陶器の人形を・北口改札を出たあたりで・眠れない夜に・飾って魔除けにしました。
「あんたなら来てくれると思ったよ。待ってた、待ってた」
私はバーでいつも会う男と、日暮れの時分に駅で待ち合わせした。バーの照明に照らされた顔と、わずかな日光に照らされる顔は違うことがあるが、その男はいつもと変わらずににたにたと笑って私に近付いてきた。
私自身が言うのもなんだが、身なりの良い老人に駅でわざわざ近付くのは魂胆がある人間だけである。若者は同士を探したり、性欲の捌け口を探したりと人肌を求める傾向にある。その上の世代は、若者を食い扶持にしようと怪しげなビジネスを紹介しようとする。すべての人間関係に疲れた少女が、染めすぎて痛んだ髪とスマホを抱えて座り込んでいることもある。駅は人々が行き交い、通り過ぎたり戻ってきたりとするが、人間を吸って吐き出してそこを目印にしたりして、駅こそ現代の魔境であろう。だが私は魔境よりも秘密が詰まった場所に、今からこのバーの男と向かう。彼は名刺を差し出してきた。そこに記された名前は福良とある。
「どうぞよろしく」
「あんたは、それで商売してんのかい」
「まさかまさか。運営しているのは別だよ。ちゃんとした会社だ」
そっけないその口振りに、反社会的組織の存在が頭をよぎった。もしかしたらとんでもない場所かもしれない。うっかり関わると、いずれ警察のご厄介になる事もあるかもしれない。一時の興味で老いた生き恥を世界中に晒す可能性もあるので、見極める気持ちで、私は彼に連れ立って南改札口から外へと出た。そこで帰ろうという気持ちは何故か起こらなかった。まだ見極めているのだから、ここで帰っては損だと思ったのだ。
私は、福良に探りを入れてみる。
「いったいそこはどんな場所なのかね」
「まあ、焦りなさんな」
「老人には、孤独と死が付き物でね。自然と早足になるさ」
「なんだか詩的なことを言いなさる。今日はいつもと違うね」
福良の言うとおり、柄にもなく今日の私はセンチメンタリズムであった。だが福良は慣れているのかそれ以上は尋ねることもせず、まずは別の場所に案内しなければならないと言う。
「最初はそこで身を清めてもらわないと、その館には入れないんだ」
「宗教法人!」
「なんだね?」
そうかそうか、新興宗教の可能性もあるのかと私は思った。世間では最近の凶悪事件で宗教法人への当たりが強くなっている。私もずっと懐疑的だった。だが若い女が素直にすべてを差し出すような場所であれば、その可能性はおおいにアリだ。なんという醜い事だろう。
だが私は心のどこかで軽蔑しつつ、ここで行かぬという選択肢は必要だろうかと考えていた。相反する気持ちは、好奇心が正義感にとって変わったからだ。まるで私は、幼い頃ひそかにあこがれた秘密警察になった気分で、潜入捜査ということにすればその場所とやらでも平静を保ち続けられる自信がみなぎった。
「どうしてにやにやしてるんだい」
「いや。いや、楽しみでね」
「そうかそうか。まあもうすぐだよ。少々奥まっているからね」
男の案内は簡素で、時に私をからかうような探るような目線を寄越すだけで、それ以上はただ黙々と歩き続けていた。男二人が無言で歩き続けるのには、若い時分の私には少々羞恥が先だってあまり好まなかったのだが、今はまあ介助役か友人や取引先と歩いていると思われるだろう。
世間の目は昔から私にとって必要以上に刺さった。キザきどってやがると、本来の意味を間違えた陰口を叩かれることもあった。だが誰も見ていないと思えば思うほど、私はわたし自身を見つめていることになる。だからわたしの目線に耐えうるような身なりと、連れて歩くべき人間にも注意を払わなければならないのだ。妻と結婚してからは、妻は献身的にわたしの願いを叶えてくれた。今は私と別居中だ。彼女の実母が一人暮らしをするのが何かと不便だというので、生家に介護のために一時的な離別を申し出た。妻は献身的だが、老年にさしかかると私にちくちくと嫌みを言うようになった。
だから彼女が望むのなら、罪滅ぼしではないけれど親孝行しておいでと送り出したのだ。今私は独身時代でもなく、さりとて既婚者でもない不思議な立場だ。枷はあるが相手に私を拘束する手段が無いので、ただ枷を握らされているような感覚である。
妻のことを何故か考えているうちに、福良は大通りから三本入って二回右に曲がって、左にまた一回曲がって、なんだか奇妙な行き方をするものだと思っていた。だが福良について行かねばならないので、そのまま従っている。ある雑居ビルの入り口が、突然現れた。風景として理解していたビルが、急に私を飲み込もうと目の前に現れたのだ。福良がちょいちょいと手を振って、先にそのビルに入っていく。
私はそのビルをまじまじと見た。まあ古ぼけて色あせた、よくあると言えばよくある雑居ビルである。日本がバブルの勢いそのままに建てた細長い建物は、日本の景気の移り変わりを眺めてきたのだろう。
なんだか気が進まない。汚いところは少し苦手だ。排気なのか独特な臭いがむっと漂ってくる。私はそれでも一息吐いて、そうだ秘密探偵なのだと言い聞かせて中に入ったのだった。
「ようこそ」
福良と手狭なエレベーターで肩を押し合いへし合いながら、なんとか三階にたどり着くと、すぐ三階のテナントに繋がる扉がある。本当に狭いビルである。一人ずつその扉をくぐり、中にはいるとそこは深い紺の毛氈が敷かれ、色は違えども壁も同じような紺のびろうどのようななめらかな生地で埋まっている。まるで空の上に迷い込んだような、急に壁と床の目印が付かなくてよろけた私の腕を、福良は掴んだ。手慣れている。何人もきっと案内してきたのだろう。
「大丈夫かい」
「すまんね。年を取ると、どうも足がね」
「ここは浮遊感があるだろう。さあ、受付をしよう」
福良の後を追っていくと、紺の空間に着物姿の老婆が現れた。彼女は長年接客業をしていたのか、完璧な調子でその白髪頭を下げる。その白髪も油だろうか整っていて品良くまとまっている。一本の無駄も無い。女の意地がそこにある。
「どうぞいらっしゃいまし」
「予約していた方だよ。ご案内を」
「かしこまりました。どうぞ、足下にお気を付けください」
だが老婆はにこりとも笑わなかった。その代わり、声が猫なで声のような優しく甘ったるい調子で馴れ馴れしい。接客業でも女将などではなく水商売かな、と私は思った。長年染み着いた声だけが若いまま、ずっと老婆の喉に張り付いて取れないのだろう。そんな老婆に案内されて、どうなることかと私は不安になってきた。秘密警察など形無しだ。私にそんな根性も無かったくせに。
「どうぞ、こちらへ・・・」
老婆の案内で、見慣れた紺の空間の奥の部屋に案内される。紺に飲み込まれていくようだ。本当にここは、秘密の妙薬を飲ませるための場所なのか。わたしが生唾を飲むと福良は心配要らないよと笑った。
中は簡素だった。ここに記すにはあまりにも簡素すぎて、誰かに話しても楽しませられないほどに簡素だった。てっきり怪しげな薬や女に囲まれる悪夢を想像していたが、私の年齢では子供や思春期に目にした、たとえば電話機やポスト。家電製品に、引き延ばした写真には下町の路地や人々の姿が壁に掛けられている。それだけだ。たったそれだけなのだ。私の思い出の展示物のようで、私はああこれも昔あった、昔はこうだったと懐かしさがこみ上げた。その部屋は真っ白な空間で、壁紙というより白のプラスチック製の箱の中のようにひかって見えた。そこに、私の懐かしい物が並んでいる。
子供の頃から次第に私が社会に出て馬車馬のように働いた時分の物まで、昭和の展覧会がたまに開催されるというが、その簡易な展示会に来ているようだ。何のプレートや解説も無いので、私が自身の記憶を紐解いていくしかない。だがその作業をするたび、私のからだには当時の五感が駆け抜けて、私はただ記憶の中で生き直している。ああ子供のわたしはこうだった、愚かなところもあり賢いところもあった。美しい思い出であった。誰にも共有が出来ない私だけの、私の世界の中の思い出であった。その記憶の海を泳いでいると、時間を忘れた。はっとして周囲を見渡すが、この白い部屋には時計が無い。心行くまでということなのだろうか。記憶を鮮明に鮮明に取り戻す作業に、私の脳は疲れ始めた。だから部屋の奥にある出口の扉にふらふらと向かい、ようやく扉を押すとやけに重い。老人にはつらい重さだ。おおいと声を出すが、何故だか私の声は白い壁に吸い込まれて、思い出の中に空しく吸い込まれていく。わたしはここで閉じこめられるのか、と突然の恐怖にもう一度私は叫んだ。すると向こう側から扉をぐいと引く力があり、私はそのまま倒れ込むように外へと出る。先ほどの老婆がそこにいた。にこりともしない。
「結構です。草臥れなすったでしょう。こちらへどうぞ」
老婆はそう言うと、まだ少し火照って動けない私の腕を取るとそのままぐいぐいと引っ張っていく。白の部屋を出るとやはりそこは紺の空間だ。彼女はまるで皺だらけの皮膚をかぶっただけのようにきびきび、しゃんとして私は隣の部屋へと案内する。そこは紺でもなく、ただ打ちっ放しのコンクリートの部屋だった。照明がかんかんと照りつけている。だがその明かりに、私は安心した。福良がしつらえられたソファーに深く腰を下ろし、手を挙げる。
「おう、お疲れさま」
なんだか昔からの友人を見たような気がして、私は本当に安堵しながらどっかりと福良の前のソファーに腰を下ろした。
「なんだか疲れたよ」
「これで終わりさ。ここで気が済むまで休めばいい」
「休めと言ったって・・・」
私は周囲を見渡す。コンクリートの冷たい空間だ。そこに質の良いパステルカラーのソファが、今流行の北欧家具というものだろう、が並んでその間にガラステーブルがあった。そのテーブルのガラスは何故か割れている。割れたガラスをさらにガラスで挟んでいて、手を切る恐れは無い。だがしかし、私が不思議そうに首を傾げると、元々割れているのさと福良が笑った。
「こういうデザインなんだ。若いデザイナーが作ったらしい」
「なんとまあ」
「物が割れる瞬間ってのは美しいね。それをよく分かってる」
「そうかそうか、若い者の感性は・・・」
「分からないかい?」
「いいや、素晴らしいね」
私はそこで、嫌みたらしい老いを福良に見せたくなかった。他者の感性を、無理に自分に染み込ませるのは若い頃はよくやっていたことだ。無理にでも飲み込む努力をして、それを自分の物にしようとした。努力の姿勢は、老いてから何故か失われていったっけ。
「お茶を飲むといい。もうすぐ彼女が持ってくる」
「どうぞ」
福良の言葉に合わせたのか、老婆が私の背後にいつの間にか立っているのにはぎょっとした。心臓に悪いと文句を言ったが、福良はかえって強くなると笑うばかりだ。すっかり調子を崩してしまい、私はその日は足早に帰った。送ってもらったが、道中は福良と何の会話もしない。だが慣れているのか福良はその無言を気にも留めていなかった。
「それじゃあ。また気が向いたら電話で」
福良はそう言って、私を待ち合わせの駅の南改札口に連れてくると去っていった。その後ろ姿を見るでもなく、私はただぼうっとするばかりだ。もう日が暮れそうである。駅に続々と人々が向かってくるのを、ただ眺める格好になっている。目の前にサラリーマンや学生、あまり職業が分からない奇抜な人、それらを眺めているうちにじわじわと私は私に戻っていくのを感じた。そして弾かれたように駆け出す。確かこの駅の改札口の近くには、反対の北改札口の近くには、妻が好きで定期的に訪れた雑貨屋があるはずだ。こじんまりとしたオーナーの趣味で、海外製の陶器や陶器の人形が取り揃えられている。急に私は、妻の機嫌を取らなければならない気がした。だが妻の好みは分からないので、店に飛び込んで息を乱したまま目に付いた白いウサギの人形を指差し、包んでもらう。金額は覚えていない。その箱を、大事に大事に腕に抱えながら私は改札へと飛び込み、電車に乗った。これはきっと魔除けになる。私の罪のようなこの好奇心の魔除けへとなる。だから妻に今は帰って欲しくて、私はその晩珍しく妻に電話を掛けていた。
原典:一行作家