と化していた。貴族たちの嘲笑も、民衆の祈りも、魔物の咆哮の前では無力だった。


彼らは知らなかった。

レティシアが追放されたことで、王都を守っていた見えない結界が崩れ始めていることを。

そして、彼女こそが、長年にわたり魔物の脅威から街を救ってきた聖女だったという、真実を。


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