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第八話:長月は事の始まり(三ー一)


     三

 眠くて、午後の務めがはかどらない。近隣の子ども達が分けてくれたおにぎりやおかずを食べ過ぎたからだろうか。二代目アヅサユミのまゆみは筆を置き、座布団を枕にして仰向けになった。

「まるで昨日のことみたいね。親しい人達が来てくれた頃―」

 鶯のさえずりに表情を和ませつつ、まぶたを閉じた。



 まゆみが教師を辞めて半年後、(たな)(なし)和舟(おふね)土御門(つちみかど)(たか)(あき)()弓社(きゅうしゃ)を訪ねた。

「お元気かい? まゆみちゃん」

 和舟は手提げを(やしろ)に下ろして、プラスチック瓶と飯盒をお供えした。

「梅酒を漬けてきたんさ。日本酒に飽きてきただろう? こっちのポテトサラダは、カレー風味にしたよ」

「お気遣い、痛み入りますわ」

 和舟は、大学・大学院の恩師だった。巣立っても、節目節目で大変世話になったものだ。

「ハッハ! この世を(たい)らかにしてもらうために、力をつけさせないとね。ほら土御門くんも呑みな!」

 土御門は、雅な扇で顔を隠していた。

「わたしは焼酎の気分なのですぞ」

「『芋なぞ(ひな)びとる』と鼻をつまんでいたお(ぼっ)ちゃんが、あさましいことを言うんじゃないよ」

 和舟に赤いネクタイをつかまれ、土御門はしぶしぶ(さかずき)をもらった。

「土御門くんがね、てきぱき働いてくれているんだよ。上代(じょうだい)文学の講師を遣わしたんだけれど、まゆみちゃんの代わりはいないんだってさ」

「教え子の尻拭いをしてやっとるだけや」

 ぼやきながら、土御門翁は賽銭箱にお札を入れた。まゆみは、戸を隔てて大学時代の担任へ頭を下げた。

「お嬢よ、お籠り暮らしで、やうやく肥えたんとちがうか。食べるもんには困っとらへんようですからな」

 和舟ばあさんは呆れて、梅の実を口に含んだ。

「なっ……」

「神さんちゅうんは、楽な職業よの。ほんまに働いとるんかや? 中でごろ寝して流行りのゲームでも遊んどるんやないやろうな?」

 太筆で「(みやび)」と書いてある扇をぱたぱたさせて、翁は豪快に笑った。

「ぐうたらしてええんは、生きとし生けるもん皆のんびり過ごせてからや。散歩と昼寝ぐらいなら、許したる」

 戸が勢いよく左右開き、まゆみは久々に顔を見せた。和舟が種を飲みそうになり、土御門は尻もちをついた。

「これ! 寿命を縮みそうになったやろうが」

 まゆみは肩にかけていた領巾(ひれ)をひと振りし、土御門を癒し、立たせた。

「日の光を浴びようと思いましたの。お散歩はよろしいのでしたよね?」

「……さやうですな」

 土御門は扇をたたんで、石段へと歩いた。

「一周ぐらいなら、付き合うたるわ」

 和舟はお供え物を並べ直して、翁と教え子に続いた。



 梓弓社に住んで三年目、蝉の声が聞こえ始めた時期に(とき)(すすみ)(せい)が、近松(ちかまつ)初徳(そめのり)(もり)エリスを連れて鳥居をくぐった。

 シャツを濡らすほどの汗をかいていた時進に、まゆみは、山の神に分けてもらった湧き水を供した。

「人心地がつきました。ありがとうございます」

 声は穏やかであったが、顔色がまだ良くなかった。

「時進先生、姿勢をどうか崩してくださいな」

「お言葉に甘えます」

 小脇に抱えていた辞典に頭を乗せて、時進は横になった。

「とうに退官しましたが、近松先生と森先生がそばにいてくださるんですよ」

「昔のように常時とはゆかぬけれども、お守りするよ」

 近松はそう言って、お供え物をしているエリスをなでた。

「妻が時進さんを慕っているのだからね」

 社の中でまゆみは袖で口元を押さえた。

「ふふっ、比翼連理とはまさにお二人のためにある言葉ですわ」

 エリスは旧姓で(そら)(みつ)大学に勤めているが、私生活では近松の(うじ)を称している。

「お嬢さん、アンヌさんでしたわね。お元気ですか?」

 近松が色っぽい目を金剛石のごとくきらめかせた。

「うむ。三つになって、いっそう美人に磨きがかかってね。私を『父上』と呼んでくれるのだよ。去年から木刀を握らせているのだがね、素振りをさせてみたら、筋が()いのだよ。アンヌは稀代の剣士だ! 寝顔まできれいなんだ、稽古の後はいつも昼寝を、ば」

 エリスがザッハトルテを突っ込んでしゃべれなくさせた。

「昼夜刀を振り回していて、読み書きと礼儀作法の理解が足りていない。家庭教師の怒りが火を吹く始末である」

 全員分のレモネードを注ぎ、エリスは小さく息をついた。

「時進主任、(なぎ)様は息災ですか。今年で四歳になられるそうですね」

 時進は上体を起こしてエリスに「はい」と答えた。

「引っ込み思案な孫です。外遊びよりも、家で人形のお世話ごっこを好んでいます」

(せい)()様のご子息ですわね。奇遇にも、()文野(ずの)さんのお嬢さんと同じ年月日にお生まれになったのでしたわ」

 倭文野は日本文学国語学科のOBであり、事務助手を勤めていた。独学でカクテル作りを勉強して、まゆみ達に振る舞ってくれた。

(たま)()さんは梛が唯一、心を許せる友達です。二人で人形の服を作って、ファッションショーを開いています」

「ふふっ、倭文野さんは複雑な気持ちだそうですわよ。いつか梛さんに『お義父(とう)さん』と呼ばれるのではないか、と」

「ア、ア、アンヌは誰にもやらぬ! 嫁ぐなら父上にします、そう約束してくれたのだよふぐう!」

 近松が水なしでザッハトルテを飲み下し、会話に割り込むも、妻がレモンでふさいだのだった。

「捏造も甚だしいのである」

 時進は辞典を膝に乗せて「ハイラーテン」を引いた。

「一昨年は長男に第四子が、今年の元旦は次男に第二子が生まれました。ますます賑やかになって嬉しい反面、腰を据えて本が読めません」

 巻末の付録「新文法と旧文法比較表」をめくり、穏やかに笑う時進。日本語新文法は、彼が若い頃から提唱していた。

「読みふけりたい時は、どうぞこちらへお越しくださいな」

「そうします」

 世界中で愛されているキャラクター・白うさぎのミルフィーネが挿絵のしおりをはさみ、時進はまゆみに例の近況を話した。

「長月に五男が大和(やまと)ふみかさんを連れて来るんです。私の誕生日と重なっておりますので、皆で食事をとろうと予定しています」

「大和さん、打ちとけてくれると良いですわね」

 近松にレモネードを飲ませていたエリスが、(うた)う。

「庭に苗を植えよう 次の春 ()(いえ)に (よろこ)び運ぶだろう」



 その年の最も雪が高く積もった日、宇治(うじ)紘子(ひろこ)が勤務の合間に梓弓社まで走ってきた。漆黒のスーツにストールを肩にかけただけのいでたちだったので、まゆみは『(まん)葉集(ようしゅう)』の歌を唱えて火を起こそうとした。

「そんなに長居はしません! 火なら私でも出せますから!」

 紘子は白湯の入った水筒と、おにぎりをお供えした。

「あらー、つくだ煮昆布おにぎりではありませんの。先生のお気に入りですわよね。よろしいのかしら?」

安達(あだ)太良(たら)先生のために作ってまいりました! 私のは昼食にとってあります! 遠慮なくお召し上がりください!!」

 (やしろ)より、手が合わさる音がした。

「お久しぶりですわね」

 紘子はストールを取って、立ったまま一礼した。

「心の整理がつくまでは、お詣りしないと決めていたのですよ!」

 弓と文学の神として生きるため、退職を選ぶまゆみを押しとどめようと、紘子は力を尽くした。アヅサユミと安達太良まゆみは両立できるはずだ。学生がまゆみの愛ある指導を求めている。村雲(むらくも)神社が自宅なら通勤時間に困らない。根気強く説得したけれども、まゆみの意志は揺らがなかった。

「私、もっと先生と仕事したかったのです! 泣き暮らして、お酒で時々ごまかして、教壇や階段を踏み外す毎日でした! 失礼致しました!!」

 回れ右をする紘子を、まゆみは領巾で絡めて進めなくした。

「まだ、帰しませんわ。次はいつお会いできるか分かりかねますもの」

 領巾を(あやつ)って、紘子の髪や肩にかかった雪を払ってやり、軒下に座らせた。

「『日本(にほん)文学(ぶんがく)課外(かがい)研究(けんきゅう)部隊(ぶたい)』の看板、残してあります! 私、教員会議の議題に(のぼ)せたのですからね! 満場一致だったのですよ! 二〇三教室は、いつまでも隊員を待っていますよ!!」

(にち)(ぶん)に、その名が遺りますのね……」

 紘子はひだスカートの上からひざ小僧をさする。

「先生……ではありませんよね、神様なのですよね。神様の前ですから、(おもり)を下ろしますね!」

 (むつの)(はな)住処(すみか)を見上げて、紘子は大きく、深く、息を吸った。

「私、恋をお休みしました。教職を極めることにしたのですよ。そこで働くことが、めちゃんこ幸せなのです」

 ストールを広げなおし、手に巻きつける。紘子の声が、粉砂糖がかかったように真っ白な境内に響く。

「教職で一等賞、取ります!」

 ぴんと伸びた左腕に留めている伝統の腕章が、輝いている風にまゆみには見えた。

「軽くなりました!」

 社を跳び下りて、紘子はストレッチを始めた。

「放課後にまた伺います! 水筒はさすがに持ち帰らないとなりませんから!」

 体を温めた紘子は、流星に負けない速さで駆け出した。

「スノーシューズで出勤していたわ。さすがに革靴じゃ、危ういわよね」

 文机に戻る前に、まゆみは残っていた客人(まろうと)に話しかけた。

「裏にいらっしゃっては、寒うございますわ。こちらへお白湯をどうぞ」

 静寂を破らずに、()(ぶち)丈夫(ますらお)が賽銭箱の元へと移った。

「あのお(かた)の働き振りが、少しでも改善されますようお願いに参りました。講義場所を三度も間違えられて、僕は迷惑を被っていたのです」

 この人も、寒さに耐性があるらしく、防寒具を全く着ていなかった。

「真淵先生がカウンセリングされたらよろしいのではなくて? 『(かい)おほひ』なのでしょう?」

 日文専任教員は、学科主任をのぞいて、二人組で業務上行動を共にする「貝おほひ」制度がある。現在の組み合わせは真淵と紘子、近松と上代文学の講師(男性)、エリスと国語学の准教授である。土御門は勤務して二度目の主任に就いた。

「僕のような者が助言するまでもございませんよ。あのお方は、アヅサユミ様を頼っていました。長居はしないと宣言しておきながら……クス」

「尾行されていたのは、少なからず興味をお持ちだったためではありませんこと?」

 細めていた真淵の双眸が、おもむろに開いた。

「仲良くしたいのなら、そう仰ってみてはいかがですの。食堂では隅のテーブルで宇治先生と同じメニューを召し上がって、図書館では宇治先生が閲覧された資料を読まれて……。まるで『あそぼ』がなかなか言えない(おさ)()のようですわ」

 真淵は長い前髪をかき上げた。

「誤解されては困りますよ。共に仕事をする(かた)への理解を深めるための調査です。あのお方に友情など……」

「あらー、内に秘めた声を聞くのは得意ですけれど、聞かれるのは難しいそうですわね」

 表情を失ったところを、まゆみは感じ取った。

「僕は友にも縁がございませんから…………」

 装飾品の無いワイシャツの襟元には、気高さの名残があった。

「玉の緒は思いの外、長いですわよ。悔いのない(みち)を歩んでくださいませ」

 真淵は儚げに微笑み、会釈して雪に紛れていった。




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