第六話:舞姫と好色男(一)
睦月の障り【憤く・の障り】
人々を由無き怒りに沸きたたせ、争はせて、生き残りし者の心をすすり尽くすなり。
eins
♥
雪が絶え間なく降る夜、蒸し暑さにうなされていた。
石炭を詰め合わせたような黒い雲が、果てしなく広がっていた。木々は火のマントをまとい踊り、学び舎はところどころ骨をさらして放心していた。
年の瀬に、勤め先の無惨な姿を目にするとは。自宅で論文を書き、同僚に借りていた本を読み、いつもより早く眠りについたのだが。波乱に満ちた年が訪れる知らせなのだろうか。
昼か夜か、分からない。めずらしく汗ばんでいる。水は無いか辺りを確かめても、砂漠ばかり。誰かいないのだろうか。
遠くへ歩いていると、多くの人影がこちらへ向かってきた。一定のリズムで、列を組み、足を高く上げている。学生だ。日本文学国語学科の者も混じっていた。
「何をしている。兵隊の真似事は即刻止めるのである」
叫んだつもりだったが、ぼやけてしまって彼・彼女達に全然届かない。皆、同じ顔をしてひたすら前を行く。
「操られているのか……!?」
足音が後ろからも聞こえる。別の隊だ。集まるのだろうか、それとも……。
悪い方の予想が当たった。二個の隊が相対して、バットやがれきを持ち、にらみ合う。どちらともなく、言語になっていない声をぶつけて、争い始めた。
「看過しかねる!」
障壁の術をかけるため、森鴎外が書いた作品の一節を唱えるも、音がかき消されてゆく。妨げる者が潜んでいる可能性が高い。
ペンを握り、ノートやルーズリーフに板書を写している雛鳥達が、互いを殴り、蹴り、投げ飛ばし、引きずり回す。志を語り、時に競い、時に協力し、学びに課外活動等に魂を輝かしていた貴方達は、何処へ。
「止めよ、暴力で手に入れられるものは無い!」
貴方達には、要求を伝える手段が他にある。まだ守るべき存在がいなかった若い頃の私がここにタイムスリップしていたら「寸鉄を帯びずに無謀なことを」と呆れていただろう。立っているだけでは、傷つく人が増えるだけ。なぜ争うのか、理由を聞かせてもらいたい。
担当学年の女子学生を抱き留める。物腰が柔らかかった彼女は、血眼になって抵抗し、箒で突いてきた。ひとまず離れ、研究棟だった物に隠れた。
「『呪い』によるものであれば、なおのこと収めなければならない……」
「修羅場の犯人、教えてあげましょうか♡」
まったく気配を感じられなかった。学科主任の護衛を務めている身として、恥ずかしい。
「姿を現してもらいたい」
「無理よ、あってないようなものなの♡」
剣を現出させられたら、手当たり次第刺していた。
「あなたの声、芯があって、しかも透き通っていて素敵ね♡ 参考にさせてもらっちゃった」
可愛い役を演じているが、油断してはいけない。声を写し取った奇跡は、物・言葉を介していないようだ。
「先程の提案について、条件があるのだろうか」
「お・お・ア・タ・リ♡ 賢いのね」
学生が一人、二人と争いの渦から追い出されてゆく。ひどい怪我だ。手当てを!
「そんなの、いつでもわたしがピンピロリーンと治してあ・げ・る♡ 犯人の正体を聞いて覚悟を決めるのよ、森エリス!」
「…………簡潔に説明せよ」
学び舎に響く鉄の音と雄叫びが止み、揺らめく火が固まった。
「『障り』よ。人間の心を奪ってしまう災い。エサをなんとなーくプッツンさせて、バンバンぶつからせちゃって最後まで残った強いエサの心をもらうの♡」
この行使者が小悪党に思えるぐらい「障り」に嫌悪感を抱いた。命を、心を、軽んじている。
「あなたが行使しているの、『寄物陳呪』と『正述陳呪』の複合じゃない? しかも西洋魔術! 形にするまで多くの血が流れたようだけど、低級も低級、ド・低級ね♡」
蔑まれて当然だった。曽祖父がこの国の仁を表す術に目をつけ、悪魔の所業を為して一族の秘術にしたのだから。
「『障り』? 弥生晦日と卯月朔日の間に来るのではなかったのだろうか」
今月の臨時会議にて、棚無先生と安達太良先生が報告された。空満の人々から襲うのだと。
「一つじゃないの、十二あるの。『卯月の障り』は目立つのよ、最も危険なせいで♡ 」
「それでは、彼女達の背負うものが重くなる……!」
安達太良先生が顧問を務める「日本文学課外研究部隊」が、「障り」を対処できる希望だった。大和ふみか、仁科唯音、夏祭華火、本居夕陽、与謝野・コスフィオレ・萌子、前途ある学生達を戦わせる運命を、私は許せなかった。
「噂の『スーパーヒロインズ!』? 伝説を紡ぐのにいらない存在ね。さっきの話は、後で忘れてもらうわ♡」
「記憶操作も、可能なのか」
「わたしが誰かなんて探るのは、ダ・メ・よ♡ この中で祓えるのは、わたしだけなの。さあ、見返りをちょうだーい」
撫子色の気流が細く、長くなって、研究棟の跡を覆う。いばら、か。痛みを避けられない星のもとに生まれてしまったものだ。
「ダラダラしていたら、あなたの怖がる犠牲が増えていくわ。答えは決まっているでしょう? 『障り』が広がって、守りたい殿方が生ける屍になっても、いいの?」
動じてはならない、と律する私に反して、あの人の背中が胸をよぎった。大きく、何もかもを抱擁できるけれども、本当は孤独に怯えていて、包み込んでくれる人を求めている背中……。
「『障り』の濃度が高まっていて、肉体を得ないとパワー全開できないの。肉体を……肉体を……ちょうだーい♡」
いばらが絡みついてくる。決断せよ、誰もが生き延びられる答えを。
「自分が適合するのであれば、差し出そう」
妖しい笑い声が、いばらを脈にして流れてゆく。私の中へ、形なき行使者が入る。
「わたしはローザ♡『睦月の障り』、覚悟するのよ!」
幾千本のいばら 空を衝き
schwarzは吸われ weißを現す
幾万輪の薔薇 地を飾り
kriegを撫で friedenは夢より醒める
雪がれたように青い朝、肌寒さに起こされた。
背中に寝間着が張り付いている。暖房は切っておいたのだが。熱でも出ていたのだろうか。ボタンを外してあった。
「これは……」
左胸に糸を丸めて押しつぶした形の痣ができていた。
「やだ、薔薇よ♡」
頭が急に重くなった。初めて聞いたとは思えない。
「ローザよ、さっきは伝説の一頁を書いてくれて、ありがとう♡」
「貴方は……ううっ」
枝で締め付けられているような痛さだ。
「ごめんなさーい、術をかけているの♡ 理想の寄りましに逃げられちゃったら、困るのよ」
「目的は何か」
くどい甘さの声が、頭の中を跳ねる。
「大好きな人に会いたいの。あなたの心、わたしが踊らせてあげる♡」
胸の薔薇が、沈んで見えなくなった。
「束縛の術は、わたしの都合でゆるめたり締めたりしてあげるわ。記憶は……まだ、お・あ・ず・け♡ 頑張ったから、眠るわね。お・や・す・み」
吐き気がするほどの痛みが、治った。
「ローザ…………」
毛布を折り返し、汗を洗い流しにいく。二度寝は、断念した。
♠
「また、来てね」
「うむ、逢いに行くよ」
男は、暖簾の前でお辞儀する女将に手を振った。
「今年も、誰よりも先に彼女のおせちをいただけたよ」
女将の気遣いもあって、酒が進んだ。縁起が好い。早くに夫を亡くし、遺された店をひとりで切り盛りしてきた。
「幸せそうだったなあ」
男が大学に勤め出した時に、出会った。偏屈な上司の行きつけだったのだ。あの頃の彼女は、寂しさを隠しきれていなかった。どうにかして彼女の心を埋めてあげようと思った。
「鶴、か」
他の者は、知らないだろう。彼女の着物に、福を招く柄が付いていることを。めでたき日に無地とはわびしい、と誤解している。彼女の美しさを半分も分かっていないのだ、なんともったいない。
「朝まで長いね……あと二軒、呑んでゆくとしよう」
この近辺ならば、映画女優が通うバーと、元オペラ歌手が見習いをしているビストロだ。二人とも、過去に自分が書いた劇に出演してくれた。
男はコートの上から腰の左側をさする。異性を想いつつも、刀を帯びている。短くても、胸を貫ける。役所に許可を得るため、様式と証明書類の山を窓口に出した。大半の者が目をつぶってやるような些末な不備を、お役人は寄ってたかって騒ぎ立て、長時間の茶番を見せた後、そっけなく追い返す。顧客を神と等しく扱う今日の社会で、偉そうにできる職業がまだあるのだ。
「皆に、逢いたいよ」
温もりをもらった三七八三人の女性が、記憶の中で微笑んでいる。
「安達太良さん達のように『呪い』を行使できたならば」
分身を作って、ひとりひとりと甘やかな日々を過ごせるというのに。「呪い」はこの国に伝わる、奇跡を実現させられる術だ。「呪い」を通さない訓練を受けてきた士族の男には、叶わぬ望みであった。
男は恍惚としていた顔を、刃のごとく鋭くした。
「前に来たまえ、曲者」
蜘蛛の巣が張っていた電話ボックスから、猫がのそりと歩いてきた。
「野良にしては、宝石のような瞳をしている。『呪い』のものかね」
「そこはのどを撫でておくれよ、メスのカラダなのだから」
男は腰の刀を抜いた。
「物言わぬbestiaを斬るんだ? やはりオサムライサンは野蛮だよ」
「勤務先の学長が猫を使役する術を行使していてね、毎度つまらぬ用を頼んでくるのさ」
猫の瞳が、赤みを濃くした。
「行使者はどこだね」
「ボクさ。かりそめのカラダが偶然これだったのだよ」
「物言わぬわりに、人の真似をする。私の声を盗んだのかい」
刀を向けられているにもかかわらず、「呪い」の行使者は気ままに動き回っていた。
「キミに惚れたんだ。しかしだね、浮気はならぬよ」
「私は独身だ。色に溺れて責められては、つれない世さね」
「materにそっくりな姫君が、枕を濡らすのでないかい?」
羅甸語の意味を、男は知っていた。だからこそ、腸が煮え返るのだった。
「君にも分かるまい。彼女の胸奥はね」
二十年と少し、共に月を眺めていても、見えぬ面がある。
「そうか……残念だよ」
猫は男に尾を向けて、そばのブロック塀に飛び乗った。
「今宵はほんの挨拶さ。これから世話になるのだからね、オサムライサン」
自動車が通り過ぎる。塀にはもう何もいなかった。ネオン街はすぐそこなのに、男の全身は真っ暗だった。
♥ ♠
男はまっすぐ帰宅した。年明けに気味の悪い出会いがあって、酒への欲が失せたのだ。
「とりわけ腹に一物ある術士だったなあ」
褥でうつ伏せになりながら、男はつぶやいた。
「世にある術士は 欲に齧りつく鼠 斬りても斬りても 恨みは断てず」
窓辺に立ち、髪を結びなおしていた女が詠う。
「はは……さっきのは聞き流して好いのだよ?」
「国は異なれど、私も術士。貴方は、私の前では刀を振らずに襟を開く」
たくましい背中へ、女は白百合のごとき手を乗せた。
「三年かけて、ようやくここの傷がふさがった。耐えさせて、ごめんなさい」
「謝らないでおくれな。着実に私の体は癒えてきている」
男は寝返りを打ちざまに女の手を取り、心の臓がある所へ触れさせた。
「引き続き頼むよ。痛くてたまらないんだ」
クレーターのような痕が、女の指を吸い付かせる。
「君の術は、どんな妙薬よりも効く。心にはたらきかけて治してくれる」
「その治療術は、貴方にだけ……」
腕を交差させて、女は寝間着の下にある雪の膚をさらに隠した。
「そうだろうね。そうでないと、悲しいよ」
男は半身を起こして、浴衣をはおった。
「覚えているね、初めて術をかけてもらった時に交わした約束を」
女はまばたきせずに、聞いていた。
「最後の傷……胸に刻まれた忌まわしき過去が完全に治ったならば」
女の芳しい髪をなでて、男は色っぽく微笑んだ。
「君を解き放とう」
女はうなずいて、群青色の帯を渡した。
「随分、時間がかかってしまったなあ」
「私の実力が、低いから……」
「出しきっては、これまで癒した傷を代わりに受けてしまうのだろう? 無理をしてはならぬよ。君とは長くいたいのさ」
男は頬ずりをして、睦月ながら常夏の夢へ誘ったのであった。




