第二話:終に行く道(二)
二
「ねえねえ、明日、二人でどこか行かない?」
きみえがワイシャツにアイロンをかけながら言った。
「久々に晴れの日曜だからさ、外に出ないともったいないよ!」
唯音は茶碗の泡を洗い流して、口角を微かに上げた。
「ドライブ……ですね」
「やった、やったー!」
カーテンレールにかかっていたハンガーをマイクにして、きみえは歌い出す。彼女が担当しているクラスで流行っている曲だった。唯音ときみえの親世代にとって「青春の歌」だったものが、インターネット上で発掘され、再ブレイクしているそうだ。高速再生して複数で踊る動画が投稿されているのだとか。
「行きたい所、ある……?」
きみえが考えているうちに、本日の強敵に取りかかった。麻婆茄子を作った後のフライパンだ。はじめに古い新聞で拭き取るのがコツ。
「具体的にここだ! というのはないんだけど、大きな公園でサンドイッチ食べたいな」
ごま油と花椒がきいていて、ご飯を三合分おかわりしてしまった。中華の素は誰もが手早く、それなりにおいしくできる。研究や仕事で忙しい二人の頼もしい味方だ。
「たまごとツナは絶対にいるよね。ハムって、全部使い切ったかな?」
油汚れ用のスポンジで、力を入れてこする。赤っぽかった泡が、ライムの香りとともに白に変わってゆく。勝利は目前だ。
「そうかそうか、なら、ハムチーズサンドに……いやいや、こうなったらハムカツにしない? 今月号の『広報そらみつ』にレシピ載っていたんだけどさー」
水圧を強めて、大胆にすすぐ。しぶきがシンクをはみ出すが、最後に拭くので気にしない。
「デザート持っていきたいな。着く前にお店寄ろうよ!」
指で直線を描くように、フライパンの表をなでる。ぬめり、べたつき、無し。今回も、一度でクリアした。
「蒸し暑い時期は、冷たくてのどごしがすっきりする物を求めてしまうよね。ゼリー、あんみつ、水羊羹……」
水切りかごの右端に差して、完了。洗いながら、かごを無駄なく埋め尽くせるように計算しておくと、後の達成感につながる。家事はパズルだ。完成図から逆算する方法以外にも、いくつかパターンがある。探求が、やめられない。
「近所に冷やしスイートポテトが売ってある! 紫芋あるかな? 年中芋系スイーツが食べられる時代に生まれてきて、幸せだー」
この水切りかごは、引き出物だ。去年、きみえが親戚の結婚式に招かれた。かさばって、持ち帰るのが大変だったのでは? と訊いたら「全然、全然。カタログギフトだからさ」と笑って返事された。当日に冊子をもらい、有効期限内にハガキかホームページで、冊子に載っている商品を指定して送ると、数週間で届くのだそうだ。先週、兄が結婚したのだが、役所の手続きのみだった。あっさりした二人らしい。
底が深くて、二人暮らしなら一日分の食器と調理器具が入る。素晴らしい物と出会った。
「唯音は、青い物だったね! サファイアラムネ味のグミをコンビニで見かけたんだ。そうそう、ブルーベリーのパンナコッタが新発売だったの」
きみえは外の情報を教えてくれる。大学院にこもりがちな唯音は、毎日楽しく聞いていた。
「サファイアラムネ味、おいしそう……ですね」
エプロンを脱ぎ、唯音はきみえのそばへ寄った。自分も話に加わらなければ。きみえにばかり話してもらっては、会話ではない。きみえに嫌な思いをさせたくなかったのだ。
「名前に宝石が入っていて、ときめくよね」
「春は、ガーネットアセロラ味だった……」
「きっと製菓会社の社員に、優れた美的センスの持ち主がいるんだよ! ありがとうの手紙を送ろうかな」
きみえはアイロンのコードを抜き、台をたたんだ。
「唯音の誕生石はアメジスト、巨峰味だ。私はペリドットだからー」
「マスカット……?」
唯音は両手をがっしり握られた。
「私もそう思った!」
選択肢にメロンがあったけれど、ぶどう同士にして、正解だった。
「華火ちゃんも葉月生まれだったよね。この間の焼き肉パーティ、かなり気を遣わせてしまったな」
唯音のいとこである華火は、ときどき様子を伺いに走って訪ねてくる。
「野菜、持ってきてくれた、こと……ですか」
きみえはクッションの上で姿勢を崩した。
「それもあるんだけどさ、ほぼ全部してもらったでしょう? 下ごしらえ、焼き、お酌、小鉢まで作ってくれた!」
「…………ですね」
大の字になって寝た華火に、二人は何度も胸の中で謝りながら後片付けをした。お客様にもてなされた夜だった。
「華火ちゃん……変わったね」
唯音は首をかしげた。
「今月入ってすぐにさ、ほらほら、華火ちゃんの初デートだったじゃない。あの日までの元気いっぱいな女の子! って感じが消えたように思えてさ」
指摘があれば、そうだった気がする。しっかり者の妹分が、なおいっそうしっかりした……唯音は語彙の乏しさを恥じた。
「生徒の顔をみてきて二ヶ月の私が言うのも生意気だけど、華火ちゃん、大きな決断をしたんじゃないかな? 生涯かけた、長い長い、なにかを」
義理の姉がはめていた、ダイヤモンドの指輪が唯音のまぶたに浮かんだ。
「華火さんには、まだ、早い……」
デートのお相手は、許嫁だった。あちらは社会人として、華火は今年大学生になったところだ。学業と妻の務めを両立は、きわめて困難ではないだろうか。
「それよりうんと先のこと……かな。華火ちゃん、敬語で話すようになったでしょう。背伸びじゃなくて、猶予が無くて急いでステップアップしていっているの。ものすごく、頑張っているんだ」
確かに、年上の人にも躊躇なく呼び捨てだったのが、デートの翌日以降は「さん」付けに変わっていた。くだけた口調が、おしとやかな喋り方になってもいた。
「私ね、生きる姿勢は、年をとるにつれてゆっくり形をそれ相応になっていくものだと考えていた」
きみえは、ミニテーブルの花瓶をつついた。茎に小さな泡がつながっていた。
「急かされる人もいるんだ。私達は時間に生かされているのかもしれないね」
唯音の胸に、荒波が立った。亡き祖父と論文が散乱した部屋に呼び戻された錯覚を起こす。
「いつか、本人が話す時を待とうか」
きみえの言葉が、ふやける。水槽の外から聞いているみたいだ。
「お風呂、お先に入ってオッケー?」
足の裏が、床に付いている。安心した。過去に閉じ込められそうだった。
「どうぞ……です」
流れには勝てんよ。
リビングに布団を敷く。話し足りない時は、そうする。
「アトムすけは、こっちね」
大小様々なフェルト玉をくっつけたぬいぐるみを、きみえがだっこした。きみえと唯音の間に、寝かせる。
「自分の作った物が、世の中に出るって、どんな気持ち?」
「…………」
唯音は、二秒静止した。
アトムすけは、空満大学理学部化学科のイメージキャラクターに選ばれた。唯音が同大学院に進学する前に、応募したのだ。メントール入りガムが大好きな後輩に、恥ずかしいから、という理由だけで付き合わされたのである。ちなみに、後輩の考えたキャラクターは、丸底フラスコに手足をつけた制作時間一分未満の「かが君」だ。研究室で麻雀のオンラインゲームをしながら描いていたことは、唯音しか知らない。
「あまり、通常と、変わらない……ですね」
趣味で作った発明品が、実家の名義で販売された。どれも大当たりした。スポンジに脱着可能な柄を付けた物が、洗濯槽の網に溜まった埃をまとめてくれるおもちゃが、なぜ商品になれるのか、分からない。家族を含む研究員は、学生に頼らねばならないほど、アイデアに飢えているのか。
「舞い上がっていたら、そこまでの人なんだね。とても参考になった」
金言に受け取られて、唯音は申し訳なくなる。きみえよりもずっと矮小な存在だというのに。
「アトムすけといえばさ、キミックさんには、もう会えないのかな」
キミックは、アトムすけに取り憑いていた、神と人間の子であった。少なくとも千年は生きており、眠れない夜は昔話を聞かせてくれた。
「放課後、たまに、遊びに来る……です」
唯音が参加しているサークルに、本来の姿―三角形の瑠璃で、おやつを食べるか、活動にご意見を述べるかしていた。
「神社にいたら、親に、雑用を、頼まれるそう……です」
「あーね。私も、することなくて家でごろごろしていたら、買い物に行かされ、掃除させられ、だったよー」
きみえが横になるのを見て、唯音も同じようにした。
「お母さんは、アヅサユミさん……まゆみ先生のご先祖様なんでしょう?」
きみえは、恩師の名に声を一段と明るくした。
「キミックさんと先生は、血のつながりがあるのか。神話が息づいているんだ。私達、ただ者ではない方に文学教えてもらっていたんだよ」
まゆみ先生こと、安達太良まゆみは唯音が所属するサークルの顧問でもあった。
「空満大学に通っていた私は、果報者だ……」
きみえはアトムすけのしっぽを振り「そうだそうだ」と演じた。
「次に会ったら、伝言頼むよ。またアジフライ、食べにおいでってね」
「……です」
漁村に住んでいた時期が長かったキミックは、魚料理を懐かしんでたくさん食べてくれた。揚げ物を珍しがり、アトムすけに乗り移っていたことを忘れ、口の周りを衣とソースで汚してしまった。唯音がしみ抜きしている間に、アジフライの山を半分まで減らしたのだった。
「ライト、消す……です」
「サンキュー」
真っ暗になった部屋に「おやすみ」の二重唱が聞こえた。
枕の向こう側は、息苦しい思い出だった。
唯音は、ホテルの宴会場にいた。扉の横に看板が置かれている。
「仁科家 納涼会」
見下ろせるはずの看板が、ちょっと頭を上げなければ文字が読めなくなっている。歩幅が狭い。手足が短く、母がよく着せたお人形のような装いに変わっている。
唯音は、この服が嫌いだった。仕事を最優先しているくせに、外では「私は娘に愛をいっぱい注いでおります、衣食住は最大限に気を遣い、英才教育も施しております」と誇示する。この人の実子として生まれたばかりに、都合良く動かされる。
捨て去りたい出来事を、再び経験させられる。こちらも名ばかりの父に手を引かれ、ひたすら広い会場に入り、名札付きの席に座らされる。父の手の温度は、すぐに忘れる。明日から数ヶ月以上、同居しながら顔を合わせない日がまた続くのだ。
従業員に、全員揃ったと伯父が伝える。唯音は両親と兄に訊ねる。
「お祖父さんがまだいらしていませんが、なぜ、全員なのですか?」
父が間の抜けた声をもらす。
「あの人は、編集さんを待たせているんだ。三回も締め切りを破っているのだから、執筆に専念してもらわないとね」
母と兄が、うなずく。伯父・叔母夫婦と子達は、はじめからいない人としているのか、雑談に夢中だった。
「唯音ちゃん、やりたいことはひとつにしぼらないと、あの人みたいに何者にもなれなくなるよ。お母さんに聞いたけれど、お勉強に集中できていないんだって?」
この時に、水をかけてやれば、怒りを少しでも発散できたのだろう。子どもの体では、顔面を殴る前につかまえられてしまう。
「唯音ちゃんも仁科の一員なんだよ。お兄さんに早く並んでくれないと、皆が恥をかくんだからね。文学なんか人生の役に立たないよ。お話を書いたって、食べていけないし、貴重な時間を無駄にする。痴呆防止に孫と遊ばせてあげているけれど、わけのわからないことを吹き込まれたら、困るね」
たった一時間の場で、親になるな。テーブルクロスを引けない、弱虫な自分までもが憎い。
お祖父さんは、締め切りより一週間早く原稿を書ける。文学が役に立たないと、いつ証明された? お祖父さんの物語は、世界中の人々が読んでいて、価値を認めている。お祖父さんの文章で、行けない世界に旅をする人、夢を叶えようと立ち上がった人、命を断つことをやめた人がいる。あなた達は、お祖父さんを見ていない。見ようともしていない。適当なことを言わないで!
言葉を、うまく、つなげられなくなった。息の川に放すだけの簡単な行為が、滝を登るぐらいに難しい。
家族をこれ以上馬鹿にさせないための言葉が、散り散りになって、幼かった唯音の喉の奥へ、溶けていった。
血の気が引いて、目が覚めた。隣には、きみえが心地良さそうに眠っている。起こさないように布団を抜け出し、流し台上の灯りを点けた。牛乳をマグカップに注ぎ、電子レンジを開けると、肩にふわふわした物が乗ってきた。
「キミック……?」
アトムすけが、前足を片方上げた。
「深夜らぢおを枕元に夢現になっておったらの、胸騒ぎがしたのや」
きみえが聞いてはまずい話かもしれない。唯音は冷蔵庫の陰に隠れた。
「七日ほどおるわ。出かける時は連れていきい」
「『障り』……ですか」
「さやうや。『水無月の障り』の一件があったやろ」
唯音の目つきが険しくなった。
「華火さんが、狙われた……ですね」
アトムすけキミックが、まんまるな頭を縦に振る。
「心を片端より食んできよった『障り』が、おぬしらにえらい執しておる。次の『文月の障り』も然りやもしれん」
水無月晦日と文月朔日の間が近づいている。唯音は拳を握った。
「人間が『祓』を宿しておるのが珍らかに思うのやらうな。未だ味わうておらんよってのう」
「今回は、どのような、戦法で来る……?」
キミックがあくび混じりに答える。
「文月、踏み・付き、や。食みたい心の持ち主を逃がされんやうに、罠を仕掛けるのや。そやつと深く関わった人間を泳がせて、優しき時に浸らせてな、知らんうちにごちそうさま、ちゅうこっちゃ」
唯音にとって、最も許せないやり方だ。
「おとりとする人間は、この世に有る無しは問わなんだ。仁科よ、身の回りによくよく慎むのやで」
「…………」
顔を上げてすぐに、マグカップをレンジに入れたままだったことに気がついた。
「飲む……ですか?」
キミックは手をこすり合わせた。