第八話:長月は事の始まり(一)
長月の障り【名が・蠹きの障り】
人または物の名を一文字攫い、役立たずにす。先づひちちかなる人の心を舐る。
一
スーパーヒロイン・ふみかレッドは、重圧に負けまいと間に踏ん張っていた。
レッドの後ろでは、いお■ブルーとは■びグリーン、■うひイエローにあき■ピンクが、だらしなく座り、または寝そべっていた。
「今年こそ、『長月の障り』を絶やさなければなりません」
ビブーリオが、レッドのパッチン留めを寄りましにして彼女に呼びかける。ビブーリオのきょうだい達も、名前を一文字奪われて、怠け者になってしまった。
「うん、私たちの技が未完成だったせいで、去年は祓うのに精いっぱいだったんだ」
深呼吸して、レッドは緋色の気―「読」の祓を胸の前に溜めた。ビブーリオも同じ「祓」を放出して、レッドに重ねる。
「明々後日に大学院の入試を控えているし、卒論の調べ足りない所を埋めていきたいのに中間発表があるし、四回生は全然暇じゃないんだからね」
鞠ほどの「祓」が、レッドを離れ、膨らんではしぼみ、しぼんでは膨らみ、細長い四角形に落ち着いた。
「此処に在る 障りの道のり! 珊瑚の栞!」
珊瑚色の短冊に、緋色の紐を通して結んだ物が、レッドの手に収まった。
「『長月の障り』! あなたを人間だった時の頁に戻すよ」
栞がゆるやかに回りながら、葉月晦日と長月朔日の間を浮遊し、ある地点で止まった。何も無い所に、綴じ合わせた幾枚の紙がぼうっと現れ、二十六頁・二十七頁に栞がはさまる。
「対象に積み重なっていた時間を本に喩え、望んだ頁に留め置く。素敵な発想です」
本は、鋤を持った青年を落として、その身を閉じた。状況を全く理解できない青年に、レッドは村雲神社へ案内すると伝えた。
「次の霜月晦日と師走朔日の間が、最後の戦いですね」
「何の憂いもなく卒業するのが、理想だよ」
ビブーリオが宿る、赤と黒のタータンチェックの円い髪留めを優しく叩いて、レッドは空を仰いだ。
緋色の曙にたたずんでいたあの日
十九歳だったあなたは
自動販売機に百円玉を弾いて入れていた
誇らしげな顔に
私も真似してみたくなった
卒業論文をつつがなく提出してすぐ、ふみかは担任に呼ばれた。まずいことでもあったのだろうか。気もそぞろに、担任の個人研究室へ入った。
「忙しない時期に、ごめんねー」
担任の安達太良まゆみが、マグカップを二つ、テーブルに置いた。生姜湯か。のどに効きそうだ。
「どうしても聞きたいことがあったのよ。卒論じゃないから、安心なさい」
執務机の本立てから中綴じ本を抜き取り、まゆみはふみかの向かいに座った。
「今年の文集ですよね」
「そう。『日本文学課外研究部隊』による汗と涙とインクの結晶『あまのはら』第二集よ」
『あまのはら』第二集を開いて、ふみかに差し出した。
「うわ、私が書いた話だ」
「『運動場が広くなる』の結末がね、引っかかっているの。去年の『須磨の浜辺で排球を』と打って変わって、いといと暗いのよね」
射るようにまゆみが、ふみかを見つめた。
「皆と何かあった?」
ふみかは赤いトレーナーのポケットに両手を突っ込んで、うつむいた。
「どちらも主人公はあなたがモデルよね。友人達は本居さん、仁科さん、夏祭さん、与謝野さん」
「じ、実話を基にしか書けないんですよ」
「『須磨』では、冷凍みかんを賭けて火花を散らしていた五人が、ふとしたきっかけでラリーを延々と続けていたじゃない。『運動場』では、四人が急用で抜けていって、主人公がイベントの片付けを独りでして、真ん中でうずくまる。ただ事じゃないわ」
唇を曲げたままのふみかに、まゆみは鉛筆で傍線を引いた箇所を読み上げた。
「『並んで歩いていたのに、今では皆に先を越されてひとりぼっちだ』大和さんが、焦っているように思えたの」
ふみかが肩を震わせ、まだ湯気が立っていたマグカップにふれた。
「…………るに決まっているでしょうが」
担任は眉根を寄せた。
「焦るに決まっているでしょうが。私だけが、進んでいないんだもの」
咳込んだふみかは、生姜湯をぐいと飲んだ。
「うう、痛い。嫌になるぐらい、舌をやけどさせちゃうんだよ……学習できていない自分に、怒りを覚える」
袖で口元を強くこすって、まゆみに目を合わせた。
「『皐月の障り』を祓ってから、皆、変わっていったんだ。華火ちゃんがきれいな言葉遣いになるし、唯音先輩の笑う回数が増えたし、明子ちゃんはお付き合いを始めて詩をいっぱい書きだしたし。夕陽ちゃんは、作家への道にもっと身を入れるようになったんだ。失恋したのに、立ち直り早いんだよ。『愛しの』真淵先生じゃなくて『超えるべき』真淵先生、だって? ブローチをもらい受けたらしいけれど、詳しく話してくれない。皆そうなんだ、墓場まで持っていくつもりだよ」
まゆみは静かに腰を上げ、息が乱れたふみかの背をなでた。
「悔しいんだ? 仲間の成長が。伸びないあなたが。妬みを感じたあなたが」
ふみかはまゆみの問いかけにゆっくり頭を垂れた。
「ひどいですよね……。自分も他人も嫌うって。急激に変わる時を待っているだけで、たいした努力をしていないんですよ」
まゆみへ振り向いて、虚しく笑った。
「私みたいな平凡な人なんか、この世にいらないんですよ」
テーブルが執務机まで押し出されてぶつかり、ふみかはあっけにとられた。まゆみが右手にハンカチを当てる。白い布地に、たちまち赤黒いしみができてゆく。
「この世にいらない人は、どこにもいないわ。考え直しなさい」
ハンカチを流し台の棒にかけ、ハイヒールを鳴らして席についた。まゆみの手は完璧に癒えていた。
「神を継いだからこそ、言える」
ふみかはさっきの言葉を悔いた。まゆみが悲しんでいたのだ。
「大和さん、あなたは視野を狭めてしまっているのよ。周りが変わったから、私も急いで変わらなければならない。というのは、違うわ。変わる機会は、人それぞれなの。程度もね」
先月十一日はまゆみの誕生日だった。しかし、弓と文学の神アヅサユミを承けたため、年をとらなかった。歳神に頼めば、相応の見た目にしてくれるなどまゆみが言っていたが、光の足りない笑顔だった。
「簡単に納得できないわよね。そうね……変わらない時をどうやったら楽しめるか? 探してみたらいいんじゃないかしら」
まゆみは空いたマグカップを下げた。
「あ、洗いますよ」
「ふふっ、じゃあよろしくね」
ハンカチを汚させたお詫びだ。少しで構わないので、まゆみに顔を隠しておきたいのもあった。
「来年の卯月は、村雲神社で永久に働くわ。『まゆみ先生』でいられるのは、残りわずかなのよ」
ふみかは鼻をすすった。
「風邪気味?」
「そうかもしれないです」
あほだなあ、とふみかは自身をけなした。まゆみに嘘をついて、どうする。腕まくりしなかったトレーナーが、水しぶき等でびしょびしょだった。
「早く帰って、寝ます。うう、顔洗わなくちゃ」
下を向きながら歩き、肩掛け鞄とダウンジャケットをつかんで、挨拶した。
「お大事に。卒論、お疲れ様!」
指摘しなかったまゆみに感謝し、ふみかは扉を閉めたのだった。




