第八話:長月は事の始まり(二ー二)
露草色の真夜中に酔いしれた冬
二十一歳だったあなたは
月の下で膝を抱えていた
「お祖父さん」とつぶやいた乾いた唇に
水を運んであげたかった
通用門を出て、青い万年筆を胸に差した女性は、あまり早く自宅に着かないように歩く。
「一年に一度しかないんです、家族と長くいてあげてください!」「残った仕事は私達で片付けるから、午後休暇を取って!」共に働く人々の気遣いはありがたかったが、負担をかけた申し訳なさが勝ってしまう。
「すみません、まだ、心の準備が、できていない……です」
女性は、理系の難関校・アトム学園大学の研究員だった。高等部から内部進学を志望していたが、文系科目の成績と試験結果が芳しくなかったため、手が届かなかった。社会人になり、まさかここに身を置くことになったとは。人間万事、塞翁が馬である。
娘が七歳になる今日、研究員は「お父さん」をやめる。
「むすびさんに、事実を教える……です」
賢いから、そろそろ勘付いているに違いない。だが。ちゃんと自分達の口で伝えなければ。
「むすびさん…………」
あなたは、私達と血はつながっていません。乳児院に預けられたあなたに、優しい思い出とお家をあげたくて、家族にしました。
小さかったあなたを守るため、私はお父さんを頑張っていました。ですが、限界が来てしまいました。私は私に嘘をつくのがいやだったのです。
あなたには、お母さんが二人います。きみえお母さんと、私です。意味が不明でしょう。なぜ、と問い詰めたくなるでしょう。
あなたのことで、神経質になっていたのです。あなたのお友達とその家族、学校の先生に心無い言葉をかけられるのではないか、怖かったのです。そっとしておいてほしくても、世の中には、自分のものさしで測れない物事に「おかしい」「変だ」と言わないではほっとしない人がいます。世界には七十億以上の人がいますから、いろいろな考えを持っていて当たり前なのです。
そこで、私達は、あなたを信じることにしました。七年そばにいて、あなたはしっかり歩けるようになりました。何が良くて、何が悪いかをある程度理解できてきました。他の人に流されない強さも身につけました。事実を聞いて、どう考えるかは、あなたの自由です。詳しく知りたいのでしたら、私達が答えます。
あなたの名前は、お母さん達が付けました。お母さん達を「結び」、多くの人との出会いを「結び」、太く長く生きてくれますように、と願いました。おめでとう、お母さん達の宝、むすびさん。
「胸の内では、よどみなく言える……」
万年筆に手をやる。初めて某短歌賞に選ばれた時、嫂がお祝いにくれた。「誰にも真似できない歌を詠んでいこうね、後輩!」負の感情が一切込められていなかった応援に、研究員は意欲を沸き立たせた。
「パーティは、十七時開始、場所は、『nation of root』……ですね」
大学・大学院生時代に通い詰めていた喫茶店だ。他学科の同級生だった相方や、サークルの後輩と過ごした日もあった。
「久しぶりの、空満……ですね」
留守番の相方と娘に、出発を一時間早めて構わないか言ってみよう。久々に大学と近辺を散策したい。村雲神社に、まだ鶏がいるだろうか。戦友のキミックにも会えると良いのだが。
青い万年筆を胸に差した女性の歩みが、ちょっと速くなった。
蒲公英色の夕焼けに包まれた秋
二十歳だったあなたは
広げたノートに舞い落ちた銀杏の葉をつまんでいた
その葉から始まる物語を
書く姿は輝かしかった
「夕方は明るうなっているけれど、気ぃつけて帰るんやよ」
貸出手続きが済んだ資料を抱えてカウンターを離れる子どもに、手を振った。
水分ななかの「こども裁判官テミスシリーズ」は、小中学生にとても人気だ。先ほどの子も、三冊まとめて借りていた。
「ほんまにおおきにぃ、やわ」
頭の後ろに黄色いリボンを結んだ女性が、つぶやいた。
空満市立図書館の司書である女性は、児童文学作家でもあった。ペンネームは、そう、水分ななかだ。
「期待されているんやもん、もっと面白くせなあかんわぁ」
世界に七人いる「こども裁判官」のひとり・テミスが、こども同士のトラブルを裁いてゆく。テミスの小学校で起きた上履き盗難事件をはじめ、六年生連続池ぽちゃ事件、隣町の中学へ赴きおまじない詐欺事件を担当、旅行先のイギリスでは現地の「こども裁判官」と協力する。再来月が締め切りの最新作は、過去にタイムスリップして、新米「童奉行」を手伝う筋の予定だ。
「参考文献に『本朝桜陰比事』を読んでいるんやけどぉ」
返却処理をした資料が溜まったワゴンを押して、本棚に戻しはじめる。
『本朝桜陰比事』を父に貸されたことを話した、大学の担任を思い出せなくて、もやもやしている。氏名、容姿、性別、その他細かな情報が、記憶の海に漂っていないのだ。娘と息子が「お母さんが忘れはるなんて、世紀末ですよぉ!」と慌てふためいていた。意識しなくても声と身振り手振りが揃っていて、さすが双子だ。
「ふみちゃんやったら、覚えているんやろか」
親友とはしばしば顔を合わせているのだが、なかなか訊けなかった。子どもが同い年・同じ学校なので、その関連の話に花が咲くのだ。
「明日、ふみちゃんは大学の最終面接やったやんな」
司書は首だけを、二人の母校がある方角へ向けた。ふみちゃんが『萬葉集』を教えているところをイメージする。
「うち達の望みと『障り』の望みは、どこが違うていたんや……?」
「障り」との戦いを終わらせ、大学を卒業し、職に就き、結婚、出産を経ても、考えている。
人を外れた行いをして「殊なる力」を課され、「人と、人ならざるものの間」におかれる存在となった者達。彼・彼女らは力に使われ、人の心を食み、腐らし枯らす「障り」と化した。
人を辞めてまで叶えたかった望みは、何だったのだろう。萬葉学者になりたい、化学者と歌人になりたい、学生に国語を教えたい、皆に夢をあげたい、司書をしながら小説を書きたい……。自分がのびのび羽ばたけるため、他者を幸せにするため、が望みの根本ならば、「障り」のは、それ以外なのか? 出口に容易く至れない迷宮だ。
「うちも、村雲神社へ行こか」
ブラウスの胸元に留めているブローチに、手を当てる。学問・小説の師にいただいた「他述陳呪」を網羅したアクセサリーだ。司書は、ふみちゃんの音を「他述陳呪」で聞き取った。
元々、一時間の時間休を届け出していた。神社に寄っても、夫とのデートに余裕がある。
「あらま、五つの音が重なるわ」
カウンターが混みそうな気配がする。司書は黄色いリボンをかすかに揺らして、配架を急いだのであった。




