第二話:終に行く道(四)
四
お祖父さん、私は、ずっと、ここにいます。
「そうしなさい。ここにはな、昔の仁科を正しいのだと主張して、文学を時間の無駄だと言うお父さん、お父さんに従うだけで、子どもにとって何が嬉しいか自分で考えようとしないお母さん、昔の仁科に染まりきり、かわいい妹と遊んでくれないお兄さんは、いない。好きなことを、好きな時に、していいんだ」
大学院生になった私が、お祖父さんに会えています。夢のようです。
「現実だよ、唯音。雨はしばらく止まない。あっちで横になっていたらどうかな」
はい。深く眠れそうです。
「イカさんの抱き枕があるよ。小さい時に、買ってあげられなくて、ごめんな」
覚えてくれていたんですか……! 犬のぬいぐるみよりも、これが欲しかったのです。
「女の子なら犬さんです、とは。お母さんはひどかったなあ」
そうでしたね。
「どうでもよくなってきたか?」
はい……。
「疲れただろう、さあ、おやすみ……」
おやすみなさい…………
「来し方に浸かっておるんやないわ、ばかたれい!!」
リビングがうねりだし、空間自体が大きな渦となった。闇に放られた唯音を、瑠璃でできた人型ロボットが抱き止めた。
「…………??」
「のぼせておるのか! 超くうるになるのや!」
薄目を開けている唯音に、ロボットは露草色の水を頭に浴びせた。
「キミック……」
唯音は身震いし、慎重に起き上がった。三角をあしらった機械は、キミックのもうひとつの姿であった。
「状況を、分かっておるやらうな?」
「運転中に、声が、して、気がついたら、お祖父さんの家に、いた……です」
キミックは、細い二等辺三角形の目を光らせて、あごをしゃくった。その先に、仁科弦志が右腕をおさえて浮いていた。
「いま一度、よう視てみい。こやつは、おぬしの祖父か?」
古びた扇風機のように、唯音はかぶりを振った。
「大変な、失敗を、した……です」
「反省は三秒までや。次に移れい。こやつは『障り』やで」
唯音の胸を起点に、露草色の気流があふれてゆく。冷たくて湿った気が、彼女に無垢なる衣を織り、授ける。
「原子見ざる歌詠みは、スーパーヒロイン・いおんブルー……です」
三角の意匠が施された巫女風のドレス、胸元を飾るは紫水晶の護符、背には蜻蛉を彷彿とさせる四枚の羽衣が広がった。
「あとわずかで、女を堕とせたものを……!」
災いが、弄んでいた弦志の口を借りて悔しがった。欠けた右手首からは血ではなく、索餅なる揚げ菓子がこぼれ落ちる。
「敵がもう一人、神と人の合いの子か。むしろ好機」
闇を片足で跳んで進み、いおんブルーとキミックに迫った。
「女、この爺が恋しいのだろ? 考え直さないか?」
湖のような瞳は凪ぎ、黙して「障り」を拒んだ。
「明日と私を、待ち遠しく思う、人達が、いる……です」
いおんブルーとキミックの身振りが一致する。共に行使する「技」の祓が、高波を生む!
『行く水に 障り無きやう! 瑠璃の修辞!』
露草色の三角錐が「障り」を閉じ込めた。
「が、ばぼ、ごべば……」
祓を湛えた水槽内で、「障り」が分解されてゆく。仁科唯音を食むために飾り立てた故人の魂は、索餅の集合体であった。これ以上分けられなくなるまで、崩され、ほぐされ、漂わされた。
「乗りい。祓うたさかい、現の裏側が破れはじめておる」
いおんブルーはキミックの胸に取り込まれ、闇から脱出した。
唯音にも、取り乱すことがある。
「どういう、状況……ですか」
慣れ親しんできた祖父の家が、雨ざらしになっていた。雫が重力に従い天から地へ降りているのに、壁は、家具は、床は、粒子となって地から天へ昇ってゆく。
「『障り』が間に代わる居場所を強いたのや。惜しいが、この住まいは失われる」
三角形の瑠璃に戻ったキミックが、唯音に近づいたが、避けられた。
「ごめん、唯音……」
「……そう、私達では、食い止められなかった」
折りたたみ傘を差すきみえと、ストールにくるまった音遠を通り過ぎ、唯音は半分になったリビングの扉の前に、座り込んだ。
「……仁科弦志が、あなたに、話をしたいと、言っている」
唯音は即座に振り返り、滑りそうになりながらも音遠へと走った。
「唯音か……」
音遠が捧げ持つ、ベンゼン環のような形をしたペットボトルに、息も絶え絶えのオニヤンマが入っていた。
「お祖父さん……!」
「唯音は、何色の空を……飛ぶ、の、やら……」
ペットボトルをぶん取り、唯音は湖面のような瞳をしっかり開いて、のどを震わせた。
「『障り』が、原因? いやです、私が、治す……!」
「できん。黄泉への路が、伸びきっておる」
「偉そうに、するなです……!!」
隣へ来たキミックを、自身の皮がめくれることなどお構いなくつかんだ。
「やめ、な、さい。誰も、が、行く、終への、道だ……」
祖父から久々に叱られ、唯音は眉を落とした。
「さようなら……ですね」
オニヤンマの複眼が黒ずむ。孫に雨が当たっているのに、ペットボトルが濡れそぼっていた。
「唯音……達者、で、な…………」
最期の言葉を聞いた後、祖父と家の残りは泥むことなく露と消えていったのだった。
頑張って調べてきたんだなあ。正解だよ。
友が書いた論文がな、たくさん出てきたんだ。彼らの、生涯研究してきたことを、捨てるに捨てられなくてな。物を減らすはずが、夢中になって読んでしまっていた。
全て読み終えたら、悲しみがこみ上げてきたんだよ。あの頃、共に実験をして、意見が違い喧嘩別れして、大願の成就を目の前に挫折して、成功の記念に呑んできた友は、そこにいないのだ、と。妻さえ失った私は、終を前にして足がすくんだ。怖さを追いやろうとした結果、リビングが散らかったんだよ。
祖父は、安心して「終に行く道」を歩けただろうか。
「私、最期は、青い空を飛んでいたい……です」
目を袖でこするのをやめて、唯音は自力で立ち上がった。
「途中の悪天候も、私だけの、思い出……」
きみえは傘を離して、音遠はストールをめくり、唯音の手を握った。
「いろいろあって、落ち込んでもさ、私が励ますよ。しつこいくらいにね!」
「きみえさん……」
「……そう、私も、ずっと、あなたを、忘れない」
「音遠……」
唯音は、数値には表せないぬくもりを感じた。
「空腹に、なった……です」
三人は笑いながら、虹の架け橋を眺めたのであった。
文月の障り【踏み・付き・の障り】
うまき心を持つ人間と縁のある人間の魂をこの世に踏み留まらせ、懐かしき所に居付かせ、いづれも食む。逸りやすき障りなり。
〈次回予告!〉
「荷物、お洋服、準備は完璧! 早く土曜日が来てほしいです!!」
「よう、地獄女!!! 土曜は祭りか!?」
「お祭りではありません、大勝負なのですよ! 腹筋と腕立て伏せ百回します!」
―次回、第三話 「浪の上にも水はさぶらふ」
「相手は誰だ!? 熊か!!!」
「熊よりも強敵です! 年の近い異性ですから!! 戦いの場は泰盤市の湾遊館、ジンベイザメの前で、告白です!!」
「突き合うのか!?」
「ちちちち、違います! 『つき』は『つき』でも、お付き合いの『付き』なのですよ! シュトルムさんは破廉恥ですね!」
「刀を交えることのどこが破廉恥だ!」
「かかかか、刀……婉曲表現ですか! こんな私、お嫁に行けませーん!!」