第八話:長月は事の始まり(三ー二)
目が覚めたら、百年経っているのではないかと冷や冷やする。時計やカレンダーを置いていないので、余計に怖くなる。人間の頃は、ひとりなど平気だったのだが……。
「こんにちは」
まゆみは戸に向けて正座した。赤い上着の女性が今日も会いに来てくれたのだ。
「さっき社務所あたりで、なゆみさんが春彦さんにお説教していたよ。また栄養が偏っている、小憎たらしくも有能な五人の娘を派遣して常識的な生活をさせてやる、とかね」
まゆみの夫・真弓春彦は内嶺大学教授を退官後、村雲神社の神主になった。まゆみの妹・安達太良なゆみは陣堂女子大学で教授まで昇進し、娘達と協力して、春彦の補佐をしている。
「どちらも私に身を献げてくれているの。なゆみちゃんはね、春彦さんを尊敬しているから叱っているのよ。春彦さんだって、しっかり者のなゆみちゃんと、かわいい姪っ子五人を大切にしているわ」
「そっか」
赤い上着の女性は、肩掛け鞄からペットボトルのお茶と、大きなタッパーを二個取り出した。
「電気圧力鍋は文明の利器ですよ。雑な私でも無水カレーができちゃう」
まゆみが無類のカレー好きだと分かっていて、週に一回捧げてくれる。
「男の子の胃袋は底無しですね。息子がお代わりをこれでもかとしてくるんだよなあ……。今度、中学生なんですけど、朝ごはんで炊飯器が空になるんです。一升炊きに買い替えないと、ね」
女性はタッパーのふたを開けて、ご飯の方に匙を添えた。すっかり、たくましい「働くお母さん」になって。まゆみは、娘さんだった彼女を頭に描いた。
「たぶん、息子がここに寄り道すると思いますけれど、さっさと帰りなさいって注意してやってください。私に似て、不思議なことに遭遇しやすいから」
「任せなさいな。冷めないうちにいただきたいんだけど……」
戸の隙間より、藤の香りを伴う風が吹いた。
「ご用を済ませに足を運んでくれたんでしょ?」
女性は、上着の裏ポケットに手を入れた。
「うん。ざっと二十年ぶりにね」
上部に緋色の紐をくくって結んだ、珊瑚色の栞を梓弓社に突きつけた。
「あなたを祓いにきたよ、まゆみ先生」




