「君を愛することはできない」と、同じ傷を抱える君に言った
「君を愛することはできない」
公爵家に相応しい豪奢な結婚式をあげたその夜、新妻であるアクアの前で私はそう宣言した。彼女は驚くこともなく、ただ一言「そうですか」と返した。
ベッドに腰を掛けているアクアは露出のないシルクの寝間着に厚手のガウンを着ていた。秋も深くなってきたこの時期にはちょうど良い、しかし初夜を迎えるにあたっては少々着こみ過ぎとも言える恰好だ。私が何を言うまでもなく、初夜は訪れないと分かっていたのだろう。その証拠に私のことを憐れむような目で見上げている。きっと、私も同じ目をして彼女のことを見下ろしているはずだ。
「私には、愛する人がいる。それは君ではない」
「ええ、存じております」
「そして、君もそうだろう」
「ええ、その通りです。わたくしは、貴方ではない方を愛しております」
悠然と微笑を浮かべるアクアの顔はとても美しくて、これは恋をしている女の顔だ、と思った。そして、私を通り越して遠くを見つめる瞳が、その相手が自分じゃないと分かり切った事実を伝えてくる。
「私たちの婚姻は誰かが望んだものではない」
「誰かが大きな損失を負うことはない、けれど、誰かに利益が出ることもない婚姻でございますね」
「そうだ、ただ私たちが王立魔術学園で起こった例の事故で婚約者を亡くした者同士だから、都合が良いというだけで結ばれた婚姻だ」
アクアはほんの少しだけ眉を顰めた。しかし、不愉快そうな表情は見間違いかと思ってしまうほどの早さで姿を隠し、私が寝室に入ったときと変わらぬ微笑を張り付けた。背を流れる癖のない淡い金色の髪は心許ない照明をも反射して美しく煌めき、浅瀬のようなペールブルーの瞳に薄っすらと湛えた涙がゆらゆらと揺れている。非の打ちどころのない儚げな美少女だ。悲しみを滲ませる微笑みは数多の男を惑わせることだろう。客観的に見ればそう評価できるが、私は心一つ動かすことはない。そのことに罪悪感を覚える反面、これほど魅力的な女性にも乱されないことに安堵があった。
私の心の真ん中にはカローレがいる。私はカローレを愛している。それだけが、この残酷な世界で私が信じられる真実だった。
「フレッド様は、家のしがらみなど一切なく、愛のみでカローレ様を婚約者に定められたのだとお聞きしました」
「ああ……カローレはしがない子爵家の令嬢に過ぎなかった。彼女と婚姻を結んだところで我がアマランサス公爵家には何の利益もない。それでも、婚姻を進めたのは、私がカローレを愛していたからに他ならない。
そして、それは君とペシェ殿も同様だろう」
「そうですね、わたくしはモンステラ子爵家の次女、ペシェはブルースター男爵家の嫡男、身分はちょうどよく、けれど互いの家に大きな利益があるわけでもない、ただわたくしとペシェが愛し合っていたから結ばれた婚姻でしたわ」
「君の心痛は察するに余りある。あの事故から5年が経ったが、私は未だに傷が癒えない。君もそうなのだろう」
「……はい、わたくしも、変わらずペシェを愛し、そして喪失感は姿を変えることなくわたくしの真ん中に居座っております」
全く同じだ。
カローレを失ってから、私の心はぽっかりと穴が開いたまま埋まることがない。夜が訪れる度にごうごうと冷たい風が吹きすさぶ。私にとっての太陽だったカローレ。カローレがいなくなってから、私の世界は冷たくて仕方ない。一つ息をする度に、愛する人がいない現実に凍り付いたこの身が砕けてしまいそうだ。アクアも、きっと同じはずだ。
哀れで、可哀想で、そして……ああ、なんと言えばいいのだろう。自分と同じ思いを抱えた、自分よりもか弱い存在に向ける言葉を私は持ち合わせていない。ただ、じっとベッドの縁に座る彼女を見下ろすことしかできない。
細く白い指が私の右手に触れた。ひんやりとした柔らかい指先だ。カローレの指とは違う。カローレは貴族令嬢には相応しくないくらいやんちゃな女性で、彼女の指先はいつだって少し荒れていて、ぽかぽかと温かかった。
「けれど、わたくしは貴方を、フレッド様を愛したいと思うのです」
「……何故? それは、ペシェ殿への裏切りとは思わないのか?」
「ペシェは、わたくしがいつまでもペシェを引きずって俯いていることを望まないと思うからです。貴方が愛されたカローレ様はどうですか?」
触れ合う指先を見下ろす。カローレの生前、私は彼女以外の女性に触れたことはない。夜会のダンスさえ全て断り、カローレ以外を近づけることはなかった。だから、私は私自身に女性が近づいたときのカローレの反応というものを知らない。
けれど、私と共に生きることができないとなれば、カローレはきっと『あたしのことなんて忘れて』と言うと想像がつく。私が他の人間を愛することよりも、私が孤独に寂しく生きる方が悲しいという女なのだ。
『フレッドには誰よりも幸せになってもらいたいの』
そう言って笑うカローレの顔をありありと想像できた。彼女のその善良性を愛していたが、今は少しだけ憎い。私はずっとこのまま立ち止まっていたいのに、それをカローレが望んでいないと分かってしまう。
「同じ、なのですね」
「悔しいことに、そうだな。彼女を失った悲しみをいつまでも抱え続けることを喜んでくれるような女じゃなかった。だが……無理だ、私には無理なんだ、彼女以外の女性を愛するなんて」
「わたくしがペシェに向けたような、フレッド様がカローレ様に向けたような、焦がれるような愛を抱くことはできないかもしれません。けれど、わたくしたちは同じ傷を抱え、理解し合うことができます。人生を共にする隣人になることはできると思うのです」
触れるだけだったアクアの手が私の手を握りしめた。手を繋ぐなんて甘いモノではなく、縋るような弱弱しさもない。ただ、共犯者との握手のような、逃がさないと脅迫する強固な意志を感じた。
「傷を抱きしめたまま独りでいることができないのなら、隣に立つのは同じ傷を抱えた貴方が良いのです」
「そう、だな。私も同じ気持ちだ。何も知らない他者からの無責任な励ましも、同情も煩わしい。ただ……共感してほしいんだ。最愛の人を亡くして辛いのに、その傷が癒えないでほしいと願う愚かさを」
「わたくしも、貴方と同じ愚かさを持っています。その気持ちに共感します。そして、本当はこのままではいけないと自覚している焦燥感まで全て、理解していますわ。だから、傷の舐め合いから始めましょう」
アクアは、見た目よりもずっと強い女性なのだろう。私なんかより、よほど自立して未来を見据えている。彼女とならば、再び立ち上がることができるだろうか。カローレが望む私になれるだろうか。なりたい、と思う。それが、カローレに対して今の私にできる唯一の手向けになる気がした。
カローレが死んでから初めて感じた希望に縋るように、アクアの手を握り返した。
「それで、傷の舐め合いはどのようにするんだ?」
小春日和の暖かな中庭には色とりどりの花が咲き乱れている。四阿でくつろぐ私とアクアの間には花と同じくらいカラフルな菓子が並べられた。侍女が淹れた紅茶を優雅に飲むアクアは子爵令嬢にしては所作が随分洗練されている。比較対象がカローレであるから、余計にそう感じるのかもしれない。
「そうですね、まずはお互いの最愛の人を教え合うのはどうですか? 一番大切なモノを知ることが相互理解への一番の近道だと思います」
「なるほど、合理的だな。初夜のときも思ったが、貴女のその聡明さを好ましく思う」
「フレッド様はストレートに好意を口にされる方なのですね、意外です」
「カローレに言われたのだ。私は気持ちを表情にするのが下手だから、人の長所を見つけたときは積極的に言葉にしろと。そうすれば、私が相手を嫌っていないことが伝わるから、と。周りから浮きがちな私を、カローレはいつも心配していた」
「カローレ様は人付き合いがお上手で、フレッド様のことをとても大切に思っている方だったのですね。ふふ、早速カローレ様の素敵なところを知ってしまいました」
朗らかに笑うアクアに私の心も解れていくのが分かる。私の話を聞いて、会ったことのないカローレの長所を見つけてくれたのも嬉しい。
「君からもペシェ殿の素敵なところを教えてもらいたい。同じ学年ではあったが、話したことはないんだ」
「話したこともないし、あまり記憶にもございませんでしょう? ペシェは目立つタイプではありませんから」
「そうだな。正直、事故でカローレと共に亡くなったと聞いたときも、はっきりと顔を思い出せなかった……すまない」
「謝ることではありませんよ。いつだって人がやりたがらない地味で大変な仕事を自ら引き受けては、美味しいところを他人に奪われる不器用な人でしたから。よくよく注意深く見ていなければ、ペシェのことを見逃してしまうのです」
「縁の下の力持ち、か。誰だって人から賞賛される仕事をしたがるが、それだけでは世の中は回らない。学園に入ったばかりの齢でそのことを理解し進んで行うとは、思慮深い子息だ」
アクアは堪えきれず、といった様子で小さく笑い声を上げた。片手で口元を覆う彼女は、どこか照れくさそうで、けれど嬉しくて仕方がないとでも言いたげだ。
「思慮深いなんて素晴らしい誉め言葉、ペシェにも聞かせてあげたかったです。わたくしはいっつもペシェのお人好しなところを怒ってばかりだったから」
「怒るのか? 君が?」
「怒りますわ。だって、大切な人が他人からいいように利用されているのですもの、腹が立ちますでしょう? だから、もっと自分のために動いてちょうだいって、ペシェにお小言を言っていたのです」
「想像がつかないな。それで、ペシェ殿は?」
「『僕は自分のために動いているよ。僕が行うことでみんなが笑顔になってくれればそれでいいんだ』と」
「なんと。とても心が清らかだったのだな」
愛する人を褒められたことに歓びを見せていたアクアは、少しだけ瞳を伏せた。口元に浮かぶ笑みは変わらず、けれどもほんのりと寂しさの匂いがする微笑みだ。
「ええ……わたくし、ペシェよりも清らかな人を他に知らないのです。どれだけ騙され傷つけられても、笑って許してしまう。わたくしはそんな優しいペシェを守ってあげたかった」
無力感に苛まれているのだろう。私にも覚えのあるものだ。
カローレと婚約したとき、生涯守り抜くと心に誓った。下位貴族の令嬢に過ぎなかったカローレを婚約者にしたのは私の我儘だ。だから、他の貴族からの悪意からも、あらゆる脅威からも守って、いつまでも私の愛した天真爛漫な彼女のままでいてほしかった。それなのに、カローレは私がいないところで死んでしまった。
「事故が起きたとき、一緒にいられたら助けられたのではないかと、今でも考えてしまうのです」
「分かるとも。あの事故からカローレを救い、大変な目に遭った、なんて笑い合う想像を何度したか知れない」
「それは、ええ、とても素敵な想像ですわね。本当に、そうだったら良かったのに」
「ああ……今だって、カローレがいない現実の方が悪い夢なのではないかと思ってしまうよ」
それっきり、お互いに口を開くことはできなかった。ただ、静かにお茶を飲み、庭の花々を眺める。料理人が腕によりをかけた菓子も、咲き誇る花々も、カローレが隣にいたころに比べて、全てがぼんやりと褪せているようだ。美味しいことも、美しいことも分かる。でも、心はずっと凪いだままで少しも動かない。
「また、一緒にお茶をしましょう」
「また、傷の舐め合いか?」
「もちろん。そういう約束ではありませんか」
「うん……そうだな」
今日のお茶会が傷を舐め合って治そうとしているのか、傷に歯を立てて広げているのか、どちらであるのか私には分からない。ただ、同じ傷を見せ合うことで、進んでいく世界に取り残されているのは自分だけではないのだという安堵はあった。カローレを失ってから初めて感じた安堵を、逃したくないと確かに思ったのだ。
二度目のお茶会でもアクアの所作の美しさは目立っていた。
「君はどこでマナーを学んだのだ? 母も次期公爵夫人として申し分ないと太鼓判を押している」
「伯母が侯爵夫人なのです。子爵家から嫁いだものですから苦労も多かったようで。おかげで、わたくしがどこに嫁に出ても良いようにと幼い頃から熱心に指導してくださったのです。男爵家に嫁ぐとなってがっかりされておりましたわ」
「そう笑われても反応に困るな」
ころころと上機嫌で笑われて苦笑を返すほかない。見目も良く礼儀作法も完璧なアクアであれば、多少家格が低くとも引く手あまただったろう。アクア自身もそれを分かっていながら、愛を選んだ。
「男爵夫人としては過ぎたものだと思っておりましたが、こうして公爵家に嫁ぐとなっては学んでいて良かったと思います」
「そう、か」
「ふふ、また困らせてしまいましたか? わたくし、フレッド様だけでなく、伯母様も困らせてしまったのです。ペシェと婚約を決めてから、伯母様はもっと上の子息だって射止めることができたのにと何度も仰られていました。だから、フレッド様との婚約が決まったときに、伯母様に『伯母様も納得できる方との婚約が決まりましたわ』と報告したのです。そうしたら泣いて怒られてしまいました」
「なんと怒られたのだ?」
「『貴女が愛していない人との結婚を納得できるわけがないでしょう!』と」
「君は愛されているな」
手塩にかけたアクアを男爵家ごときにやるのは気に食わないが、アクアが愛していない男の下に嫁ぐのはもっと許せないのだ。私の言葉にアクアは嬉しそうに頷いた。
「フレッド様も愛されていますわね。公爵夫妻も使用人の方々も、カローレ様のことを忘れられないご様子ですもの」
「君に要らぬ心労を与える者がいるのか? 無礼を働く使用人がいるなら教えてくれ、両親にも私から注意しよう」
「落ち着いてくださいませ、皆様とても良くしてくださいますわ。ただ、わたくしが何かを上手く熟す度に、少しだけ寂しそうなお顔をされるのです」
「ああ、そうか。カローレはマナーに関してはまだまだだったからな」
子爵家でのびのびと育てられたカローレはマナーが不得手だった。母が直接指導していたが未だ及第点に遠く及ばない。けれど、いつだって一生懸命でサボったり逃げ出したりなんてしなかった。叱られても失敗してもへこたれずに頑張る姿に皆絆された。もちろん私もカローレのそんなひたむきなところが好きだった。
「明るく頑張るカローレを私が愛していたことを皆知っている。きっと、同じ子爵令嬢として同じような振る舞いをしてくれるのではないかと期待する気持ちがあったのだろう」
「期待に応えられず申し訳ありません」
「アクアが謝ることではない。カローレはまだ15歳だったから不出来なところがあっても許されていたが、今のアクアが同じくらい不出来であったら皆困っていただろう。その礼儀作法の美しさに感謝こそすれ、貶す気持ちは一切ない。何より、カローレに似ていたとて愛せたわけじゃない」
容姿や性格がカローレと似ている令嬢はいるかもしれない。だが、どれほど似ていても彼女本人でなければ何の意味もない。
「代わりなどいるはずがありませんものね」
「代わりなどいないから愛おしくて、そしてこんなにも辛いのだ」
「よくわかりますわ。本当に、わたくしたち気が合いますわね」
そうだな、と同意する。
彼女には誰にも明かしたことのなかった胸の内をぽろぽろと零してしまう。初夜のときにアクアが言った支え合う関係に本当になれる気がした。同じ傷を抱える者同士、彼女も悲しみを素直に吐露して私を頼ってくれれば良いと思う。
冬に入っても、私は父から教わる公爵家の仕事の合間を、アクアは母から教わる公爵夫人の仕事の合間をぬって、お茶会は続いていた。さすがに四阿で行うことは難しく、場所は暖炉の燃える温かな部屋に移っていた。
「ペシェとの出会いは覚えていないのです。わたくしの父とペシェの父は宮廷貴族で、王都に構える屋敷が近くて、ペシェとわたくしの二つ年上の兄が同い年だったから、気が付いた頃にはペシェはわたくしの家に入り浸っていました」
「幼なじみだったのか」
「ええ。喜怒哀楽が激しくて気が強く、妹のわたくしにも容赦のない兄と違って、穏やかでわたくしをお姫様のように扱ってくれるペシェを好きになってしまうのは必然でしたわ」
「君の兄上のことはよく覚えている。事故のときも、みんなが仕方ないと落胆する中で『人が死んでいるのに仕方ないで済ませるな!』と怒っていた」
「兄とペシェは親友でしたから。それに、一緒にいたのにペシェを助けられなかった自身への憤りもあったのでしょう」
アクアの兄は彼女によく似た、中性的で儚げな風貌の少年だった。そんな見た目を裏切るような苛烈さで、彼はあの出来事を事故として処理した学園や王宮に憤っていた。教師や学園長に直談判する姿を何度も見たし、王宮に乗り込もうとした話も聞いた。けれど、事故から数ヵ月後、事故は事故のまま変わることはなく彼は学園を去っていった。
「彼が学園を去ったのは、事故のせいか?」
「そうですが、学園や王宮から圧力があったわけではありませんわ。兄自身が学園に残ることを望まなかったのです。このまま学園に通っていたら、事故の原因となった聖女様を手にかけてしまうかもしれないからと」
「そうだったのか。私はカローレの死に絶望したが、家の立場を考えて口を噤むことしかできなかった。そんな私と違い素直に不平を叫ぶ彼に救われるような気持ちがあったのだ。再び会えたときには礼を言いたいと思っていたのだが、結婚式のときは話してもらえなかった」
「兄はこの結婚に反対でしたから。あの激しい性格でしょう? ペシェを忘れられないわたくしを、フレッド様が無理矢理嫁にしたなんて思っているのです」
「そうか、それなら恨まれるのも納得だな」
「納得しないでくださいまし。逆恨みなのですから、なんて面倒な勘違いなのだと呆れていただいてよろしいのですよ」
自身の兄に対して手厳しい言葉に苦笑する。初夜のとき、繊細な作りの美貌に月明りに消えてしまいそうな儚い令嬢だと思った。美貌に関しては評価が変わることはないが、交流を重ねるうちに存外芯が強くてしっかりと地に足の着いた女性なのだと知った。きっと彼女のこういったところをペシェ殿は愛していたのだろうと理解できた。カローレがいない今を共に過ごすのがアクアで良かった。そう思うくらいには彼女に好感を抱いている。
「フレッド様はカローレ様との出会いを覚えておいでですか?」
「覚えてはいる。……聞きたいのか?」
「ええ、是非。お互い、馴れ初めを話したことはなかったでしょう?」
きらきらと瞳を輝かせるアクアに、恥ずかしいんだけどな、と心の中で独り言ちる。アクアが期待するようなドラマチックな出会いなんかまるでない。けれども、私にとってはカローレとの出会いは大切なモノで、誰かに聞いてほしい気持ちも確かにあった。
もったいぶるように少し冷めてしまった紅茶に口を付け、『9歳のときのことだ』と話し始めた。
「私は生まれつき肺が弱く、幼い頃は寝込むことも多かった。両親はそんな私に愛情を注ぎ大層心配してくれたが、二人とも多忙な身の上だ。常に共にいることも難しく、私は寂しい思いをしていた」
父は領地経営も王宮での仕事もあるし、母もそれを支えながら筆頭公爵家の夫人として社交界を牽引する必要があった。そんな中で僅かばかりの自由にできる時間を全て私に注ぎ込んでくれたのだから、どれほど私のことを思ってくれていたのか今の自分には理解できる。しかし、当時の私は苦しんでいるときに二人が傍にいてくれないことが悲しかった。
「王都にいるよりも、空気の綺麗な郊外で過ごした方が良いかもしれないと両親は考えた。もちろん、二人が共に来ることはできない。9歳になったばかりの私は幾人かの使用人たちと共に、王都から遠く離れたカクタス子爵領に行くことになった。それを私は、私が無力であるから二人が自分に見切りをつけて捨てたのだと考えた」
「公爵夫妻がフレッド様をとても大切にされていることは、付き合いの短いわたくしも存じ上げております。しかし、幼いフレッド様がそう勘違いなさることもまた仕方のないことでしょう」
「そう言ってもらえると救われる。今振り返っても自身の情けなさに恥じ入るばかりなのだ」
あの頃の私は自分が悲劇の主人公になったつもりでいた。生まれつき身体が弱いばっかりに誰からも愛されず、このまま独りで死んでいくのだと人生を悲観していた。とんだ思い上がりである。公爵家の長男でありながら、まともに勉学も剣術も魔法も学ぶことができない私を、両親も使用人たちも誰一人蔑むことはなく、慈しみ守ってくれていたのに。
だが、そう思えるようになったのも、私が年を重ねて身体が強くなり、そしてカローレが愛情の存在を教えてくれたからだろう。
「カクタス子爵領は農業が盛んだが、王都からも遠く観光名所などがあるわけでもない。とてものどかな場所だ。捨てられたのだと思った心の内は陰鬱なものだったが、騒がしい王都にいたころに比べて体調はだいぶ良くなっていった。屋敷から出て付近を散策することができるようになった、そんなときに出会ったのがカローレだ」
しばらく発作が出ていないからと、カクタス子爵領にある別荘の周りを散歩しているときにカローレと出会った。肩より上で切りそろえられた癖のあるブルネットに、きりりと目尻の跳ねた意志の強そうな赤い瞳。病弱なせいで同年代に比べて華奢な自分よりも少しばかり大きな背丈。真っ白なシャツとベージュのショートパンツは仕立てが良くてそれなりの身分であることは分かったが、少年とも少女ともとれる容姿をしていた。同年代の子息令嬢との交流がほとんどできなかった自分にも分かる異質な存在、それが初めて出会ったときのカローレだった。
「『あんたが噂の公爵子息でしょ、屋敷から出て身体は大丈夫なの?』それが、カローレから初めてかけられた言葉だ。なんだこの失礼な奴は、というのが正直な感想だったな。私の周りにいた者は皆、私が病弱なことは触れてはならない話題と認識していたし、両親は私に悪意のある言葉が届かないようにと配慮してくれていたから、真正面から病弱であることを指摘されたのは初めてだった」
「今までフレッド様から語られたお話をお聞きしたときも感じておりましたが、カローレ様はなかなかに豪胆な方なのですね」
「怖いもの知らずなんだ。言葉を取り繕うということが致命的に不得手で、それなのに黙っていることもできない」
今にして思えば、カローレの発言は言葉のままの意味でしかなく、私の身体を心配しただけだったのだと分かる。しかし、当時の私が貧弱なことを揶揄しているのだと勘違いしてしまうのも致し方ないだろう。
「カローレの言葉が気に食わなくて、彼女を、貶めるような言葉を使って怒らせてしまった」
「貶めるような、ですか?」
「……『下賎な身の上で私の振舞に口を挟むな』と、言った」
「確かに、一個人の言動に口を挟むのはよろしくない行為だとは思いますが、それにしても些か言葉として強すぎるのでは」
「その通りだ。カローレの言葉が失礼なものだったとしても、私の言葉はあまりに良くなかった。だから、直後にカローレから頬を張られたのも致し方なかったのだと思っている」
「カローレ様は、即座に手を出されたのですか」
「出した。あいつは、君が想定している何倍も直情的な女だからな」
私が悪かったから責める気は全くないが、私の発言に間髪入れずに手を出したカローレは淑女として社交界を生きるには少々感情が豊か過ぎた。初めて見る種類の人物に、怒りを感じるのも忘れてぽかんと呆けてしまった。
「『あたしの身分を悪く言うってことは、あたしの家族や領民のことも悪く言うってことよ。そんなこと許さない』ともう一発入れようとしてきたから、彼女の従者が慌てて取り押えた。カローレに悪気はないのだと、私や私の護衛たちに真っ青な顔で謝っていたよ」
「公爵家のご子息だと分かっていらっしゃいますものね、心臓が冷えたことでしょう」
「護衛たちは殺気立っていたが、私としては彼女の怒りようにすっかり毒気が抜かれてしまっていた。『私も君の言葉に傷ついた』そう返せば、従者に羽交い絞めにされながらも暴れていたカローレは大人しくなり、私がどうして傷ついたのか話を聞いてくれた」
お互いにどうしてそんなに傷ついたのか、理由を話した。
私は貧弱なことを揶揄し、外に出てくるなと言われているように感じたと言った。カローレはそんなつもりはなかった、そう聞こえてしまったのなら自分の言い方が悪かったと頭を下げた。
カローレが、自分は家族にも領民にも大切にされていて、このカクタス子爵領を愛している。だから、その子女である自分を下賎などと言われるのは許せない、と言った。私は苛立ちから不適切な言葉を用いてしまってすまないと謝った。
「カローレは『お詫びにこの辺を案内してあげる』と言った。謝罪したとは言え、私は故意に傷つけるような発言をしたのだから申し訳ないと断ろうとしたのだが、彼女は『じゃあお詫びにあたしに時間をちょうだいよ』と、そのまま連れまわされた」
「初めて会ったときから、フレッド様はカローレ様に敵わなかったのですね」
「そうだな。彼女は頭で考えるより先に身体が動く性質だったから、私が思考して決心する前に行動を始めているんだ。しかも、厄介なことに私の手を引いて」
出会ったその日から、カローレに私は散々振り回された。気になるモノがあれば大人しくできないし、困っている人がいれば声をかけずにはいられない。好奇心と正義感の赴くままに行動するカローレはいつだって問題を引き起こす。それでも、全部仕方ないと済ませてしまうのは、きっと惚れた弱みだ。初めて手を繋いだときに向けられた笑顔。歯が見えるほど大きく開かれた口に、目元をくしゃくしゃにするほどの満面の笑みは淑女とは程遠かった。しかし、楽しいと全力で伝えてくるその笑顔が眩しくて、すとんと恋に落ちてしまったのだ。
ああ、だからこそ、最期のときは私を連れて行ってくれなかったことだけが、とても憎い。
ふつり、と胸の底で真っ黒な感情が湧いた。カローレが死んでからこの感情を幾度感じたのかもはや数えることもできない。そのまま怒りと悲しみに飲み込まれてしまわないように、深く息を吸って目の前のアクアに集中する。今思い出すべきなのは、私とカローレの馴れ初めだ。
「それから、カローレは私を訪ねるようになり、友人と言えるくらいに親しくなった。対等に話ができる存在というのは初めてで、少しだけ浮かれていた。だから、ある日、自分は両親に愛されていないのかもしれないとカローレに話したんだ」
その日は屋敷の中庭でお茶をしていた。出会いは最悪だったが、カローレは無暗に他人を傷つける人物ではないと使用人たちもすぐに理解し警戒を緩めていた。またカローレの従者は普段破天荒なカローレが病弱な私の前では少し遠慮をするからいつもより気を張らなくて良いと油断していた。
そして、私たちがいたのはのどかなカクタス子爵領にあるアマランサス公爵家の別荘だ。こんなに安全な場所はないと、少し目を離してしまうのも仕方のないことだった。
「話を聞いたカローレは『ならあたしがフレッドを貰う』と言ったのだ」
「フレッド様を、貰う?」
「そうだ、誰からも愛されていないのなら、自分が貰うと。『あたしはフレッドのことが好き。だから、あたしのモノになって』と」
「まあ、まあ、まあ。とんでもないプロポーズでございますわね」
「本人にその気はなかっただろうがな。だが、私はそれでいいと、いやそれがいいと思った。カローレが愛してくれるなら、自分の身などいくらでもやろうと。そして、私たちは大人たちの目を盗んで屋敷から逃げ出した。そのまま、近くの山林に行き、カローレが作ったという秘密基地に行ったのだ」
山林と言っても、魔獣が出るような鬱蒼としたところではない。領民がピクニックに来るような、木漏れ日が心地よく足元には小花が並んでいるような場所だ。
だからだろうか、家出をしたことを後ろめたく思う焦燥感よりも、生まれて初めてする悪いことへの高揚感の方が強かった。
従者たちにも手伝ってもらって作ったというツリーハウスはなかなかに快適で、保存食や毛布なども置かれていたから数日過ごすのも難しくなさそうだった。
「その頃には体調を崩すことも少なくなっていたし、季節は初夏だったから、身体の心配はしていなかった。夜になってカローレと並んで眠ろうとしたとき、外がバタバタとうるさくなり、何事かとカローレと顔を見合わせた。平和なカクタス子爵領ではあり得ないと思ったが万が一魔獣や人さらいだったらどうしよう。そう思って出入口からカローレを庇うように立っていたが、ツリーハウスに入ってきたのは父上だった」
「公爵様が? 王都にいらっしゃったのでしょう?」
「私も驚いた。驚いて固まっている私を見つけた父上は『無事でよかった』と嘆息されて私を抱きしめてくれた。……どうやら、屋敷を出る前にカローレが置手紙を残したようだった。『フレッド・アマランサスは預かった』なんて、まるで誘拐犯のようなものを。一緒にいたカローレまでいなくなっているのだから大騒ぎになったそうだ。すぐに王都にいる両親にも連絡がいった」
短い言葉のやり取りなら魔法の力で遠く離れた地にも届けることができる。私が誘拐されたと知った両親は全ての仕事を放り出してカクタス子爵領にやってきたのだ。
言葉を届ける魔法は比較的簡単で貴族なら誰でも使えるが、転移魔法はごく一部の優れた魔法使いにしか使えない。莫大な金が要求されるし、完全に安全とも言えない。だから貴族だって早々利用しないのだ。
「両親は私を心配して転移魔法でカクタス子爵領まで来てくれた。最後に私とカローレを見た者は誰か、付近で不審者を目撃した者はいないのか、忽然と姿を消した私たちに皆が動転している中で、カローレの従者がやっと置手紙の文字が彼女の筆跡であると気が付いた。そこからは、カクタス子爵家の屋敷を捜索し、彼女が行きそうな場所を片っ端から探し、そうしてやっと秘密基地に辿り着いたときには夜になっていたというわけだ。想像していたよりもずっと大事になってしまったと、私もカローレも狼狽えたよ。屋敷に戻ると母上は泣いていて、本当にとんでもないことをしてしまったのだとやっと気が付いた」
「皆様に心配をかけて、良くないことではあります。けれど、公爵夫妻のお気持ちにフレッド様もお気づきになることができたのでしょう?」
「ああ。私は両親にも使用人たちにも謝りながら、初めて、寂しいのだと口にした。愛されてはいないのではないかと不安だったと、やっと言えた。両親は不安にさせてすまないと私を抱きしめた。そして愛しているから二度とこのような真似をするなと初めてきつく叱られた」
この事件がなければ二人の愛に気が付けなかったかもしれない。皆に迷惑をかけてしまったが、カローレには感謝したかった。
「私が悪いのだからカローレのことは咎めないでほしいと両親に頼んだ。両親も親子での言葉が足りないことが原因だったからとカクタス子爵に責任の追及はしなかった。だが、カローレも両親を心配させたのは同じだ。一ヵ月は自宅での謹慎を余儀なくされた。それでも、謹慎が明けたら変わらない笑顔で私に会いに来てくれた」
「それが、カローレ様を好きになったきっかけですか」
「どうだろうな。一目惚れだったから、好きになったきっかけではなく、一生を共に過ごすのは彼女が良いと思ったきっかけかもしれない」
だから、身体が強くなって王都に戻ることが決まったときに『私は必ず君のモノになるから、待っていてほしい』と約束した。今まで遅れていた分、人の何倍も努力して勉学も魔法も次期公爵として申し分ないほどの実力を身に着けた。そして、両親を説得してカローレを婚約者として迎えに行ったのだ。
「あの日から私はカローレのモノだ。だが、同時に私を愛しているのはカローレだけではないとも知った。どれほどカローレのいない世界が苦しくても、自ら命を絶つことはできない」
「愛する人を失う辛さを知ってしまったから、同じ思いをさせることなんてできませんよね」
自分が誘拐されただけであんなに心配してくれた両親だ。本当に自分が死んでしまえば、カローレを失った私と同じように嘆き悲しむ日々をおくることになるだろう。そんなことはできなかった。アクアも同じなのだ。家族から深く愛されている彼女も、ペシェ殿の後を追うという選択ができない。
「本当に、酷い人たち。世界の美しさを教えておきながら、勝手にいなくなってしまうんだもの」
「全くだな」
暖炉の炎には瞳の色を、冷めてしまった紅茶には話し込みすぎてしまった日のことを、甘いチョコレートには大好物だと笑った顔を思い出す。何を見たってカローレの面影を見つけてしまうのに、彼女だけがどこにもいない。それでも、彼女が残したモノのせいで、世界を見限ることができないのだ。
日差しが段々と暖かくなり、そろそろ春と呼んでも差支えのない季節になった。春と言えば第一王子の誕生祭がある。国中の貴族を招いての夜会が行われるので、私とアクアは夫婦として参加することになる。
だからだろう。アクアは今まで暗黙の内にお互いに避けていた話題を出した。
「カローレ様の最期は、どのようなものだったのですか」
いつかは話す日が来るのだろうと思っていた。それでも、喉が張り付いたようになって、上手く言葉が出ない。アクアは急かすことはなく、けれど射抜くような真っ直ぐな視線を私に向けていた。
「課外活動については、詳しく聞いているだろうか」
「兄から大まかには。わたくしは学園には入っておりませんから、完全に理解しているとは言い難いかもしれませんが」
「そうだったな。一年生は冬休みに入る前に校外での薬草採集を行う。上位貴族は魔獣が出る可能性のある森の深部で、下位貴族や平民は危険のない森の表層で。とはいえ、深部だって大した魔獣がでることはほとんどない。クラスメイトとの仲を深めるオリエンテーションのようなものだ」
入学時のクラス分けは家柄によって決まる。それは、上位貴族の方が比較的魔力が高く、入学前から家で魔法の訓練を行っていることが多いからである。魔力が低い下位貴族や、珍しく魔力が高いからと入学を許された平民は魔法の訓練を行っていないことが多いため、学園として指導する内容に差があるのだ。それでも、本人の資質ややる気次第では下位貴族や平民でも上位貴族に追いつくことも可能であるため、二年次からは成績順でクラスが決まる。
教える内容のためのクラス分けであるが、同程度の家柄同士で仲良くなるというのは将来的にも悪くない縁だ。そのため、入学してから数ヵ月後、ある程度クラスメイトのことが分かり始めたところで、課外活動を行ってクラスの団結を強めるのだ。
課外活動は王都の外にある森で行われる。王都の外にあるので魔獣はいるにはいるが、定期的に騎士たちが見回っているので危険性の高い魔獣はそうそう出ない。教師だって何人もついている。今まで大きな問題なんて起きたことがない。だから、何も起こるはずがない。誰もがそう思っていた。
「私とカローレはクラスが違ったから課外活動でも班が分かれた。私が離れたくないと愚痴を零したら『来年はあたしが上のクラスに行くから、そしたら一緒に行事に参加できるよ』と笑っていた。約束だなんて言わずに、無茶をしてでも一緒に過ごしていれば良かったと後悔している」
「カローレ様とペシェに兄、それから聖女様が同じ班になったのですね。どうして、聖女様は下のクラスだったのです? 元は平民の孤児だったと伺っておりますが、王家預かりだったのでしょう」
「彼女に莫大な魔力と光魔法への適性があると分かったのは14歳のときだったそうだ。すぐに聖女として認定されて王家に引き取られたが、学園に入学できる程度の学力とマナーを身に着けさせることを優先して、魔法への指導は後回しだったらしい。学園で学べるのだからと考えていたのだろう」
「ああ、それで事故が起こってしまったのですね」
アクアが少しだけ顔を顰めた。不愉快そうな表情は初夜のときに見て以来のものだった。春に咲く花々のように嫋やかな彼女には似つかわしくない。それほど、アクアにとって事故は辛いことだったのだろう。
「私は森の深部にいたから、彼らに起こったことは全て伝聞でしかない。森の表層は間違いなく安全なはずだった。故に教師も少なかった。和やかに薬草を採集していたが、そこに一匹のトロールが出た。辺りは騒然としたらしい。仕方もない、魔獣など見たことがない者たちだ、人型なら尚更恐怖したことだろう。生徒たちが逃げ惑う中、聖女様がトロールに立ち向かった。まだほとんど魔法を行使したことがなかったが、最大出力の光魔法をぶつけた。それだけでトロールは吹き飛んだらしい」
「けれど、それで止まらなかった」
「全力で魔法を使ったことがなかったのだろう。そのまま制御を失い暴走した。人の傷を癒すこともできる光魔法だが、攻撃の意志をもって使われたのだ。木々は薙ぎ倒され、地面は抉れ、周りの人間を傷つけた。やっと駆け付けた教師だって手も足も出なかったらしい」
遠くにいた私の元にも地響きのような轟音が届いた。全てが終わった後に辿り着いたその場所はここで戦争でも起こったのかと勘違いするような有様だった。
「皆が逃げ出す中で、カローレは聖女様に向かっていったらしい。『聖女様は誰のことも傷つけたくないはずだから』と言いながら暴走する彼女を止めに行ったのだと、そのときカローレと一緒にいた令嬢に聞いた。結果として、意識を失いながらも暴走し続けた聖女様を止めることはできた。だが、それはカローレの命と引き換えにだった」
カローレは子爵令嬢として平均的な魔力しか持っていなかった。魔力に天と地ほどの差がある聖女を止めるためには自身の魔力だけでは足りなくて、魔力の代わりに生命力を全て使い切って聖女の暴走を止めたのだ。
カローレの遺体は光魔法によって散乱した石や枝で肌は傷つき、生命力を使い切ったことで髪は老婆のように真っ白になっていた。私は彼女の変わり果てた姿にただ茫然とするしかなかった。
「カローレ様が身を挺して聖女様のことも他の皆様のことも救ってくださったのですね」
「そうだったらしい。本当に、カローレらしい。……ペシェ殿は、どうだったのだ」
「……兄に聞いた話です。ペシェも兄も他の生徒たちの手を引いて逃げようとしたらしいのです。ですが、ペシェは倒れてくる大木の下で逃げ遅れて蹲る令嬢の姿に気が付いてしまった。兄が止める間もなくペシェはその令嬢を付き飛ばし、代わりに大木の下敷きになりました」
生前、ペシェ殿と言葉を交わしたことはない。アクアから話を聞いただけだ。だが、彼女の口から語られる、穏やかで損得なんて考えず人助けをする底抜けのお人好しな彼のことを、まるで古くからの知り合いであると錯覚するほどに親しみを覚えていた。だから、その話を彼らしいと感じたのだ。
「ペシェの葬儀にその令嬢もいらっしゃいました。酷い有様だからと開いて顔を見ることもできない棺桶の前で、彼女は申し訳ないとペシェと遺族たちに向かって何度も何度も謝りました。そんな彼女を誰が責めることができるでしょう、彼女も被害者なのです。けれど、わたくしは身勝手で残酷な人間だからこうも考えてしまいました。あのときペシェが彼女に気が付かなければよかったのにと」
「私も同じ立場なら同じように考えたさ。カローレのことも、他の誰かよりも自分の命を優先してほしかったと今でも思っているのだ」
「ふふ、わたくしたち、ペシェやカローレ様のようにはなれませんね」
「なれないな。私たちの身勝手さのほんの一欠けらでも彼女らにあったのなら良かった」
誰かを救うような英雄じゃなくて良かったのだ。ただ、今も変わらずに隣にいてほしかった。みんなの幸せよりも自分との未来を選んでほしかった。
第一王子の誕生祭。夜会の会場である王宮のホールに入ると、一瞬だけ会場中が静まり返り私とアクアを見た。濃紺のドレスを身に纏ったアクアは大変美しいし、隣に立つ私も見劣りしない程度には整えたつもりだ。だが注目された理由は美しさではない。私たちが学園の事故で婚約者を亡くしたことを知らない者はいない。5年が経っても傷心していた私たちが婚姻を結んだことは人々の興味を惹いたのだろう。
それでも、表立って口にできる話題ではない。祝いの席なら尚更だ。遠巻きに私たちを観察し、あくまで自然に挨拶をする。亡くなった婚約者を引きずっていた二人が上手くやれているのか、隣にいる配偶者をどう思っているのか。そんな好奇心が隠し切れない瞳は不快だが、口に出していない相手からの当たり障りのない挨拶を突っぱねるわけにはいかない。漏れ出そうになる舌打ちを堪えながら、笑顔を崩さないアクアに感服していた。アクアは聡い女性だ、無粋な好奇心に気が付いていないわけがない。それでも、一切の隙を見せない彼女のなんと頼もしいことか。
「結婚したのが君で良かった」
「どうしたのですか、急に」
「君があの無礼な奴らにも完璧な対応をしていたから、私も我慢することができた」
「過大評価ですわフレッド様。わたくしがいなくても、貴方なら問題を起こしたりしなかったでしょう」
そうだろうか? 隣にいたのがカローレであれば、私よりも先にカローレが怒るから私が問題を起こす暇はない。それ以外の女性であれば、そう想像しようとするが上手くできなかった。カローレとアクア以外の女性が自分の隣に立つ姿を思い描けない。
「ぼう、とされてどうされたのです?」
「いや、なんでもない」
そう誤魔化したところでファンファーレと共に王家の方々が入場された。国王陛下、王妃殿下、第一王子殿下、第二王子殿下、そして最後に聖女が現れた。
ストロベリーブロンドの髪にライトグリーンの瞳。学園を卒業した2年前と変わらず可愛らしい顔立ちだが、あの頃より洗練された所作を身に着けていた。
「今日は我が息子オスクリタのために集まってもらって感謝する。この祝いの場でもう一つ吉報を皆に発表したい。オスクリタ、ルーチェ、前に出よ」
第一王子と聖女が並び立つ。第一王子がそっと聖女の腰に手を回して引き寄せた。顔を見合わせる二人の笑みに心が騒めく。あれは、愛し合い未来に希望を抱いている者の顔だ。私がかつてしていた、カローレから向けられていたものだった。
「私オスクリタと聖女ルーチェの婚約をここに発表する。ルーチェは平民であるが、その身に溢れる光魔法によって数多の民を救った功績がある。王子妃、そしていずれ王妃となる者として申し分ないと言えよう」
「わたしには過ぎた栄誉であることは重々承知しております。しかし、オスクリタ殿下をお支えし、生涯国のために尽くすことを約束します」
二人に盛大な拍手が送られる。
二人が愛し合っていることは学園にいるときから分かっていた。いずれはこうなるだろうとも。だが、どこかで納得できない気持ちがあった。彼らは幸せになれるのか、という憎しみが湧いてくる。目の前が真っ赤になりそうだったそのとき、すぐ真横からぱちぱちと拍手の音がしてハッとした。アクアが二人を祝福している。心の内がどうあれ、表向きそう振る舞っているのだ。そこで憎んでいても仕方がないのだと目が覚めた。私もぎこちなく拍手を送る。この場にいたのが私一人でなくて良かった。
拍手が鳴りやみ、ダンスが始まっても私とアクアは黙り込んだままだった。なんと言っていいのか分からない。いや、他人に聞かれても差しさわりない言葉が今は出そうになかった。もちろんダンスを踊るような気分でもない。
「今日は、もう帰ろう」
「まだ挨拶をされていない方もいるのではないですか。よろしいので?」
「次の機会でいい。皆、事情は知っているんだ」
とやかく言う奴はいるだろうが、そのような者とは付き合いを続けなくても良いだろう。私一人が不快な思いをするなら構わないが、必ず同時にアクアだって辛い思いをする。彼女まで悲しませるのは嫌だった。
出口へ向かおうとした私たちの後ろで人々が騒めく気配がした。
「アマランサス様!」
「……聖女様、それにオスクリタ殿下」
本日の主役であるはずの二人が人垣をかき分けて、わざわざ私の前に現れた。私に触れるアクアの手が少しだけ強張った。
「学園の卒業以来ですね、アマランサス様。それから、アクア様は初めましてですね」
「ご記憶に留めていただき誠に光栄です、聖女様」
「お初にお目にかかります、アクア・アマランサスでございます」
「そんなかしこまらないで。聖女だなんだって言ってもしがない平民なんですから」
そうは言っても、第一王子の婚約者相手においそれと気安く話せるわけがない。そうでなくとも、気安くなんてできない間柄だ。それでも深々と頭を下げていた私とアクアが顔を上げれば、聖女は嬉しそうに微笑んだ。第一王子は口を挟むことはなく、どうやら聖女が私たちとの会話を望んだらしい。
「ご結婚されたのだと伺いました、おめでとうございます」
「ありがとうございます。聖女様とオスクリタ殿下におきましても、ご婚約おめでとうございます。ますますご清栄をお祈り申し上げます」
「ありがとうございます。本当に良かった、お二人のことがずっと気がかりだったんです」
聖女の一言一言に心がざわざわと波立つ。一体、何を言うつもりなのだろう。気づけば周りにいた貴族たちも私たちの会話に耳を傾けていた。
「お二人の元婚約者の方をお助けすることができなかったことが心残りでした。私にもっと力があればと努力して、たくさんの人を救って、でも亡くなった人が帰ってくるわけじゃないから。その分、残された人たちには幸せになってほしいと願っていました。まさかお二人が結婚されるとは思ってもいませんでしたが、仲睦まじい姿を見られて安心しました」
聖女はあの事故から必死に魔力のコントロールを身に着けて、歴代のどの聖女よりも優れた力を発揮し、数多の奇跡を起こした。災害が起きれば真っ先に駆け付け、流行り病も光魔法で治し、魔獣のスタンピードが起これば前線に立って戦った。たった二人の犠牲によってここまでの聖女が生まれたのならば、必要な犠牲だったのだろう。そう、人々が思うくらいの活躍だ。
その原動力が慈愛であることも私は知っている。学園にいる中で否が応でも目にする彼女はいつも清廉潔白だった。私たちに向けた言葉も嘘偽りない本心なのだろう。本当に私たちを心配して、幸せになったことを喜んでいる。
そして、第一王子はその聖女の言葉を私たちが有難く受け入れることを望んでいる。あの事故が唯一の聖女の瑕だ。その事故で婚約者を奪われた私たちが彼女を受け入れれば、その瑕だってないに等しくなる。そのために、こんな目立つ場で話をさせようとしたのだろう。
吐き気がする。どれだけこちらに向ける感情が善意であれ、奪われた事実は変えようがない。けれど、事故が起きた当時と同じく家のことを思えば、そして新たに守らなければいけないアクアのことを思えば、王家に反発はできなかった。
私が心にもない感謝を述べる前に、アクアが口を開いた。
「貴女が殺したくせに」
「え……?」
「貴女の光魔法でペシェとカローレ様を殺したんでしょ。助けられなかった? 違うわ、貴女が光魔法を使わなければ、今も二人は生きてた!」
「アクア!」
止めようとした私の手を振り払ってアクアは聖女に詰め寄った。止めなくてはいけない。この場にいる誰もがそう思ったが、アクアの気迫に動けなくなっていた。
「わたしは、トロールから皆を守ろうとして光魔法を使ったんです。殺すためじゃない」
「トロールは見た目が大きくて力も強い。でも、知能は低いし動きも鈍いから、戦わなくたって逃げられたはずだわ。近くにいた教師にだって倒せたでしょうね。それなのに、トロールよりも遥かに強い聖女様が暴走したから、それを止めたカローレ様も、逃げ遅れた人を助けたペシェも死んだ」
「そんな、違う。だって、私が光魔法を使ったから犠牲者は二人で済んだんだって。そう、言ってたでしょオスクリタ様」
「それは……」
助けを求めるような聖女から第一王子は目を反らした。それだけで何が真相だったのか分かっただろう。
第一王子を中心に、彼女が光魔法を使わなければもっと甚大な被害が出ていたのだとして、聖女の暴走は事故として片付けられた。私やアクアのようにその話が嘘だと知っている者もいれば、何の疑いも持たずに信じる人もいる。そして魔法を使って意識を失っていた聖女自身もその話を信じ切っていたのだ。
5年越しに真実を知ってしまった聖女は真っ青な顔で立ち尽くしていた。
「幸せを祈っていただなんて馬鹿にしないで! 貴女がわたくしたちの幸せを壊したのに。それなのに、なんで貴女は愛する人と一緒にいられるの? わたくしたちに見せつけて楽しかった?」
「わ、わたし、そんなつもりじゃ」
「わたくしのペシェを返して! フレッド様のカローレ様を返してよ! どうして、二人が死ななければいけなかったの、どうして、聖女様なら許されるの、どうして……どうしてわたくしを置いていったの、ペシェ」
アクアが泣き崩れたことでやっと身体が動いた。周りから彼女を庇うように抱きかかえると聖女と第一王子に頭を下げる。
「祝いの席を壊す此度の無礼に対して如何様な罰もお受けいたします。しかし、どうか今夜は下城させていただけないでしょうか。妻だけでもお願いいたします、私はこのまま牢に入れられても構いません」
腕の中で泣き続けるアクアにこれ以上の負担はかけたくなかった。第一王子は面を上げよと言った。今にも倒れてしまいそうな聖女を支え、諦念を滲ませながらなんとか口角を上げていた。
「そのまま帰って構わない。貴方たちに、罪はない」
「寛大なご配慮に感謝いたします」
一連の騒ぎに動揺が隠せない人々も、私とアクアのために自然と道を開けた。真っ直ぐに馬車へと向かう中、抱きかかえたアクアからはすすり泣く声しか聞こえない。あまりにも軽くて、今にも消えていなくなってしまいそうで不安になる。
会場での騒動までは耳に入っていないのだろう。アクアのただならぬ様子に困惑する御者だったが、早く馬車を出せと言えば何も聞かずに馬を走らせた。
「君は、案外激しい人だったのだな。半年も一緒にいたのに知らなかった」
「申し訳、ありません。アマランサス公爵家にご迷惑をおかけしてしまいました。すぐにでも、わたくしと離縁してくださいませ」
「そんなつもりで言ったのではない。私の代わりに、言いたかったことを全て言ってくれて感謝しているんだ」
馬車で並んで座るアクアは、未だはらはらと涙を流すままだ。そっと人差し指で頬を流れる涙を拭う。その距離は許されている。だが、そこまでだ。必要に駆られて馬車まで運んできたこととは違い、ただ慰めるためだけに抱きしめることはできなかった。
「ペシェ殿のことだけでなく、カローレのためにも、私のためにも怒ってくれて嬉しかった」
「そんなこと、当たり前ではありませんか。フレッド様は、わたくしだけでなく、わたくしの中にいるペシェのことも大切にしてくださいました。だから、わたくしもフレッド様のことも、カローレ様のことも大切に思うのです」
「そうだな、私も同じだよ。いつの間にか、アクアのことも、ペシェ殿のことも大切なモノになっていた」
まだ、カローレのことを愛している。きっとカローレを愛さなくなる日は来ない。アクアのことも隣にいると心地よい人というだけで、カローレに向けていた愛を感じているわけではない。
それでも
「私は君を守りたいと思った。次に恋をするなら、アクアがいい。ペシェ殿を愛しているアクアを愛したい」
「ペシェを好きなままで良いのですか」
「良い。だから、アクアにもカローレを好きなままの私を愛してほしい」
アクアの手を握りしめた。初夜のときに交わした共犯者のような握手をなぞるように。けれど、それよりも一歩先へ行けるように。
「傷の舐め合いだけじゃない関係を君と築きたい」
「それはとても素敵な提案ですね。難しいこともあると思いますが、わたくしはフレッド様となら乗り越えられる気がします」
「ああ、大丈夫だ。私とアクアだけじゃない、カローレとペシェ殿もついているのだから」
「同じことを思っておりました。やっぱり気が合いますね」
やっと笑ったアクアにほっと胸を撫でおろす。
ここからだ。やっと一歩進む時が来た。どこまでいけるか分からないが、アクアとならば怖くなかった。
その後、私とアクア及びアマランサス公爵家には咎はなかった。第一王子と聖女が、自分たちが悪かったと罰を被ったのだ。
二人の婚約は破棄され、聖女は生涯を教会で尽くすことを誓い、今まで以上に目覚ましい活躍を見せた。
第一王子は王位継承権を破棄し、第二王子に王位を譲った。生涯未婚を貫き、第二王子を支え続けた。
私とアクアはゆっくりと距離を縮めていった。周りから向けられていた憐憫がなくなった頃、私とアクアの間には子が生まれた。
何もかもが上手くいったわけではないし、すれ違って傷つけあうこともあった。それでも、寄り添うことを諦めず、共に人生を歩むことができた。
「貴方よりずっと長生きすると決めていたのに」
アクアも年を重ね、背丈は縮み、金色の髪からは艶がなくなり、顔には長い年月を思わせる皺が刻まれていた。長く患った病のせいで随分やせ細ってしまった。それでも、私にとっては変わらず美しい人だった。愛しているから、そう思うのだろう。
「もう二度と、貴方に愛した人を失わせる悲しみを背負わせたくなかった」
「同じことを思っていた。だから、君が先にいってしまうのは悲しいが、君にこの悲しみを背負わせなかったことが誇らしくて仕方ない」
「本当に、わたくしたち似た者同士ね」
小さく笑って、それから少しだけ咳き込む。医者は今夜が峠だと言っていた。子や孫たちもアクアとの別れを悲しんでいる。それでも、最期のときは私と二人きりにしてくれた。
「ペシェが死んで、幸せになんてなれないと思っていたのよ。ペシェのために貴方と愛し合いたいって言ったけれど、できなくても良かったの。本当は幸せになんてなりたくなかった。同じだったでしょう」
「カローレのいない世界で幸せなんていらなかった。でも、君を幸せにしたいと思ってしまった」
「わたくしもよ、フレッド様。カローレ様を亡くして悲しむ貴方に幸せになってほしかった。だからね、一緒に幸せになるために勇気を出したの」
アクアの手を握る。私たちの始まりはいつもここからだった。だから、終わりもこれが良い。
「いっぱい幸せにしてくれてありがとう。いっぱい幸せになってくれてありがとう。わたくし、フレッド様も愛していたわ」
「私もだ、私もだよアクア。君も愛していた」
「わたくし、先にいくけれど、あんまり早く来ては嫌よ」
「分かった。君が残してくれたものをもう少しだけ大切にしてからそちらにいくよ」
アクアが耐えられないというように瞳を閉じる。呼吸が浅く小さくなっていく。
「カローレとペシェ殿によろしく」
二度目でも、別れは変わらず辛いものだ。それでも、愛せたことが嬉しかった。どうか、向こうでも幸せに。二度と開くことのない瞳に口づけを落とした。
活動報告(2024.05.05)にて、本編には書ききれなかった設定を載せてあります。
今後時間があれば他の登場人物のその後について書けたらと思っています。
聖女と第一王子の話(https://ncode.syosetu.com/n0939jb/)を更新しました。