第六話:舞姫と好色男(二)
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「やあ、オサムライサン」
ホワイトデーの夕暮れに、男は呼び止められた。
「浮世に、喋る招き猫がいるのかね」
「つれないなあ、オサムライサン。最後のお返しに行く前に、付き合っておくれな」
電灯の消えた店の出窓に、男は片手を付いた。
「カベドン、だったかな? ガラス越しでされたら燃え上がらないね。その前にボクは、同性を恋愛対象に入れられない」
「狭い間口だね」
招き猫は沈黙したかと思いきや、
「……ボクは一途なのさ、色好みのオサムライサン」
ぼそりと口撃した。
「君、オサムライサンはやめてくれたまえ。近松初徳、仲間のように警察官や自衛官として戦えず、文学を読み耽り、恋の戯曲を書いている落ちぶれた士族さ」
「はいはい、オチムシャサン」
男は肩をすくめた。
「世話になりたいんだったね。生憎、私は弟子を持たぬ主義なのだよ」
「キミに教わって、何の得がある? 『呪い』が効かない、行使できない、feminaの口説き方はいらない、ケンドー? ジュードー? 時代遅れだ。だいたい、ボクはキミよりうんと年上さ。ボクの歴史で教科書が作れるぐらいにね!」
興奮で、赤い招き猫になりそうだった。
「神仏の類かね」
「半分神、半分人間さ」
「取材したいものさね」
男は、コートからボイスレコーダーを取り出した。
「お断りだよ。materについては、聞いたことがあるんでないかい? 弓と文学の神・アヅサユミ」
アヅサユミの子は、薔薇水晶の瞳に人斬りの顔を映していた。
「安達太良さんの先祖だったね」
同僚の安達太良まゆみは、天才の術士だ。『萬葉集』の歌で奇跡を起こす「詠唱」の使い手である。
「君も『萬葉』を嗜むのかね?」
「冗談はやめておくれよ、ボクは最高の『呪い』を行使するんだ」
「『祓』か。アヅサユミは実子にも継がせていたのかい」
安達太良まゆみが伝達漏れを? ぬかりなく仕事する彼女に限ってそれはありえない。
「他に行使できる者達がいるんだったね。しかも人間! 成熟前なのだろう? materは人間に肩入れしているからね」
五人のお嬢さんに興味を持っているらしい。
「醜いなあ……。五人集まっても、ボクの方が強い」
「うぬぼれてはならぬよ、彼女達は伸び代がある」
招き猫は、つまらなさそうに息をはいた。
「春先とはいえ、体が冷えます。私のような若輩者では、話し相手が務まらぬ」
素早く右を向いて進み出す男を、
「materにそっくりな姫君と会うのだね」
招き猫は粘っこい口調で留めた。
「姫君のカラダに、どこかおかしなところは無かったかね?」
「……!」
薔薇水晶と男の視線が合わさった。
「キミ、心以外は知り尽くしているんでなかったかな? もう二ヶ月超えているけれどもね」
男は出窓に拳をぶつけた。
「何をした」
客を寄せる愛嬌ある顔が、いやらしく感じられた。
「ボクのローザが寄りましにしたのさ。抱き心地が、極上だっただろう?」
「仲間を取り憑かせたのか」
「ボク達を悪人呼ばわりするのは、やめたまえ。姫君が望んでカラダを捧げたんだ」
「彼女がそうせざるを得ないよう、追い詰めたのでないか?」
問題に対して、男が十通りの解答を考えたとすれば、彼女はその十倍思いつく。優れた部下が己を捨てるとは信じられない。
「ボクの望みを叶えてくれたら、姫君を返しても好いよ」
「信用できぬ」
招き猫の瞳が、急速に点滅した。
「occasioを与えたというに、哀れな男だね」
何の変哲もない硝子窓が、ステンドグラスに変わる。
種も仕掛けもない奇跡に、男は刀を突き立てんとした。
「虚勢を張るのはやめなさい。術を破れぬキミは、無力で醜い」
撫子色を基調としたステンドグラスに描かれていたものは、いばらによって磔にされた男であった。
「キミは異性が好きだ。materを守れなかった若き日の傷痕、『好き』で『隙』を埋めてきたつもりだけれど、キミの『すき』は広がる一方だったのさ!」
男の居場所は街から薔薇水晶の虫籠に移されていた。「呪い」をかけられた? いや、ありえぬ。
「ありえるのだよ、姫君の魔術を取り入れた場合はね!」
弱点を突かれた。だが、これしきで心折れてはいけない。
「ローザとボクは、ひとつでふたつ、ふたつでひとつ! ローザが身に付けたことは、ボクのものに、ボクが受けた快楽は、ローザのものに! 旨かったよ、姫君の味は」
「森君に何を……ふぐう!」
背後からいばらが巻きついた。拷問は、鍛錬で慣れている、はずだった。
「術を教えてもらったのさ。キミ、いかがわしい妄想をしていたのでないかね? この危機下でも、色に溺れていたい……さすがは好色男」
とげ付きの猿轡を噛まされ、男の自由はことごとく奪われていった。
「キミのカラダをもらうよ。ローザが寂しがっているんだ。いっぱい愉しませてもらおう」
天井に吊るされていた太いいばらが、男の右胸を刺した。
「……ははは、久しぶりにローザと対になるカラダを手に入れた!」
硝子窓の前で、男は様々なポーズをとった。
「エリス、だったね。舞姫の名にしては気丈で、不破と争いのdeaの名にしては可憐な、盾の女」
舌なめずりをして、刀を鞘に収める。
「火責めのような大人の抱擁をしてあげよう」
封印されていた期間の分、ローザを悦ばせたい。男の通った跡には、薔薇の花びらが大量に落ちていた。
薔薇水晶に監禁された方の男は、まばゆき出逢いを回想していた。
二十年ほど前、独国・ブロッケン山の孤城を訪ねた。上司の夏目静教授が昔、城に住むご令嬢の家庭教師として雇われていたのだ。暇を出された後も、毎年、夏季休業中に挨拶に伺っていた。
当時、助教授(現在では准教授と改められている階級だ)だった男は夏目教授の荷物持ちを任された。断れば、かえって多くの仕事を押し付けられるので、黙って従った。
夏目教授は言った。ブロッケンに、魔女が蘇ったと噂されている。奇跡を信じぬ訓練を受けて育った男は、適当に聞いていた。ステッキで殴られた。上司は神経を病んでいるのである。一転して躁状態になった上司は歌いだした。ミュージカル映画『オズの魔法使い』の主題歌だ。しかも、お世辞にも下手な替え歌だった。
♪ 残~念~ そう魔女でも 善き魔女~
き~ず~(傷)を癒せる 魔女だじょ~♪
口髭をロープウェイに使ってやろうかと男は真面目に考えた。持参した剃刀の出番は虚しく、夏目教授は急に威厳のある表情をして男に座れと命じた。たとえ火口の上だろうと薄氷の上だろうと、膝を折り曲げねばならない。城門の前で正座した男へ、重々しく言う。若造よ、長く耐えてきた痛みに魔法をかけてもらえ。
甲冑で身を包んだ門番に案内され、槍を背負った執事とメイド達の形式的なお出迎えの後、応接間にて家長とご夫人、そしてご令嬢にお目にかかった。
家長・鴉礼守は、威圧感を漂わせる人物だった。手当てを受ける兵が震え上がって息絶えないか心配だ。ご夫人・アリスは、虫を殺められない風に見えて歌い踊りながら残酷なことができる目をしていた。毒の花、がしっくりくる。
エリスは、食えない二人から生まれたとは思えぬ淑女であった。月光と白百合を添えたら、名画になるだろう。
家長が夏目教授に、来年本朝の大学院に進むので娘をよろしく、と頼んだ。夫人は男に目をやり、あちらの国ならお嫁にもらってくれる方に巡り会えるでしょうね、と言った。
夫人はエリスを紹介した。曽祖父に魔術の才能を見込まれて、秘術を伝えたのだそうだ。味方を砲弾より守り、疲弊・負傷を癒やし、昼夜を忘れて戦えるほどに回復させる。十歳で術を継ぎ、曽祖父、祖父、父の仕事を手伝いに、現場へ連れられたようだが、保護者のすることか。年端も行かない子に血や肉片を見せるとは。
世間話(ほぼ夏目教授のひとり語り)の後、晩餐会の準備が整うまで休憩をいただいた。女性達の晴れ姿を楽しみにしていた男は、参加させてもらえなかった。夏目教授のしわざである。荷物持ちに食わせる飯は無い、とのことだった。今夜、寝首をかいてやろうと決めた男に、教授は耳打ちした。善き魔女が月を眺めているので、そばにいてやれ。
メイドにエリスの居場所を尋ね、東屋へ男は赴いた。飾り気の無いパンツスーツのご令嬢は、詩集を片手に月光を浴びていた。
女性客と歓談していたのではないか? エリスは冷淡な言い方をした。首に「好色男」の札を下がっていた、と言われ、男は参った。墓場の近くでよく月見ができるものだ、人気が少ない、怖くないのか? 男は問うた。エリスは答えた。人気が少ないから、いるのだ。自分は身内にも魔女と呼ばれている、むしろここに踏み入った人が怖がるだろう。
独りにさせてはならぬ、と思った。「呪い」とそれに似た術を行使する者を憎んでいた男は、エリスをどうしても嫌いになれなかった。母親に似ていたからだ。十六の頃「呪い」で害された母親が生まれ変わったのでは、と驚いた。昼に話をしていた最中、ずっと鼓動が速かった。
一部でも構わないから、傷を診せてもらいたい。彼女の言葉が、あの日々へ帰らせてくれた。鍛錬で父親にしごかれべそをかいていた時、共に剣を振るう者達と喧嘩をして負けて帰ってきた時、母親は診せなさい、とだけ言って、薬を塗ってくれたものだ。三人の姉にも可愛がられていたが、母親が一番だった。貴方は、優しくて強い子。涙を拭いてもらう度に、励まされた。
男は、素性を打ち明けた。それでも治したい、と聞かないエリスが愛おしかった。エリスは上着を脱ぎ、シャツの左袖をまくった。
自分は人間ながら魔術でもある。月光の下では、この腕のように、魂に刻み付けられた文章が全身に赤黒く浮かび上がる。秘術として生き、秘術として死ぬ覚悟を背負った証だ。静かに笑うエリスの両頬に、独国語が鎖のごとく書き連ねてあった。
自分と貴方はのろわれているのかもしれない。自分は、絶えなく争えるための魔術に、貴方は術士に守るべき者達の命を奪われた過去に。まずは信じてほしい、私を。貴方にかけられたのろいを、根雪を溶かすように癒してゆこう。
男は何も言わずに右腕を差し出した。エリスは慈しむように取り、独国語の文章を唱えた。森鴎外『舞姫』の一節であった。毒の雨に操られた母親に斬られた傷のひとつが、なだめられ、ふさがってゆく。男は驚嘆した。西洋の術が、効いた。信じて好かった。私とエリスが起こした奇跡だ……!
翌年、エリスは陣堂府の大学院に入った。夏目教授の計らいで、エリスは男の住むマンションで暮らすことになった。男の部屋の真下だと聞き、この時ばかりは教授に恩を感じた。教授が退官され、空満大学学長を務めている現在も、二人はそこに住んでいる。
男は、治療を受けていくうちに、彼女の術のみ例外なのだと理解した。士族の中でも「呪い」を無効にする訓練を受けていない女性と三歳未満の子どもを狙った「毒雨の変」は、下手人は才能を認められたかったがために、降らせた。以来、術を行使する者は私欲の塊だと軽蔑した。上司、同僚に対しても然り。猫を使役し、琵琶を鳴らして幻を生み、櫂を振り回し、書物に入り込んだり本文を切り貼りしたりし、扇で五十四帖を舞い、命令文で何でも従わせる。皆、根底には欲がある。エリスには探っても探っても、見当たらない。彼女は術をかける際、きまって言うのだ。
私が、あなたの盾になる。
胸の傷が疼くのをこらえ、男は願う。
エリス、君だけでも、生きるのだよ。




