第二話:終に行く道(三)
三
飛び入りの参加者が、後部座席に当たり前のごとく乗っていた。
「きみえさん、説明、して……です」
「説明いる?」
早朝の街角で、女の子がぽつんと膝を抱えていた。ジョギングしていたきみえが見落としていたら、今頃どうなっていたか。
「家まで、送り返す……」
アクセルを強く踏む唯音に、きみえが顔を寄せた。
「え! え!? この子の住んでいる所、分かるの?」
「……そう、私と、唯音は、グミでくっついた、お友達」
きみえの真後ろから、湿っぽい声がした。
「君、唯音と親しい関係だったんだ? 早く言ってよー。二人ともずっと黙っていたからさ」
唯音は観念して、紹介した。
「佐久間音遠、まゆみさんの妹の、元ゼミ生……です」
ルームミラーに、左右に揺れて激しく踊る音遠が映る。
「先生の妹さんということは、陣堂女子大学だよね? あそこ滑り止めで受けたけど、難しくて落ちたんだー」
「……私、あなたより、賢い」
「え?」
きみえは聞き取れなかったようだ。
「音遠って、呼んでいい? 私は、気軽にきみえでオッケーだよ」
音遠は、鼻から下を覆っていたネックウォーマーを極限まで引き上げた。唯音は頭が痛くなりそうだった。奇行さえ直せば、目標のお友達百人はすぐ達成できるのに。
「ごめん、ごめん。馴れ馴れしかったね」
きみえは教師だ。「変わった子」だと片付けられがちな人と、じっくり向き合う姿勢がとれる。
「ゆっくりいこうか。まずはこれだけ訊かせてね、どうしてあんな所にひとりでいたの?」
「……………………」
アイスブルーのネックウォーマーから、寝ぐせが全くついていない頭が三分の一出てきた。
「……博士が、私の、働きを、正当に、評価して、くれない」
音遠は、まゆみの妹の助手をしていた。
「……命じられた、仕事以外に、博士の、抱える、雑務も、していた、でも、怒られた」
彼女の双眸が、淀んでいた。
「……そう、博士とは、コンビ、解消する」
ネックウォーマーが、初めの位置まで下げられた。
「腹が立ってしまうよね」
きみえが助手席より顔をのぞかせて言った。
「博士の負担を減らそうと頑張っていたんでしょう、だけれど、博士には伝わってなかった……で、合っている?」
「……そう」
「私も、それに近いことがあったよ。学年主任が忙しそうだったから、遠足の行程を考えてきたの。ルートをいろいろ比較して交通費が一番安いものを採って、しおりの案まで作ったのにさ、新人がやることは別にあるでしょう、とボツにされたんだ」
きみえは大学在学中、茶道部の部長とゼミのリーダーを務めた。処理能力が高いだけでなく、仲間が行き詰まっているところをいち早く察知して支援していたところも先生方に評価されていた。
「主任は、自分が抱えている仕事がどんなに多くても、全部責任持ってします、という考えだったんだよね……。後で本人と他の先生方から聞いてさ、最初に声かけておくべきだったなーって、反省したんだ」
じゃん! ときみえはアトムすけを顔の前に持った。
「実は、ムカっとした! とげのある言葉使うなよ、国語教師のくせに、とね」
「……そう、博士は、罵倒語データベース」
きみえの手と音遠の余らせた袖が合わさった。
「……後進の、育成も、あなたの、立派な、仕事と、言いたい」
「だよねだよね! 若い芽を摘まないでー!」
豆をまいたような音がした。フロントガラスに数多の水玉が付いていた。
「……雨」
「通り過ぎてくれないかな。ね、唯お」
きみえは青ざめた。運転席が空いていたのだ。
「どこ!? どうしよう、私、免許取っていないんだけど」
スピードが落ちてゆくも、ガードレールへの激突は避けられそうにない。その下は、川だ。
「道路にも 露やおくらむ、夜もすがらの袖」
露草色の露が三滴、ガードレールに落ちる。露どうしが寄り、自動車を包み込めるほどに水量を増し、衝撃を吸収した。キミックが、アトムすけの小さい体を借りて術をかけたのである。
「時間稼ぎしたっておる、佐久間や、早う」
音遠が静かに席を移り、ハンドルを握った。
「……そう、視界が、悪い」
ベンゼン環の髪飾りが、藍色に灯る。音遠の望遠機能が発動した証拠だ。
「……坂を、下りる」
右へ曲がると同時に音遠の首も同じ方向に傾く。
「……731.81メートル先に、唯音の反応、微弱だがあり」
きみえは肩の力を抜いた。
「急に姿を消したけれど、これは」
しまった、ときみえは音遠を一瞥した。キミックが鼻を鳴らす。
「全然拙うないで、あやつも関わっておる」
左の袖をたくし上げて、音遠はピースサインをした。
「続けるね、これは『障り』のしわざ?」
キミックはフェルト玉をつなげた胴体をくねらせた。
「無きにしもあらずやな。やが、今日は水無月二十七日、ふらいんぐしておる」
人々の心を枯らす災い「障り」は、毎月晦日と朔日の間に来る。
「……例外は、無い?」
音遠の問いに、キミックがうなる。
「あるとしたら、これが初めてやわい」
「唯音一人で戦うんじゃないよね? 華火ちゃん達もついて……」
「……唯音の他に、反応は、無い」
きみえはダッシュボードを叩いた。
「『障り』でも、それ以外でも、行かないと! 独りにさせたくない!」
音遠が車を停めた。
「……到着」
折りたたみ傘を広げて、きみえは青袋鼠の雲になじむ建物を見上げた。円柱とは近未来風な形だ。天文台か?
「……そう、仁科弦志の、家」
ストールをかぶる音遠の後を、きみえは早歩きでついていった。
「よく来たなあ。雨がひどかっただろう」
お祖父さん、ただいま帰りました。
「ゆっくりしていきなさい。唯音の好きなグミを用意してあるぞ」
ありがとうございます。果物の形をしたグミですね、ガラスのボウルに全種類を二個ずつ入れて、サイダーをかけてもよろしいですか。
「フルーツグミポンチか、好きにしなさい。ここでは、してはいけないことなどないんだ」
お祖父さんにも、作ってあげます。桃味を三個多めに入れます。
「唯音は優しい子だ。お父さんに爪の垢を煎じて飲ませたいな」
爪は定期的に切っています。爪の垢は、漢方薬なのですか。
「慣用句だよ。たとえだからな、爪を隠さんでもいい。素敵な人にあやかろう、とする意味だ」
私が、素敵?
「お祖父ちゃんよりも、ずっと素敵だ。唯音はな、優しくて、化学以外の学問にも寛容なんだ」
なぜ、お祖父さんは、親族の集まりに、呼ばれないのですか。
「皆、私を妬ましく思っているんだよ。化学者と作家、二つの職業を持っているからだ。仁科は化学の名門、他を捨てて、化学のみを究める。皆は、古い考えを信じきっている」
お祖父さんに、やつあたりをしているのですね。おかしいと思います。
「私が先に立って、仁科の人々に自由な生き方を追い求めてもらいたかった。だが、私には成し遂げられなかったようだ」
そんなこと、ありません。私が、自由に、生きますから。
「そうだ、孫娘には届いていたんだったな。いらん気を遣わせてしまった」
私は、ここに住みたいです。そうしましたら、お祖父さんがさみしい思いをしなくてすみます。
「いいよ。お祖父ちゃんのところの子になりなさい。さあ、おやつにしような」
椅子を持っていきますね。
「唯音は細いのに力持ちだなあ」
子どもではないのです。私は、こんなにも大きくなりました。
「分かっているよ。だから、招いたんだ」
仁科弦志に、影ができていなかった。
卵形の扉を背に、音遠は膝を曲げ伸ばしして歌い出した。
「♪しゅばーん、ぎゅびーん、私の首には 何がかかってあるでしょか しゅばーん、ぎゅびーん、ずずずずーん」
先を急ぎたいのだが、音遠がせっかく特技(?)を披露してくれているのを辞めさせては申し訳ない。悩むきみえの肩からキミックが、
「かあどきい、やろ。たはぶれておらんで、開けい」
ゆるい顔ですごんだ。
「……そう、全部、歌わせて、ほしかった」
音遠はしぶしぶ、カードキーを扉横の読み取り機に通した。
「お邪魔します! 唯音、唯音、いるよね!?」
靴を脱ぎ捨て、きみえは扉を手当たり次第に開けてゆく。
「佐久間よ、探知機能はどないしたのや。雨に錆びてもろうたか?」
「……そこらへんの、ロボットと、一緒に、しないで」
音遠は振り落とされそうになっていたキミックをつまみ上げ、袖に入れた。
「音に聞く『擬者語』はおぬしか。安達太良に匠がおるとはのう……。懇ろに作られておるわい」
擬せて語る者、略して「擬者語」は、科学と呪いを掛け合わせたアンドロイドを指す。作者は音遠が「博士」と呼ぶ安達太良の人間だ。全五体、音遠は第弐号である。
「……そう、今の、あなたの、言葉、録音した」
アイスブルーのネックウォーマーを下ろし、青白いあごがあらわになった。
「おぬし、ほんまに仁科と似ておるのう」
彼女達は「障り」を退けられる呪い「祓」を宿した五人に擬せて作られた。音遠の原作は、唯音である。
「…………唯音の反応、ありだが、場所の特定、不可能」
音遠がしゃがみ、床に指をつけて、埃を採取した。
「……分析機能に、切り替える」
優雅に結果を待とうとしたキミックは、数秒も経たないうちにずっこけることとなる。
なんと、埃をねぶったのだ。
「なんや、なんや、なんや! すたいりっしゅに術を使わんかい、赤子やあらへんのやで!?」
「……そう、私の、私らしい、方法」
擬者語シリーズの作者が、欠陥だと嘆いている点は「人間よりも人間くさい」ところであった。
音遠達に搭載された各種機能は、無駄な動きを必要としない。だが、個性を持ったせいか、あえて余計なことをしでかすのだ。音遠の場合は、口に含んで分析を行う。
スカートにしのばせていたビニール袋に埃を吐き出し、また口を隠して音遠は言った。
「……唯音は、リビングに、いる」
「リビングはさっき見たよ?」
音遠はきみえに、伸びきった袖をぶんぶん振った。
「……現実の裏、入れるのは、『祓』の行使者のみ」
「な、は、は、は、ここにおるで!」
キミックの声が揺れていた。袖の内にいたためだ。
「……そう、私、誤算だった」
雨が激しくなってきた。窓ガラスが全面洗われる。
「……耳かき一杯分の、意識が、一時の方向に、ある」
青い座布団を乗せた椅子に、蜻蛉が止まっていた。
「オニヤンマだ」
そばへきみえがしゃがむと、オニヤンマは羽ばたき、彼女と目線が合う高さでホバリングした。
「唯音の、お友達か……?」
きみえは、音遠とキミックの方を振り返った。
「……そう、あなたは、仁科弦志?」
「いかにも」
オニヤンマの翅の動きが鈍くなり、きみえの膝あたりまで降下してしまった。きみえが両の手のひらをくっつけて掬う。
「すまんな、弱っておって、話していたら、うまく飛べなくなる……」
「新たな生を歩んでおったのやな。やが、終が迫っておる。『障り』に食まれたか」
キミックの問いに、オニヤンマは歪んだ丸を宙に描いた。
「九割九分九厘以上、持っていかれました。孫娘が、あちらへついて行ってしまいました。私が、おりながら……連れ戻そうにも、この脆い体では、異次元の壁に、糸を通せるほどの、穴すら、開けられません……」
「わたいに敬意を払わんでもええ、長うしゃべられへんやろ」
オニヤンマは、尾を丸めた。
「あれは『障り』と、言うのか。許せない。私の魂を使って、孫娘に、甘い言葉をかけて、現実から離したんだ」
「なんちゅうこっちゃ、『文月の障り』が逸りよった」
音遠がキミックをつっつく。
「……行って、唯音が、負けそう」
「ほんまかいな!?」
三角形の瑠璃が、アトムすけのぬいぐるみより転がり出た。
「尫弱な娘やで!」
まとった露草色の気を尖らせて、台所の流し台めがけてキミックは突進した。蛇口にさしかかったところで、床と垂直な、同心円状の波紋が発生し、キミックを通したのだった。
「最後のしがらみは、私だ……」
「そんな。唯音は、自分のしたいように毎日過ごしています」
きみえは実のところ、オニヤンマの複眼すべてに自分の顔が映っているのではないかと、動揺していた。
「自由に生きよ、私は、唯音に、そんな歌を、贈った。だがな、自由に生きる、と、自由に縛られる、では、大違いなんだよ」
「……そう、唯音は、義理堅い」
「音遠ちゃん!」
このタイミングで言ってほしくなかった。きみえは胸が苦しくなった。
「音遠さんと、あなたは……?」
「額田きみえ、と申します」
「きみえさん、お二人に、別れゆく私の望みを、託されてくれまいか……」
四枚の翅が、乾いて破れかかっていた。
「これからも、孫娘と、いてもらえんか。私を、忘れさせてやってくれ。弦志の『げ』の字も浮かばんぐらいにな」
きみえは、鼻の奥がつんとくるのをこらえる。
「親に、似ないで、私の、悪い所ばかり、継いでいてな、頑固なんだ。断られたら、盆だけは思いだして、線香をあげていい、と伝えてくれんか…………」
碧の複眼が、だんだん褪せてゆく。前足がちぎれかかった時、
「ねおんブルー、起動」
六角形のペットボトルが、オニヤンマを保護した。
淡い色合いの暖かそうな服装が、墨色のセーラー服に早替わりしていた。
「音遠ちゃん……!?」
「……そう、私は、いおんブルーの、もじり」
藍色の襟とネクタイが、音遠の隠匿していた冷静さを表す。
「呼吸が楽だ。ありがとう……」
きれいな複眼に持ち直し、オニヤンマは容器の中で翅を開いたり閉じたりした。
「…………きみえ」
ねおんブルーが大きな付け袖を振る。耳を貸せ、だそうだ。
「……これは、急場しのぎ」
「え……え?」
「……仁科弦志は、『障り』が、祓われ次第、機能停止する」
「それって、唯音が戻ってきたら、もう」
「……私の、力で、進行を、遅らせている、お別れに、間に合わせる」
きみえは、ペットボトルを抱きしめた。