第三話:浪(なみ)の上にも水はさぶらふ(三)
三
「んで、あきこが八艘飛び成功して、戻んのにあと一歩ってとこで後ろに倒れそうになってよ、唯音姉ちゃんが手をグッ! ってつかんで引き寄せようとしたんだけどよ、細いから心配であたしとゆうひとふみかも手伝ったんだ」
地下鉄に揺られながら、観世は華火に笑いかけていた。
「あきこの片足が地面に着くぞ、よっしゃ! ってなってたのに、急転直下っ、五人一緒に池にはまっちまったわけだっ」
「それは大変だったね」
「あたしの家で休んでってもらったんだ。おように申し訳なかったな、車汚しちまってよ。近いし歩くって、最初は遠慮したんだ。けど、あきこ達に恥ずかしい思いさせるわけにゃいかねえよなって」
観世は大きくうなずいた。サークルの仲間を気遣い、使用人を家族の一員として大切にしている様子は、手紙にも見受けられた。暖炉のようなお嬢さんだ。
「寝間着でおやつ食べて、遊んで、いろいろしゃべって楽しかった! 災難なんざ薫風に飛んでっちまったよ」
去年の夏まで、彼女は時間を持て余していた。できないことはないか訊ねたが、面白い先生との縁が彼女の日々を充実させた。明眸皓歯、万邦無比、そして神、なのだそう。大きな存在なのだろう。
《次は、明汐橋です。The next stop is Akeshiobashi,station number C12.お客様にお願いします……》
華火が、窓に片手を触れる。
「この線、途中で地上に出たよな? 地下鉄じゃなくてフツーの鉄道じゃねえか」
「建設費をカットするため、地盤が弱くてトンネルが掘れなかったためだといわれているね」
観世は急に腰を上げて、乗ってきた女性に席を譲った。リュックサックに付いてあったストラップは、女性が妊婦であることを示していた。おなかがあまり膨らんでいない。つわりでつらい時期なのだろう。
「あたしも立つよ。駅、次だし」
「座っていて。これからしばらく歩くよ」
泰盤港駅まで、華火は、同じ高校を出た体育学科の友人について話した。観世いわく、表敬訪問に空満市役所と議会へ数回来ていたそうだ。父が変なからみ方をしていなかったか訊き、通常の対応だったようでほっとした。
「サメだっ、サメが頭の上を泳いでるっ!」
トンネル水槽に、華火は目を輝かせていた。
「竜宮城のお出迎えって、こんなカンジなのかっ? おっ、エスカレーターでいっぺんに八階まで上がるんだ! ほら、早くっ!」
駆け出す華火の手を、観世がぎゅっとつないだ。
「へ?」
「魚は逃げないよ。それに、迷子になっては私とご家族が悲しくなる」
「あたしは大学生っ、はぐれても解決できる。観世こそ、平気かよ? 重度の方向音痴なんだろ?」
「お互い気にかけているんだったら、なおさらだね」
小柄な体が、観世の元に寄せられる。華火は、異性と接しているのだと思い知らされた。
「離してはいけないよ」
「……分かったっての」
視線をそらしながらも、華火は観世の手を握り返したのだった。
ここは三階、湾遊館。サメ泳ぐ、トンネル水槽くぐり抜け、電動の階に乗り、八階へ。
「コツメカワウソだって! かわいい顔して牙が意外と鋭いなっ」
「本朝の河川を再現しているようだね。華火ちゃん、そこにアユがいるよ」
「あたしんとこの山には、いねえんだよな。中学の遠足でつかみ取りしたぞ」
七階は、南極・亜米利加大陸なり。
「アシカとアザラシなら、アザラシ派だっ。ふっくらしてる体を転がしてやるんだ」
「ペンギンも好きだったね。須磨の水族館と比べて、どうかな?」
「隅でじっとしてるやつが多い。でも、飽きねえな。わっ、イルカだ。すばしっこくてすぐどっかいっちまう」
「五階でまた見られるよ」
ご自慢のジンベエ夫婦、六・五階。マンボウ・エイ・タコ、イワシにヒラメ、太平洋の命集まり、大満足。箱庭ならぬ、箱海よ。
「ジンベエザメの上で大の字になって、海越しの空を眺められっかな。天窓とは違う景色なんだろな」
「華火ちゃんの世界を、のぞいてみたいよ」
「文学勉強してたら、想像力が伸びちまうんだっ!」
ハリセンボンのように華火が頬を膨らませていると、
「ジンベエザメはおしゃれですよね!? ドット柄じゃないですか! 夏用のワンピースにあったら欲しいです!」
眼鏡をかけた大柄な女性が、筋骨隆々としたもっと大柄な男性に話しかけていた。
「ひろこじゃねえか」
華火の担任で「腕章の女史」の異名を持つ宇治紘子が、偶然同じ場所にてデートをしていた。大学では漆黒のスーツを鎧うているが、今日はラベンダー色のアンサンブルだ。
「カタブツひろこが、ふわふわひろこになってる」
熊をも焼き滅ぼす戦闘力の高さは、どこへ。服装ひとつで、雰囲気がこうもガラリと変わるのか。
「あ、こちらのイワシなんですけど、フライにしたら百人前はありますよね!」
上げかけた手を、ナップサックの肩紐にからませた。
「華火ちゃん?」
「なんでもねえよ。下のクリオネんとこ行くぞ!」
ごゆっくり、プライベートの時間を満喫しろよな。華火は胸の中で、担任を応援した。
「観世はクラゲ詳しいんだなっ」
「幼い頃、写真集を読んでいてね」
「くず餅っぽいやつが良かった。名前なんてった? ぷるぷるゼリーみてえな」
「ブルージェリーフィッシュだね」
湾遊館付近のレストランで、二人は感想を語り合った。
「ヒトデってそこまでザラザラしてねえんだな。どっちかっていうと、つるっ、いんや、ぬるっ、か? 手裏剣には不向きだった」
「手裏剣。海の忍者を書こうとしているんだった? サークルの文集に」
「おう、二千字以上なんだけどよ、中高の読書感想文でも愁苦辛勤してたってのに、できんのかってな。壇ノ浦の合戦で入水した安徳帝が、海の都で忍の頭になって鮟鱇法皇の陰謀を阻止する……話は浮かんでるのに、形にできねえんだ」
サラダのきゅうりを嬉しそうに食べる華火に、観世は幸福を感じていた。
「いい天気だ……」
大空と湾の色が重なって、絵の具では生み出せない青が窓に広がっていた。まるで―。
まるで、彼女と初めて会った日にみた「空」と同じように。
高校生だった観世は、政治に関心があり、夏祭謝笛議員に弟子入りした。礼儀知らずに直接邸へ訪ねたことが、議員のお気に召したようで、学校が休みの日に書類整理と簡単な事務を任された。
ある日曜日、お手洗いを借りた後、観世は部屋を間違えてしまった。夏祭邸が広過ぎるため、もあるけれど、彼が相当な方向音痴だったのが大きい。師匠と秘書に叱られながら、今では仕事中に限り直せている。
観世は、天井に見入ってしまった。青が敷き詰められていたのだ。誰が、いったい、なぜ。
「……これ、いとこのお姉ちゃんに塗ってもらったんだ」
足元で、弱々しい子どもの声がした。ほとんど水になった氷嚢を乗せた女の子が、布団に収まっていた。
「青いね」
「そーだろ……、どれも違う青なんだって」
縹色、瓶覗き、勿忘草色、ゼニスブルー、ヒヤシンス、シアン、セルリアンブルー、指を震わせながら、順に教えてくれた。画用紙に色を塗って、貼り付けていたのか。
「模様替えしてもらったのかな?」
「…………空を、持ってきてもらったんだ」
女の子が激しく咳き込む。観世は断り、体を横にさせて背中をさすってあげた。真夏の砂浜のように、熱い。小さな子に酷だ。
「……あたし、部屋出たこたねえからよ、天井の木目ばっかし見てんの、飽きちまった」
「そう、なんだね」
「短冊に書いて、笹の一番高いとこに結んでもらっても、ちっとも治らねえし、流れ星待ちてえけど、寝てなきゃなんねえし……空が欲しいって、姉ちゃんにだだこねた」
布団をかけ直していたら、やわらかい手がシャツの袖を引いた。こんな大きな部屋にいたら、心細いに決まっている。
「お兄さんが、本当の空に連れて行くよ」
「…………いいのか? けど、あたし」
観世は両手で女の子の手を包んだ。病魔に押しつぶされそうなところを踏ん張っている目に、自分の目を合わせた。
「約束。私、観世風舞はあなたに様々な空を必ずお見せします」
女の子に、ほんの少し生気が宿ったように思えた。
「様々な……百をゆうに超える色の空を、いつまでも見せたくて、夫に志願したんだ」
華火は「むう」とうなって、水滴の付いたコップに線を描いた。
「細かくは覚えてねえけど、後で氷嚢を替えに来たおようとじいちゃんにびっくりされて、弁明してたよな」
「面目ない」
「あたしの先に、市民へ公約果たしてもらわねえとなっ!」
「努力します。華火ちゃん、もう出られるかな?」
華火が首を縦に振ると、観世は伝票を持った。
「あたしの分、払うよ」
ナップサックの口をゆるめる華火を、軽く制した。
「今日は私が。華火ちゃんはそこの観葉植物の辺りで待っていて。水族館、もう一度見たい所はある?」
華火は屈託の無い笑顔で言った。
「タカアシガニ!」
焼かれても 消えぬ恨みが 凝り固まり
あめとなりて 晴らす機を伺う
薄暗い水の中、鉄骨のような足を持つ甲殻類らがさすらっていた。
「最初の敵はタカアシガニにするんだっ。スピードは無いんだけど、すんげく硬くて、防御特価型なんだ」
華火が観世に、じゃんけんのチョキを出した。
「安徳帝がひらめくんだ。討てねえなら、動けねえようにしてやろう、ってな。忍達にそこらへんの石を積ませて、進退維谷の術っ! じゃんけんの原型は、帝が考えたってことにするんだ」
「面白そうだね。シリーズにしてみたらどう?」
水槽を背にして、華火は両手を後ろで組んだ。
「文集のは、完結してねえといけないんだ。書いてみて、続編やってみようかって思ったら、筋を考えて、文字にするのは作家志望の仲間に任せるよ」
「原作者か。私は、華火ちゃんが書いたものが読みたいけれどね」
「適材適所ってのがあんだよ」
犬歯をを見せて左に進んだら、
「華火ちゃん、危ない!!」
許嫁の声が床と天井を行ったり来たりした。自分は伏せており、そばでは……。
「……観世? 観世!?」
脇腹を押さえて、許嫁が倒れていた。
「何か刺さったのか!? 誰にやられたんだっ!?」
およう達は、呼べば飛んでくるだろうが、電話ぐらい自分でできる。
「救急車と警察っ!」
ナップサックを下ろすより速く、翡翠の星が許嫁へと走った。




