第七話:忘れじの もとの心よ(三)
三
身なり・人柄・暮らしぶりがむちゃくちゃでも、師匠は師匠や。わたしは口答えを時々したが、言う事はきっちり聞いた。
最初で最後の反抗は、くすんだ紅葉が早くに散りはじめた日やった。
「竹坊や、留守番のついでに草むしりをよろしうな」
師匠が身を清め、衣冠束帯のいでたちをしていたのや。明らかにおかしい、何かある。十年も弟子をしているんや、それぐらいは気がつける。
「どこに行くおつもりですか。ハロウィンはまだ先でしょう」
「ナイスなボケやの……」
扇を大げさに開いて、師匠は高笑いした。
「東宮のお妃を垣間見したうなってな」
助兵衛な用事かいな。穢らわしい。
「妹や。腹が違うても、懸想なぞせえへんわ」
そうやった、あんたは弁えられる男やった。む、妹やと!?
「前にちと話したやろ、私は宮に捨てられた、とな」
「初耳ですが」
師匠は久々に髪を上げて出したでこをかいた。
「手短に言うとやで、私は帝の子なんや」
腰を抜かしてもろうた。今になって、重い真実やぞ。
「女蔵人と戯れて、できたおのこは呪いが行使できよった。帝は嫉妬に狂い、陰陽師に殺めさせようとするも、妃に懇願され山奥の村に追放、現在は立派な放浪者ぞよ」
なんと……。今上帝は「正述陳呪」の行使に悩まれているとささやかれていた。確かに、最下位の術なれど師匠の「寄物陳呪」は巧みや。『源氏物語』の極意を体得した人間は、師匠の他にいない。帝が危険視されていたのはうなずける。
「兄によるサプライズ参内、粋やろ? 出産の前祝いに、舞でも捧げたるのや」
出産の前祝い、やと……! わたしは、昨日の晩に両親が話していたことを思い出した。
父が東宮に『古今和歌集』をお教えしていた際、相談を受けた。
「妃が身ごもった御子の具合が悪くなっている、母体にも危険が迫っているので急ぎ出産せねばならない、いかに手を尽くしても遺憾だがこの度の御子は諦めていただく」と典医が申していた。妃を労るための歌を送りたいので、添削してほしい。
前もって詠まれては縁起がよろしくない、後ほど引き受けます、父はそう返事したそうだ。出産の日取りは、明日の十七時…………。
「遅れては失礼や、ほな、出かけてくるわ」
ここでおとなしう草むしりしていたら、二度と会われへんなる確信があった。わたしは、遠慮をほかして袍の端をつかんだ。
「わたしも行かせてください!!」
「あかん」
師匠は振り向かんまま、落ち着いて言った。
「昨日、わたしにやっと『明石』を教えてくださいましたよね」
「それがどないした」
「占ってほしい人は、妹君ではありませんか? 名前を伏せていらしていましたが、間違いなく」
師匠がわたしに目を合わせた。
「妹君のお姿が、揺らいでいました。小さな棺にすがり泣いているご様子と、赤子を抱き涙して笑うご様子とが。わたしは失敗したと落ち込みました。しかし、師匠は小躍りされた」
のどが渇いたが、我慢して続ける。
「未来が二筋映っとる、光がある、と仰いました。師匠は、これから妹君の未来を定めに行かれるのでしょう。当然、吉なる方に。しかも禁術を使われるおつもりだ。雅なわたしを置き去りにしては、師匠は真のクズになりますよ」
師匠は冠を正して、わたしを見つめた。子供を尊重する大人の表情や。腹立つが、この男の本質を認めざるをえなかった。
「十四にもなって、聞き分けの悪い坊やの」
怒気は含まれていなかった。わたしのわがままが、通ったのや。
「寄物陳呪・禱扇興、巻九・葵!!」
師匠は占いのみならず、舞にも優れていた。「巻九・葵」は、行使者の願う幸福を産む禁術、人智ではままならぬことであっても、必ず成就させる。有る事は教わっていたが、行使の方法は初めてこの目で見た。
牛車のごとく緩やかに、宇治川のごとく急に、永久に眺めていたくなる至高の舞踊り。わたしの心に語りかけるのや、「技を盗めよ、竹坊。稽古は今日でさいならぞよ」。
産声が襖の奥で、強くあがった。師匠とわたし以外、その場にいた皆が咽び泣く。御子がお産まれになった! これを奇跡と呼ばずして、何とする!
「どうや……、ちとは、敬いを、持て、た、やろ、う……?」
束帯を滝の汗で濡らし、師匠は息切らしてあどけなく笑うてみせた。
「墓の、心配……は、いらんで……。光となって、お日さんに、帰る……さかい」
「あかん冗談はやめてくださいよ、妹君にまだお祝いの言葉を伝えていないでしょう」
師匠は扇を閉じて、肩をすくめた。
「祝い、は……ようけした……で」
「しかし、垣間見できてないやありませんか!」
「分かっと……らんの、私ぐら……いになる、と舞を、通して……顔、を合わ、せられ……るのや」
早う、この男を楽にしてやってくれへんか。欲しい幸福が大きければ大きいほど、引換えにする「行使者の魂」が搾り取られてゆく。六条御息所の生き霊に憑かれた葵のように、我が我でなくなる。二人の命を生かすために、師匠は身をも尽くして……!
「そ……ば、へ、来な、され…………」
あえてひねくれた風に、わたしはいざり寄った。
「思春期……やの、な、まいき、な」
「師匠の育て方に問題があったせいですよ」
「それでこそ…………五十四帖を、識るに、足る……わ」
筆を、と手を出してきたので、渡す。当然、紙・墨・硯を付けてな。
紙は返された。わたしに背を向けて、頼りなう袖を揺らした。
「ほ、れ……隆彬、私から、の、初冠……ぞよ」
師匠の震える手に、「雅」と書かれた扇が乗っていた。
「いただけません、大事な『呪いの具』を!」
「それ、し、か、やれ……る物、が、ない、の……や。五十四帖を、継ぐ……五十四番、目に、なる……とは、幸運……やで」
扇が落ちかかっている。のんびり語らわせてもらえなんだか。わたしはありがたく戴いた。
「世の、中は……失うこと、ばか、りや、かと、いう……て、惜しん、どっ、て……は、凶事に、流さ、れ、てま、う。運命を、切り……開く、た、め……の喪失は、恐れ、ては、な、らん……ぞ、よ…………」
生きとし生けるものが、全て、天の光になれるのであれば、花を添えて棺の蓋を閉じる寂しさを感じずに済むのやろうに。
「違うわ、別れはどれも寂しいのや……」
拙さを恥じていたら、女官がお礼をしに屋敷から出てきた。師匠を探していたので、「無礼ながら頓の用ができてしまい先に行った」旨を申した。最期に握った筆を、大仕事を終えられた東宮のお妃に届けてもらった。弟子だったわたしの、せめてもの恩返しや。
「そちが、わたしの記憶をいらうてきよったんやな」
三角の瑠璃は、そやと答えんばかりに光を放った。けったいなものには超慣れとる。
「初めて会うた時に憑いてやらうと思うておったが、わたいの入れ物に相応しいか、試しておったのよ。喜べ、合格だわい!」
「随分と尊大な態度やの。忘れっぽいわたしでも、師匠が最後に舞った曲は抜けとらん。青海波に書き換えよって、戯れが過ぎましたな」
瑠璃が鄙びた笑いをしとった。
「分かっとるやろうが、名乗ったる。土御門隆彬、やむごとなき翁や」
「さすがは華族、礼節だけは上等よ。わたいはアヅサユミが第二子、名は……」
考え込み、石ころは中心を青く輝かせた。
「キミック……キミックに決めたわい。ラテン語の響きが気に入ったのでのう」
前置きを長うされてはかなわん、扇をぱたむと閉じて先を促した。
「翁よ、急かしなさるな。良き報せか悪き報せ、先に聞きたいのはいづれか」
弁当で最初に箸をつけるおかずは好きな物か嫌いな物か? のようやの。
「悪き方から、話しなはれ」
「度胸のある人間やなあ。髭抜け落ちても知らんで。おぬしは『障り』に弄ばれておる」
なんやて、あれは弥生と卯月の間に訪れるのやないのかや。
「そら、顎髭なでておる。揺らいだ証拠や。この災いは『如月の障り』、睦月の晦日と如月の朔日の境目に来たる。おぬしは数日を過ごしておって、奇なる事に幾度か遭ったはず」
「もしや、家内の料理か?」
「他にも、首を傾げる出来事が積み重なっておるやろう。この地はすっかり『障り』の領る所になっておるのや」
さやうであれば、娘らの出番やないか。安達太良嬢率いる、最高位の呪いを行使できる五人に駆けつけてもらわんと。
「今、『祓』を消費させては『大いなる障り』と張り合えなうなるで。人間では、際限なく行使できへん……」
キミックとやらが、三角の頂点を食堂へ指した。
「臨時にゅうすや。安達太良の末裔が異変をやうやく察したわ」
わたしの足は軽うに、教え子まで運びよった。
「お嬢!」
テーブルの端をつかんどった右手が離れ、安達太良嬢は床に臥した。
「人払いは、致しましたわ……」
「かやうなこと、見て分かりますぞ! 左手はどないしたんや、隠しとらんと」
詫びんとならんかった。わたしの目に触れさせたうなかったんや、四つ葉の白詰草が生ふる様を。
「事態を『引き』受けたのかや」
お嬢が弱々しく、首肯した。先祖に身を貸して、父君の命をこの世に戻した償いに科された力やと。年明けに語られて「やはりな」とだけ返しましたな。
「六割方……ですわ。事態の根を探ろうとしましたが、あなたこなたに張り巡らされていて……」
「休みなはれ、そちはよう働いた」
日文教員の先陣「壱の壇」が、押されてはならん。わたしが出たるところやが、禱扇興では「障り」に効かへん。冬の扇、ちゅうこっちゃ。旧暦において春なれども、な。
「わたいの寄りましに、ならせてやっても構わんが?」
キミックとやらが、わたしの正面に回り込んだ。蝶やったらば、雅やらうに。
「アヅサユミが子のわたいは、『障り』を祓うたれるで。身体があれば、の話やがのう」
「わたしが貸したったら、めでたしなんやろ」
「さやうな流れの他に、何があるのや? おぬしの師も言い遺したやろう、運命を切り開くための喪失は恐れてはならん、とな」
胸にいやというほど刻まれとる。クズ師匠の命賭した教えよ。
「巣立っても世話のかかる教え子や、ほんまに……」
瑠璃を扇ですくい取り、わたしは託った。前で倒れとる教え子にも、前途ある学生らを抱えとる。
「祓うてみなされ。雅なわたしを使うのや、丁重に扱わんと、真砂にしますぞ!」
「わたいの大きさに持ち堪えてから、ものを言うのやな!」
海のごとく青い光が、あたりを飲み込んだのやった。
思いの外、豪胆な入れ物だのう。
「な絶えそ、きのふ、けふ、あすか川」
京育ちに、かやうな人間がおったか。ちいとは褒めたる。ちいとな。
お淑やかな所作や。つるぺかりん頭と合うてへんが、欠かさず習ってきた賜物やろう。怠け者と嘘つきおって。師の生き様に寄せたいようだわい。
「如月の障り」よ、運に恵まれたな。わたいの舞で追い出されるのやからのう。荒くれ者の第三子に祓はれたら、千々に裂かれるで。日々の川に浸かり、惑うが良い。
寄りましよ、安達太良の末裔よ、この事は忘却の泡沫にしよう。なんでもかんでも頭に記しては、末は干からびた海鼠やよってな。




