第七話:忘れじの もとの心よ(二)
二
えらいこっちゃ。あの家内が、まともな弁当をこしらえよった。
おにぎりは、白米をのりで巻いとる。玉子焼きが、黄色い。いんげんが、スライム状にならんと、ごまと和えられとる。しかもうす揚げ入りや。みかんが、蠢いとらん。
味音痴すらかわいい思える、厨房に近寄らせてはならん家内がやで、お手本通りに調理できたのや。歴史が揺らぎますぞ。
わたしの占いに「朝、卵を割るとよろし」と出たから、行動に移したそうや。金づちを使ったんやあらへんやろな、疑うとったが、正しう割ったんやと。隣の奥さんが立ち合いに来とったから、確かやろ。
卵は、三つ子やった。家内が写真を見せてきよった。黄身が二つ、はよう聞くがな、三つは珍しい。殻を誉めたらんとなりませんな。
勤めに行く日の昼は、食堂かインスタント麺にしとるんやが、ここは夫の誠意をみせんとな。
「ちゅうこっちゃ。倭文野、味噌汁頼んだで。ヘイケテールよ、甘い物を持ってきなされ」
若い衆を遣うのは、よろしいですぞ。ぶつくさ文句を言わんと、さっと動く。わたしが指南役をしとる「王朝文学講読会」の会員は、殊の外フットワークとやらが軽い。日文の事務助手・倭文野はOB会員、留学生・ヘイケテールは現役の会員や。二人とも、作品をそこそこまともに読んできとる。倭文野は和歌、ヘイケテールは日記文学が得意やったな。
「先生、なぜか具材が行方不明なんで、味噌だけでがまんしてくださーい」
これがほんまの味噌汁かいな。インスタントあるあるやさかい、許したる。わたしは雅そのもの、わかめ・豆腐・油あげ・長ねぎが欠けても、興じられるのや。
「すみません、大福、いつもの和菓子屋さんは売り切れでした」
さやうな日もありますぞ、気に病まんでもええ。うぐいす餅かや、上出来や。
「懐かしいですな、入学当初は粉がついたお菓子は洗い落としてきとった」
「そうでしたね。あの時は、汚れていると思っていました。土御門先生に、よく叱られました、覚えています」
本朝の言葉と暮らしに慣れるまで、さして時間はかからんかったがな。
「そちは、卒業したら英国で働くんやったな」
「はい。故郷で、日本語を教えることになりました」
吸収が早かったからの。説明も得意や。外国語学部日本語コースの主席になれたのは、わたしの下で放課後学んどったおかげですぞ。古典文法を後輩会員に教えとったしな。日文生を相手にやで? 転科させてやりたかったわ。
「失礼します」
来よったか。そちとは顔を合わせん機会が無いもんやな。
「お疲れ様でーす♡」
「お疲れ様、倭文野さん。あらー、ヘイケテールさんと……」
わたしが目に入った途端、敵対心をあらわにした。
「土御門先生」
「はいはい、安達太良嬢よこんにちは、っとな」
扇を振って、挨拶したった。
「以前からおたずねしたかったのですが、安達太良先生は、安達太良・ジョー・まゆみというお名前なのですか?」
「これ、ヘイケテール、それは呼称や」
故郷への餞別に教えてやろうとしたら、例によって例のごとくお嬢が笑い出した。
「あやにくですが、ミドルネームは付いていません。もしもいただけるならば、クミンもしくはコリアンダー! そんな私の名前は、安達太良まゆみ!」
拍手せんでええですぞ、倭文野。
「して、何の用かいな。すまんが、今日はハニーの弁当なんや、勝負は明くる日にしてたも」
テーブルの巾着をほどこうとしたら、隣に飯盒を置かれた。
「奇遇ですわねー、私もですのよ」
「まさか、お嬢……自分で作ったんとちがうやろな」
開けてはなりませんぞ、開けてはなりませんぞ、決して開け……
「日の丸弁当ですと!?」
食い意地が張っとる安達太良嬢が、並々に詰められた米と、梅干しで満たされるはずがあらへん。しかしや、問題は、そこと違う。
「梅干し乗せカレーになっとらんとは、どういうこっちゃ」
作ろうとした料理がカレーに行き着いてまうっちゅう特殊能力が失われたんか? 正しい手順を踏んどっても、カレーの材料が入ってなうても、お構いなしやったやろ。
「私だって驚いていますのよ。主人が、まさに晴天の霹靂だと大騒ぎしまして」
とんでもない料理センスの伴侶を持って、お互い苦労しとるの。
「梅干し鶏キーマにならなかったのです、おかずを入れなかったことが悔やまれますわ」
「ふぉふぉ、玉子焼きぐらい恵んだりますかな」
お嬢が、迫力あるまなざしをわたしに向けよった。
「……お言葉に甘えますわ」
奥様に咎はございませんものね、とな。毒味させとるとは気づかずに、まだまだ青いですぞ。
「あらー、繊細なお味ですわ。こんぶのおだしが効いていますわね」
「ほんまかいな」
何かの葉っぱか木の実でとった、の誤りとちがうか。残りの一個を、おそるおそる切って口に運んだ。
「これは、まさしく本朝の味……!」
国籍不明にして不定形の、下手したら料理とは定義づけられなんだ物を生み出す家内が……まことかや!?
「倭文野、わたしの耳をつねりなされ」
「かしこまりでーす」
あなや! ちと加減せい。こないな時に限って、力強う
しよってからに。肥えとるわりに「僕、どちらかといえばダンスが得意なんでーす♡ FUU!」なぞシャカシャカしとるのや。
「紛れもなく、現の出来事ちゅうこっちゃな」
倭文野とヘイケテール、おまけに安達太良嬢が、金柑を投げ入れられるくらい口をぽかーんと開けとった。
お嬢のせいで、昼寝ができなんだ。
「明日にせいと言うたやろ」
しつこう勝負を申し込んでくるもんやさかい、なんでか共同研究室にあったチェスで遊んだっとるのや。
「おほほ、特別な事情をのぞいて休戦はございませんわ。取り決めたではありませんの」
「そちが着任した初日やったな」
空満に出戻ってきよるとはの。しかも、今度は教員となってや。わたしは、あまり驚かんかったで。占いで知っとったものでな。
「今日はその特別な事情やないんかえ? 食堂に行かんでようなったんや。いくらそちが、飯盒ひとつで足らんかっても、わたしは満腹なのですぞ」
「仕事に関わるものではないでしょう? 休戦の理由にはなりませんわね」
王手をかけよった。安達太良嬢は、ナイトを重用しとる。ここは、逃げずに駒を取るかの。
「先生らしい防御ですわ。いみじく素晴らしい」
「ビショップを消しながらお世辞かいな」
代わりにルークを取ったったわ。
「して、なんで赤と白なんやろな」
「私も気になっておりました。チェスといえば、黒と白が真っ先に浮かびますもの」
速い、またわたしの番か。
「どういった経緯で日文に置いとるかは知らなんだが、限定モデルやったかもしれませんな」
「赤と白……『鏡の国のアリス』かしら。読み返しても未だに棋譜と本文とをつなげられませんのよ」
白のクイーンが、b8へ移る。お嬢はほんまに白を好むよの。駒の色を決めるためにコイン投げしたりあみだくじなぞったりする手間が省ける。
「二十年そこら勤めとるが、いつからここに来たんやろな。倭文野の私物か?」
お茶を運んどった倭文野は、かぶりを振った。
「僕、ボドゲよりトレカ派なんですよね。それ、僕の現役時代から見てます。先輩が酔って将棋崩しみたいにしてましたよー」
あながち誤った遊び方やないわな。源流が同じやしな。
「私の頃は……ここまで整理されていなかったから、ありやなしやと問われてもさっぱりね。キャンパス改装前だもの、むかあしむかし、よ」
「マジですか」
「マジよ。当時の日文共同研は、秘境だったわ」
秘境、か。腰据えてレポート・卒論を書ける環境やなかった。それでも、学生らは酒呑んで雑談して、夢を叶えて巣立っていったのや。
「降参とみなしてよろしいか。次はそちの番やで」
「なっ!」
安達太良嬢は淹れたてを飲み干して、駒を動かした。Kc2、かかりましたな。
「ナイトでe3、チェックメイトや」
焦りが仇となりましたな。
「明日の昼は、月見うどんに決定ですぞ」
わたしとお嬢は、A定食をわびしく食べとった。
「どうして、カレーうどんはあって、月見うどんとカレーライスは品切れですの」
「だしでのばしとっても、ご飯にかけたら立派なカレーライスやがな。だしがあるんやったら、うどんにかけて卵落としたらしまいやろ」
安達太良嬢はしょうゆの小瓶で、テーブルを叩いた。
「調理のおば様達の手を止めるのは本意ではないですが、声をあげずにはいられませんわよ。『おかしなことがあるものでねえ』で締めくくられて、先生は良く引き下がれましたわね」
「むこうさんにも訳があるんや。ここまで来て冷やかすっちゅうんは、礼儀を欠いとるで。筑前煮に、罪は無い」
お嬢が顰めっ面して、筑前煮にしょうゆを大量にかけた。
「そないなことしても、覆りませんぞ。せっかくの繊細な味が損なわれるだけや」
「塩分を摂らなければやっていられませんのよ! カレー粉があればなお良し、だったのに!」
気の短い娘よの。卯の花を味わいながら、お嬢の振る舞いを傍観したった。
「そちの術で、鰻は出せてもカレー粉は出せませんな。ふぉっふぉっふぉっ」
「鰻詠は、痩せて弱っている人に効果を発揮しますの。誰かさんのように飽くほど食べていらっしゃる人には歌が応えませんわ」
お嬢はひと息で言うと、そっぽを向きよった。
「……あらー?」
外にけったいなもんでもおるんか、と思うたら、三毛猫が張り付いとった。
「学長の使いかや。吾輩二十八号やったかいな」
「こちらは三十一号ですわ。雄ですもの」
立ち上がり、扇を庇にして、へそから下を確かめた。なるほどの。
「夏目先生、一度に百匹以上術をかけていらっしゃるんですって? 昔よりはるかに研鑽を積まれていますわね」
「そちが学生やった時分は、近現代文学を教えとったわな。複数の猫を長期間使役するんは、偉業通り越して異様やった」
教員の務めに関して、表・裏どちらも妥協を許さへん性格やった。呼び出されて、しこたま叱られたもんやな。ちなみにやで、猫は物と扱うさかい、学長が行使する術は「寄物陳呪」や。器物は寄物、覚えやすいやろ。
「三十一号が、手招きしていますわ。先生に用なのかしら」
放し飼いやが、食堂へは入らんようしつけとる。漬物を放り込んで、わたしはトレイを早う返却口へ持っていった。
吾輩三十一号は、わたしの姿を認めると足にすり寄った。飼い主に似とらんのが救いやな。ちょび髭の偏屈爺は、人間でもなりたうはないで。研究室帰ったら煮干しをやるわな。
「なんや、背中かゆいんか?」
しきりに後ろ足を上げよる。抱いてベンチに腰かけたら、首輪に二つ折りの紙がはさまっとったのや。
「瑠璃色かや、学長の趣味と超ずれとりますな」
三毛が鳴いて催促する。分かった、分かったからの。
春の山辺をこえくれば
引きみ弛へみ 来ずは来ず
ひどい抜き出し方や。前が『古今和歌集』巻第二、貫之。後は『萬葉集』やろ。巻第十一あたりちがうか、「来ば来そを何ぞ 来ずは来ばそを」と続く、解釈は安達太良嬢にでも訊きなされ。日文生ならひとりで訳せるがな。
「『あづさゆみ』を導きたいのかや」
二首は、枕詞「あづさゆみ」が一句目にくる点が共通しとる。「あづさゆみ」は、「はる(春、張る)」「ひく」「い」「いる」「本」「末」「音」等にかかるのや。どれも弓に関係しとるやろ。
「学長の字ではない、ほな、誰なのや」
偶然やのか、タイムリーな言葉やった。お嬢と通じとる神さんが「アヅサユミ」や。安達太良家の先祖、弓と文学を司り、最高位の呪いを行使して「障り」ちゅう災いを退けた……。
「きなくさいですぞ」
どれ、わたしが直々に焚きつけようかの。石山寺の柱を削り、骨とした、雅な扇で風を招く。
「寄物陳呪・禱扇興、巻二十七・篝火」
近くで一服しとる学生のライターをふわりと借りて、空中に火を発生させた。燃料を借りな成り立たへんのが、煩わしいわ。何も無しに火や水なぞを出せるお嬢が、この時ばかりうらやましう思いましたな。
「いとらうたげなる人やなうて、石やったか」
火に寄せられ、照らされた三角の石は、紙を染めた色に同じ、瑠璃やった。




