第一話:夢一夜(三)
三
内陸部に生まれ育ったせいで、海に好奇心と恐怖心を抱いている。
プールとは違い、しょっぱくて、囲われてなんかいない。見渡す限り碧く、ぼーっとしても咎められない。海の上に立つと、形のないものに執着していることが、ばかばかしくなってくるのだ。生命の故郷といわれるだけあって、ふと、帰りたくなる。
でも、水面をじっくり眺めていると、身を投げても構わないよね、って危ない思想に至りかねない。底から「おいで、おいで」と誘われているみたいなんだ。「海辺で決して写真を撮るな」と母はうるさい。溺れた人の霊が写りこんで、祟られるんだとか。特にお盆はいっぱい出る、泳いでもいけない、だって。私を仲間に引き入れようとしているのは、その類なんだろう。
「船に乗ると、なぜか寄る辺の無い気持ちになるな……」
方角を知りたかった。港を出て、かれこれ二時間経っている。そろそろ灯台が現れてもおかしくないのだけれど。船員じゃないが、どちらへ向けて進んでいるか分かっておきたい。
単純に、怖いんだ。二度と陸に足をつけられないまま、果てるんじゃないか。海は、広大な腕の中へ迎えてくれると共に、鯨さえ小さく見える空間へ私たちを放り出すのだ。
「寄る辺は、自ら築くんだよ」
後ろで、船長が返す。えらく年取った女性だ。玫瑰色の制服が、甲板を華やかにする。
「他者に頼りすぎないように、ひとりで漕ぐ力をつけないとね」
淡い桃色の貝が、耳にはさまり、ぶら下がっていた。船長は、身だしなみを整える余裕があるんだ。
「棚無船長、この船はどこへたどり着くんですか」
「問いに問いを返して悪いが、ふみかちゃんは行きたい所があるんかい?」
抽象的かもしれないけれど、私ははっきり答えた。
「東です」
船長は、耳たぶをこすった。
「若いね。こつこつ海路を渡ってきた証だよ」
「連れて行ってくれるんですか」
「ハッハ! 舵輪はあなたが握っているんさ、望めば着ける!」
え? 私は客なんじゃ……。
「もったいない。ふみかちゃんの世界なんだよ、だから私を置いてくれたんだろう?」
派手な帽子を脱ぎ、私にかぶせた。
「春休みはバイト漬けか、鹹いよ。トランク提げて、他の地方を旅しな」
どうして私の予定を把握しているんだ。そっか、船長は来し方行く末(航路、だったね)を読めるんだった。
「現の私なら、『航路を辿らせてもらった』と決め台詞を言うところだよ。しつこいけれど、ここはあなたの世界だ。皆、ふみかちゃんを分かっているんさ」
「現? じゃあ、夢なの?」
船長の顔つきが険しくなった。
「ふみかちゃん、最後に眠りについたのは、いつかい?」
「う……えっと」
めまいがする。まさか酔った? いつもは平気なのにな。
「ゆっくり指折りしな。私が教えてはいけないんさ」
サークルの寒稽古でしょ、秋学期末の試験が終わって、近所の書店アルバイトに明け暮れて、途中、母にチョコレートを湯煎してくれって頼まれ、しぶしぶ父と弟、母方の祖父に配ったんだ。老夫婦の店主に「数日休んだらどう」とすすめられるも押し切って働き、ひなあられのおつかいを済ませて…………。
「……如月の末、二十八日だ」
「明くる日は、弥生だね」
「そうだよ、起きたら雛人形の水替えしなくちゃ」
あれから、居間へ下りたか?
「気がついたかい」
「うん……」
私は、一夜にして七度も夢を見ている。
「あなたが読んできた本に、ここで起きている現象に近いものがあるね?」
「『ブランコのむこうで』……は、違うか。他人の夢を見てまわっているわけじゃなさそう。夢なのか現実なのか、あやふやになっているんだ……あ」
これだ、と思った作品を、船長の役を当てられている棚無先生に告げた。
「勘が戻ってきたね。さすが、スーパーヒロインだ」
帽子ごと頭を撫でられた。
「半分越した以上、終着点へ乗り込んで夢を破りな。ふみかちゃんは、戦えるんだからね」
私は唇をきゅっと結んだ。
まんまるな鏡が五枚、壁際に立てかけられていた。表の通りは、おめでたく彩られた提灯が連なっている。
「お祭り、お祭り、嬉しいなあ」
うずめちゃんが、鏡の前で髪をくくりながら歌う。紅色の帯が、金魚の尾ひれのようで、かわいらしい。
「お好み焼きと焼きそばは外されへんなァ。わたあめはなんぼやろか、あたい、初めてやねん」
仲間に浴衣を着付けてあげているのは、清香さんだ。今日だけカチューシャがねじった手拭いになっていた。
「はいよ! べっぴんさんにしたげたでェ」
「感謝感激っ、凍莉は三国一の美人ですのっ」
凍莉ちゃんが、袖を広げてふりふり回ってみせる。水風船の模様かあ……子どもの頃の私も、縁日に似たような物を着ていたな。
「ねおりすセンパイ、ねっくうぉーまー外シなヨ★ 煉獄サエ白旗ノ熱帯夜だゼ?」
「……いや」
豊子ちゃんが、猫背になっている音遠さんを肘でつついていた。なんだか、独創的だよね。躑躅色の浴衣と真っ黒な革を縫い合わせて、ところどころ破れさせて。萌子ちゃんと豊子ちゃんで衣装を合作したら、いったいどんな感じになるのやら。
「……そう、ふみかは、浴衣、着ない?」
茄子紺の夕顔が、音遠さんを艶っぽくさせている。私はたぶん、寝間着だろうね、夢だもの。浮かれているところを壊したくないから言わないでおく。
「パプリカのプリントTシャツと、短パンてェ、汗かき虫取り少年やないかァ」
「がーりーナとっぷすハ、くろーぜっとニ常備シテなカッたヨウだナ」
うそ、知らないうちにそんな軽装を? 清香さんと豊子ちゃんにじろじろ見られて、埋もれる穴が欲しくなる。
「やめてあげてよ。ふみかはね、楽だからあえてそうしているの。私も正直、浴衣はなあって思ったけれど、皆と過ごす特別な日だから合わせたんだ」
ねえ、とうずめちゃんが声をかけてくれた。
「ふみかのことなら、私は何でも自分のものにしているんだからね!」
笛と太鼓が、鳴り始める。急がなくては。
「盆踊りだよね。いつも輪を外れて、こっそり真似していたんだ。ふみかって実は、お祭り好きなんだあ」
「わ、わ、胸にしまっておいてってば」
五人に笑われて、ますますきまり悪くなった。
「ごった返さへんうちに、出店を制覇するでェ!」
「かき氷鬼盛りサイズいただきますわっ、ラフランス、キウイ、メロンっ!」
「……そう、スマートボール」
「ミーは、だぶるくりーむノたい焼き狩るゼ★」
皆でわいわい、お祭りへ繰り出した。たまには、はめを外したっていいよね。
世の中が、人々を急かしている。
誰もが薄い板を手のひらに、早歩きしているのだ。板は、稀少な金属が寄せ集まっているらしい。親指または人差し指で動いてくれるそうだ。
毎朝、決まった時間に持ち主を起こす。通学・通勤の際は、最短の道を案内する。電車やバスなどの乗り物を利用していれば、乗り換えの方法、移動にかかる時間も教えてくれる。初めて聞いたこと、言葉自体は記憶にあるものの意味をうっかり忘れてしまったことを、迅速に調べられる。予定は持ち主以上に覚えているし、欲しい物はなんでも取り寄せられる。各分野のニュースを届けて、注意力が要る娯楽を提供し、他人の私生活をのぞかせてくれる。薄くて軽いわりに、板は手厚く人々の世話をするのだ。代わりに、片時も板を離さないよう縛りつける。そんな人々は、道端の花、季節によって種類が変わる鳥の声、乾いたり湿ったりする風、月の満ち欠けを感じ取らない。彼・彼女たちは、板に映っているものが世界だと、現実だと、信じてやまないんだ。
板が全部やってくれるのだから、寝たきりで日々を過ごせるんじゃないの? って思う。極端かもしれないけれどもね。ところが、楽になれていないんだよなあ……。もっと速く、短く。楽を求めて、忙しなく働く。自分で自分の首を絞めているようだ。
遠回りは、無駄なのか。過程を味わうのは、愚かなのか。頁を全くめくらずに、要約だけを読んで、この本は時間を消費する価値があるのかどうかふるいにかける。本文を読まれなくて悲しい、というよりかは、腹が立つ。作者が悩みに悩んで積み重ねてきた文章に目を通しもしないで、内容を分かりきった気になるな。賢しらなあなたの中身を逆に要約したら「からっぽ」で済むよ。
本当は皆「ゆっくりさせて」と叫びたいんじゃないのかな。やめたければ、やめられるはずなんだ。けれど、ゆるめたら、出し抜かれちゃう、ばかにされちゃう、守ってきた立場を没収されちゃう。誰に? 特定できないんだよ、他人すなわち敵なんだ……互いに誤解して、自分の「今」がおびやかされないか、おびえている。本音をこぼせたら、緊張が解けるのにね。
話さないと、気持ちは黒い箱に伏せられたままだ。心を射貫けるまゆみ先生、航路を辿れる棚無先生、内面の音を盗み聞きできるうぬぼれおじさん(夕陽ちゃんが想いを寄せるあの人ね)は、めずらしいんだよ。私にも「読む」力があるけれど、本人の言葉がほしい。たとえ、偽られても、最後まで耳を傾けるよ。後で質問すればいいのだから。
私が文学とことばを学んでいるわけは、そこにあるんだろう。他人と、私の、気持ちを知るために、表すために。四年講義を受けたからといって、すべてうまくできるとは考えていない。これから長いこと、究めてゆくんだ。親しくなる場合があるし、衝突する場合もある。
どうしてかな、空満に来る前は、人との関わりを避けていたのに。ひとりでは生きられないって、誤りじゃないね。
私は、亀でいたいな。