第零話-落星-
生きているだけで瘴気を撒き散らし人々に災いを齎す魔物たち。
その魔物達の中でも我々人類と同等の知恵を持って生まれた魔族達がいた。
ただでさえ強大な力を持つ魔物が人類相当の知恵をつけて人類に敵対する上彼らの長には魔王と呼ばれる強力な個体がいた。
人類の生存権が狭まってゆくのは自明の理であった。
この有り様に人類を創りたもうた神は憂い、人々に希望をもたらしたと言う。
人々は齎された希望を勇者と呼び称えて共に闘った。
歴史に名だたる伝説と称されし勇者達は魔王どもの進行を押し留め人類の生存権をギリギリ確保した。
だがそんな闘争の日々に明け暮れていた人類に……
いや人類だけではない。争っていた筈の魔族をも巻き込んで世界に存在する全ての知性ある生命に対して到底許容しがたい災禍を齎す存在が異界より降りたった。
災禍は空を漂い地を這うように蠢く不定形であり、口吻と思しき器官が存在せず代わりに無数の目が泡のように浮かび上がる巨大な暗雲そのもののような姿であった。
この世界の歴史に存在した事のない未知の存在である暗雲はそれが齎す災いから《流動する悪夢の申し子》……通称《悪夢の泥》と呼ばれ世界に恐れられた。
悪夢の泥を打倒すべく立ち上げられた勇者パーティと連合打撃軍は人魔混成の世界の威信をかけた最強の戦力として勇敢に戦った。
しかしながらその結果は余りにも惨憺たる有り様であり、立ち上げ当初は百万を超える大軍だった連合打撃軍はその戦力の八割が戦死もしくは行方不明になり、勇者パーティ一行も悪夢の泥の進行を一時的に止める事に成功したがその代償にパーティの半分が生きたまま悪夢の泥の餌になると言う無残な結果となった。
そして今まさに残された五人の勇者パーティのメンバーも二人が死に絶え、残った三人のもその命の灯火が燃え尽きようとしていた。
「僧侶のアレスは?」
中央で数体の妖精を従えた勇者本人のラクレ・ヘィスーが後方で杖を構える黒い猫耳の女魔法使いのカレンデュラに尋ねた。
「無理だね。体の下半分が食いちぎられた。丸呑みにされてた方がまだ希望があったかもね」
勇者は目の前に迫り来る暗雲の波を薙ぎ払いながら再び尋ねた。
「おらっ……!重装歩兵のゴルは!?」
魔法使いは勇者の眼前の暗雲を魔法の光弾で勢いを殺す事に意識を移した為代わりに右手左足を失い瓦礫を背に座り込む魔法銃士らしき男のゴルダが答えた。
「勇者様よ…寝ぼけてた訳じゃあるまい?ヤツは戦いが始まって直ぐにアンタを庇って……」
ゴルダは血反吐を吐き最後まで言うことは叶わなかった。だが勇者も返事を求めての発言ではなく、現状の再確認か或いは耐えがたいこの戦いに対する悲痛な思いの発露だったのだろう。
勇者はそれ以上は「わかった」と言いつつ悪夢の泥の猛攻を精霊魔法による爆撃で数十メートル程押し返し生き残ったパーティメンバーに宣言した。
「……撤退だ!オレたちは奴を…“悪夢の泥”を倒すには余りに力不足だった。離脱して戦力を立て直そう!」
それが可能かどうかは定かではない。だが連合打撃軍を失いパーティが半壊した今これ以上戦える状態でない事は誰の目にも明らかだった。
カレンデュラは自らの無力を呪いながら歯を食いしばり、自分の身の丈程もある杖を振るいあげて呪文を唱えた。
「結界魔法!《拒絶の国境》」
カレンデュラが叫ぶと格子状の光を帯びた壁が左右の地平線を貫くように広がり、勇者パーティと悪夢の泥の間を隔てる壁を作り出した。
「よしっ、逃げるよゴルダ!」
結界の形成を確認したカレンデュラは動けないゴルダを浮遊魔法で持ち上げて悪夢の泥とは反対方向に駆け出した。
「っお…おい!何やってんだラクレ!?」
「え!?」
カレンデュラが振り返りゴルダの視線の先に目をやるとそこには結界の先の暗雲に剣を突きつけ立ち向かい続けるラクレの姿が見えた。
「何やってんの!?ボク達と早く逃げるよラクレ!」
「…それは出来ない」
カレンデュラは共に逃げるように大声で急き立てたがラクレから返ってきた言葉は拒絶だった。
ラクレの言葉に焦ったゴルダは口に血を滲ませながら怒鳴り声をあげた。
「っごふ……何言ってんだ!立ち止まってる時間はないんだぞ!?結界が有るうちに__」
「結界はもうすぐ破れる。無事に帰るには誰かが殿を務めなければならない」
ラクレの言葉を証明するように結界魔法からはミシミシと悲鳴をあげており、小さな亀裂が走り始めている。
「だったらボクが…ボクが囮になって悪夢の泥を食い止める。世界の希望たる勇者の君がこんな所で死ぬなんてあってはならない!」
「……いや、これはオレがやるべき事だ。勇者として魔王に敗北した者の責務がこれだ」
そう言うとラクレは風の精霊魔法により後方に向けて暴風を放ちカレンデュラとゴルダを遥か彼方へと吹き飛ばした。
「……ぐっ、ラクレェーーーーーー!」
「帰ってこい!必ず帰ってこいよ、ラクレェ!!!」
ゴルダとカレンデュラの叫び声は吹き荒れる轟音にかき消えながら風の速度で遠ざかってゆきラクレの耳には最後までは届かなかった。
しかしラクレはカレンデュラの言葉を察しその思い答えられない事に申し訳無く思い自重気味に笑った。
「勿体無いねぇ……オレには勿体無いぐらいの素晴らしい仲間だった」
ラクレはそう呟いた後、目の前で結界を破壊せんとする悪夢の泥に向き直る。
『で、どうするつもりなの?勇者ラクレ・ヘィスー』
隣から語りかけてきたのはラクレが契約する最上位の風の精霊シルフだった。
「カレンデュラとゴルダが出来るだけ遠くへ逃げられるように時間を稼ぎたい。シルフ、辺り一帯にいる風の精霊達を集めて僕の剣に集まってくれ!どれだけ効果があるか分からないけど悪夢の泥を吹き飛ばす!」
シルフは自分を犠牲にしようとするラクレを想い悲痛な表情を浮かべるが、彼の覚悟に応える為に頷いた。
『螟ァ縺?↑繧矩「ィ縺ョ邊セ縺ィ縺昴?蟄舌i繧亥、ァ豌励?豬√l繧九k蟆弱″縺ォ蠕薙>謌代′荳九∈髮?∴』
シルフが呪文を唱えると周囲の大気が彼女の中へと集中してゆき急速に魔力が高まっていく。高まる魔力と共にシルフ達は光へと変わり勇者が携えた聖なるロングソードへと入っていった。
ラクレの集中力が極限へと向かう中、悪夢の泥による結界の破壊は進み続けていた。
悪夢の泥は巨大で不定形なその肉体を結界にただひたすら押し付け続けており、極めて単純な質量による圧力で結界はミシミシと悲鳴を上げ遂には巨大なガラスが砕けるような音と共に割れてしまった。
「……っ来い!悪夢の泥!!!」
悪夢の泥がラクレの言葉を理解したかは定かではないが、自分の行く手を阻む邪魔な障害物を排除すべく自らの身体の一部を腕の様に伸ばして攻撃を仕掛ける。
悪夢の泥の不定形な肉体は表に出ている表層の全てが口であり胃袋のような役割をしており、泥や霧に例えられるようにその表面の境界は定かではないが、一定の領域を超えると触れた部分がそのまま消失する。
まるで食べられたような歯形を残して…
その有り様から悪夢の泥との直接の戦闘で戦場は毎度悲鳴と絶叫により恐慌状態に陥る。
しかし幸か不幸か今のラクレの周りに悪夢の泥に怯える群衆は存在しない。
ラクレは集まってきた風の精霊達を自分の剣に纏わせ棍棒を振るうような無造作な動きで触腕を伸ばす悪夢の泥に向かって振り払う。
『気団大砲』
もはや爆発を彷彿とさせる圧倒的な空気の塊を受けた悪夢の泥は極大の不定形な肉体の一部に竜の成体がすっぽり収まってしまうような巨大なクレーターを形成させて僅かに後ずさった。
『効いてるよラクレ!』
「オレの後ろには大切な仲間と守るべき人々がいるんだ。このまま地の果てまで押し返してやる!『気団大砲!!!』」
ラクレはありったけの魔力を込めて気団大砲を連発し続けた。
全身の魔力回路が焼けつき熱を帯び幾数万本の針が突き刺さるような痛みが走り続けている。
耐え難い激痛に苛まれて発狂寸前になりながらも攻撃を続ける為、噛み締めた歯にひびが入り血走った目から血が滲み焼けついた魔力回路が肌を焼いて人肉の焦げる臭いが吐き気を誘った。
それでもラクレは攻撃をやめなかった。
逃げた仲間を生かすため…
逃げ惑う人々の希望を繋ぐために…
数十発の空気の大きな塊が爆発と共に悪夢の泥の体を抉り続けた。
このまま行けばラクレの勝利は目前か?
何も知らない人間が横で見ていたらそんな風に浮き足だっただろう。
だが悪夢の泥の脅威がその程度であれば人類と魔族が連合を組むような異常事態はまず起きないはずだった。
世界に災禍を齎した悪夢はその黒雲のような肉体の半分が消し飛んだ所で再生が開始され徐々にその体積を取り戻しつつあった。
「やはりダメか……だがこのまま後方に押し込んで時間だけでも__」
ラクレがそう発言した所で悪夢の泥の四方八方へ散っていた無数の眼球の視線がラクレの方角へギョロリと集中した。
『眠れ!』
散り散りになった悪夢の泥、その全ての肉片と本体の全てからそれは聞こえてきた。
「ま…ずい……!」
存在しない筈の口から放たれたその聲は気怠げに自らを苛む少年のような声でラクレの耳に強制力を持った命令をぶつけてくる。
常人ならば耐え得ることも出来ずにその聲の導きに従い永遠に眠り続ける事となる。
だがラクレ・ヘィスーは世界から選ばれし勇者で有る。
命令自体をなかったことには出来ないが並外れて強靭な精神力を持つラクレは悪夢の泥の聲に抵抗して永劫の眠りをたった一秒で終わらせた。
その一秒が致命的であった事はラクレは当然気付き、刹那の夢の世界で悲嘆した。
皮肉にも一秒のうちで見た刹那の夢の世界では平和を実現した自分が立っていた気がした。
「___っ!!?」
目が開いた次の瞬間右腕と左脇腹から肉を骨ごと食いちぎられる音がぐちゃりと頭に響いてきた。
一瞬の睡眠により強制的に止められたラクレの肉体は腹部の半分と片腕の喪失から急激に失血、何より肉体と精神に掛かった過剰なストレスと疲労を看過出来ずに硬い地面へと倒れ込んでしまった。
「あ……っぐぅ、くそぉ動け!」
声を振り絞り体に命じても指一本として動くことはない。
ラクレの肉体のダメージは生きている事が不思議である程に深刻であり殆ど死体と称して差し支えないくらいにズタボロだった。
(こうなったら最後の手段だ。オレがコイツに喰われたら諸共に自爆して吹き飛ばしてやる!)
ラクレはその整った顔面を地面で汚しながら、こちらに無数の視線を向けながら自分を喰らおうとする悪夢の泥を睨みつけた。
「ぐぅぅぅ…う゛う゛う゛〜〜…」
「…?」
悪夢の泥は唸り声をあげながらラクレへと伸ばしていた触腕の動きを止めた。
ラクレの視線に何かを感じ取ったのか或いは生存本能による危機察知能力のようなものなのか、とにかく悪夢の泥はほんの一時だけその歩みを止めた。
止めてその身をまるで本物の黒雲のように浮き上がらせ、目障りなラクレの上を通り過ぎて行った。
「っは?…ぇえ!?」
それは初めての現象だった。
それまでの悪夢の泥はその巨大な肉体で地面を引き摺るように移動して邪魔な障害物は乗り越えるか小さければ喰らって飲み込んで進んで行くのみだった。
恐らく自分を脅かすような脅威がコレまでに存在しなかったが故にその行動が大きく変化せず発覚しなかったのだろう。
ラクレが悪夢の泥に脅威として認められた証とも言えた。
だが今のラクレにとってそれはよう状態とは言えなかず寧ろ最悪と言って差し支えなかった。
「ちょっと…おい!まてよ!」
飛び上がった悪夢の泥はラクレを飛び越えてゆき当然の行動と言わんばかりに逃げていった仲間のいる方角へと向かっていった。
「うっ動け!俺の…か、らだ!……動け…よぉ!」
じりじりと這いずりながら悪夢の泥に追い縋ろうとするがラクレの体は精霊の回復が施せないほど弱り果てており、体の向きが僅かに代わり飛び去っていく悪夢の泥の姿が良く見える様になるだけだった。
「まて……待って、くれぇ…!いま…う…ご……くか…ら」
目には涙すら滲んで胸の奥から重く冷たい絶望が湧き上がって来てラクレは何処までも落ちてゆく気持ち悪さに苛まれながら意識が遠のいていく。
「__________________?」
絶望と衰弱がラクレの意識を奪おうとした時悪夢の泥が飛び去る方角の大地、その更に遠い場所で何かが飛び跳ねていた。
「あれは……ヒト?」
ぼやける目を引き絞りピントを合わせると筋骨隆々で黒髪の大男が荒野の真ん中で何度も飛び跳ねていた。
「だれ…だ?一体、何を…」
ラクレが彼を観察していると直ぐに変化が現れた。
「は?」
それは異様な光景だった。
彼が何度も飛び跳ねていると彼の体の下半分が地面の中に出たり入ったりを繰り返す様になった。
更に目を凝らすと彼の足が地面についた時だけまるでトランポリンの様に大地が歪んでいるのが分かった。
「は?…え?…は!?」
ラクレの疑問が深まる一方で彼の周辺の大地は歪みを深めてゆき彼が飛び跳ねる度に彼が大地により深く隠れて行った。
そして歪みの大きさが彼の背丈を大きく超えた時、それまでの十倍程彼は高く飛び上がり地面に深々と刺さった。
次の瞬間、大地が轟音と粉塵を巻き上げながら大爆発した。
「はいぃっ!!!?」
爆発により勢いよく吹き飛ばされた大男はゆっくりと上空を飛行する悪夢の泥に音の速さで迫って行く。
悪夢の泥は真下から高速で迫ってくる男に気がつくとその体を急激に泡だたせ膨張し幾つもの触腕を伸ばした。
まるで自分の身を守るように伸ばした触腕は下方向に閉じてゆく。
それは黒い花が蕾に戻ってゆくようにも見えた。
一方男は腰に携えた細い刀を鞘に入れたまま握り込み居合に似た構えをとる。
男は徐々に空中で錐揉みし始め徐々に回転を始めた。
『斬鬼斬灰…』
回転スピードがピークに達して男の姿が巨大な独楽のようになった頃、男と悪夢の泥が衝突した。
『打っ千切り!!!』
次の瞬間、悪夢の泥の巨大で不定形な肉体は真っ二つに両断された。
それだけでも驚嘆すべき偉業と言えたがラクレはその直後に生じた悪夢の泥の変化に愕然とした。
「嘘だろ……なんで?」
悪夢の泥は高度な再生能力を持っていた。
それ故に幾人もの戦士や魔法使いが、悪夢の泥の肉体を切断しようと穴だらけにしようと燃やそうと吹き飛ばそうと細切れにしようとも何をしても何もない所から煙が立ち上るように奴は再生し元通りになった。
だが上空の光景はそれとはまったく逆の現象が起きていた。
両断された悪夢の泥は再生する事が出来ずもがくように巨大な肉体を変形させていた。
しかし両断された部分は固定されたよう固まって動かず元の一つに戻る事も出来ず更に弱っていき、まるで最初から本当に全てが泡沫の夢であったと言わんばかりに空に溶けてゆきゆっくりと霧散して消えていった。
「何が起こっているんだ?彼は一体……」
ラクレは悪夢の泥が消えた上空に目に目を凝らし謎の男の姿を探した。
ラクレの思いに応えるように謎の男はラクレの付近に降り立った。
「!?」
ラクレは驚いた。
謎の男が近くに落ちてきた事もそうだが雲に近い高さから落ちてきたにも関わらず男の着地は余りにも静かで風圧による砂埃も殆ど立たず突然目の前に姿を現したようにも見えたからだ。
「君…は、誰だ?もしかして“異界渡り”……か?」
尋ねられた男は首を傾げた。
どうやら言葉が通じないようだ。
ラクレはさらに別の言葉で質問を試みようとしたが衰弱した肉体が次の言葉を紡ぐことを許してくれなかった。
男は何かを聞かれたと解釈したのだろう。
薄れゆく意識の中、男は胸に手を当てて名前らしきものを名乗った。
「#シオ€・リンド%!」
「リン…ダ?」
限界を迎えた勇者ラクレはそこで意識を失ってしまった。