第四話:朝陽夕陽考(二ー一)
二
少年は、空満大学の文学部日本文学国語学科に進学した。家族は手放しで喜んだ。彼の家は、空満神道を信仰しており、そこが運営している大学に通えることは、名誉であった。本当の志望動機は決して打ち明けなかった。
朝陽の実習を見に来られた教授は、時進誠だった。朝陽を疲弊させた「本心」を形にするもの―言葉を究めたかった少年は、時進教授のゼミに属し、指導を受けながら朝陽のエピソードを聞かせてもらった。
少年は、ますます物静かな青年になった。卒業後は空満図書館の司書として働こうと考えていたが、大学院にて国語学を研究するよう時進教授に薦められた。
「久しぶりやなぁ、真淵くん」
空満図書館にて論文の参考文献を探していると、朝陽が閲覧席にかけていた。
「母校を訪ねてみたくなってん。そしたら、時進先生があんたも来てるぅて教えてくださってなぁ」
相変わらず、光り輝いていた。昔と異なる点を挙げるなら、顔つきが柔らかくなった。それから、胸元に装飾品が無いことだ。なぜかといえば……。
「毎日身につけてくれているんやね」
あのブローチは、青年が受け継いだ。女の真似事をしている変わり者、だと周りにさんざん茶化された。そのような高い志を持てない「人の出来損ない」に、聞いた思考を口頭で明かして、発狂させる手前まで追い詰めてやった。
「えらいえげつないことをするなぁ。うちには、どない行使するべきか説いたる資格はあらへんけどぉ」
朝陽は前のめりになって、青年にささやいた。
「返り討ちにするんやったら、完膚なきまでにやらへんと。半端やと全然、得せぇへんでぇ?」
お戯れを。青年は、頭を下げた。「他述陳呪」を行使できる者同士、会話を始めれば、互いの百も千も掌握してしまう。
万の望みを叶える術、または、万の理を超えた奇跡。其は「呪い」、物、あるいは、言葉を介して発揮される。「他述陳呪」は、散文を用いる第三位の「呪い」である「正述陳呪」の応用版だ。行使者の言葉で奇跡を起こす「正述陳呪」に対し、「他述陳呪」は他人の音声で奇跡を起こす。空間転移、思考の送受信が主な効果である。朝陽は「他述陳呪」を行使する忍の一族であり、適性のあった彼女が「他述陳呪」を余す所なく継承した。
「祖父が西洋かぶれやってなぁ、術の使い方をブローチに記したんやよ。巻き物は今時ダサいゆうてたわ。石の中に描いてある花の紋章が、本文や。月に咲く花は、冗談で言うてもろた。ごめんやで。大学におった時に完読したんやろ? さすが飲み込み早い真淵くんや。お疲れやったなぁ」
片耳をふさぎだした青年に、朝陽は清々しく笑った。
「聞き取れたんやろぉ? うちの中におる、娘の心が」
しばらく会っていないうちに、朝陽は苦味と甘味を経験していた。
「行使を休みぃ、うちが言葉にしたるわ。教師になるんは諦めた、うちは適当に仕事できへん性格やからな。お茶すすって、お菓子バカスカ食べて、面倒な仕事は弱そうな同僚に丸投げして、トラブルを知らんふりして、保護者にへらへらして、生徒の頭はキャパオーバーや分かっていて、国公立か有名私立にぎゅうぎゅう押し込んで、卒業式にピースするうちは、そこにおらんかった」
朝陽は左ひじで頬杖をついた。
「教科書会社に就職した。教育に未練があったんやろぉなぁ。がむしゃらに働いていたら、本居先生と思いがけなく再会したんや。空満大学の一般教養に『刑法』あったやろ、あの担当してはったんや」
本居世夜、青年の耳の中をやすりのように削らせる雑音だ。時進教授が語っていた、朝陽の憧れている人だった。未だに対面したことがない。
「先生と三回出かけて、次の年にうちは本居朝陽になった。そして、また次の年が明けたら、この子を授かったんやわ」
肥満とは違う膨らみ方をした腹部をなでる朝陽に、青年はありきたりな祝福のフレーズを申した。
「おおきに。神無月に生まれるみたいなんやよ。あと五ヶ月、うちにくっついているんや。おもろいでぇ、この子なぁ、大きなオムライスに乗って、空飛んでいる夢を見ているんやわ。昨日の晩は、主人特製、卵十個分のオムライスやったからなぁ」
「呪い」で聞いてしまっているのに、青年は、ご令嬢の名前を訊ねた。
「夕陽。うちがきっつい女やったから、夕方の陽差しみたいに、やわらかぁて、他人の苦しみに寄り添ってあげられる子になってほしぃてなぁ」
朝陽は両手を合わせた。
「もし、夕陽が空満大学に来て、真淵くんがここで働いていたら、頼んだでぇ」
重そうに立つ朝陽に、送りますと青年は言った。図書館からキャンパスに出るには、やや長くて急な階段を下りなければならなかったのだ。
「おとなしいなったやろ? 空間転移の普段使いを控えたんや。家族がピンチの時に、て決めたんや」
まだ正午でもないのに、暮れて見えた。この別れを境に、青年の世界は夕焼けに染まっていった。
「なぁ、真淵くん」
朝陽が初めて表情を翳らせた。
「小説は……『庭の七竈』の続きは、もう書かへんの?」
青年は、答えられなかった。




