第一話:夢一夜(二)
二
音楽室は、苦手だった。小、中学生の頃、音楽の授業が算数・数学の次にいやだった。できるなら、叫んで教室を飛び出したかった。歌や楽器は、教えられた通りにやれば間違えることなんてない。五線だったか、あれに黒丸や縦棒を書いて、ド・ミ・ソだの、シ・レ・ファだの串団子を作るのはまあまあ面白かった。
どうして、日の当たらない、校舎の最も奥まった所にあるんだろう。暗さとうすら寒さが、この世の負の部分を表しているようで、息苦しかったのだ。壁の上あたりにずらりとかけられた、音楽家の肖像画がさらに不気味さを強めていたんだ。昼間は額縁に封じられているけれど、夜が来ればここを通り抜けて、室内を徘徊するんだって、信じていた。子どもだった私は、友人が減っていってひとりで過ごす時間が長くなった分、想像する暇があった。
「E号棟は、怖くないだろうか」
森先生が、グランドピアノを弾きながら訊ねる。芸術学部用の校舎は、ほどよく光が当たっていた。防音加工がしっかりしてある壁には、現役生による演奏会のお知らせが貼られていた。
「前に、出入りしていたので」
去年、学科公認サークル「日本文学課外研究部隊」の活動で、歌詞を皆で考え、合唱した。世話になった鳥下先生は、お元気なのか。先生率いる裏(声)合唱部は、細々とやっているらしいが。モーツァルト? だっけ、古典派の音楽家な格好をした教師は、忘れようにも忘れられない。大学とは、全国共通して変人の巣窟なのかな。
「自分も、学祭の有志バンドに加わっていたため、練習に利用していた」
学祭限定・日文の軽音楽グループ「天津乙女」だね。教員の女性陣で、後夜祭の舞台を沸かせたんだ。今年は私たちが継がなきゃならない。うちの顧問が、ベースかき鳴らして指名してきたおかげでね。
「先生、キーボードでしたよね」
そうだ、と返事する代わりに、森先生は左手の伴奏を大振りにした。
「その曲、何て名前でしたっけ。聞き覚えはあるんですけど」
「ピアノソナタ第14番『月光』である」
夕陽ちゃんが習い事で行き詰まっていたという、ベートーヴェンの曲か。あれ? 速いくせに音符が多くて、指がもつれて、なかなか丸をもらえないって話していたけれど、ゆっくりじゃない? 鍵盤にちょこん、ちょこん、旋律を置いていますよ?
「本居が話題にしていたものは、第三楽章であろう。自分が弾いている楽章は、第一楽章である」
手を動かしながら、しゃべれるんだ。ジャズかな、弾きながら歌う奏者がいるものね。夕陽ちゃん、森先生、ついでに顧問、戯れるように音楽ができるって、素敵だなあ。
「大和」
森先生が、硝子玉のような瞳で私を見据える。まるで、意思を持った欧州の人形みたいだ。シナモン色のゆるく巻かれた髪に、つい触れてみたくなる。私は、近松先生と違って自制が利くから、思っても実際にはしないよ。
「大和、聞こえているだろうか」
「あ、は、はい」
第一楽章が、終わりを迎えそうだ。あまり詳しくない私でも、山場を越えたことなら分かる。
「足を大地へ 月光の梯子が 夜露と散らないうちに」
かなり詩的なお言葉だった。浮ついていることを注意したんですか?
「貴方の……―夢……―は…………」
車が付近を通ったのか、この先がまったく聞き取れなかった。
どうして私が、こんな夢を。
「大和さん! どういうことなのですか!? あまりにも努力が足りないのですよ!!」
暖房のきいた部屋で、私は正座していた。筵の上ではなく、段通なる敷物だった。学生を叱るには、甘ったるく、入り浸ってしまいそうなしつらえである。
「毎回出席され、最前列で聞かれていて、ノートはしっかりとっていらっしゃいますよね!? 小テスト、適当に済ましたのですか!?」
度が強そうな丸い眼鏡を光らせ、宇治先生が憤慨される。ボタンを全部留めた清潔なシャツに、漆黒の上着とひだ付きの長いスカートで武装した大柄な体は、威圧感を充分与えていた。極めつけは「文学部日本文学国語学科」と金の糸で刺繍された腕章。空満大学の専任教員は勤務中すべからく付けるべし、の規則を守っている。ちなみに、学部ごとに色が決まっており文学部は臙脂色だ(宇治先生の他に付けている教員はいないため、確かめようがないけれど)。
二回生の師走か睦月に戻っているのか? それなら、先生の講義は「中世文学研究D」と「日本文学史(古典)B」を取っていた。私は、どちらの点数について仰っているのか訊ねた。
「文学史なのですよ! 『十訓抄』の各教訓を順に挙げよ、出血大サービス問題です! 調子が悪くても八割は正解できます! ですけどけど、大和さんは空欄でした!!」
はて、専攻科目で白紙なんかしたっけなあ。不戦敗にもっていく愚行に走るような私じゃないよ。
「第一、人に恵を施すべき事! 次の時間に出題しますから、と黄色のチョークで二重線を引き、ピンクのチョークで四角く囲みましたよね!?」
大事なところは、いつも蛍光マーカーで縁取っている。成績に直結するなら、丸暗記して臨むのが当然だ。本をたくさん読んでいるわりに賢くない、って親に茶化されるたび、私は反論しないで、へらへら笑ってみせたり頭をかいたりしてすます。物覚えと要領の悪さは、自分がよく理解できている。それでも普通に大学生になれているんだよ、今さら直すつもりはないね。
「次は挽回してください!!」
余計な口をはさんでは長居するはめになるので、短く返事した。
宇治先生は、まだ言い足りなかったのか唇を震わせて……ぶれている、が適切な表し方だと思う。テレビの映像が乱れたのと同じだったから。
「―用心し……なさい……」
この人が先生なのか、いぶかしくなった。だって、声がいきなり低くなって、より成熟さを帯びていたんだもの。
「あ……なた―は…………に、おびき寄せ―られ……て……い……ます」
音が飛んでいて、肝心な部分が拾えない。宇治先生がモザイクがかってきて、早く立ち去りたい気持ちが高まった。
「夢が……化けの皮を―はがし……て…………」
敷物が、冷たいように感じた。花柄が、ハエトリグサに見えてしまう。じゃあ、私はどこにいるっていうの?
土鍋が湯気を立てている。ミトンをはめてふたを取れば、夕食が完成していた。
「モウ、いけマスか?」
会を設けてくれた後輩の萌子ちゃんが、箸を開き閉じさせて、待ちわびている。
「うちが取り分けるわぁ」
三つ重ねたとんすいをばらして、同級生の夕陽ちゃんが穴じゃくしを手にした。
「ひやぁ、初めてなんやよ。家では昆布だしのお鍋しかせぇへんねん」
「萌子モなんデスよ☆ 懸賞でカレー鍋当たるトカ、ラッキーっス!」
……ことわりなく私の名前を使って、だけれどもね。お詫びに招待してくれたので、免じてあげよう。
「冷蔵庫クリアランスしマシたガ、闇要素ナシでホッとしまシタ。ちくわナカなかマッチしてマスなー」
だしの辛い香りにうっとりして、萌子ちゃんは具を口に運ぶ。まあ、シーフードカレーがあるんだから、練り物だってありでしょ。
「うどん持ってきたんやけど、しめにどないやろか」
「ゆうセンパイ、神スギっスよ! リゾットばッカでネタ切れシテたんデス」
「ふみちゃん、えぇかなぁ?」
食べられるのなら、なんでもいいです。さて、プチトマトは冷めているだろうか。半分に切らなくて大丈夫だよね…………うぐ、熱! 種のどろどろが、しみる。夕陽ちゃんにお茶を注いでもらい、危うく難を逃れた。
「お二人ニ、質問デース」
軽快な擬音語をつけて、萌子ちゃんが挙手した。
「萌子、来年ハ『国語表現』A・B受けタイんデスけド、センパイ達ハAデシたヨね?」
私は春学期のAのみ、夕陽ちゃんは秋学期のBも受けていた。
「Aは主に短い文章やなぁ。インタビューやろキャッチコピーやろ、萌ちゃんの好きな詩もあるで。Bはなぁ、通しで短編小説を書くんやよ。一万字から二万字以内やったわ」
Aの最終課題は四千字程度だったね。三題噺の小説版だ。えっと、剣・鏡・玉、三種の神器じゃないの。後になって気づいたけれど。人名でも、とにかくこれらの字を含んでいればよかったから、私は「玉城鏡剣」青年の秘境探検記を書いたなあ。
「前カラ気にナッてタんデスが、ふみセンパイとゆうセンパイは、どーやッテ小説書イテるんデスか? プロット作ッてマスか?」
お先にどうぞぉと夕陽ちゃんにうながされた。過程を振り返り、なんとか言葉にしてゆく。あんまり参考にならないかも。勢いで書いているんだからなあ……。筋を考えているうちに、締め切りが迫ってきて、苦しんで文字を打って打って打ちまくるんだよ。登場人物はひらめきで作るでしょ、日本語にちゃんとなっているか読み直して、提出する。
「うちはぁ、資料集めて、ノートにプロット書くやろ、矛盾点を修正して、推敲しつつ仕上げやね。せやのに駄文ができてまうんやよ。仁王様が埋まっている木みたいに、傑作が隠れている原稿があるんとちがうやろかて、たまに思うんや」
駄文なのか? わりと評判だったじゃないか。玉乗り見習いが、剣呑みの女性に恋する物語。鏡台を隔てて想いを伝えあう場面は、日文生の心が洗われた。主題は無償の愛、だね。
「ソレ、コスフィオレにモ通じマス。布ノ中ニ、至高のドレスが作者ノ鋏ト糸ヲ待ってイルんデスよ。萌子、一度ダケ奇跡起こしマシた。ネットで値段ツイて、ひゃほーっス!」
「シャンデリアアンサンブル、やんね。光の当たり方で色が変わるんやろぉ。着てみたかったわぁ」
珠玉を掘れる才能、ね。そんな人が世の中の渇きを潤して、星と崇められるのだろう。生涯を終えても、作品が生き続けるって、こそばゆくならないかな。その時、作者はもう何も感じないか。