第三話:浪(なみ)の上にも水はさぶらふ(二)
二
皐月十六日、平凡で平穏な日曜日の夕方に、電話が鳴った。
「あたしが取るっ」
女中にちょっとでも休んでもらおうと、ランニング帰りの夏祭華火は、子機を持った。
「こんばんは、華火ちゃん。観世風舞です」
子機がきれいに床へ垂直落下した。汗で手が湿っていたのが、まずかった。
「大丈夫かな?」
「心配無用っ、壊れてねえよ。んなこたいいんだ、なんでかけてきたんだよっ」
そよ風のような笑い声が、華火の耳をくすぐる。
「たまには、声も聞きたくて。華火ちゃんの均整のとれたしなやかな字は、何度読んでも飽きないけれどね」
もしも華火が火山だったら、大噴火していただろう。
「美辞麗句っ、よくも躊躇逡巡しねえで言えるもんだよなっ。職業病かよ」
「華火ちゃんの前では、素直でいられるんだ」
「議会でもそうしろっての」
女中のおようが椅子を運んできてくれたので、華火は腰かけた。
「さて、来月五日の土曜は、空いているかな?」
予定が入っていないかどうか思い出す前に、携帯電話が差し出された。おようはとても気が利く。華火はカレンダー画面を開いた。
「おう、空いてるぞ」
「やった。その日は一緒に出かけようか」
華火は思わず「む?」と声をだしてしまった。
「あたしの家で毎月一回か二回会ってるじゃねえか」
観世が腹を抱えた。
「それは、夏祭先生との時間。私は、華火ちゃんとの時間を楽しみたいんだ」
華火の父と観世は師弟関係である。空満市の議会を牛耳っているらしい父に、若手議員の観世は恩義を感じているのだそうな。
「親戚に湾遊館の特別入場券をもらったんだ。行ったことある?」
湾遊館は、近畿地方で有名な水族館である。空満市がある内嶺県に隣接する泰盤府は大都市・泰盤市の港に建っていた。見どころは、つがいのジンベエザメだ。
「……ない」
「じゃあ、決まり! ついでに周辺も歩こう。当日の九時に迎えに行くね。電車に乗りながら、大学生活について聞かせてもらおうかな」
母に代わってもらえないか、とのことなので、華火はおように居場所を確かめさせた。台所で女中達と歓談しているそうだ。
「転送すっか」
台所にも子機がある。母の世話を主にしているおめんが出た。
「観世さんが母ちゃんにって。よろしくな」
静かに子機を台へ置き、華火は壁にもたれた。
「なあ、およう。許嫁と会うんだけどよ、フツーのよそゆき服でいけるよな」
「お嬢様!!」
おめでとうございますより先に、単なる外出とは違うことを説かれた。働き者のおようは、時折、華火に進言する。
「分かったよ。来週、ショッピングモールについてってくれ」
こりゃ一大事だぞっ。華火は肩にかけたタオルで額の汗を拭った。
「愉快そうな声がこっちまで聞こえていた!!! 宴会でも開いていたのか?」
写経していた相棒に、華火は「しーっ!」人差し指を口元に立てた。
「声がいちいちでかいんだよっ」
机まで早歩きして、華火は正座した。
「久しぶりに泊まりに来てくれたかと思えば、風呂敷包みを広げてよっ。唐草模様って、マンガに出てくる泥棒かよっ。昼は木彫りの仏像とにらめっこして、夜はお経を唱えるか写すかするときたもんだっ!」
「遊んでいるんじゃねエ!!! 座禅だ!!!」
華火は言葉を失った。手足が無い宝石のため、たたずんでいるようにしか見えなかった。
「寺での日々が懐かしくなったんだ、始終走っていて心の網が粗くなったのを直しているところよ!!!」
相棒の名は、シュトルム。弓と文学の女神アヅサユミと人間彦に授かった六きょうだいのうち、母が行使する「呪い」を受け継いだ五人「神代の戦士」のひとりである。「神代の戦士」は宝石の姿をとり、シュトルムは翡翠だった。
「修行の邪魔しちまったか。あたしのせいなんだっ、実はよ……」
シュトルムは真相を聞いて、体中を激しく光らせた。
「慶事じゃねエか!!!」
「じいちゃん、母ちゃん、おめんとおよう達も欣喜雀躍だっ。あたしの嫁入りは秒読みだとか盛り上がってた。けど」
「何だ?」
華火は腕組みした。
「父ちゃんだけ、様子がおかしかったんだよなっ。怒ったり落ち込んだりしてよ」
父は、空いた焼酎の瓶を抱いてこう言っていた。
最近、観世が妙に腰を低くしていたのはこのためか。暗い所や、人気の無い所に連れ込まれそうになったら大声を出して逃げるんじゃー。出方次第ではスキャンダルを捏造して社会的に抹殺してやる。べらぼうに可愛くて、三国一べっぴんな華っコが、もらわれちまうよー。観世は強かな奴だー、塩まけ、塩まけ! 酒持ってこーい!
「自家撞着っ、自分が観世を婿にって押しといて、急接近したら喧嘩囂躁だっ。反面教師っ、あんな大人にゃなりたかねえな!」
「娘がいる父親は、他所の男に取られるのが腹立たしくもなり、寂しくもなるんだ!!! 風の噂だが、俺の妹が男に添うて安達太良家を興そうとした時、お人好しな親父が初めて闘争心をむき出しにしたらしいぞ!!!」
彦の末娘は、純粋なる人間であるため、寿命があった。何不自由ない生を送ってほしくて、彦はとりわけ気にかけていたのである。
「幸せになるために決めたんだったら、娘を応援してやれってんだ。あたしには、分からねえよ」
くちびるの先をとがらせてうつむいていると、大きな足音がした。
「華火、入るよ」
母が襖を片手で開けた。背丈が低めなのは似ているが、横幅が華火をはるかに超えていた。
「ほいっ、風神様へのご飯だよ」
文旦ほどのおにぎりが三つと、たくあん、味噌汁、白湯が机に置かれた。
「母ちゃん、ありがとうよっ」
「いいの、いいの!」
シュトルムが机を軽やかに飛び下りた。
「御母堂!!! いつも旨い食事を作っていただき、感謝致す!!!」
華火の母は、風船のようなお腹を震わせて笑った。
「お口に合うようで、何よりだわ」
「ささやかな礼だが、明朝、屋敷を掃き清めましょう!!!」
シュトルムの掃除は、速くて静かで細部まで丁寧だった。塵芥を、その身から吹く風が巻き込み集めて、「祓」の火で一瞬のうちに焼却するのだ。
「お礼はいらないよう! 先月してもらってから、全然汚れてないんだって!」
シュトルムが、消しゴムぐらいに小さくなった。恐縮の印だ。母がおかしさを我慢できなくてお腹を叩く。
「じゃんじゃん食べてってー!」
「頂戴致す!!!」
元の大きさに戻り、シュトルムは箸を浮かせた。
「母ちゃん……」
「分かっているよ。おじいちゃんとお父ちゃんには、内緒!」
母はふくよかな顔をくしゃくしゃにさせた。
「……二人とも、腰抜かしちまいそうだかんな。長生きしてほしいんだっ」
華火は、まんまるであったかい腕の中に収まっていた。
「優しい子だもんね。お母ちゃんは華火が大好きだ」
背中をさすりながら、母は普段より落ち着いた声で言い聞かせる。
「観世さんが、華火以外の人と、どんな風に接しているか見ておきな。男ってのは、嘘でも女に優しくできるんだ。食べている時は特に、本性をのぞけるよ。他人の作った料理に文句を垂れる男は、クズだからやめな」
「おう」
「あんまり親がぶいぶい口出しするもんじゃないから、あとひとつでおしまいにするよ。目が合った時に、ビビビってしびれたら、最高で最後の恋だね。お母ちゃんの経験からすりゃ、観世さんは、お父ちゃんの次にハンサムでマメな男よ」
「なんだよ、それっ」
「お父ちゃん、本当は喜んでいるんだよ。お熱でずっと家で寝ていた華火が、お友達を作ってきて、今度は観世さんと出かけるんだもん。それに、観世さんは、お父ちゃんにとって、できたお弟子さんなんだ。きっと、娘を幸せにできる人だって、確信しているよ」
「……そうなんだな」
シュトルムが空いた皿と汁椀をお盆に運びだした。
「ごめん、片付けさせちゃったわ」
お盆を持ち上げようとした母は、「あ!」と手を叩いた。
「華火、これ下げてくれる? あっちでおりんちゃんが宿題に苦戦していたんだ。四字熟語の穴埋め」
おりんは、おめんの子だ。今年中学生になって、女中の務めを本格的に母と姉おかたから教わっている。
「おうよ、夜食の感想、直接言いたかったんだっつー体で行ってくらあ」
弾むように廊下を歩く華火を見届けて、母は襖を閉めた。
「……やっと生きて産まれてきてくれた子なんだ」
シュトルムが相棒お手製の座布団に座った(乗った)後に、母は正座した。
「華火には、七人のお兄ちゃんかお姉ちゃんがいるんだよ。病気に耐えられたのは、あの子達が浄土で『負けるな』って念じてくれたんだと思う。風神様とのご縁も、きっとあの子達が連れてきてくれたんだね」
聞くに徹するシュトルム。風神ほどの立派な存在ではない。相棒の熱が下がったのは、アヅサユミの「祓」を宿したから。だが、真実を打ち明けない。信心を潰すわけにいかなかったのである。
「風神様、この先も華火をどうか守ってくだしゃんせ。あたしは先に逝く。親子は本来、そういうさだめ。どっちにしても、哀しいね」
母親の表情が曇らない。シュトルムはこの世を嵐で裏返しでやりたい気持ちでいっぱいだった。四苦八苦が、破顔することを強いている。
「誓いましょうぞ」
常盤色の風が、御母堂のエプロンを吹き返した。
「いってらっしゃんせー!」
母の火打ち石に送られて、華火は許嫁と家の門を出た。おようと父の付き人が、後に続く。
「行ってくるっ! お土産、期待しててくれよなっ!」
八重歯を見せて、華火は腕を上へ伸ばし、手を振った。




